第017話:甘い蜜の実と、シロの鼻先
飛び石を渡って足を踏み入れた対岸の森は、大樹がそびえる北側の斜面とはまったく異なる、陽光に満ちた別世界だった。
木々の梢が適度に間引かれ、初夏の力強い太陽光が金色の帯となって林床へと真っ直ぐに降り注いでいる。
温められた黒土からは、むせ返るような草木の生命力が立ち上り、頭上では色鮮やかな小鳥たちが、鈴を転がすような声で囀り交わしていた。
大樹の周囲が「静寂と守りの空間」だとすれば、この対岸の森は、命が爆発するように躍動する「実りと恵みの園」だった。
「クン、クン、クン……」
前方を歩いていたシロが、不意に足を止めた。
小さな白い鼻先を空へと向け、耳をピンと立てて、風の匂いを熱心に嗅いでいる。
次の瞬間、金色の瞳をキラリと輝かせると、ふさふさの尻尾を勢いよく振りながら、斜面を覆う低木の茂みの中へと一直線に駆け出していった。
「あ、待って、シロ! トゲがあるかもしれないよ!」
アルトは小刀を握り直し、シロの白い影を追って藪を掻き分けた。
青々とした広葉樹の枝をくぐり抜けた先――木漏れ日が燦々と降り注ぐ南向きの緩やかな斜面に出た瞬間、アルトは思わず息を呑んだ。
「……うわぁ……っ!」
目の前に広がっていたのは、見渡す限りの「紅と紫の絨毯」だった。
大人の背丈ほどの高さに広がったトゲのない野生の低木の群生に、まるで数千、数万のルビーを散りばめたかのように、親指の先ほどもある巨大な【野イチゴ(クマイチゴ)】がたわわに実っていたのだ。
それだけではない。
背後のナラの巨木には、太いツルを巻きつけた野生のヤマブドウが幾重にも垂れ下がり、小粒ながらも濃紺に熟した果実の房が、重みで枝を撓ませていた。
初夏の風が吹き抜けるたび、熟れた果皮から溢れ出る、蜂蜜のように濃厚で甘酸っぱい芳香が、あたり一面を満たしている。
「キュウッ! キャンッ!」
シロはもう待ちきれないとばかりに、低木の根元に実った真っ赤な野イチゴの一粒に鼻先を近づけ、器用に前歯でプチンと軸をもぎ取った。
そして、口の中でモグモグと噛み締める。
次の瞬間、シロは金色の瞳をとろけそうに細め、前足をパタパタと動かして「クゥ〜ン……」と至福の声を漏らした。
口の周りを真っ赤な果汁で染め上げながら、早くアルトも食べろとばかりに、アルトのズボンの裾をツンツンと小突き始める。
「あはは、そんなに美味しいの? じゃあ、僕も……」
アルトは目の前で最も濃く熟れた、黒みがかった深紅の大粒を指先で摘み取った。
太陽の熱を吸って、果皮はほんのりと温かい。
口の中へ放り込み、前歯で軽く噛み締めた。
――ジュワッ……!
その瞬間、アルトの口の中で、甘みの爆弾が弾け飛んだ。
言葉を失った。
溢れ出す、濃密な天然の果汁。
舌の上でとろけるような芳醇な甘みと、それを引き締める心地よい初夏の酸味が、波のように味蕾を駆け抜けていく。
都市の配給所で年に一度だけ手に入った、砂埃まみれのパサパサした干しブドウとは、比べ物にならなかった。
大自然の太陽と雨が育んだ、純度百パーセントの瑞々しい命の味。
果糖が食道を通り抜けて胃へと届いた瞬間、全身の細胞がカッと熱を帯び、これまでの開拓作業で溜まっていた筋肉の疲労が、潮が引くようにスーッと消え去っていくのが分かった。
「う……美味い……っ! 美味しいよ、シロ!!」
アルトは叫び、二粒目、三粒目を夢中で口に放り込んだ。
ヤマブドウの房からも数粒をもぎ取って口に含む。
こちらはイチゴよりもコクがあり、芳醇な葡萄酒のような大人の甘みと渋みが口いっぱいに広がった。
アルトは果皮を剥いて種を取り除いた柔らかな果肉を、手のひらに乗せてシロの口元へ差し出した。
シロは目を輝かせ、アルトの手のひらごとペロペロと舐め尽くす。
二人は果汁で指と口を真っ赤に染めながら、歓喜の笑い声を森の中に響かせた。
だが、ただその場で食べるだけではもったいない。
この斜面には、二人では到底食べきれないほどの膨大な果実が実っている。
これだけの恵みをツリーハウスへ持ち帰り、保存食にすることができれば、食糧事情は一気に跳ね上がるはずだ。
だが、服のポケットに入れたのでは、運ぶ途中で果実が潰れてジュースになってしまう。
「器がいるな……果実を傷めずに運べる、軽くて大きな籠が」
アルトは斜面を下り、川岸の湿地に群生していた「若い孟宗竹」の竹林へと向かった。
竹は、伐採しやすく、割裂性に優れ、軽くて極めて強靭な、天然の万能プラスチックだ。
アルトは太さ二寸(約六センチ)ほどの青竹を一本、小刀の刃先で根元に切れ目を入れて切り倒した。
ここからが、竹細工の工学だった。
アルトは節と節のあいだの真っ直ぐな部分を長さ二尺(約六十センチ)に切り揃え、小刀を縦に当てて石で叩いた。
パカンッ! と心地よい破裂音とともに、竹は真っ二つに割れる。
さらに四つ割り、八つ割り、十六つ割りと均等に細く裂いていく。
硬くて脆い内側の白い繊維を削ぎ落とし、しなやかな緑色の表皮に近い部分だけを厚さ一ミリ、幅五ミリの均一な「竹ひご」へと削り出した。
水に浸してしなやかさを増した竹ひごを手に取り、平らな石の上で編み始める。
採用したのは、最も軽くて通気性に優れた【六つ目編み(ヘキサゴナル・ウィービング)】だ。
三本の竹ひごを六十度の角度で交差させ、六角形の網目を連続させて底を作る。
底の大きさが決まると、竹ひごを直角に立ち上げ、側面を螺旋状に編み込んでいく。
最後に縁の部分を太い竹の輪で挟み込み、ツル縄でしっかりと巻き留めた。
仕上げに、背負うためのツル縄の肩紐を取り付ける。
わずか二時間で、深さ一尺半、大人の上半身ほどもある見事な「手編みの背負い竹籠」が完成した。
竹の弾力性によって驚くほど軽く、六角形の隙間から風が抜けるため、中に果物を入れても熱がこもらず傷みにくい。
「できたぞ、シロ! これならいくらでも運べる!」
アルトは竹籠を背負い、再び果実の斜面へと駆け戻った。
熟れた野イチゴとヤマブドウを、一粒ずつ、丁寧に竹籠の中へと摘み集めていく。
シロも誇らしげにアルトの足元を歩き回り、低い枝の実を見つけては「ワンッ!」と教えてくれた。
一時間後、竹籠は赤と紫の輝く宝石で山盛りになった。
籠の重みはずっしりと重く、十キロ以上はある。
だが、その重みは少年の肩にとって、この上ない幸福の重みだった。
飛び石を慎重に渡り、大樹のツリーハウスへと果実を運び上げた。
アルトはツリーハウスの屋根の軒下に、杉の板を隙間を空けて並べた「天日干し台」を設営した。
その上に、収穫した果実を重ならないように一粒ずつ並べていく。
初夏の乾いた強風と、強い太陽の紫外線。
天日干し(ソーラー・ドライ)にすることで、果実の中の余分な水分が蒸発し、糖分とビタミンが凝縮される。
数日後には、しっとりとした噛みごたえのある、数ヶ月間も腐らない極上の「ドライフルーツ」へと生まれ変わるのだ。
「これで……果物の保存食もバッチリだね」
甘い香りに包まれたツリーハウスのデッキで、アルトは満足そうに伸びをした。
シロもすっかりお腹がいっぱいになり、アルトの足元で丸くなって、幸せそうに目を細めている。
夕暮れが近づき、アルトは作業着と手にこびりついた紫色の果汁を洗い流すため、大樹の根元を降りて小川へと向かった。
飛び石のすぐ下流、水流が緩やかになって黒い泥が沈殿している浅瀬の淀み。
アルトは膝まで水に浸かり、冷たい清流で両手を洗った。
紫色に染まっていた指先が、綺麗に洗い流されていく。
その時だった。
川底の泥の中に足を踏み入れたアルトの右足の裏に――
硬く、鋭い異物の感触が当たった。
――コツン。
アルトは眉をひそめた。
石の感触ではない。
角ばった岩であればゴツゴツとした不規則な痛みが走るはずだ。
だが、足裏に触れたそれは、完璧な円筒形の丸みを帯びており、そして何よりも――
真夏の生ぬるい川底の泥の中にあるはずのない、氷のように冷たく、ゾッとするほど硬質な感触だった。
「……なに、これ……?」
アルトは腰をかがめ、水深三十センチの泥の中に両手を深く突っ込んだ。
泥を素手で掻き分ける。
指先が、冷たい円筒の表面を捉えた。
太さは大人の手首ほど。
泥を払うと、夕暮れの斜陽を浴びて、水底から鈍い【漆黒の光沢】が浮かび上がった。
石ではない。
木でもない。
長年泥の中に埋もれていたはずなのに、赤錆ひとつ浮いていない、不気味なほど滑らかな「黒い金属のパイプ」だった。
「金属……? どうして、こんな原生林の川底に……?」
アルトの背筋を、理由の分からない戦慄が駆け抜けた。
それは、少年のサバイバル生活を、この星に眠る「失われた太古の文明」へと引きずり込む、運命の歯車が噛み合った瞬間だった。




