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第136話:崩れ落ちる巨神機_偽善と狂気の完全なる終焉

静寂が、どこまでも広がる雪原を支配していた。

 吹き荒れていた極寒の猛吹雪は完全に止み、夜空には満天の星々と、透き通るような白銀の天の川が静かに流れている。

 境界の森を取り囲む四本の大樹の結界ドームが、エメラルドグリーンの光を穏やかに放ち、雪に覆われた荒野の地平線を優しく照らし出していた。


 その結界の外郭、かつて泥炭沼だった凍土の上には、巨大な残骸の山が横たわっていた。

 全高三十メートルを誇り、帝国と聖教会の絶対的な威光の象徴であった古代決戦兵器『自律型巨神機ギガンテス』。

 いまやその姿は見る影もない。

 黄金と白銀で装飾されていた分厚い装甲板は、天狼の放った調停波によって魔力を根こそぎ中和され、風化した砂の城のようにサラサラと崩れ落ち、ただの灰色の粉末となって雪の上に堆積していた。

 骨組みの鋼鉄フレームは赤錆を噴いて折れ曲がり、胸部に鎮座していた『終焉の炉心』は、熱を完全に失って冷たい黒曜石の塊へと還っていた。


 ギギィ……バキッ。


 崩れ落ちた操縦席のハッチが、内側から力なく押し開かれた。

 ひしゃげた鉄板の隙間から、這いずり出るようにして雪の上に転がり落ちた人影があった。

 かつて全大陸の頂点に君臨し、神の代行者を自称していた聖教会最高指導者――教皇ベネディクトだった。


 その姿は、あまりにもみすぼらしく、無残を極めていた。

 純金と純銀の糸で刺繍されていた豪奢な法衣は、煤と泥に塗れてボロボロに引き裂かれ、あちこちが黒く焦げて煙を上げている。

 頭にかぶっていたはずの豪奢な教皇冠は泥の中に転がり落ち、薄くなった白髪は泥水に濡れて額に無様に張り付いていた。

 かつて冷酷に平民を見下し、アルトを「神の恩寵を持たぬ出来損ないのゴミ」と嘲笑ったあの傲慢な威厳は、爪の先ほども残っていなかった。


「ヒィッ……ヒィッ……! あ、足が……腰が砕けて……立てぬ……!」


 教皇は泥炭の冷たい泥に腹ばいになりながら、震える手で雪を掻きむしった。

 両膝は恐怖で激しく痙攣し、自重を支えることすらできない。

 その視線の先――境界線の結界の内側から、静かな足音が近づいてくる。

 キュッ、キュッ、と引き締まった雪を踏みしめる音。


 現れたのは、防寒の毛皮ベストを着たアルトだった。

 その隣には、純白の毛並みを月光に輝かせたシロが、誇らしげに胸を張って歩調を合わせている。

 アルトの手には武器など握られていなかった。

 ただ、腰のベルトにいつもの使い古された真鍮のノギスと剪定鋏が差されているだけだった。

 その姿は、兵器を操る戦士ではなく、自らの手で日々を耕し、基地を育んできた一人の職人としての静かな威厳に満ちていた。


「ひ、ヒィィッ! く、来るな! 化け物め、予に近づくな!」


 教皇は雪の上を這いずりながら、必死に後退しようとした。

 だが、その背後は泥炭の底なし沼と、倒壊した巨神機の残骸によって塞がれている。

 退路など、どこにも存在しなかった。

 アルトは結界の境界線――かつて自らが引いた一本の敷居の前に立ち止まり、泥まみれの教皇を静かに見下ろした。

 その瞳には、かつてアルトを追放した大人たちに向けたものと同じ、道端の小石を見るような「絶対的な無関心」だけが湛えられていた。


「教皇様。ずいぶんと派手に散らかしてくれましたね」


 アルトの声は、冬の夜風のように静かで、一切の感情の昂ぶりがなかった。

 怒りも、復讐の快感も、嘲笑すらもない。

 ただ、自らの敷地の前を汚されたことに対する、純粋な職人の事実確認。

 それがかえって、教皇のプライドを粉々に粉砕した。


「ア、アルト……! お前、アルトだな!? 覚えているぞ! あの時、魔力適性ゼロの役立たずとして雪山へ放逐された小僧……!」


「ええ。あなた方の都合のいい物差しで『無能』と決めつけられ、凍え死ぬために捨てられたアルトですよ」


「そ、そうか! お前だったのか! ならば話は早い!」


 教皇は顔に泥を擦り付けたまま、すがるように両手をアルトへと伸ばした。

 その濁った瞳に、醜い生への執着がギラギラと灯る。


「助けてくれ! 予の命を助け、その大樹の温室の中へ予を入れろ! 温かいスープを飲ませ、傷の手当てをしろ! そうすれば……そうだ、お前を聖教会の最高顧問にしてやる! いや、大司教の位をやろう! 帝国の皇帝の座すら、予の権限でお前に授けてやるぞ!」


 教皇は唾を飛ばしながら、ありとあらゆる権力と富の約束をまくしたてた。

 大陸全土を支配する絶対的な権威。

 山のような財宝、無数の従者、広大な領地。

 かつて人間たちが血を流して奪い合ってきたすべての栄華を、少年への対価として差し出そうとしたのだ。


「世界の半分をお前にやる! だから……だから予を助けろ! 神の代行者たる予を死なせるな!」


 教皇の必死の叫びが、静まり返った雪原に空しく木霊した。

 だが、アルトの眉はピクリとも動かなかった。

 少年の唇から漏れたのは、呆れ果てたような小さな吐息だった。


「世界の半分、ですか」


 アルトはゆっくりと首を横に振った。


「教皇様。あなた方はまだ、何もわかっていないんですね」


「な……何だと……!?」


「あなた方が振りかざしてきた皇帝の座も、教皇の位も、山積みの金貨も……この極寒の冬の前には、一握りのパンにも、一杯の温かいスープにも値しません」


 アルトは足元の雪を指差した。


「誰かを支配し、奪い、搾取することでしか成り立たない偽りの繁栄なんて、最初から砂の城だったんです。あなた方が何百年もかけて築いた帝国と教会は、たった一度の寒波で瓦解しました。いまやその金貨で買える薪が一本でもありますか? その権威で温まる毛布が一枚でもありますか?」


 教皇は言葉を失い、口をパクパクと金魚のように開閉させた。

 反論の言葉など、何一つ浮かばなかった。

 帝都はすでに絶対零度の寒波によって凍結し、市民は逃げ惑い、国家機能は完全に麻痺している。

 教皇が誇る権力など、もはやこの凍てつく世界において、何の価値も持たないただの幻影だった。


「僕はこの森で、シロと一緒に土を耕し、木を伐り、石を積んで生きてきました」


 アルトの言葉は、確固たる誇りに満ちていた。


「誰の指図も受けず、誰からも奪わず、自分たちの手で暮らしを作り出すこと。冷たい風を遮る壁を作り、冬を越すための干し肉を蓄え、大切な相棒と焚き火を囲んで笑い合うこと。それこそが、生きるということです。僕たちのこの家には、あなた方の汚れた権力も、偽善の神罰も、最初から一ミリたりとも必要ありません」


「お、お前……! 予を見捨てる気か!? 神の罰が下るぞ! 地獄に落ちるぞ!」


 教皇が逆上し、泥を跳ね上げて喚いた。

 アルトは冷徹な視線を教皇の顔から外し、境界線の外の荒野へと向けた。


「去りなさい」


 少年はただ一言、短く告げた。


「二度と、この境界線を越えるな。あなたが奪い、踏みにじってきた無辜の人々と同じように、自らの足で歩き、自らの手で薪を拾い、自らの罪と向き合って生きなさい。それが、この森があなたに与える唯一の慈悲です」


「ひ、ヒィィッ……!」


 アルトの横で、シロが低く、地響きのような唸り声を一つ上げた。

 グルルルル……と喉を鳴らし、鋭い犬歯を剥き出しにして前足を一歩踏み出す。

 その身体から放たれた青白い微小な電撃が、教皇の鼻先をチリチリと焦がした。

 これ以上の滞在は、即座の死を意味する。

 神話の天狼が下した最後通告に、教皇の膀胱は緩み、生温かい液体がズボンを濡らした。


「あ、あああ……っ! お、許しを……! 神よ……!」


 教皇は四つん這いになり、泥炭の沼と雪原の境界を、這うようにして後退していった。

 転び、泥に顔を突っ込み、立ち上がってはまた倒れながら、みじめな悲鳴を上げて荒野の闇の中へと逃げ惑っていく。

 帝都を牛耳り、何百万の民を虐げてきた最高権力者の、あまりにも惨めで無様な完全なる敗走。

 その背中を見送る者は、誰もいなかった。

 泥炭沼の縁で武装解除されていた聖銀騎士たちも、冷え切った軽蔑の眼差しを、かつての主の背中に向けているだけだった。


「終わったね、シロ」


 アルトが呟くと、シロは小さく「ウォフ」と答え、アルトの腰のあたりに頭を擦り寄せてきた。

 敵対者は完全に排除された。

 秘密基地を脅かす外敵は、もうこの大陸のどこにも存在しなかった。


 アルトは振り返り、四本の大樹がそびえ立つ我が家を見上げた。

 深緑の天蓋、温かな明かりが漏れるツリーハウスの窓、水車が立てる心地よい水音、そして温室のガラスを照らす柔らかな星光。

 すべてが、少年と相棒がゼロから作り上げた、何者にも侵されない絶対の聖域だった。


「さあ、帰ろう。温かいスープの続きを作らなくちゃ」


 アルトが笑顔を浮かべると、シロは嬉しそうに尾を大きく振り、少年の周りを跳ね回りながら結界の小道を駆け戻っていった。

 だが、二人の物語は、単なる基地の防衛で終わりではなかった。

 いま、地下の古代コンソールからは、世界中の生命を蘇らせるための『星の再生シグナル』が、少年の入力を静かに待っていた。

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