第018話:泥の中に眠る黒い鉄パイプ
夏の強い日差しが原生林の木々を照りつけ、森の緑は日増しに濃さを増していた。
大樹の樹上の我が家には、天日干しにしたドライフルーツの甘酸っぱい香りが漂い、二畳半の床板は日中の熱を吸って素足に心地よい温もりを伝えていた。
果実の収穫を終えたその日の夕方。
アルトは果汁で汚れた手足を洗うために訪れた小川の淀みで、川底の泥の中に足裏を押し当てたまま、身動きを止めていた。
水深三十センチ。
黒く堆積した川底のシルト泥の中に、確かに「それ」は埋まっていた。
「……石じゃない。絶対に石じゃないぞ」
アルトは腰まで冷たい水に浸かり、両手を深く泥の中に突っ込んだ。
指先が触れたのは、完璧な円筒の滑らかな曲面だった。
自然界の岩石には、どれほど水流に洗われても微細な凹凸や結晶のざらつきがある。
だが、今指先が触れているそれは、職人が極限まで磨き上げたガラス管のように滑らかで、そして何よりも――初夏の川底の泥の中にあるはずのない、氷のように冷たく、金属特有の冷徹な硬度を湛えていた。
「シロ、ちょっと下がっててね」
岸辺で心配そうに見つめるシロに声をかけ、アルトは小刀の刃先と木のヘラを使って、円筒の周囲に固着した泥を掻き出し始めた。
泥は長年の水圧でカチカチに締まっており、掻き出すたびに濁った泥水が川下へと流れていく。
十分、二十分。
掘り進めるにつれて、その全貌が少しずつ姿を現した。
「大きい……! こんなに長かったのか!?」
泥の中から掘り出されたのは、太さ二寸(約六センチ)、長さ一間(約一・八メートル)もの長さを持つ、巨大な「黒い管」だった。
アルトは両手で管の両端を掴み、腰を落として一気に引き抜いた。
ズボボッ……!
重い泥の抵抗とともに、水面へとその物体が持ち上がった。
その瞬間、アルトは自分の手のひらに伝わってきた異様な軽さに、思わず目を見張った。
「え……!? 軽い……!?」
長さ一・八メートルの分厚い金属管といえば、普通の鋳鉄なら二十キロ、あるいは三十キロ近くあってもおかしくない。
しかし、この黒い管の重さは、乾燥した孟宗竹の丸太を一本持っているのとほとんど変わらなかった。
せいぜい二キロか三キロ。十一歳のアルトが片手で軽々と持ち上げられるほどの信じられない軽さだったのだ。
アルトは川原の浅瀬に管を運び、清冽な流水を何度も浴びせて、こびりついた泥を洗い落とした。
泥が流されるにつれて、夕暮れの斜陽を浴びたその管の「異様な質感」が、白日の下に晒された。
「……漆黒……? 錆が……ひとつもない……?」
アルトは息を呑んだ。
管の表面は、光を吸い込むような深いマットブラック――完全な漆黒だった。
何年、何十年、いや下手をすれば数百年もの間、湿った酸性の川底の泥に埋もれていたはずだ。
かつて拾った鉄鍋のように、分厚い赤錆に覆われてボロボロになっていて当然のはずだった。
なのに、この黒い管には、赤錆どころか、傷ひとつ、曇りひとつ存在しなかった。
さらに異様なのは、その構造だった。
金属をパイプ状に加工する際、必ず生じるはずの「継ぎ目」や「鍛造の叩き跡」、「溶接の盛り上がり」が、管の内外のどこにも見当たらない。
最初からその形状で生まれたかのように、完全な真円のチューブとして成形されていたのだ。
アルトは小刀を取り出し、刃先を管の表面に恐る恐る当ててみた。
そして、力を込めてガリッと引っ掻いてみる。
――ツルッ。
手応えがなかった。
鋼鉄の小刀の刃先が、硬質な氷の上を滑るようにツルリと滑っただけで、黒い表面には髪の毛一本ほどの引っかき傷すらつかなかった。
小刀の刃先の方を確かめると、なんと硬い鋼の刃先の方がわずかに丸く摩耗してしまっていた。
「嘘だろ……鋼鉄より硬いのか……?」
アルトの背筋に、冷たい戦慄が走った。
オルディスの防壁都市で、魔力炉を整備する最上級の技師たちでさえ、こんな金属を扱っているのを見たことがない。
都市のどんな名工も、どんな魔導鍛冶師も、こんな超高硬度で超軽量の黒い金属を作る技術など持っていないはずだ。
さらに、アルトが管を太陽光の角度を変えて透かして見た時、さらなる異変に気づいた。
一見すると均一な漆黒に見えた表面の奥深くに、肉眼の限界で見えるか見えないかほどの、極めて微細な【幾何学模様】がびっしりと刻み込まれていたのだ。
規則正しい六角形のハニカム格子と、その間を縫うように走る極細の回路のような銀色の極微ライン。
それは自然の木目でも、金属の結晶パターンでもない。
明らかに、何者かの意志と超絶的な技術によって設計された「人工の配列」だった。
「クゥ……」
足元で見ていたシロが、管の開口部に近づき、クンクンと鼻先を寄せた。
そして、金色の瞳を丸く見開き、小さく「ワンッ!」と澄んだ声で鳴いた。
怯えている様子はない。むしろ、どこか懐かしいものに出会ったかのように、白い前足で管の側面をチョンと叩いてみせる。
アルトは管を持ち上げ、川の水を管の端から注ぎ込んでみた。
その瞬間、またしても物理の常識を覆す光景が起きた。
注ぎ込まれた水は、管の内壁に一切張り付かず、まるで水銀の玉のように完全な球体を保ったまま、摩擦抵抗ゼロでチュルンッ!と反対側から滑り落ちていったのだ。
超撥水性――ロータス効果。
水滴が一滴も残らない。内壁を指で触れても、濡れているどころか、サラサラと乾き切っていた。
「水が……まったく張り付かない……! 一滴も淀まないんだ……!」
アルトの胸に、恐れを超えた強烈な感動が込み上げた。
これが何なのか、誰が作ったのかは分からない。
太古の昔、この境界の森に存在したという「失われた古代文明」の遺物なのかもしれない。
けれど、職人の端くれとして生きてきたアルトには、この管がどれほど途方もない価値を持つものかが、痛いほど理解できた。
錆びない。
傷つかない。
羽のように軽い。
そして、水が一切の抵抗なく滑り抜ける。
これほど完璧な「配管」が、この世のどこにあるだろうか。
「これがあれば……将来、木の上まで水を引くことだってできるかもしれない。それに、冬が来たら、カマドの熱湯をこの管に通して、部屋を温めることだって……!」
少年の頭の中で、未来の基地の姿が無限に広がっていった。
この黒い金属パイプは、ただのガラクタではない。
自分たちの秘密基地を、地上のどんな城塞よりも高度な要塞へと進化させるための、運命の鍵なのだ。
「よし……ツリーハウスへ持って帰ろう!」
アルトは黒いパイプを肩に担ぎ、飛び石を渡って大樹の根元へと戻った。
驚くほど軽いため、十二段のステップ階段を登るのも苦にならなかった。
アルトはツリーハウスのデッキの床下、梁と大枝の間に設けた「資材置き場」のスペースに、この黒いパイプを大切に格納した。
いつか、このパイプの真の力を引き出すその日まで。
その日の夜のことだった。
夕食を終え、ツリーハウスの床に座って夜光苔のランプの手入れをしていたアルトは、ふと、床下の隙間に置いた黒いパイプの開口部へと目を留めた。
外の光が一切入らない、漆黒の筒の内部。
だが、その暗闇の奥深くを覗き込んだ瞬間、アルトは息を呑んだ。
「……え……?」
パイプの内部の漆黒の奥底で――
まるで遠い銀河の星々のように、青白く、極微な光の粒子が、渦を巻くようにして静かに浮遊し、瞬いていたのだ。
ツゥゥン……と、耳鳴りのような極小の振動が鼓膜をかすめる。
触れると、パイプの外側は冷たいはずなのに、内壁からはほんのりと、生き物の体温のような温もりが脈打っていた。
シロがアルトの膝に前足をかけ、金色の瞳でパイプの奥をじっと見つめている。
背中の中心を走る銀の毛並みが、パイプの青白い燐光に共鳴するように、かすかに淡く輝いていた。
「やっぱり……ただのパイプじゃないんだ」
アルトは静かにパイプを撫でた。
恐怖は不思議となかった。
この森そのものが、太古の巨木が、そしてこの黒い管が、自分たちを受け入れ、見守ってくれているような温かい確信があったからだ。
その時だった。
――ゴロゴロゴロ……ッ!!
遠くの空から、重い雷鳴が森の梢を揺らした。
外を覗くと、夜空を覆う鉛色の分厚い雨雲から、激しい夏の夕立が降り注ぎ始めていた。
冷たい突風がビューッと吹き荒れ、大樹の無数の若葉が一斉にざわめく。
ザザザザザザッ……!!
大粒の雨が、天空の三角屋根を激しく叩き始めた。
アルトは扉を閉め、閂を下ろした。
屋根は完璧だった。スギの樹皮と笹の葉が雨水を綺麗に弾き、一滴の浸水も許さない。
琥珀色の丸窓から外を覗くと、急傾斜の屋根の軒先から、まるで滝のように大量の雨水が、地上へとドバドバと流れ落ちていくのが見えた。
「すごい雨だな……」
アルトはその勢いよく落下していく雨水を見つめながら、ふと呟いた。
「でも……これだけの水が、全部地面に捨てられちゃうのって、もったいないな……」
生活用水を確保するためには、毎日川まで降りて重い水を汲み上げなければならない。
もし、この屋根から落ちる無尽蔵の雨水を、綺麗に集めて、安全に飲めるようにろ過して溜めておく仕組みを作ることができれば――
嵐の夜、少年の瞳に、新たな開拓の火が灯った。
天の恵みを余すところなく活用する、自給自足の給水システムづくりが、いよいよ始まろうとしていた。




