第133話:森の主の咆哮_オオツノジカ軍団の地響き
凍てついた泥炭の荒野に、焦げた絶縁油と吹き荒れる吹雪の匂いが満ちていた。
無残に擱座した帝国装甲車の残骸から、黒煙が細く立ち上る。
装甲を貫かれて横転した車両のハッチを押し開け、聖銀騎士団の生き残りたちが、泥まみれになりながら次々と這いずり出てきた。
彼らの手には、帝都の最新鋭魔導工房で鍛え上げられた聖銀の長剣と、魔導障壁を展開する大型のラウンドシールドが握りしめられている。
「ひるむな! 所詮はガキが仕掛けた遠距離兵器だ! 弾切れの隙を突いて一気に大樹の根元へ取り付くぞ!」
「聖教会の威光を愚弄する棄民どもめ、八つ裂きにして魔導炉の生贄にしてくれる!」
指揮官らしき白銀の甲冑をまとった男が、泥を顔になすりつけながら喚き散らした。
装甲車を失った屈辱と恐怖を、粗暴な怒声で塗りつぶそうとする叫び声だった。
泥炭沼の縁を慎重に迂回しながら、数十名の重装歩兵が密集陣形を組み、抜剣して結界の境界線へと突進を開始する。
彼らにとって、森の主である少年はただの無力な元貴族の捨て子にすぎず、生身の白兵戦に持ち込めば容易に圧倒できるという浅薄な計算があった。
だが、迎撃テラスの手すりに肘を置き、双眼鏡でその様子を眺めるアルトの眉は、微動だにしなかった。
メガ・バリスタの撃鉄を再度引く様子すらない。
シロもまた、アルトの足元に優雅に伏せたままで、黄金の瞳に嘲笑の色を浮かべながら、耳をピクリと後ろへ向けただけだった。
「僕たちが手を下すまでもないみたいだね、シロ」
アルトが静かに呟いた。
その言葉に応えるかのように、彼らの背後――深緑の天蓋が広がる境界の森の深部から、異様な地響きが湧き上がってきた。
ゴ……ゴ……ゴ……ゴ……
最初は、大地の奥底で眠る巨人が寝返りを打ったかのような、微細な低周波の振動だった。
しかし、それは瞬く間に加速度を増し、雪をかぶった常春の木々を激しく揺らし始めた。
針葉樹の梢から、ドサドサとまとまった雪塊が落ちる。
小石が地面で跳ね踊り、凍土を伝わる衝撃波が、突進していた聖銀騎士たちの足裏を直接突き上げた。
「な、なんだ……!? 地震か!?」
「いや、違う! 森の奥から、何かがこっちに向かって疾走してくる音だ!」
騎士たちの進軍がピタリと止まった。
彼らの視線の先、鬱蒼とした大樹の回廊から、白い湯気をもうもうと噴き上げながら突進してくる巨大な影が姿を現した。
――ズドォォォォォンッ!
雪煙を突き破って先頭に飛び出してきたのは、かつてアルトが冬の初めに塩のブロックを分け与え、命を救った森の絶対強者――オオツノジカの主だった。
体長は優に三メートルを超え、四肢の筋肉は分厚い古木の幹のように盛り上がっている。
そして何よりも威容を誇っていたのは、左右に大きく広げられた青銅のように鈍い光沢を放つ巨大な枝角だった。
その角の先端には、アルトが以前に補修と補強のために施してやった白銀銅合金の保護金具が輝き、大樹の結界から漏れ出す生命のマナを浴びてパチパチと淡い緑の放電を纏っていた。
それだけではない。
主の背後には、若く血気配る雄鹿、たくましい雌鹿、そして成長した若鹿たち――実に百頭を超えるオオツノジカの軍団が、一糸乱れぬ突撃隊列を組んで雪原へと押し寄せてきていた。
ド・ド・ド・ド・ド・ド・ド・ドッ!
百対を超える強靭な蹄が、大地を轟然と踏み砕く。
その圧倒的な質量と突進速度は、帝国軍の装甲車列の突撃すら児戯に見せるほどの凄まじい迫力を持っていた。
「オオツノジカ……の群れだと!? なぜこんな化け物が群れを成して人間を襲うんだ!」
「盾を構えろ! 魔導障壁を最大出力に――ぎゃあぁぁぁっ!」
騎士たちが慌てて盾を合わせ、青白いマナの障壁を展開しようとした瞬間には、すでに遅すぎた。
先頭を疾走するオオツノジカの主が、猛然と首を低く沈め、その青銅の枝角を密集陣形の中央へと突き刺した。
ガガガガギィィィンッ!
硬質な激突音が吹き荒れる吹雪を引き裂いた。
帝都が誇る分厚い聖銀のラウンドシールドが、主の巨大な枝角と正面から激突した瞬間、まるで硝子の玩具のように粉々に砕け散った。
衝撃波は盾を持っていた三人の重装歩兵の腕の骨をへし折り、そのまま彼らの身体を木の葉のように宙へと跳ね飛ばした。
空中に舞い上がった兵士たちは、哀れな悲鳴を上げながら十数メートル先の泥炭沼へと背中から叩きつけられた。
続いて突入した百頭の巨鹿軍団が、左右から騎士団の隊列を完全に蹂躙した。
雄鹿たちのたくましい肩が兵士たちを薙ぎ払い、鋭い蹄が彼らの足元をすくい上げる。
聖銀騎士団が誇っていた陣形は、わずか数十秒の突撃によって完全に分断され、散り散りに蹴散らされた。
「ば、化け物め! 死ねっ!」
副隊長格の騎士が狂乱して長剣を振り上げ、近くの若鹿の首筋を狙って斬り下ろした。
しかし、その刃が鹿の毛並みに届くことはなかった。
上空から閃光のような白銀の影が舞い降りたのだ。
――バシュッ!
迎撃テラスから一足飛びに跳躍してきたシロの鋭い前足が、振り下ろされた長剣の側面を正確無比に払いのけた。
キィィン! と甲高い音を立てて、聖銀の剣身が根元から真っ二つに折れ飛ぶ。
そしてシロは着地と同時に、威嚇の超低周波放電をその騎士の足元に向けて放った。
バチチチチッ!
強烈な青白い電撃が凍土を走り、騎士の全身の筋肉を硬直させる。
白目を剥いた男は、痙攣しながらその場に棒立ちとなり、最後は自重を支えきれずに泥の中へと崩れ落ちた。
シロがオオツノジカの主の前に立ち、互いに鼻先を近づけた。
主は穏やかに荒い鼻息を一つ吐き出し、巨大な頭を低く下げてシロに敬意を示した。
シロもまた、喉の奥でグルルと短く鳴らし、森の仲間たちの奮戦を称えるようにその豊かな尾を大きく振った。
迎撃テラスから階段を降りてきたアルトが、防壁の扉を開けて雪原へと歩み出た。
その手には、作業用の皮手袋と、一握りの粗塩が入った革袋が握られていた。
「ありがとう、みんな。助かったよ」
アルトが優しく声をかけながら革袋を広げると、オオツノジカの主は嬉しそうに耳を前後に揺らし、ざらりとした温かい舌でアルトの手のひらから塩を舐め取った。
周囲の若鹿たちも、アルトの周囲に集まり、鼻先を彼の肩や腕にすり寄せて甘えた声を漏らす。
百頭を超える野生の巨獣たちが、家族のように一人の人間に寄り添い、親愛の情を示している。
泥まみれになって這いつくばる聖銀騎士たちにとって、それは信じがたい悪夢以外の何物でもなかった。
「な、なぜだ……? 野生の魔獣が、人間に懐くだと……? どんな禁断の使役魔導を使ったというのだ……」
泥沼に腰まで浸かり、震える声で呟いたのは、先ほどまで偉そうに号令を下していた騎士団長だった。
アルトは主の首筋を優しく撫でながら、冷徹な視線を騎士団長へと向けた。
「魔導なんて使っていませんよ。去年の冬、大雪で草が枯れて飢えていた彼らに、僕が塩と干し草を分けただけです。春には角の怪我を手当てして、夏には森の小川を整備して綺麗な水を飲めるようにした。ただそれだけの積み重ねです」
「そ、そんな些細なことで……!? 獣が生意気にも恩返しのために軍団を組織して戦うなど、あり得るはずがない!」
「あなた方には理解できないでしょうね」
アルトの声は、冬の氷のように澄み渡り、そして静かだった。
「奪うことと、従わせることしか知らないあなた方には、分かち合うことの意味がわからない。彼らは僕の奴隷でも兵器でもない。この境界の森で共に生きる、大切な隣人です。我が家を土足で荒らしに来た略奪者を排除するのは、森の住人として当然の選択ですよ」
アルトの淡々とした言葉は、どんな罵倒よりも深く騎士たちの胸を刺した。
最新鋭の魔導技術、皇帝と教皇の権威、莫大な軍事予算。
それらを誇らしげに掲げてやってきた自分たちが、少年の差し出した一握りの塩と、日々の丁寧な暮らしの積み重ねの前に、完膚なきまでに敗北したのだ。
退路は完全に遮断されていた。
背後にはオオツノジカ軍団が青銅の角をずらりと並べて威嚇し、前道には底なしの泥炭沼と重力バリスタの照準が待ち受けている。
そして中央には、雷光を帯びた白銀の神狼と、冷静沈着な少年職人。
「……ま、参った。降伏する……! 武器を捨てるから、命だけは助けてくれ!」
一人の若い騎士が、震える手で聖銀の剣を雪の上に投げ出した。
その音を合図にするかのように、生き残っていた騎士たちが次々と剣や槍、盾を投げ捨て、両手を高く掲げて泥の上に跪いた。
帝都が誇る無敵の聖銀騎士団は、結界の門を一歩も跨ぐことなく、完全に武装解除されたのだ。
「シロ、彼らを泥炭沼の浅瀬に集めて、動かないように見張っていてくれるかい?」
シロが「ウォフ」と短く吠え、オオツノジカの主と共に騎士たちの周囲をぐるりと取り囲んだ。
青白い電撃の威嚇と巨鹿たちの重い鼻息に挟まれ、騎士たちは身動き一つできず、ただ寒さに歯をガチガチと鳴らしながら縮こまるしかなかった。
地上部隊の完全無力化。
だが、戦いはまだ終わっていなかった。
遥か上空――荒野の吹雪を熱気で焼き焦がしながら、全高三十メートルを超える自律型巨神機ギガンテスが、轟然と大地を踏み鳴らして迫っていた。
ドォォォォォン……!
巨神機の胸部に埋め込まれた紅蓮のマナ水晶が、不気味な脈動を繰り返す。
操縦席に座る教皇ベネディクトの狂気じみた絶叫が、外部拡声魔導器を通じて吹雪の中に響き渡った。
「無能な豚どもめ! 獣ごときに怯えて降伏するなど、神の軍勢の名折れぞ! ええい、まとめて焼き払ってくれるわ! 星の心臓部ごと、この森のすべてを消滅させよ!」
巨神機の巨大な両腕が天空へと掲げられる。
その掌と胸部コアから、眩い黄金と真紅の魔力光が幾重にも収束し始めた。
大地が悲鳴を上げ、大気がオゾン臭で満ちていく。
先ほど放たれた荷電粒子砲を遥かに凌駕する、星の破壊兵器としての真の主砲が、秘密基地の防護ドームへと照準を合わせようとしていた。
アルトは跪く騎士たちに一瞥もくれず、素早く身を翻して迎撃テラスへと駆け戻った。
その足取りに乱れはなかった。
地上戦の完全制圧は、あくまでも前座に過ぎない。
真の決戦は、あの古代の負の遺産――神を騙る機械人形の解体にある。
「さあ、おいで、教皇様。僕たちの秘密基地の『本当の力』を、見せてあげるよ」
アルトは工作棟の階段を一気に駆け上がり、温室の最上階へと向かった。
そこには、昨夜からシロの放電と大樹の循環水流によって極限まで研磨され、ジンバルマウントに据え付けられた超大型魔導水晶凸レンズが、静かにその出番を待っていた。
太陽の光と、星の鼓動。
自然の力を極限まで集約した光学兵器が、狂乱の巨神機を迎え撃つために青白い光を宿し始めていた。




