第003話:夕立の足音と、大樹の洞(うろ)
森の匂いが、唐突に変わった。
さっきまで満ちていた甘い腐葉土と新緑の香りに、ふっと、冷たく湿った鉄のような匂いが混ざり込んできた。
風の吹き抜ける音が、一段と高くなる。梢を揺らすざわめきが、まるで巨大な怪物が遠くから息を吸い込んでいるかのような、低く不気味な地鳴りへと変わっていった。
――ザッ……ザザザザザッ!
雨の足音だった。
森の天蓋を突き破り、数千、数万の雨粒が一斉に木々の葉を乱打する猛烈な破砕音が、西の谷底から凄まじい速度で迫ってきた。
春の夕立。
山の天気は変わりやすいと都市の古い書物で読んだことはあったが、これほどまでに唐突で、暴力的な豪雨が原生林を襲うとは想像すらしていなかった。
大気中の気圧が急激に下がり、肌を撫でる空気が氷水のように引き締まる。
――バシャッ!
頭上の梢の隙間から、まるでバケツをひっくり返したかのような容赦のない雨の塊が叩きつけてきた。
アルトの薄い麻のシャツは、わずか数秒で完全に濡れそぼり、氷水に浸した濡れ雑巾のように重く冷たく皮膚へと張り付いた。
冷たい。
体温が、衣服を通して急速に奪われていくのが分かった。
濡れた麻布は重さを増し、少年の細い肩にずしりと重荷となってのしかかる。
黒土の地面は瞬く間にぬかるみ、足首まで浸かるほどの泥の急流と化していった。泥が靴の中に侵入し、足の指のあいだを冷たいヘドロが押し広げていく。
「くっ……!」
アルトは削り上げたばかりのトネリコの杖を、泥濘の奥深くへと力いっぱい突き立てた。
――グサッ。
杖の先端の丸みが、泥の下の硬い地層をしっかりと捉えた。
もしこの杖がなければ、最初の一歩で足を滑らせ、泥水の中に転がり落ちて頭を岩に打ち付けていただろう。アルトは杖に体重を預け、前傾姿勢をとって、視界を塞ぐ白濁した雨煙の中を必死に前へと進んだ。
雨水が額から滝のように流れ落ちて目を焼き、数メートル先すらぼやけて見えなかった。
風が吹き荒れるたびに、巨木たちの枝が軋み、千切れた小枝や葉の塊がバラバラと降ってくる。
このままでは危ない。
濡れた身体に冷風を受け続ければ、体温を奪われ、筋肉が硬直して動けなくなる。
雨宿りのできる場所を、何としても見つけ出さなければならなかった。岩陰か、倒木の隙間か、あるいは大きな岩穴か――
その時だった。
激しい稲妻が空を切り裂き、一瞬だけ、森の木々を真っ青な閃光が照らし出した。
その光の向こう側。
原生林の緩やかな斜面の中央に、周囲のブナやナラとは明らかに次元の異なる、圧倒的なスケールを持った「巨大な影」がそびえ立っていた。
「……なんだ、あの木……!?」
アルトは雨をぬぐい、目を見張った。
巨木だった。
いや、巨木などという言葉では到底足りない。
樹齢五百年、いや千年以上は生きているだろう古代の神木。
周囲のブナやカシの木々がまるで小枝のように見えるほど、その幹は途方もなく太かった。大人が十人、腕を回して輪を作っても抱えきれないほどの主幹が、まるで天を支える太古の柱のように、大地から力強く屹立していた。
根はまるで巨大な龍が幾重にも折り重なって大地を鷲掴みにしているかのようにうねり、分厚い樹皮は深い亀裂を刻みながら、幾重にも重なった瑞々しい青苔を纏っている。頭上にはるか広がる枝葉の天蓋は、それ単体で森の一区画をすっぽりと覆い隠す巨大な傘のようだった。
そして何より――その太い主幹の根元、地上から三尺(約九十センチ)ほど上がった北東側の幹に、ぽっかりと大きな黒い穴が開いていたのだ。
大樹の洞。
落雷か、あるいは古い嵐によって幹の芯が裂け、何百年もの時間をかけて自然に削り出された、巨大な空洞だった。
「あそこなら……!」
アルトは最後の力を振り絞り、泥を蹴って大樹の根元へと駆け寄った。
龍のように盛り上がった太い根に手をかけ、滑りやすい樹皮に足を踏ん張ってよじ登る。
トネリコの杖を先に洞の中へ投げ入れ、自らも頭から滑り込むようにして、その黒い開口部の奥へと身を投じた。
――フッ……
瞬間、耳を聾するばかりだった豪雨の轟音が、分厚い壁を隔てたかのように遠のいた。
雨が当たらない。
風も吹き込まない。
アルトは濡れた両手を床につき、肩を激しく上下させながら、荒い息を吐き出した。
冷たい雨水が顎の先からポタポタと床へ落ちていたが、全身を包む大気は、外の烈風とは比べものにならないほど穏やかだった。
「ハァ……ハァ……助かった……」
アルトは乱れた呼吸を整えながら、洞の内部をゆっくりと見回した。
驚くほど広い空間だった。
床面積は、大人一人が足を伸ばしてゆったりと寝転がれるほど――広さにして二畳半ほどはあるだろうか。
天井は大人の背丈よりも高く、大樹の芯がドーム状に丸くくり抜かれている。
何より驚くべきは、その壁の分厚さと断熱性だった。外の世界では激しい雷鳴と豪雨が吹き荒れているというのに、洞の内壁に耳を当ててみると、微かな低周波の振動が伝わってくるだけで、風の冷気は一筋も染み出してこない。
大樹の分厚い木質部が、完璧な防音壁となり、天然の断熱材となって、少年の小さな命を守ってくれていたのだ。
洞の中には、古木の樹脂と乾いた木肌の、どこかお香に似た甘く静謐な香りが漂っていた。
だが、安堵の息を漏らしたのも束の間、アルトは足元から這い上がってくる冷気に眉をひそめた。
洞の底には、長年のあいだに風で吹き溜まった湿った土と、腐りかけた落ち葉が数寸の厚さで溜まっていたのだ。
濡れた麻のズボンを通して、泥土の冷気が容赦なく太ももを冷やしてくる。
このまま湿った土の上に座り込んでいれば、雨は防げても、底冷えによって体温を急速に奪われてしまう。濡れた衣類と湿った地面の組み合わせは、密閉空間であっても確実に低体温症を引き起こす。
(寝床を作らなきゃいけない。乾いた草や落ち葉を敷いて、地面の冷気を完全に遮断するんだ)
アルトはトネリコの杖を握り直した。
杖の先端を使って、洞の底に溜まっていた湿った土や腐朽した落ち葉を、外の雨の中へと掻き出していく。ゴリゴリと硬い木肌が露出するまで底を均すと、アルトは洞の入り口から身を乗り出し、大樹の根元の周囲を観察した。
大樹の根元は、張り出した巨枝と天蓋のおかげで、雨が直接当たらない「雨陰」の場所がいくつもあった。特に根のうねりの隙間には、風で吹き寄せられた落ち葉が乾いたまま積み重なっている場所がある。
アルトは雨宿りの外へ素早く手を伸ばし、濡れていない乾いたブナの枯れ葉や、スギの茶色い枯れ葉、そして風で吹き寄せられていたパンパスグラスのような枯れ草の束を、両手いっぱいに抱えて洞の中へと運び込んだ。冷えた指先が痛んで思うように動かなかったが、必死でかき集めた。
作業は迅速だった。
拾ってきた乾いた枯れ草を、手で揉んで繊維を柔らかくほぐす。
底の木肌の上に、まずはスギの枯れ葉を敷き詰めて土の湿気を防ぐ第一層を作る。
その上に、幅広のブナの枯れ葉を何層にも重ねて空気の断熱層を作り、最上段には揉みほぐしたパンパスグラスの柔らかい枯れ草をふんだんに敷き詰めた。
厚さ五寸(約十五センチ)。
少年の体重を受け止める、天然のふかふかのクッション寝床が完成した。
アルトはその寝床の上に腰を下ろし、両足を投げ出した。
――フワッ。
枯れ草が柔らかく沈み込み、少年の身体を包み込んだ。
先ほどまで足元から這い上がってきていた底冷えが、嘘のように完全に遮断されている。草の繊維の中に閉じ込められた空気が、体温を逃がさず、じんわりとした温もりを返してくれるのが分かった。
「……これなら、座っていられる」
アルトは膝を抱え、小さく呟いた。
だが、少年の唇は青ざめ、身体の震えは止まらなかった。
日没が近づいていた。
洞の入り口から覗く原生林の景色は、薄暗い鉛色から、急速に深い藍色の闇へと塗りつぶされつつある。
雨は小降りになるどころか、夜の訪れとともに冷たさを増し、森の気温は一気に氷点下近くへと落ち込んでいた。
濡れそぼった麻のシャツは、体温を奪う濡れ雑巾のように冷たく張り付いている。
ガチガチと、奥歯が勝手に打ち鳴らされる。激しいシバリング(身震い)。
指先は感覚を失い、白く硬直しかけていた。
震えが止まれば、次は意識の混濁がやってくる。都市の納屋で、冬の寒さに耐えかねてそのまま冷たくなっていった浮浪児たちの姿が、アルトの脳裏をよぎった。
寝床だけでは、足りない。
この寒さは、ただ座って丸くなっているだけで耐えられるような生半可なものではない。
朝を迎えるまでに、アルトの小さな身体は完全に冷え切り、二度と目を覚まさなくなるだろう。
生き延びるためには、何としても――「火」が必要だった。
闇を払い、濡れた衣服を乾かし、生命の灯火を維持するための、本物の炎が。
アルトは震える手で、濡れたズボンの左ポケットを探った。
指先が、ポケットの奥深くに潜んでいた、硬く乾いた「二つの小石」に触れた。




