第024話:魚獲りの筌(うけ)と、川のせせらぎ
大樹の根元に据えた古代の底石のおかげで、基地の夜は常にポカポカとした温もりに満たされていた。
だが、生活環境が整うにつれて、アルトとシロの前に立ち塞がったのは「栄養の偏り」という問題だった。
これまで二人の主食は、採取してきた山野草のスープやオニグルミ、そして天日干しにしたドライフルーツだった。
ビタミンや炭水化物、植物性の脂質は足りていたが、成長期を迎えたアルトの身体にとっても、急速に骨格を発達させているシロにとっても、筋肉と血を作る「良質な動物性タンパク質」がどうしても不足していたのだ。
森の中で鳥や小動物を弓矢や罠で捕らえるのは、今のアルトの腕前では極めて難易度が高い。
だが――獲物は、すぐ足元に無限に泳いでいた。
「川の魚……これなら、知恵を使えば絶対に獲れる!」
夏の強い陽光を浴びる小川の浅瀬に立ち、アルトは澄み切った水底を凝視した。
水晶のような清流の中、水深五十センチほどの早瀬と淵の境目を、体長二十センチを超える銀色の魚たちが、矢のような俊敏さで群れをなして泳ぎ回っていた。
側面に鮮やかな小判状の斑紋と朱色の斑点を散らした、美しい【ヤマメ】と【イワナ】の群れだ。
だが、川魚の警戒心と泳ぎの速度は凄まじい。
素手で捕まえようと手を入れた瞬間、水しぶきひとつ残さず、一瞬で大岩の隙間の深みへと逃げ込まれてしまう。
必要なのは、人間が追いかけ回すのではなく、魚自らの習性を利用して自動的に捕らえる伝統的な道具だった。
「筌を作るんだ。一度入ったら二度と出られない、竹と柳の罠を」
アルトは都市の外壁補修の際、川沿いの漁師たちが使っていた竹籠の構造を鮮明に記憶していた。
アルトは川岸に自生する、しなやかで粘り強い「カワヤナギ(川柳)」の細枝を大量に刈り取った。
さらに、竹林から若い青竹を一本切り出し、小刀で厚さ一ミリ、幅三ミリの極細の「竹ひご」を数十本削り出した。
ツリーハウスのデッキに座り、クラフトが始まった。
シロはアルトの足元に丸まり、編まれていく柳の枝先を時折前足でチョンチョンと触りながら、興味深そうに見守っている。
筌の基本構造は、長さ二尺半(約七十五センチ)、太さ八寸(約二十四センチ)の円錐形の細長い竹籠だ。
太い竹の輪を骨組みにして三箇所に配置し、その外周に沿ってカワヤナギの枝と竹ひごを、隙間なく縦に並べてツル縄で密に編み込んでいく。
編み目の隙間は、小指の先が入る程度(約一センチ)に精密に調整した。
隙間が広すぎれば魚がすり抜けてしまうし、狭すぎれば水流の抵抗が大きすぎて罠ごと流されてしまう。また、産卵前の小さな稚魚を無駄に殺さず、十分に育った成魚だけを捕らえるための持続可能な配慮でもあった。
そして、筌の真髄となるのが、入り口に仕込む【返し(漏斗/じょうご)】の幾何学構造だった。
外側の開口部は広く、奥に向かってすり鉢状に急激に窄まる小さな円錐の蓋。
その窄まった先端の枝先は、あえて切り揃えずに内側に向かって尖ったまま残してある。
魚は餌の匂いに誘われ、広い入り口からすんなりと中へと頭を突っ込んで侵入する。
しかし、いざ外へ逃げ出そうとして振り返ると、出口は針のように尖った枝先がすぼまって塞がっており、魚の視覚と触覚では二度と脱出口を見つけることができないのだ。
罠の最後尾には、獲れた魚を簡単に取り出せるよう、ツル縄で開閉できる「取り出し口ハッチ」を取り付けた。
「よし……形は完璧だ!」
丸一日をかけて編み上げた筌は、職人が作った工芸品のように狂いがなく、竹の青い香りが清々しかった。
だが、罠はただ川に放り込むだけでは魚は入らない。
川の地形を味方につける「土木工事」が必要だった。
翌朝、アルトはズボンを脱いで下着一枚になり、冷たい川の中へと入った。
選んだ場所は、飛び石のすぐ下流――白波を立てる早瀬が、穏やかで深い淵へと落ち込む「流芯の落ち込み」だった。
魚は流れてくる川虫を捕食するため、必ずこの瀬の落ち込みに頭を上流に向けて待機する習性がある。
アルトは川原から手頃な平たい川石を何十個も運び、川の中に【V字型の石垣(誘導梁/やな)】を築き始めた。
川の両岸から中央に向かって、斜めに石を隙間なく積み上げていく。
水流を遮断するのではなく、川幅全体の水流を、V字の頂点にある幅一尺の狭いスリットへと集中させるのだ。
川底の小石や砂利を掘り下げ、その集中した水流の出口に、手作りの筌を川底と平行にどっしりと据え置いた。
浮き上がらないよう、筌の両脇と上に重い丸石を抱かせ、ツル縄で岸辺の巨木へとしっかりと係留する。
最後に、筌の奥に「特製の撒き餌」を投入した。
川底の石の裏からすくい集めたカゲロウの幼虫や川エビ、そして対岸で収穫して潰した甘いヤマブドウの果肉を練り合わせた特製ペーストだ。
水流に乗って、濃厚な川虫のエキスと果実の香りが、下流の淵へと流れていく。
「シロ、これで夕方まで待とう」
アルトが声をかけると、岸辺で見守っていたシロが「ワンッ!」と応え、二人は一旦ツリーハウスへと戻った。
そして――西の空が茜色に染まり始めた夕暮れ時。
「シロ、引き上げに行くぞ!」
アルトとシロは駆け足で川原へと向かった。
小川のせせらぎの中に据えた誘導梁。
水中に沈む竹の筌に近づいた瞬間、アルトの目が大きく見開かれた。
筌の内部で、激しい銀色の乱反射が渦を巻いていたのだ。
――バシャバシャバシャバシャッ……!!
アルトが水中に手を伸ばし、係留ロープを外して筌を一気に水面へと引き上げた。
激しい水しぶきが飛び散り、夕陽を浴びて無数の水滴が金色の粒となって弾け飛ぶ。
竹籠の中で激しく暴れていたのは、手のひらを遥かに超える、体長二十五センチ級の丸々と太った【大ヤマメ】が三匹、そして黒光りする見事な【イワナ】が一匹だった!
「うわああああっ! 獲れたっ! 四匹も獲れたぞ、シロ!!」
アルトの歓声に、シロが川岸を「キャンッ! キャンッ!」と跳ね回り、濡れたアルトの足元に飛びついて大喜びした。
籠から取り出した魚たちは、背中に深緑の雲紋を浮かべ、腹は白銀に輝き、エラを力強く動かして跳ねている。
命の躍動そのもだった。
アルトは川原の平らな石の上で、手早く魚の下処理に取り掛かった。
小刀の切っ先をエラの下から差し入れ、内臓とエラを一息に掻き出す。
内臓を取り除いた腹の中を清冽な川の水で綺麗に洗い流し、臭みを取る。
そして、カシの細枝を小刀で削って作った四本の頑丈な串を取り出した。
魚の口から串を差し入れ、背骨の脇を波打つように通して尾の近くへと抜く――【踊り串(S字串)】の技法だ。
串を打つことで、焼いたときに魚が丸まらず、まるで川を力強く遡上しているかのような躍動感ある姿を保つことができる。
仕上げに、ヒレが焦げ落ちないよう、胸ビレと尾ビレにたっぷりと塩を擦り込み、魚の体表全体にも粗塩をパラパラと振った。
大樹の洞へ持ち帰ると、カマドの光る底石は、熾火の熱を吸って真っ赤に赤熱していた。
アルトは底石を取り囲むように、灰の中に串を斜め四十度の角度で突き刺した。
炎の直火に当てるのではない。
古代の底石から立ち上る、強力で均一な「遠赤外線の熱気」で、じっくりと遠火で焼き上げるのだ。
――ジュワ……ジュワワワッ……
五分、十分。
魚の皮の下から、良質な脂がパチパチと音を立てて滲み出してきた。
脂が底石の上に滴り落ちるたび、シュウッという快音とともに、香ばしい煙が立ち上り、洞の中を暴力的なまでに食欲をそそる芳香で満たしていく。
皮は少しずつ狐色へと焼き締まり、表面がパリッと弾ける。
遠赤外線の熱が魚の芯まで均等に届いているため、煙で燻されることなく、中身はふっくらと蒸し焼きのように膨らんでいた。
「よし……焼けたぞ!」
アルトはこんがりと黄金色に焼き上がったヤマメの串を手に取った。
シロ用の木皿には、太い中骨と小骨を小刀と指先で丹念に取り除き、ふっくらとした白い身だけをほぐして盛ってやった。
シロはもう我慢の限界とばかりに、皿に顔を突っ込んでガツガツと食らいついた。
ハフッ、ハフッ、ペロリ!
一切れ食べるごとに、金色の瞳をとろけそうに細め、尻尾を床の上で激しく打ち鳴らしている。
アルトもまた、串にかぶりついた。
パリッ……!
心地よい音を立てて皮が弾け、その下からアツアツのジューシーな白身が溢れ出た。
――ジュワッ……
言葉が出なかった。
川魚特有の泥臭さは微塵もない。
清冽な雪解け水で育ったヤマメの身は、まるで上質な脂の乗った鶏肉のように濃厚で、噛みしめるほどに川のミネラルと大地の甘みが口いっぱいに広がっていく。
粗塩の鋭い塩気が、魚の持つ純粋な旨味を極限まで引き立てていた。
「う……美味い……っ! こんなに美味い魚、生まれて初めて食べた……!」
アルトは頭から尾の先まで、骨の周りの肉を一筋も残さず、貪るように平らげた。
二匹目もあっという間に胃袋へと消え去った。
胃袋に動物性のタンパク質と脂質が満ちていくにつれて、手足の先までドクドクと力強い血液が巡り、全身の筋肉が歓喜の声を上げるのが分かった。
ただ飢えを凌ぐだけではない。
本物の力が、生命力が、内側から満ち満ちてくる。
食後、アルトは使った筌を洗い、明日の仕掛けを整えるために、再び小川の誘導梁へと戻った。
夕闇が迫り、川面には紫色の夜の帳が下りていた。
アルトは水中に手を入れ、筌を取り外した。
そして、石垣の周りの砂利を足で均そうとした――その瞬間だった。
誘導梁の奥、激流の圧力によって川底の砂利が深くえぐれ、露出していた岩盤の割れ目。
その暗い水底の隙間で――
沈みゆく夕陽の最後の残光を反射して、ギラリと青白く輝く「異様な光」が、アルトの網膜を射抜いた。
「……え……?」
アルトは目を見張った。
石の輝きではない。
水深四十センチの岩の割れ目に挟まっていたのは、夕暮れの空をそのまま映し込む鏡のように、眩い光沢を放つ【純銀の薄い金属板】だったのだ。




