第015話:ふたりの境界線、最初の「我が家」
追放されてから、ちょうど二週間が過ぎようとしていた。
初夏の陽光が原生林の木々を鮮やかに染め上げ、梢を渡る風には若葉の青々とした芳香と、森の奥に咲く名もなき野花の甘い香りが満ちていた。
地上では、川のせせらぎが絶え間なく涼やかな音を立て、鳥たちの囀りが森の朝を祝福している。
大樹の地上四メートル。
二畳半の水平デッキの上に、最後の建築工程が始まっていた。
雨風を完全に防ぐ「三角形の屋根」と「四方の壁」、そして部屋の出入り口となる「頑丈な扉」の建設である。
「よし、シロ。今日でこの家を完成させるぞ」
アルトが声をかけると、デッキの隅に座っていたシロが「ワンッ!」と澄んだ声で応え、ふさふさの尻尾を板の上でパタパタと打ち鳴らした。
屋根の構造には、過酷な風雨に耐えうる最もシンプルで強固な【Aフレーム(合掌造り)】を採用した。
四角い平屋根にすると、雨水が屋根の上に溜まって雨漏りの原因になり、強風の煽りを受けて屋根ごと吹き飛ばされる危険がある。
だが、急傾斜の三角形であれば、どんな豪雨も斜面を滑り落ちるように一瞬で下へ流れ去り、横風も斜面が綺麗に受け流してくれる。
アルトは地上に降り、カシの細丸太を六本切り出した。
二本一組で頂点を組んだ「合掌梁」を三組作る。
頂点の交差部分を小刀で相欠き(あいがき)にして噛み合わせ、ツル縄でギリギリと締め上げる。
その三組の合掌梁を樹上へと引き上げ、デッキの前・中・後ろに立ち上げ、頭頂部に一本の真っ直ぐな「棟木」を渡して固定した。
地上四メートルの空中に、ピラミッドのような美しい三角形の骨組みが力強く立ち上がる。
次は、雨露を完璧にシャットアウトする「多層防水屋根」の施工だ。
屋根材として集めてきたのは、森の巨木から剥ぎ取った分厚い「スギの樹皮」と、川沿いに群生する「大笹の葉」だった。
スギの樹皮は、木が生きているうちに剥ぐと木を枯らしてしまうため、アルトは森の風倒木の幹から、小刀と木のヘラを使って慎重に外皮だけを剥ぎ取っていった。一枚の幅が一尺、長さ三尺もある立派な樹皮が何十枚も集まった。
アルトは合掌梁の上に、横方向へ細い竹の小舞を何本も縛り付けた。
そして、屋根の軒先――一番低い位置から、スギの厚い樹皮をウロコ状に少しずつ重ね合わせながら上へと並べていく。
下から上へと重ねることで、上から流れてくる雨水が下の樹皮の背中を伝って外へと落ち、隙間から内部へ侵入するのを完全に防ぐのだ。
シロもまた、川岸から笹の葉を小さな口で一枚ずつ咥えては、ステップ階段の下までトコトコと運んで手伝ってくれた。
樹皮の上には、乾燥させた大笹の葉を幾重にも編み込んだ草筵を重ね、仕上げに屋根の頂点(棟)の部分に、耐火粘土と生きた苔を分厚く盛り付けて重石とした。
緑の苔が根を張ることで、土が流れるのを防ぎ、夏の日差しを遮る天然の断熱材となる。
屋根ができると、次は壁だ。
風が最も強く吹き付ける北側と東側は、厚さ二センチのスギ板を隙間なく並べ、ツル縄と木の楔で頑丈に固定した。
隙間には乾燥させた水苔を指先でぎゅっぎゅっと詰め込み、冷たい隙間風を完全にシャットアウトする。
そして、夕陽が差し込む西側の壁の中央には――
先日丹念に磨き上げた、あの「琥珀色の丸窓」を組み込んだ。
丸窓の木枠を壁板に噛み合わせ、松脂と粘土の天然パテで隙間を完全に目張りする。
そして最後にして最大の難関が、南側に設けた出入り口の「木製片開き扉」だった。
ただの板を立てかけるだけでは、風で倒れてしまうし、外からの獣の侵入を防げない。
金具の蝶番がないこの森で、アルトは伝統的な【軸吊り扉】の技法を再現した。
扉本体は、三枚の杉板を裏側からカシのサン木で繋ぎ合わせた頑丈な一枚板。
その扉の回転軸となる端の上下に、親指ほどの太さの木の丸棒(軸木)を突き出させた。
そして、デッキの床板と頭上の梁に、それぞれ丸い穴を小刀で彫り込み、その穴に軸木をスポンと差し込んだのだ。
――キィ……ッ。
アルトがそっと押すと、扉は滑らかに弧を描いて外側へと開いた。
手を引けば、パタンと心地よい木の音を立てて柱に密着する。
さらに扉の内側には、太いカシの棒をスライドさせて両脇の柱に掛け渡す「木製の閂」を取り付けた。
閂を下ろせば、外からどれほど強い風が吹こうと、大型の獣が体当たりしようと、絶対に内側へ破られることはない。
「できた……! 全部、完成したぞ……!」
アルトは息を呑み、シロを抱き上げて部屋の中へと足を踏み入れた。
そして、外を向いていた扉をゆっくりと引き寄せ――
――コトンッ。
木製の閂を、受け木へと静かに下ろした。
その瞬間だった。
――スウゥッ……
世界から、すべての雑音が消え去った。
外を吹き荒れる梢のざわめきも、地上の湿った空気も、森の奥の不気味な獣の気配も、すべてが分厚い木の壁と樹皮の屋根の向こう側へと遮断された。
部屋の中に満ちていたのは、削り立てのスギとヒノキの新木が放つ、清々しく甘い芳香。
西側の琥珀色の丸窓からは、夕暮れの柔らかい黄金色の光が差し込み、二畳半の床板の中央を蜂蜜色に優しく照らし出している。
壁のフックに吊るした夜光苔のガラスランプが、淡い若草色の光を放ち始め、部屋の隅々を温かく包み込んでいた。
床の奥には、乾燥させた柔らかなスゲの草と綿毛を幾重にも敷き詰め、上から手入れした麻布を被せた、二人分のふかふかのベッド。
壁の棚には、磨き上げた鉄鍋、水汲み用の竹筒、小刀、火打石が整然と並んでいる。
足元には、すっかり乾いて手触りの良くなった板の間。
「僕たちの……家だ……」
アルトはその場に崩れ落ちるように膝をつき、削りたての床板に両手を押し当てた。
手のひらに伝わる、温もりを帯びた木の滑らかな手触り。
視界が急速に滲み、大粒の涙がポロポロと床板の上に落ちて吸い込まれていった。
止まらなかった。
オルディスの防壁都市にいた頃、アルトには自分の場所などどこにもなかった。
魔力がないからと「無能」の烙印を押され、兵舎の裏の冷たい泥だらけの納屋に追いやられていた。
隙間風が吹き込み、冬には雨漏りで全身が凍え、兵士たちが気まぐれに扉を蹴破っては残飯の片付けを命じてきた。
夜中に寒さで震えながら、誰かの足音が近づくたびに怯え、息を殺して毛布を被っていた、あの暗黒の十年。
世界は広いはずなのに、自分が安心して眠れる場所は、四角い石畳の上のどこにも存在しなかったのだ。
けれど、ここには。
この扉の内側には、アルトを理不尽に怒鳴りつける大人は誰もいない。
石を投げつけてくる者も、役立たずと罵る者もいない。
大樹の地上四メートル。
自分の足で木を切り出し、自分の手で板を割り、自分の知恵と汗で組み上げた、完全な独立空間。
誰の許可もいらない。誰にも侵されない。
世界でたった一つの、本物の「城」。
「う……うぅ……っ、うわあああん……!」
アルトは床に額を擦り付け、声を上げて泣き崩れた。
それは悲しみの涙ではなかった。
理不尽な世界から自らの力で魂を解き放ち、人間としての尊厳と生きる場所を勝ち取った、魂の歓喜の号泣だった。
十一年間の恐怖と孤独が、激しい涙となって床板を濡らし、洗い流されていく。
「キュウ……ン……」
シロがアルトの濡れた腕の中に潜り込んできた。
小さな前足をアルトの首に回し、温かい頬をアルトの涙に濡れた顔に押し当ててくる。
そして、ペロリ、ペロリと、慈しむように少年の涙を舐め取った。
金色の瞳が、アルトをまっすぐに見つめている。
――アルト、泣かないで。ここが僕たちの家だよ。
そう語りかけているかのように。
「シロ……ありがとう……お前がいてくれたから、僕、ここまで来られたよ……!」
アルトはシロの小さな白い身体をぎゅっと抱きしめ、二人は床の上で折り重なるようにして抱き合った。
外の森では、夕立の雨がポツポツと降り始め、やがてサーッと激しい雨音へと変わっていった。
けれど、三角形の急傾斜屋根は一滴の雨漏りも許さず、雨粒は心地よいリズミカルな子守唄となって、屋根の上をサラサラと滑り落ちていく。
部屋の中は温かく、乾いていて、どこまでも安全だった。
二人はふかふかの草のベッドに潜り込んだ。
シロがアルトの腕枕に頭を乗せ、安心しきったように喉をゴロゴロと鳴らしながら、スースーと深い寝息を立て始める。
アルトもまた、シロの柔らかな毛並みに頬を寄せ、琥珀色の丸窓に映る雨の雫を眺めた。
「明日からは……もっと豊かな暮らしを作ろうね」
拠点は完成した。
だが、これは開拓のゴールではなく、本当の自給自足生活のスタート地点だった。
これから夏が深まれば、森の恵みはさらに増える。
川の対岸にある未知の森の探索、安定した飲料水の確保、魚獲りの罠づくり、そして保存食の備蓄。
やりたいことが、無限に胸の中に湧き上がってくる。
少年はシロの寝息を胸に感じながら、生まれて初めて、明日が訪れることを心から楽しみに思いながら、深く、安らかな眠りへと落ちていった。




