第016話:川を渡る飛び石、重心のささやき
大樹の樹上に「我が家」が完成したことで、アルトとシロの生活は劇的な安定期を迎えた。
夜になれば頑丈な扉を閉めて木製の閂を下ろし、風雨や地上の獣に脅かされることなく、暖かい草のベッドで朝まで熟睡できる。
だが、生活の基盤が整ったことで、次に直面したのは「資源の限界」だった。
大樹の周囲半径百メートルほどの林床は、この二週間でアルトが隈なく探索し、食べられる野草や昨秋のクルミは採り尽くしつつあった。
二人のお腹を満たし、さらに来るべき実りの秋、そして過酷な冬に向けて十分な保存食を備蓄するためには、活動範囲を大きく広げなければならない。
アルトの視線が向かったのは、大樹のすぐ南側を流れる清流の「対岸」だった。
「あっちの森……すごく広そうだな」
幅およそ二間半(約四・五メートル)の小川を隔てた向こう岸には、大樹の周囲とは植生の異なる、日当たりの良い広葉樹の森が広がっていた。
初夏の風が吹くたびに、対岸の梢からは甘酸っぱい果実の匂いや、鳥たちの賑やかな羽音が運ばれてくる。
豊かな食糧の宝庫であることは間違いなかった。
だが、その間を遮る小川は、人間にとって決して侮れない天然の堀だった。
普段の浅瀬であれば、ズボンの裾を捲り上げてジャブジャブと歩いて渡ることもできる。
しかし、山の天気は変わりやすい。
上流で夕立が一度降れば、川の水嵩は瞬く間に膝上、あるいは腰近くまで跳ね上がり、普段は穏やかなせせらぎが、激しい白波を立てる濁流へと豹変する。
水温は雪解け水のように冷たく、素足を浸しているだけで数分で指先の感覚が麻痺してしまう。
さらに危険なのは、水底に転がる丸石の表面にびっしりと付着した、ヌルヌルとした川苔だった。
急流の中で苔に足を取られて滑れば、激流に押し流され、下流の巨岩に身体を叩きつけられて命を落としかねない。
まだ泳ぐことのできないシロを抱えて渡るなど、もってのほかだった。
「丸太の橋を架けるには……川幅が広すぎるし、大水が出たら一発で流されちゃうな」
アルトは川原にしゃがみ込み、激しい水流をじっと凝視した。
激流の力は凄まじい。人間が丸太を渡したところで、次の大雨の増水で一瞬にして下流へと押し流されてしまうだろう。
水と戦ってはならない。
都市の外壁補修で水門の管理を手伝わされていた頃、年老いた技師が教えてくれた流体力学の教えが蘇る。
『水に力で勝とうとする奴は馬鹿だ。水は隙間を愛し、障害物を嫌う。流れを遮るのではなく、流れに道を譲りながら、自分の足場だけを確保するんだ』
「橋がダメなら……『飛び石』だ。川底の岩盤に深く噛み合わせた巨石なら、大水が出ても流されない!」
アルトは川原の石材の選定に取り掛かった。
選ぶべきは、適当な丸石ではない。
上面が平らで、大人の足が一足分すっぽりと乗る広さがあり、水流に負けない比重の重い「花崗岩」や「安山岩」の巨石だ。
アルトは川原の上流の砂利地を歩き回り、重さ三十キロから五十キロはあろうかという、平らで分厚い手頃な巨石を七つ見つけ出した。
「うっ……く……! 重い……!」
十一歳の少年の腕力では、五十キロの巨石を持ち上げて運ぶことなどできない。
ここでアルトが使ったのは、古代から巨石を動かしてきた【テコの原理】と【コロ(丸太)】の知恵だった。
カシの頑丈な生木を削って作った二本のテコ棒を石の下に差し込み、ぐっと体重をかけて持ち上げる。
隙間に細い丸太を二本滑り込ませ、上から押す。
ゴロゴロ、ゴロゴロ……
丸太が回転し、少年の力でも重い巨石が川岸へと滑らかに転がっていった。
岸辺で見ていたシロが、「キャンッ!」と応援するように飛び跳ね、アルトの足元に駆け寄っては尻尾を振る。
ここからが、石工の真骨頂だった。
ただ石をドボンと川に投げ入れただけでは、底が合わずにグラグラと揺れ、急流に足元を洗われてたちまち転がってしまう。
アルトはズボンを脱いで下着一枚になり、冷たい川の中へと足を踏み入れた。
――冷たい!
骨の髄まで凍りつくような清流の冷気に歯をガチガチと鳴らしながらも、アルトは作業に没頭した。
アルトはまず、小刀と木のヘラを使い、石を据える川底の砂利を深さ一寸(約三センチ)ほど掘り下げた。
川底の硬い岩盤に届くまで砂利を掻き出し、石が収まる「石座」を作る。
そして、川岸からテコ棒を使って、最初の巨石をその掘り下げた穴の中へと転がり落とした。
――ドボンッ!
白い水飛沫が上がり、巨石が水底へと沈む。
水面から、石の平らな頭が五センチほど顔を出した。
アルトは石の上に恐る恐る片足を乗せてみた。
グラリ……
石がわずかに傾いた。
「やっぱり……角が浮いてる」
アルトは水中に両腕を肩まで突っ込み、石の底と川底の隙間を指先の感覚だけで探った。
石の重心がどこにあるのか。
どの角が岩盤に当たり、どの角が宙に浮いているのか。
都市の外壁補修で何千個もの敷石を触ってきたアルトの指先には、石の重心の「ささやき」が直感的に伝わってきた。
アルトは浮いている角の下に、平らな小石を二枚、木槌でコンコンと隙間なく打ち込んだ。
――【三点支持の固定】だ。
三つの点で支えられた物体は、幾何学的に決してガタつくことがない。
もう一度、石の上に乗ってみる。
――トンッ。
ビクともしなかった。
激しい水流が石の側面に激突し、白く泡立っているが、石は岩盤と一体化したかのように微動だにしない。
さらにアルトは、石の向きを「水流に対して斜め四十度」に傾けて据えた。
水の圧力を真正面から受けるのではなく、船の舳先のように水流を左右へと滑らかに受け流すための流体力学的工夫だ。
「よし……一段目は完璧だ!」
アルトは唇を紫色に震わせながらも、二個目、三個目と飛び石を据えていった。
一歩ごとに、歩幅にして約六十センチ。
子供の足でも無理なく踏み出せ、重い籠を背負っていても飛び越える必要のない、自然な歩行ピッチを計算して配置していく。
四個目、五個目、六個目。
川の中央の最も深い本流を越え、対岸の浅瀬へと飛び石の列が伸びていく。
途中で冷水に浸かりすぎて足の指が攣りそうになり、一度岸に上がって焚き火の熾火で足を温めながら、少年は粘り強く作業を続けた。
そして――最後の七個目の巨石を対岸の岸辺の土手に噛み合わせ、楔石で完全に固定した。
半日をかけた大工事が、ついに終わった。
アルトは最初の石に戻り、乾いた作業着と靴を履き直した。
そして、川原から一歩目を踏み出した。
トッ、トッ、トッ、トッ、トッ、トッ、トッ――
七つの石をリズミカルに踏みしめる。
どの石も岩のように強固で、水飛沫が足元を洗っても靴底は一切濡れない。
最後の一歩を踏み出した瞬間、アルトの足は濡れることなく、対岸の瑞々しい緑の草地へと、しっかりと降り立っていた。
「渡れた……! 川を渡りきったぞ!」
アルトは両手を広げて叫んだ。
足裏に伝わる対岸の土は、大樹の根元よりもさらに黒く肥沃で、足を踏み入れるとフカフカと沈み込むような感触があった。
自然の猛威に遮られていた境界線を、自分の知恵と手業によって打ち破ったのだ。
ふと振り返ると、川の向こう岸の土手の上に、シロがちょこんと立っていた。
金色の瞳を丸くして、対岸に立つアルトを見つめている。
「シロ! おいで! 大丈夫、絶対に落ちないよ!」
アルトが手招きすると、シロは「ワンッ!」と短く吠えた。
そして――
助走をつけ、最初の石へと身軽に飛び乗った。
ピョンッ!
濡れた石肌をものともせず、白い毛並みを弾ませて、ピョン、ピョン、ピョン、と驚くべき跳躍力と正確な重心移動で、飛び石の上を軽やかに駆け抜けてくる。
その身のこなしは、ただの子犬のそれではない。太古の神獣の血を引くかのような、息を呑むほど美しい俊敏さだった。
最後の石を蹴り、シロはアルトの胸元へとダイブしてきた。
「わっ……! あはは、すごいねシロ! 僕よりずっと上手だ!」
アルトはシロを空中でキャッチし、抱きしめて笑った。
シロは嬉しそうにアルトの顎をペロペロと舐め、得意げに尻尾を振った。
二人の瞳には、未知の領域へと足を踏み入れた探検者の純粋な輝きが宿っていた。
二人は顔を上げ、目の前に広がる未知の森を見渡した。
木々の間から、これまで嗅いだことのない、濃厚で甘酸っぱい果実の芳香が、初夏の微風に乗って漂ってきた。
日当たりの良い斜面には、見たこともない豊かな実りをつけた低木が群生しているのが見える。
シロがピクッと耳を立て、鼻先をヒクヒクと動かして前方の茂みをじっと見つめた。
「……シロ、何か甘い匂いがするね」
シロはアルトの腕からスルリと抜け出すと、対岸の森の奥へと続く獣道を、先導するように軽快に駆け出した。
新しい世界の扉は開かれた。
大自然が用意した豊かな恵みを求めて、二人の冒険は更なる深みへと歩みを進めようとしていた。




