第002話:踏みしめた黒土、靴底の知らない重み
一歩、足を踏み出すごとに、靴底が湿った黒土にずぶりと沈み込んだ。
オルディス防壁都市の地面には、土の柔らかさなどどこにも存在しなかった。
歩道はすべて角の丸くなった冷酷な石畳であり、広場や路地裏は幾万人もの大人たちの足によって踏み固められ、水も吸わないカチカチの灰色の砂利土だった。その上を走るたび、薄い革底を通して骨に直接突き刺さるような鈍い衝撃が、少年の細い膝や腰へと突き抜けたものだ。
だが、この森の地面は、根本から異なっていた。
何十年、何百年ものあいだ雨風に晒されて降り積もった落ち葉と、朽ちた枝と、瑞々しい黒土が幾重にも重なって厚い層を成し、まるで分厚い毛皮の絨毯の上を歩いているかのように、音もなく少年の足音を受け止めてくれる。
ぎゅっ、と体重を乗せるたびに、湿った腐葉土の甘く重い匂いがふわりと立ち上った。
粗い麻糸で縫い合わされた靴の継ぎ目から、じわりと冷たい水気が染み込んでくる。
かつて都市の路地裏で踏んだ泥水は、生活排水や油が混じり合って鼻を突く嫌な臭いがしたものだが、この森の水気には不快な澱みが一切ない。ひんやりと冷たく、追放のショックで熱を持っていたアルトの足裏を、心地よい清涼感で優しく包み込んでくれた。
「……歩ける」
アルトは自分の足元を見つめながら、小さく息を吐き出した。
門から突き飛ばされたときに打った両膝の擦り傷は、まだズキズキと熱い痛みを放っている。泥にまみれた麻のズボンをまくり上げてみれば、赤黒い血が皮膚の表面に滲んでいた。手のひらにも、鋭い小石が食い込んだ擦り傷がいくつも刻まれている。
けれど、骨は折れていない。関節も動く。
何より、頭上に広がっているのは、あの灰色の煤煙に閉ざされた都市の天井ではなかった。
見上げれば、息を呑むような圧倒的な緑の天蓋が、視界のすべてを埋め尽くしていた。
幾重にも折り重なったブナやナラの若葉が、春の柔らかな日差しを幾千の光粒へと細かく砕き、地上へエメラルドグリーンの光のシャワーを降らせている。風が吹き抜けるたびに梢がざわざわと波打ち、光の斑点が黒土の上を生き物のように滑っていく。
小鳥たちの澄んださえずりが、遠く近くで反響していた。
毒の霧など、どこにもない。
都市の兵士たちが脅し文句のように口にしていた「足を踏み入れた瞬間に肉が溶ける死の森」などというものは、壁の外へ出ようとする人間を怯えさせ、閉じ込めておくための真っ赤な嘘だったのだ。
けれど――感動に浸っていられる時間は、長くはなかった。
アルトは立ち止まり、肌を撫でる空気の温度に意識を集中させた。
冷たい。
日差しが届いている場所はほんのりと温かいが、ひとたび巨木の影に入ると、春先特有の鋭い冷気が皮膚の表面をチリチリと刺してくる。
ここは野生の世界だ。
日が傾けば、森の奥から底冷えのする夜の暗闇が押し寄せてくる。夜間の気温は氷点下近くまで下がるだろう。濡れた麻のシャツと薄いズボン一枚しか持たない十一歳の少年にとって、野宿の寒さはそれだけで確実に命を奪う凶器になり得た。
さらに、天候の急変。
見上げる青空の向こう、西の山並みの稜線に、不穏な灰色の雲の塊がもくもくと湧き上がり始めているのが梢の隙間から見えた。
(まずは……歩くための道具がいる。足場を確かめ、身体を支える杖がなければ、この深い森の中を歩き続けることはできない)
アルトは視線を地面へと落とし、足元に散乱する無数の倒木や折れ枝を調べ始めた。
だが、ただ落ちている枝を拾えばいいというものではなかった。
最初に拾い上げたナラの枝は、太さこそ大人の手首ほどあって一見頑丈そうに見えたが、持ち上げた瞬間に羽のように軽かった。樹皮を小刀の先で突いてみると、中身はボロボロの綿のようになって崩れ落ちた。白腐れ病に侵され、すでに菌類と甲虫の幼虫に食い尽くされていたのだ。
次に手にしたカバノキの枝は、生木のように瑞々しかったが、幹が螺旋状にねじれて極端に曲がっており、体重を預けると不自然に回転して手首を痛めてしまう。
どれも使えないのかと焦り始めたその時、アルトの爪先が、苔むした大岩の窪みに引っかかっていた一本の細い木に触れた。
(……ん?)
アルトはしゃがみ込み、その木を両手で持ち上げた。
指先の腹を通して、硬く引き締まった密度の高い繊維の感触が、ずしりと重く伝わってきた。
太さは大人の親指の二倍ほど。長さはアルトの背丈より頭ひとつ分高い、五尺半(約百六十センチ)ほど。
表面の樹皮は滑らかな銀灰色で、余分な枝分かれがほとんどなく、天に向かって真っ直ぐに伸びていた痕跡がある。倒れてから日が浅いのか、芯に腐りは一切入っていない。
アルトは両手で木の端を持ち、中央を膝の皿に当てて、ぐっと体重をかけてみた。
――ギチッ……
しなる。
木材の内部の繊維がギチギチと音を立てて軋み、まるで狩人の弓のように美しい弧を描いて撓んだ。
だが、折れる気配は微塵もない。
力を緩めると、小気味よい弾性を発揮して、スッと寸分の狂いもなく元の真っ直ぐな直線へと復元した。
トネリコの若木だ。
都市の職人街で、荷車の車軸や槍の柄として重宝されていた、粘りと強度を兼ね備えた最高級の硬木。
「これなら……絶対に折れない」
アルトの胸に、小さな確信が芽生えた。
アルトは擦り切れたズボンの右ポケットに手を差し入れた。
指先に触れたのは、都市の外壁の隙間から雑草を削り取るために毎日使い続けていた、小さな片刃の小刀だった。
刃渡りは三寸(約九センチ)足らず。鍛冶屋の屑鉄捨て場から拾い上げた粗悪な鋼で、刃先はわずかに欠け、木製の柄はアルトの手汗と油で黒ずんでいる。
だが、今のアルトにとって、それは世界で唯一残された「自分の所有物」であり、命を繋ぐための唯一の武器だった。
アルトは日当たりの良い平らな岩の上に腰を下ろすと、トネリコの若木を両膝の上に乗せた。
まずは、不要な小枝の節を払う作業だ。
小刀の刃を節の根元に当て、親指の腹で峰をぐっと押し込む。
――シュルリ。
澄んだ心地よい削り音とともに、硬い木肌が薄くカールして岩の上にハラハラと落ちた。
削り節から、微かに柑橘類やハーブに似た、爽やかで青い木の香りがふわりと立ち上る。都市の煤煙とは正反対の、生命そのものの匂い。
アルトの指先は、無心で動き続けた。
ただ適当に枝を削るのではない。アルトの手は、生まれ持ったクラフトの直感に従って、木材の繊維の走り方を正確に読み解いていた。
自分が歩くとき、どの位置を握るのが最も疲れにくいか。
自分の手のひらの幅と指の長さを測り、杖の上部、肩の高さに来る位置を丁寧に削り込んでいく。人差し指と中指が自然に収まるような浅い窪みを彫り込み、親指がしっかりと引っかかる傾斜をつける。
滑り止めのつもりで施したその加工は、削れば削るほど、木がアルト自身の骨格に吸い付くように馴染んでいった。
先端の加工も怠らない。
地面を突く石突となる下端は、鋭利に尖らせてしまうと泥に深く刺さって抜けなくなったり、岩に当たって繊維が縦に裂けてしまう。
アルトは小刀の切先を小刻みに動かし、先端を丸みを帯びた半球状に面取りした。さらに、近くにあった硬い川石の平らな面に先端を強く押し当て、激しい摩擦熱を生じさせるようにゴシゴシと擦り合わせた。摩擦熱と圧力によって木材の先端の導管が押し潰され、繊維がぎゅっと凝縮して、石のように硬い焼き締めのような効果が生まれる。
半刻ほど夢中で手を動かし続けただろうか。
アルトは岩の上から立ち上がり、完成したトネリコの杖を右手に握った。
手のひらに吸い付くような完璧なグリップ。重すぎず、軽すぎず、腕の延長のように自然に振ることができる。
アルトは杖を前へ出し、地面の黒土をトンと突いてみた。
――コッ。
澄んだ乾いた感触が、杖の芯を通り、アルトの掌から前腕、そして肩へと心地よく抜けていった。
体重を預けてみる。
びくともしない。
ただの森に落ちていた若木が、少年の体重を確実に支え、未知の地面の深さを探り、獣を遠ざけるための、頼もしい「第三の足」へと生まれ変わっていた。
「できた……僕の、杖だ……」
アルトは杖をぎゅっと握り直した。
手のひらに残る、削りたての木肌の温もり。
誰かに命令されたのでもなく、配給されたのでもない。
自分の手で、森の命をいただき、自分が生き抜くための道具を作り出したという事実。
その小さな手応えが、恐怖と絶望で凍りつきかけていた少年の胸の奥に、確かな灯火を灯してくれた。
だが――その静寂を破るように、遠くの空が低く唸りを上げた。
――ゴロゴロ……ゴロゴロッ……
地鳴りのような重い音。
アルトがハッと顔を上げると、先ほどまで青かった頭上の木漏れ日が、急速に薄暗い鉛色へと曇り始めていた。
風向きが、唐突に変わる。
梢を揺らす風の肌触りがひやりと冷たさを増し、大気の中に、湿った鉄のような不穏な匂いが混ざり込んできた。
雨の匂いだ。
――ポツリ。
冷たい大粒の雫が、アルトの頬を打った。
続いて、ポツポツと、無数の雨粒が木々の葉を激しく叩く音が、森の奥から押し寄せてくる。
「雨……!? 夕立が来る……!」
アルトは杖を力強く黒土に突き刺し、身を翻した。
このまま雨に打たれれば、体温を奪われて動けなくなる。
雨宿りのできる場所を、一刻も早く見つけ出さなければならなかった。




