第023話:シロの背中の銀の線
大樹の根元に「光る底石」を据え付けたことで、秘密基地の夜は一変した。
カマドから絶え間なく放射される遠赤外線の温熱は、大樹の幹を伝って地上四メートルのツリーハウスの床下までほんのりと温もりを届け、夏の夜の底冷えを完全に消し去っていた。
だが、その底石の設置を境に、最も著しい変化を見せたのは、相棒であるシロだった。
「シロ、大きくなったね……本当に」
月明かりが琥珀色の丸窓から差し込む部屋の中で、アルトは膝の上に身を預けてくるシロの体を両手で抱きしめながら、感慨深げに呟いた。
豪雨の夜、泥水の中から抱き上げた時は、手のひらにすっぽり収まるほどの小さな毛玉だった。
肋骨が浮き出て、息をするのもやっとで、今にも消えてしまいそうな儚い命。
それが、毎日の栄養満点な野草スープや干し果物、そして何よりもカマドの温もりを吸い込むうちに、目を見張るほどのスピードで成長を遂げていたのだ。
拾ってから二ヶ月余り。
シロの体格は、すでに中型犬の若犬ほどにまで逞しく育っていた。
体高はアルトの膝を優に越え、四肢の筋肉はしなやかな野生の肉食獣のように引き締まり、立ち姿には古代の彫像のような気品が漂っている。
以前は飛び石を渡る際におっかなびっくりだった足取りも、今では川面の飛沫を軽やかに跳び越え、岩から岩へと矢のように疾走するほどの俊敏さを身につけていた。
被毛は雪のように純白でありながら、一本一本の毛先が月光を浴びてプラチナのような冷たい光沢を反射していた。
金色の瞳はより一層深く澄み渡り、アルトの言葉のニュアンスを一言一句漏らさず理解しているかのような、高い知性の光を宿していた。
そして――何よりも神秘的だったのは、その「背中」だった。
「……また、光ってる」
アルトは息を呑み、シロの背中を凝視した。
部屋の明かりを消した暗闇の中。
シロの背中の中心線――後頭部から肩甲骨の間を通り、尾の付け根へと真っ直ぐに貫く背骨のラインに沿って、毛並みが一本の【青白い銀の光条】となって、静かに浮かび上がっていたのだ。
それは単なる毛の色の違いではなかった。
毛の根元から、蛍のような冷たく澄んだ燐光が自ら発光し、部屋の壁を淡いエメラルドグリーンに染め上げていた。
トクン……トクン……
大樹の根元のカマドで、深紅に赤熱している古代の底石。
その底石が放つ微細な振動と、シロの背中の銀のラインの明滅が、まるで目に見えない波動で結ばれているかのように、完全に同じリズムで脈打っているのだ。
共鳴。
太古の昔、同じ文明によって生み出された存在同士が、互いの存在を確かめ合っているかのような神聖な光景だった。
「シロ……痛くはないかい?」
アルトが心配そうに指先を伸ばし、その光る銀の毛並みにそっと触れてみた。
指先に伝わってきたのは、痛みでも不気味な痺れでもなかった。
まるで春の陽だまりに手を浸したかのような、芯まで温まる柔らかな熱。
シロは嫌がるどころか、気持ちよさそうに目を細め、アルトの掌に自分の頭をぐりぐりと押し付けて甘えてきた。
「クゥ〜ン……」
喉をごろごろと鳴らすその愛らしい仕草は、どんなに体が大きくなろうとも、あの雨の夜にアルトの指先を舐めた小さな子犬のときのままだった。
アルトは思わず微笑み、その白い頭を両手で優しく撫で回した。
その時だった。
アルトが右手を動かした瞬間、ピキッと鋭い痛みが親指の腹に走った。
「いっ……!」
思わず顔をしかめ、手元を見る。
昼間の作業中、ツリーハウスの屋根裏の梁を補強するため、硬いカシの枝を小刀で削っていた際に事故が起きたのだ。
カシの木目に隠れていた硬い節に小刀の刃先が弾かれ、親指の腹をスパッと深く切り裂いてしまっていた。
傷口には布をきつく巻いて止血していたが、夜になっても血が布に滲み出し、心臓の鼓動に合わせてズキズキと激しい鈍痛が続いていた。
都市の防壁の内側にいた頃の記憶が、苦い痛みとともに蘇る。
作業中に怪我をしても、兵士たちは誰一人として手当てなどしてくれなかった。
『無能がトロい真似をして怪我をするな』と怒鳴られ、泥水で傷を洗うしかなく、化膿して高熱を出し、冷たい納屋の隅で一人震えていたあの日々。
怪我は、死に直結する恐怖そのもだった。
アルトの苦痛の気配を敏感に察した瞬間、シロがハッと顔を上げた。
金色の瞳が、アルトの血が滲んだ右親指へと真っ直ぐに向けられる。
「キュウッ」
シロは立ち上がり、アルトの手首に前足をかけると、その傷口に向かって小さな鼻先をそっと近づけた。
「あ、ダメだよシロ。血がついてるから……汚れちゃうよ」
アルトが手を引っ込めようとしたが、シロは前足でぎゅっとアルトの手首を抱え込み、決して離そうとしなかった。
金色の瞳が、真剣な眼差しでアルトを見つめている。
そして――
温かく濡れた舌先で、巻いていた布の隙間から覗く傷口を、慈しむようにそっと、丁寧に舐め上げたのだ。
ペロリ。
その瞬間、劇的な現象が起きた。
――ポオオオッ……!
シロの背中の銀のラインが、まるで満月の光を凝縮したかのように、一際強く輝きを放った。
それと同時に、シロの舌が触れたアルトの傷口から、温かい金色の光の粒子がシュウウウッと霧のように立ち上ったのだ。
痛みが、消えた。
ズキズキと脈打っていた激痛が、冷たい清流で洗い流されるように一瞬で霧散した。
それだけではない。
アルトは信じられない思いで、自分の親指を凝視した。
深く裂け、赤く肉が覗いていたはずの傷口の断面が、光の粒子に包まれながら、まるで時間を巻き戻すかのように急速に引き合っていったのだ。
毛細血管が繋がり、新しい皮膚が瞬く間に再生し――
数秒後、光が収まった時、そこには傷跡どころか、赤い筋ひとつ残っていなかった。
完全に治癒していたのだ。
「え……!? う、嘘だろ……!?」
アルトは息を呑み、親指を何度も曲げ伸ばしした。
痛みは微塵もない。
皮膚を強く押してみても、傷口の痕跡すらなく、滑らかな新しい皮膚が完全に出来上がっていた。
オルディスの防壁都市で、高位の神官や魔導士が使う「治癒魔法」でさえ、これほど一瞬で、傷跡ひとつ残さずに肉体を再生させることなどできない。
「シロ……君が、治してくれたの……?」
アルトが呆然と呟くと、シロは誇らしげに短く尻尾をパタパタと振り、アルトの掌に自分の鼻先をチョンと当てて「ワンッ!」と澄んだ声で鳴いた。
背中の銀のラインは、役目を終えたかのように、再び穏やかな微光へと戻っていた。
アルトの胸に、震えるような感情がこみ上げた。
この子は、ただの捨て犬などではない。
太古の森の守り神なのか、失われた文明が生み出した調停の獣なのか。
その正体が何であるのかは、アルトには見当もつかなかった。
けれど――そんなことは、どうでもよかった。
「ありがとう、シロ……」
アルトはシロの首筋に両腕を回し、その温かい体に顔を埋めた。
シロもまた、アルトの肩に顎をちょこんと乗せ、満足そうに目を細めていた。
魔力がないからと街を追放され、ゴミのように捨てられた少年。
森の冷たい濁流の中で溺れかけ、誰にも気づかれずに死にかけていた白い命。
二人はあの日、互いの手を取り合い、体温を分け合って生き延びたのだ。
シロが神獣であろうと、どんな奇跡の力を持っていようと、この子はアルトのたった一人の家族であり、命を預け合える唯一無二の相棒だった。
「君が誰であっても……僕たちは一緒だよ。ずっと、ここで一緒に生きるんだ」
アルトが囁くと、シロはアルトの耳元をくすぐるようにペロリと舐め返した。
言葉を超えた魂の誓いが、満天の星が輝く樹上の部屋で、静かに交わされた。
夜風が天窓を通り抜け、森の木々がざわめく音が、二人の約束を優しく包み込んでいた。
翌朝。
親指の傷が完全に完治したアルトは、万全の体調でデッキの上に立ち、朝日を浴びる森を見渡した。
大樹の葉は朝露に濡れてキラキラと輝き、小川の水面は夏の陽光を受けて銀色の鱗のように煌めいている。
生きるためのインフラは整った。
だが、さらなる豊かな暮らしのためには、食事のレパートリーを広げる必要がある。
野草や木の実のスープだけでは、これからの季節を乗り切るための「動物性タンパク質」がどうしても不足してしまう。
森を流れる清流には、丸々と太った美しい川魚たちが無数に泳いでいるのが見えていた。
「よし、シロ! 今日は川の魚を獲る仕掛けを作るぞ!」
アルトは腰の小刀を確かめ、元気よくステップ階段を駆け降りた。
シロもまた、銀の毛並みを朝日にきらめかせながら、軽やかな跳躍でアルトの後に続いた。
自然の恵みをさらに深く引き出す、伝統的な漁のクラフトが始まろうとしていた。




