第135話:白銀の天狼・真の覚醒_星の咆哮が神を討つ
大気が灼熱のオゾン臭と、破滅の電磁波によってビリビリと震えていた。
右腕を吹き飛ばされ、胸部装甲をドロドロに溶かされた巨神機ギガンテス。
だが、その内部で臨界に達した『終焉の炉心』は、停止するどころか、黒紫色の不気味な脈動を倍化させていた。
冷却系をすべて喪失した古代の魔導炉が、制御不能な暴走の最終段階へと突入したのだ。
ひび割れた装甲の隙間から、紫黒色の稲妻が四方八方へと激しく撒き散らされる。
触れた雪が一瞬で黒煙を上げて昇華し、泥炭の土壌がガラス状に硬化していく。
泥炭沼に沈んでいた帝国装甲車の鉄板までもが、放射される高熱によって赤熱し、歪な形へとねじ曲がっていった。
「ヒャハハハハハッ! 予は神だ! 予こそがこの愚かな地上を統べる唯一絶対の主だ!」
外部拡声器から響く教皇ベネディクトの狂声は、もはや人間の言葉としての形を失いつつあった。
操縦席の計器類が次々と火花を散らしてショートする中、教皇は自らの爪を立てて操作盤を掻きむしり、禁忌の安全弁をすべて開放したのだ。
大陸全土を消し飛ばすほどの超高密度マナの暴走。
自らを拒絶した世界そのものを道連れに自爆しようとする、究極の我執と狂乱の果ての暴挙。
「消えろ! 消えてなくなれぇぇッ! 星の心臓も、忌々しい大樹も、予に従わぬ人間も、すべて無に帰すのだ!」
巨神機の残された左腕が天を仰ぎ、胸部の炉心が限界を超えて赤黒く膨張を始めた。
半径数十キロメートルを一瞬で灼熱の灰燼へと変える破滅の閃光が、いまにも解き放たれようとしていたその瞬間――
風が、止まった。
荒れ狂っていた冬の吹雪が、時を止められたかのようにピタリと静止する。
荒野の雪煙が重力を失ったかのように空中に漂い、空を覆っていた重苦しい黒雲が、円形にすうっと押し開かれていった。
その雲の裂け目から、冷涼で清らかな蒼穹が覗き、澄み切った冬の星々が瞬き始める。
秘密基地の中央――百メートルの高さを誇る主樹の天辺。
風見鶏が据え付けられた避雷針の台座の上に、一頭の白い獣が凛として立っていた。
シロだった。
冬毛で丸々としていたはずの愛らしい姿は、そこにはなかった。
四肢はしなやかに引き締まり、アルトの手料理と星の蜂蜜で育まれた筋肉が、神代の彫刻のように研ぎ澄まされている。
首周りの豊かな銀毛は、夜露に濡れた最高級の絹のように月光を浴びて静かに揺れていた。
黄金色に輝く双眸は、地上のあらゆる不浄を見通すかのように、ただ静かに眼下の巨神機を見据えている。
「シロ……」
温室の展望台から見上げるアルトの瞳に、相棒の気高い横顔が映る。
シロは振り返らなかった。
だが、アルトへと通じる魂の絆を通じて、温かく力強い思念が少年の胸へと静かに流れ込んできた。
『大丈夫だよ、アルト。僕たちの家は、僕が守る』
それは言葉ではなく、二人が極寒の雪山で出会い、泥だらけになって秘密基地を築き、温かいシチューを分け合ってきた日々の記憶そのもののぬくもりだった。
雪山で震えていた子犬の首に、アルトが編んで巻いてやった手編みの首輪。
水車を回し、レンガを積み、温室に種を蒔いたあの無数の温かな記憶が、二人の魂を一本の揺るぎない絆で結びつけていた。
シロにとって、この境界の森の秘密基地こそが世界のすべてであり、アルトこそが魂の半身だった。
シロが、大地を蹴った。
百メートルの樹頂から、天空へ向かって跳躍する。
重力を完全に無視した、あまりにも軽やかな飛翔。
舞い上がったシロの全身を、純白と白銀の粒子が眩いヴェールとなって包み込んでいく。
カラン、コロン……
澄んだ風鈴のような、神話の鈴音が世界を満たした。
シロの背中を走る青白い光脈が、眩い閃光を放ちながら左右へと大きく展開していく。
それはただの放電現象ではなかった。
星の磁場そのものを編み上げた、透き通るような白銀の巨大な光の翼。
左右に三十メートルを超える巨大な光翼を羽ばたかせ、白銀の巨狼が漆黒の夜空を白昼のように照らし出す。
光の翼から舞い散る銀色の粉が、凍てついた雪原へと降り注ぎ、枯れ果てていた大地に微かな生命の息吹を呼び覚ましていく。
古代の神話に記され、帝国の愚かな学者たちが「架空の御伽噺」として切り捨てた伝説の存在。
星の心臓を守護し、暴走する惑星のエネルギーを調和へと導く天空の絶対調停者――『星の守護天狼フェンリル』。
何千年の時を超え、星の守護者としての真の姿が、境界の森の天空を眩く照らし出していた。
「ば、馬鹿な……!? 天狼だと……!? ただの白い駄犬ではなかったのか!?」
操縦席の計器越しにその姿を捉えた教皇が、泡を吹いて叫んだ。
震える指先で、ありったけの攻撃術式を起動しようとする。
だが、シロの瞳には、狂乱の老人に対する怒りすら存在しなかった。
アルトがかつて略奪者たちに向けたものと同じ、絶対の調和の前に立つ不純物への、完全なる憐憫と無関心。
シロが天空で前足を揃え、大きく胸を反らせた。
星の光翼が最大まで広がり、大樹の根元深くに眠る『星の心臓』と、完全に波長が同期する。
地下のコンソールに刻まれていた青白い古代文字が、天空のシロと共鳴して激しく発光した。
青白い光の奔流が惑星の核から四本の大樹の幹を駆け上がり、天空のシロへと集束していく。
地球そのものの生命維持システムが、正当なる調停者の肉体を得て、その全出力を解き放とうとしていた。
そして――白銀の天狼は、天空へと向かってその顎門を大きく開いた。
――ウォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!
天と地を根底から揺るがす、神話の咆哮が放たれた。
それは鼓膜を破る爆音ではなかった。
魂の最も深い場所に直接染み渡るような、清らかで透明な「星の調停波」。
音波の円環が幾重にも重なり合い、青白い光の波紋となって夜空を、荒野を、そして大地を撫でるように広がっていく。
その咆哮は、自然の草木を傷つけなかった。
雪原の雪を一粒たりとも吹き飛ばさず、森の木々の葉を一枚も落とさなかった。
泥炭沼に跪く聖銀騎士たちの身体も、何一つ傷つけられることはなかった。
ただ、凍え切っていた彼らの心身に、ぽっと温かい陽だまりのような安らぎだけが染み渡っていった。
だが――
パシッ……ピシピシピシッ!
巨神機ギガンテスを構成していた、あらゆる人工の「魔導回路」だけが、激しい悲鳴を上げた。
天狼の咆哮が触れた瞬間、帝国が何百年もかけて張り巡らせてきた歪んだ術式、強制的なマナの搾取構造、そして暴走する炉心の励起状態が、根源から「中和」されていく。
「な、何だ!? 魔力圧が……消える!? 予の魔導炉が……冷えていく……!?」
教皇が絶望の悲鳴を上げた。
膨張していた黒紫色の『終焉の炉心』から、邪悪な紫の光が急速に剥ぎ取られていく。
暴走していた莫大なエネルギーは、破壊の爆発を起こすことすら許されず、天狼の調停波によって穏やかな自然のマナ粒子へと還元され、澄み切った大気中へと霧散していった。
過熱していた金属が瞬時に冷却され、シューッと白い蒸気を噴き上げる。
それだけでは止まらなかった。
巨神機の全身に張り巡らされていた聖銀の配線、マナ伝導管、反重力シリンダー。
それらを満たしていた人工の魔力がすべて消滅したことで、古代の金属結晶がその結合力を失ったのだ。
パラパラ……パラパラパラ……
三十メートルを誇った白銀と黄金の装甲が、風化した古城の壁土のようにサラサラと音を立て、乾いた灰色の粉となって剥がれ落ちていく。
神の威光を誇示していた巨大な翼が崩れ、左腕が崩れ、胸部のフレームが砂となって雪の上に崩落していく。
かつて文明を滅ぼしかけた自律型巨神機は、天狼の一声によって、ただの脆い土塊へと還されていった。
ドォォォォォンッ!
完全に動力を失い、内部骨格を砂へと変えられた巨神機の残骸が、音を立てて泥炭の荒野へと倒れ伏した。
舞い上がった土煙は、冷たい夜風に吹かれてすぐに消え去った。
残されたのは、崩れた鉄屑の山と、そこから這い出してきた一人のみじめな老人の姿だけだった。
天空から、光翼を静かに収めたシロが舞い降りてきた。
ふわりと迎撃テラスの手すりに前足を乗せ、着地する。
その背中の光脈は淡い琥珀色の温かい輝きへと戻り、体躯もいつもの親しみやすい白い狼の姿へと戻っていた。
凛々しい神話の天狼から、大好きな少年のもとへと帰ってきた家族の姿へ。
「おかえり、シロ」
アルトが進み出て、両手を広げた。
シロは嬉しそうに喉を鳴らし、アルトの胸へと飛び込んできた。
ずしりとした心地よい重みと、日向の匂いがする温かい毛並み。
神話の天狼として世界を救った直後だというのに、相棒の胸の中では、以前と何一つ変わらない甘えん坊のシロだった。
「クゥ〜ン、クゥン」
「うん、よく頑張ったね。本当にありがとう」
アルトがシロの耳の裏を優しく掻いてやると、シロは目を細めて少年の首筋に冷たい鼻先を擦り付けた。
星の咆哮によって、吹き荒れていた冬の嵐は完全に鎮まっていた。
境界の森を囲む空には、満点の星空が広がり、常春の結界が放つ柔らかなエメラルドグリーンの光が、静かに雪原を照らしていた。
決着の時は訪れた。
アルトはシロの頭を撫でながら、ゆっくりとテラスの手すりから下を見下ろした。
そこには、粉々に崩壊した巨神機の残骸の傍らで、泥に塗れて這いつくばる教皇ベネディクトの哀れな姿があった。
帝国と教会の何千年にわたる傲慢と偽善が、泥炭の荒野に音を立てて崩れ去った。




