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第013話:枝の上の床板、初めての水平

十二段のステップ階段を登りきった先に広がる空間。

 そこは、古代の巨木が数百年、数千年の歳月をかけて育て上げた、大自然の奇跡的な舞台だった。


 地上四メートルの高さ。

 大樹の主幹から、東、南、西へと向かって三本の巨大な横枝が分岐し、その中央に畳三枚分ほどの扇形の空間がぽっかりと口を開けていた。

 枝の太さはどれも大人の胴回りほどもあり、表皮には深緑のビロードのような苔がびっしりと群生している。三本の枝は互いに交差し、天然の三脚のように強固なバランスを保っていた。

 だが、その大枝の隙間から下を覗き込めば、遥か四メートル下の地面とゴツゴツした岩肌が容赦なく見下ろせる。

 枝の表面は丸太のように湾曲し、足を踏み外せば一瞬で虚空へと投げ出される危険と隣り合わせだった。


「ここに、絶対に滑らない、真っ平らな『水平の床』を張るんだ」


 アルトは腰に巻いた命綱を幹のコブにしっかりと結びつけ、地上を見下ろした。

 根元では、シロがアルトの作業を心配そうに見上げている。

 床を作るには、膨大な資材が必要だった。

 三本の枝の間に渡す太い「梁(はり)」となる丸太が三本。

 そして、その梁の上に敷き詰める、厚みのある「床板」が少なくとも十枚以上。

 アルトはまず地上へと降り、森の奥深くへと資材探しの探索を広げた。


 原生林の沢沿いには、過去の台風や豪雪で倒れた無数の巨木が横たわっていた。

 アルトが選んだのは、風倒木となって数年が経ち、適度に乾燥しながらも芯の腐っていない「天然のスギ(杉)」と「ヒノキ(檜)」の倒木だった。

 スギやヒノキは木目が真っ直ぐに通っており、小刀と木の楔(くさび)を使えば、繊維に沿って綺麗に縦に割り裂くことができる。

 アルトは倒木の幹に小刀で縦の切れ目を入れ、そこにカシの硬い楔を打ち込んだ。

 カンッ、カンッ、カンッ!

 木槌で楔を打ち込むたびに、ピキピキと木目に沿って亀裂が走り――パカッ!と見事な厚さ三センチ、幅二十センチ、長さ一間(約一・八メートル)の天然の厚板が剥がれ落ちた。

 これを繰り返し、アルトは丸二日をかけて、十枚の杉板と、梁用の太いカシの丸太三本を切り出した。


 板の表面には、樹皮や毛羽立ちが残っている。

 アルトは小刀の刃を立ててカンナのように削り、さらに川原から拾ってきた硬い砂岩のブロックで丹念に水研ぎをして、素足で歩いてもトゲが刺さらない滑らかな木肌へと仕上げた。

 削り節から立ち上る、スギとヒノキの清々しい芳香が、少年の疲れた鼻腔を優しく癒やしてくれた。


 だが、本当の難関はここからだった。

 重さ十キロを超える重い板材と丸太を、地上四メートルの樹上へとどうやって運び上げるのか。

 一枚ずつ抱えてステップ階段を登るのは、バランスを崩して転落する危険があまりにも高すぎる。

 アルトが編み出したのは、都市の荷揚げ作業で目にした「滑車(動索)」の知恵だった。


 大枝のさらに二メートル頭上にある頑丈な枝に、ツル縄を通す。

 縄の擦れによってツルが切れないよう、枝と縄の接地面には作業着の切れ端を分厚く巻きつけて潤滑層を作った。

 地上で板材を縄でしっかりと結束し、アルトは樹上の足場から、もう片方の縄を両手で手繰り寄せる。

 ギチ、ギチ、ギチ……

 テコの原理と滑らかな摩擦によって、地上にあった重い板材が、フワリと宙に浮き上がり、空中を舞うようにして樹上へと引き上げられていく。


 一枚、二枚、三枚。

 作業は順調に進んでいるように思えた。

 だが――最も重い、梁用のカシの太丸太を引き上げていたその時だった。


 突如、森の谷底からゴオッという突風が吹き抜けた。

 吊り上げられていた重い丸太が空中で大きく揺れ、頭上の枝の角に激しく打ち付けられた。


 ――バチンッ……ギチチチッ!


 耳をつんざくような、不吉な繊維の破断音。

 丸太の角に擦れたツル縄の三つ編みのうち、二本の束が摩擦熱と衝撃荷重で一瞬にして弾け飛んだのだ。

「しまっ……!?」

 アルトが叫ぶ間もなく、残った一本の繊維が悲鳴を上げ、吊り荷がガクンと一メートル急降下した。

 その猛烈な下方向の衝撃に引っ張られ、ロープを握りしめていたアルトの身体が、前方の虚空へと引きずり出された。


 足が枝から離れる。

 視界がぐるりと天地反転し、四メートル下のゴツゴツとした岩肌と尖った切り株が、眼前に迫り来る。

 ――落ちる!

 背筋を凍りつくような冷気が駆け抜け、死の予感が少年の脳裏を白く染めた、その刹那だった。


 ――グイイイイッ……ッ!!


 右足のズボンの裾に、信じられないほどの強烈な牽引力がかかった。

「キャンッ! ギギギギッ……!!」

 シロだった。

 いつの間に樹上へ登っていたのか。アルトの背後の幹の窪みに控えていた小さな白い相棒が、アルトのズボンの裾を小さな牙で必死に噛み締め、四本の足を踏ん張って、全体重をかけて後ろへ引っ張っていたのだ。

 子犬の体重など、アルトの身体に比べればほんの数分の一に過ぎない。

 けれど、その命懸けの一瞬のブレーキが、アルトの身体の落下軌道をほんの数寸だけ内側へと引き戻した。

 そのコンマ数秒の猶予が、すべてを分けた。


「うおおおおっ!!」


 アルトは左腕を限界まで伸ばし、横枝から生えていた太いコブを無我夢中で引っ掴んだ。

 右足が空を切ったが、左腕の筋肉を千切れんばかりに引き絞り、足場の大枝へと這い上がった。

 切れたロープの先の丸太は地上へと落下し、ドスゥンッ!と地響きを立てて地面にめり込んだ。


 アルトは激しく波打つ心臓を押さえ、荒い息を吐きながら枝の上にへたり込んだ。

 全身から滝のような冷汗が吹き出していた。

 振り返ると、そこには息を乱し、前足の爪から血を滲ませながら、心配そうにアルトの顔を見つめるシロの姿があった。

 顎をガクガクと震わせ、けれどその金色の瞳には、アルトを助け出せたことへの確かな安堵の光が宿っていた。


「シロ……っ、お前が……助けてくれたのか……?」


 アルトは震える両腕で、小さな白い身体を力いっぱい胸に抱きしめた。

 涙が溢れ、止まらなかった。

「ありがとう……ありがとう、シロ……! お前がいなかったら、僕、今頃死んでたよ……!」

 シロはアルトの濡れた頬に冷たい鼻先を押し当て、クゥン、クゥンと甘えた声を漏らしながら、アルトの涙を温かい舌で優しく舐め取った。

 一人ではない。

 この子はただ守られるだけの存在ではない。自分を命懸けで救ってくれる、対等の相棒なのだ。

 二人の魂の絆は、この樹上の危機を経て、絶対に壊れない鋼の絆へと昇華していた。


 アルトは恐怖をねじ伏せ、再び立ち上がった。

 今度はロープを新しい二重構造にし、樹皮への布当てをさらに厳重にして、慎重に残りの丸太と板材を引き上げた。


 そして――いよいよ【水平の床張り】の工程に入った。

 大枝の自然な起伏の上に、どうやって完璧な水平面を作り出すか。

 アルトが取り出したのは、川原の泥の中から拾い上げていた、小さな「琥珀色のガラス瓶」だった。

 瓶の中に清水を八分目まで満たし、コルク代わりに木の枝を削った栓をきつく押し込む。

 瓶を横に倒すと、水の中に一つの小さな「空気の泡(気泡)」が浮かび上がった。

 ――即席の水準器だ。

 平らな面に置けば、気泡はちょうど瓶の中央に留まる。傾いていれば、気泡は高い方へと逃げていく。

 古代の石工たちが使っていた、流体力学による水平測定器。


 アルトは三本の大枝の上に、梁となるカシの丸太を三角形に渡した。

 そして丸太の上に水準器のガラス瓶を置き、気泡の位置を凝視した。

「……西側が二寸低いな」

 アルトは低い枝と梁の間に、削り出した木の枕木を噛ませ、ミリ単位で高さを微調整していった。

 気泡が、琥珀色のガラスのちょうど真ん中でピタリと静止する。

 完璧な水平だ。


 位置が決まると、アルトは三つ編みのツル縄を使い、大枝と丸太を【千鳥編み(クロスラッシング)】で何十重にも縛り上げた。

 さらに縄の結び目に硬い木の楔を打ち込んで極限まで締め上げる。

 梁がビクとも動かないことを確認すると、その上に、十枚のスギの厚板を順に並べていった。


 板と板の継ぎ目には、小刀で凹凸を彫り込んで互いを噛み合わせる「実矧ぎ(さねはぎ)」の細工を施した。

 一枚ずつ、隙間なく押し込んでいく。

 そして――最後の一枚を中央の隙間にあてがい、両足でドスンと踏み込んだ。


 ――カチリッ!


 木と木が完璧に噛み合い、吸い付くような澄んだ音が、夕暮れの森に響き渡った。

 板と板の間には、紙一枚通らないほどの精度。

 広さ二畳半。

 地上四メートルの空中に、大地と寸分違わぬ、完璧な【天空の水平デッキ】が誕生した瞬間だった。


「できた……! 完成したぞ!!」


 アルトは歓声を上げ、削りたてのスギの床板の上に、大の字になって倒れ込んだ。

 滑らない。

 足がすくむこともない。

 大地と同じように、手足を思い切り伸ばして寝転がることができる。

 シロがアルトの胸の上に飛び乗ってきて、二人は夕暮れの空を見上げた。

 頭上には、赤く染まる夕焼け空と、エメラルドグリーンの若葉の天蓋。

 梢を吹き抜ける風が、二人の額の汗を心地よく拭い去っていく。


 その時だった。

 床板を通して、大樹の主幹の奥深くから――アルトの背中へと、微かな振動が伝わってきた。


 ――トクン……


 深く、重く、温かい脈動。

 まるで、巨大な星の心臓が、大地の底で静かに鼓動したかのような響き。

 アルトは息を呑み、胸の上のシロを見た。

 シロもまた耳をピンと立て、金色の瞳を大樹の幹の奥へと向けていた。

 気のせいではない。

 自分たちが作ったこの床は、ただの木の上ではなく、太古から生き続ける巨人の温かい腕の中に抱かれているのだと、アルトは直感していた。


 だが、日没とともに、冷たい夜風がビューッと吹き抜けた。

 床はできたが、まだ壁も屋根もない吹き曝しのデッキだ。

 風が直接吹き付ければ、夜の冷え込みに耐えられない。雨が降れば、せっかくのデッキが水浸しになってしまう。


「シロ、床はできた。でも、これだけじゃまだ『部屋』じゃないね」


 アルトはシロの頭を撫でながら、微笑んだ。

「次は、雨風を防ぐ屋根と壁だ。そして……外の光を取り込める、綺麗な窓を作ろう!」


 シロが「ワンッ!」と嬉しそうに応えた。

 二畳半の水平デッキの上に、世界で一番温かい我が家を建てる――建築の第2幕が始まろうとしていた。

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