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第001話:錆びた境界線の閂(かんぬき)

 石と石のあいだの隙間には、いつも冷たくて湿った影が溜まっていた。


 アルトはその隙間に、指先を潜り込ませる。

 爪のあいだに、黒くねばつく土と、ちぎれた苔の冷たさが入り込んできた。十一歳の少年の指先は、絶え間ない労働のせいで赤黒く腫れ上がり、細かなあかぎれが網の目のように走っている。冬の終わりにできたひび割れは、春の半ばを過ぎてもまだ塞がりきらず、力を込めるたびにピリリと小さな痛みが走った。

 だが、手を止めることは許されない。


 親指と人差し指の腹で、石の割れ目からわずかに顔を出した、銀色に光る奇妙な草の茎を挟み込む。

 根が深い。大地の奥深くに爪を立てているかのように、ぴんと張り詰めている。

 アルトは息を吸い、体重を後ろへあずけながら、慎重に手首を捻った。

 ――プチ、と、細い繊維が引きちぎれる湿った音が、石壁の狭間に小さく反響した。


 指先に、青臭い汁の匂いが広がる。

 同時に、抜けた草の根の先から、目に見えないほど微かな、ぬるい風のようなものがフワリと漏れ出たのを、アルトの掌は確かに感じ取っていた。

(……まただ)

 アルトは誰にも聞こえない声で、心の中で呟いた。

 壁の隙間から草を抜くたび、いつもこうだ。壁の向こう側――自分たちが決して見てはならないと教えられてきた「外」から、何か得体の知れない大きな生き物が、ひとつだけ小さく深呼吸をしたかのような、温かくて甘い空気が指先を撫でていく。

 それが何なのか、アルトにはわからない。ただ、石と石が押し合い、軋み合っているその場所で、この草を抜いてやると、壁がほんの少しだけ「楽になった」ように緩むことだけは、掌の触感で分かっていた。


「おい、何をぼさっとしている、無能が!」


 頭上から降ってきたのは、金属がぶつかり合う耳障りな甲高い音と、冷え切った大人の怒号だった。

 アルトはびくりと肩を跳ねさせ、引き抜いた銀色の草を慌てて腰のずだ袋へとねじ込んだ。

 見上げると、そこには天を衝くほどに高くそびえ立つ、灰色の巨大な防壁が立ちふさがっていた。オルディス防壁都市をぐるりと囲む、高さ三十メートルの黒ずんだ石の連なり。その天蓋のような通路の上に、重厚な鉄の鎧に身を包んだ二人の防衛兵が立ち、見下ろしている。

 兵士たちの手甲は分厚い鉄で覆われ、その奥にある指の形すら見えない。バイザーの奥の瞳は、泥にまみれたアルトを、人間ではなく道端の汚れた石ころを見るような冷淡さで見据えていた。


「申し訳ありません……! 北側の第三区画、根が深く張っていたので、石を傷つけないように……」

「言い訳など聞いておらん。手を見ろ、日が昇ってから半日も経つというのに、まだ十ヤードも進んでおらんではないか」

 隊長格の男が、唾を飛ばしながら吐き捨てた。

 アルトの背後では、街の中心部にある巨大な魔力炉から吐き出される、重苦しい低周波の唸り声が地響きのように響いていた。ゴオオオ、という絶え間ない機械の咆哮。空は、石炭と魔石の燃えかすである黄色く濁った煤煙に覆われ、街の中にいる限り、太陽の光はいつも薄汚れた銅貨のように鈍く霞んでいる。

 息を吸うたびに、喉の奥がチクチクと痛む。それが、アルトの知る世界のすべてだった。


「だいたい、貴様のような魔力の欠片も持たん出来損ないを、なぜいつまでもこの神聖なる外壁の管理係などに置いておかねばならんのだ」

 もう一人の若い兵士が、嘲笑を浮かべて腰の剣の鞘を鳴らした。

「壁に耳を当てて何やらぶつぶつと独り言を呟き、気味の悪い草ばかり集めおって。街の魔術師様方が仰っていたぞ。壁の隙間に草が生えるのは、このガキが変な呪いを呼び寄せているからではないかと熟(つら)づく怪しまれているのだ」

「ち、違います……! 僕は、壁が息をできるように、詰まったものを……」

「黙れ!」


 激しい足音が石段を駆け下りてくる。

 二人の兵士が、アルトの目の前に立ちふさがった。分厚い鉄靴が地面の泥を踏みにじり、アルトの膝に汚水が跳ねる。

「長官からの通達だ。魔力炉の出力低下に伴い、街の防衛体制を再編する。魔術の使えぬ無能、食糧を無駄に食むだけの雑用は、本日を以て全員除籍とする」

「……え?」

 アルトは固まった。

 除籍。その言葉の意味が、冷たい水のように胃の底へ落ちていく。

「じょ、除籍って……僕の仕事は? 僕の住んでいる、裏通りの納屋は……?」

「知ったことか。貴様の居場所など、この街のどこにもないわ」


 隊長の太い腕が、アルトの細い首根っこを乱暴に掴み上げた。

「う……っ!」

 足が地面から浮く。ずだ袋が地面に落ち、今日抜いたばかりの数本の草が泥の中に散らばった。

「や、やめてください! 僕にはここしか……!」

「安心しろ、行く場所なら用意してある」


 兵士たちがアルトを引きずっていく先――そこには、防壁の最下部に穿たれた、巨大な黒鉄の扉があった。

 厚さ一メートル。普段は決して開かれることのない、外の世界へと通じる唯一の境界門。

 扉の表面には、赤錆びた鎖と、太い丸太のような鉄の棒が何重にも交差して打ち付けられている。

「おい、開けろ!」

 兵士が叫ぶと、門の脇の監視所からギィギィと滑車が軋む音が響いた。

 ガコン、と腹の底に響くような衝撃音とともに、中央の巨大な閂(かんぬき)が持ち上がる。

 プシューッ、と、数百年間閉じ込められていたかのような、冷たく湿った空気が扉の隙間から勢いよく吹き出してきた。

 その隙間風を吸い込んだ瞬間、アルトの鼻腔を、街の煙とはまったく違う匂いが貫いた。

 湿った腐葉土の匂い。雨を含んだ木の葉の匂い。そして、刺すような、しかしどこまでも甘く澄んだ、生の匂い。


「外は人が生きられる場所ではない。魔獣が跋扈し、猛毒の瘴気が渦巻く死の森だ」

 隊長が冷酷な声で囁く。

「だが、魔力を持たぬ貴様には、それこそがお似合いの墓場だろう。街の害虫が一匹減って、壁も清まるというものだ」

「待って……待ってください! 僕が何か悪いことをしたなら謝ります! 何でもしますから……!」

「行けッ!!」


 ドッ、と背中を硬い鉄の手甲で思い切り突き飛ばされた。

 浮遊感。

 次の瞬間、アルトの身体は扉の隙間から外へと放り出され、濡れた地面を激しく転がった。

「痛っ……!」

 手のひらを鋭い小石が切り裂き、血が滲む。擦りむいた額から泥が垂れる。

 アルトは必死で振り返り、這うようにして扉へと駆け戻ろうとした。

「開けてください! お願いします、開けて……!」


 だが、少年の小さな叫びを遮るように。


 ――ゴォォン……ッ!


 重厚な黒鉄の扉が、容赦のない力で閉じ合わされた。

 そして。


 ――ガシャン。ゴトン。


 巨大な閂(かんぬき)が、二度と持ち上がることのない絶対の重みを持って、元の位置へと滑り落ちた。

 鈍く、低く、一切の情けを拒絶する、境界線の遮断音。

 アルトは冷たい鉄の扉に両手を叩きつけた。叩いて、叩いて、小さな拳が赤く腫れ上がるまで叩き続けた。

「開けて……! 僕を、置いていかないで……!」


 返事はなかった。

 ただ、扉の向こうから、兵士たちの遠ざかる嘲笑と、いつも街を支配していた魔力炉の濁った低周波の唸り声だけが、分厚い鉄越しに微かに震えて伝わってくるだけだった。

 やがて、その振動すらもぷつりと途絶えた。


 完全な、沈黙。


 アルトはその場にへたり込み、泥まみれの両膝を抱きしめた。

 終わったのだ。

 十一歳の少年にとって、あの灰色の壁の内側こそが世界のすべてだった。理不尽に殴られ、冷たい納屋の隅で丸くなって眠り、カビの生えた固いパンの端切れを齧る毎日であっても、そこには屋根があり、人の声があった。

 ここは、死の森だ。大人がそう言っていた。

 一歩足を踏み入れれば、巨大な爪を持つ魔獣に骨まで噛み砕かれ、毒の霧に肺を焼かれて死ぬのだと。

 自分はここで、一人で死ぬのだ。


 ぽた、ぽた、と、アルトの瞳からこぼれ落ちた涙が、手の甲の擦り傷に落ちて滲んだ。

 身体がカタカタと震え、寒気で歯の根が合わない。

 どのくらい、そうして丸まっていただろうか。

 ふと、耳元を、何かがかすめて通り過ぎた。


 ――サワサワサワ……


 微かな音だった。

 街の機械の音ではない。人の怒号でもない。

 何千、何万もの木の葉が、互いに肌を寄せ合って囁き合っているかのような、柔らかく、途切れることのないさざめき。

 続いて、冷たい風が、アルトの濡れた前髪をそっと持ち上げた。

 その風には、煤の匂いは一粒も混ざっていなかった。

 代わりに、胸の奥まで染み渡るような、湿った樹皮の芳醇な香りと、雨上がりの草の瑞々しい息吹が満ちていた。


「…………?」


 アルトは恐る恐る、膝に埋めていた顔を上げた。

 そして――息を呑んだ。


 目の前に広がっていたのは、黒い地獄でも、毒の霧でもなかった。


 見渡す限りの、圧倒的な緑。

 大人の背丈の何倍もの太さを持つ古代の巨樹たちが、どこまでも、どこまでも連なり、天に向かって力強く枝を広げている。

 木の幹にはビロードのような深緑の苔がびっしりと蒸し、枝先からは柔らかな若葉が朝露を湛えてきらきらと光を弾いていた。

 頭上を見上げると――そこには、灰色の煤煙などどこにもなかった。


 雲の裂け目から、目が覚めるような純粋なコバルトブルーの空が覗いていた。

 そこから、幾筋もの金色の陽光が、森の樹冠を突き抜けて地上へと真っ直ぐに降り注いでいる。チンダル現象の光の柱。その光の筋の中を、金色の胞子のような、名もなき光の粒子が、風に乗ってゆっくりと、優雅に舞い踊っていた。


「あ…………」


 アルトの唇から、言葉にならない吐息が漏れた。

 毒の霧など、どこにもない。

 肺いっぱいに吸い込んだ空気は、街のそれよりも何倍も冷たく、何倍も甘く、乾ききっていた少年の身体の隅々にまで、驚くほどの速さで染み渡っていった。


 ピピ、チチチ……と、頭上の高い梢で、見たこともない瑠璃色の小さな鳥が二羽、軽やかに羽ばたきながら歌うように鳴き交わした。

 風がもう一度吹き抜け、巨樹たちの枝葉がざわりと波打つ。

 まるで、森全体が、新しくやってきた小さな訪問者を迎え入れ、深呼吸をしているかのようだった。


 アルトはゆっくりと、泥の中から立ち上がった。

 後ろを振り返る。

 そこには、これまで世界のすべてだと思っていた、高さ三十メートルの巨大な防壁がそびえ立っていた。

 だが――外側から見るその壁は、不思議なほど色あせ、ひび割れ、まるで森の圧倒的な生命力に気圧されて震えている、哀れな灰色の墓石のように見えた。


 もう、閂は開かない。

 誰も、自分を呼び戻しには来ない。

 殴る大人も、怒鳴る兵士も、煤煙の濁った空も、もうどこにもない。


 アルトは自分の泥まみれの手のひらを見つめた。

 傷口はまだ痛む。けれど、その手はもう、震えてはいなかった。


「……あ、空って」


 少年の掠れた声が、広大な原生林の静寂の中に、ぽつんと落ちた。


「……こんなに、広かったんだ」


 境界線の森の奥から、新しい風が吹き抜けていく。

 それは、少年の孤独な日々の終わりと、自らの手で世界を編み直す、果てしない物語の最初の合図だった。


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