第012話:一段目のステップ、大地を見下ろす視線
大樹の頭上を越えて垂れ下がった一本のツル縄。
それは地上と天空の大枝を結ぶ最初の架け橋だったが、縄が一本あるだけで木登りができるわけではなかった。
十一歳の少年の腕力では、ロープ一本に掴まって地上四メートルまで腕力だけでよじ登ることなど到底不可能だ。途中で握力が尽きれば、真っ逆さまに地面へ転落してしまう。
安全に、確実に、そして将来的にシロを抱えたり重い資材を担いだりしながらでも日常的に昇り降りできる「常設の階段」を作らなければならなかった。
「大樹の幹を螺旋状に登るステップ階段……これを作るんだ」
アルトは大樹の前に立ち、その雄大な幹の凹凸をじっと観察した。
太古から生き続ける巨木の樹皮は、厚さ数寸にも達する深い縦の溝と無数のコブに覆われている。
手元にあるのは小刀一本だけで、釘やかすがいのような鉄の金具は一本もない。
だからこそ、木そのものの形状を利用し、木と縄の摩擦力だけで全体重を支える構造を編み出す必要があった。
アルトはまず、素材となる「ステップ材」の調達に向かった。
適当な倒木を使ってはならない。腐朽が進んだ脆い木を使えば、登っている最中に体重がかかって真っ二つにへし折れる恐れがある。
選んだのは、森の奥の急斜面で見つけ出した、落雷か強風で折れて間もない「シラカシ(白樫)」の太枝だった。
カシの木は木材の中でも群を抜いて密度が高く、繊維が緻密で、硬質さと粘りを兼ね備えている。人間の体重が一点に集中しても絶対に折れない強靭さを持っていた。
アルトは小刀を両手で握り、大人の前腕ほどの太さがあるカシの枝を、長さ一尺半(約四十五センチ)に切り揃えていった。
ギコギコ、ギコギコ……
カシの繊維は鉄のように硬く、刃先がなかなか入っていかない。
手のひらに水膨れができ、親指の付け根が引きつるような痛みに襲われる。
それでもアルトは焦らず、枝の円周に沿って小刀の切っ先で均一に深い切れ込みを入れていった。一周ぐるりと切れ込みが入ったところで、平らな大石の上に枝を置き、上から別の丸石を力いっぱい打ち下ろす。
バキンッ!
心地よい炸裂音とともに、美しい木肌を覗かせてカシの枝が両断された。
これを繰り返し、全部で十二本の頑丈なステップ材を切り出した。
切り出した丸太には、職人的な細工を施した。
幹に接する側の面は、大樹の幹の丸みにぴったりと沿うように、小刀で緩やかな逆アール(凹面)に削り込む。これによって、幹に当てたときに左右へガタつくのを防ぐことができる。
人間が足を乗せる上面は、丸太の皮を平らに削り落とした上で、小刀の切っ先で斜めの格子状に無数の溝(滑り止めグルーブ)を刻み込んだ。雨の日や朝露で靴底が濡れていても、決して足が滑らないようにするための工夫だ。
さらに、丸太の両端には、ツル縄が滑り落ちないよう、深さ五ミリほどの「掛け溝」を全周にわたって彫り込んだ。
「よし、資材の加工は完了だ」
アルトは先ほど頭上の大枝に回したツル縄の片端を、自分の腰に三重に巻きつけ、しっかりと結び合わせた。
即席の「安全ハーネス(命綱)」だ。
万が一足場を踏み外しても、ロープが張って地面への墜落を防いでくれる。
足元では、シロがアルトの作業をじっと見守っていた。
「シロ、危ないから根元の枯れ葉のところで見ててね」
そう言い聞かせると、シロは言いつけを守るようにちょこんと座り、金色の瞳を丸くしてアルトを見上げた。
アルトは一本目のカシのステップを手に取り、地上から三十センチの高さにある大樹の幹の窪みにあてがった。
そして、三つ編みのツル縄をステップの両端の掛け溝に通し、大樹の幹の円周をグルリと回して、力いっぱい締め上げた。
――ギチッ、ギチギチッ……!
縄が樹皮に食い込む。
だが、ただ縄で縛っただけでは、上から体重がかかった時にステップが下へズリ落ちてしまう。
ここでアルトが繰り出したのが、都市の木組み工法で学んだ【割り楔】の技法だった。
ステップと縄の隙間に、硬いカシの木で作った三角形の平たい木の楔を二本差し込み、手にした石でガンガンと力任せに打ち込んだのだ。
カンッ、カンッ、カンッ!
楔が深く食い込むにつれて、ツル縄の張力は極限まで跳ね上がり、ステップ材は大樹の樹皮の凹凸にまるで元から生えていた枝であるかのように完全に噛み合って固定された。
アルトは息を呑み、その一段目のステップに、恐る恐る片足を乗せてみた。
――トンッ。
靴底を通して伝わってくるのは、大地を踏みしめた時とまったく変わらない、圧倒的な剛性感だった。
両足を乗せ、全体重を預けて軽く膝を屈伸させてみる。
きしみも、たわみも、ズレも一切ない。岩のように頑丈だった。
「いける……! 完璧だ!」
アルトの胸に、熱い自信がこみ上げた。
少年は手を休めることなく、二段目、三段目とステップを取り付けていった。
一段ごとの高さを約三十センチ。
大樹の幹の自然な曲面を活かし、右へ、左へと螺旋を描くようにして足場を配置していく。
四段目。
五段目。
六段目。
七段目のステップに足をかけた時、アルトの足元はすでに地上二メートルを超えていた。
ふと、アルトは足を止め、背後を振り返った。
――息を呑んだ。
大人の背丈よりも遥かに高い位置から見下ろす世界。
さっきまで自分が立っていた大樹の洞の入り口、丁寧に組んだ石のカマド、小川へと続く泥の小道が、まるで小さな箱庭のように足元に広がっていた。
地上を這う重く湿った冷気が完全に足元から消え去り、森の梢を渡る初夏の爽快な風が、汗ばんだアルトの額をサラサラと撫でていく。
大樹の根元で、シロが首をめいっぱい上に向けて、アルトの姿を見上げていた。
「キュウッ! キャンッ!」
少し心配そうに、けれど誇らしそうに、尻尾を千切れんばかりに振って跳ねている。
「シロ、見て! 僕、こんなところまで登れたよ!」
アルトが手を振ると、シロは嬉しそうに一声鳴いた。
恐怖などなかった。
都市の防壁の中で、いつも大人たちに見下ろされ、怒鳴られ、縮こまっていた少年が、今、生まれて初めて自分の手と足だけで「高い場所」へと登り詰めていた。
その視界の広がりは、少年の魂を縛り付けていた劣等感の鎖を、音を立てて断ち切っていくようだった。
アルトは再び前を向き、さらに上を目指した。
八段、九段、十段、十一段――
幹を一周半する螺旋階段を登りきり、最後の十二段目に足をかけた瞬間。
アルトの手が、地上四メートルに水平に張り出した、巨大な二股の大枝の背中に触れた。
よいしょ、と身体を引き上げる。
アルトはついに、地上四メートルの大枝の上に、両足でしっかりと立ち上がった。
「登りきった……! 本当に、登りきったんだ……!」
目の前に広がっていたのは、言葉を失うほどの絶景だった。
頭上を覆うのは、無数のブナやカシの若葉が重なり合って光を通す、エメラルドグリーンの天蓋。
梢の間からは抜けるような青空が覗き、遠くには森の境界線の外側にそびえる、オルディスの冷たい灰色の城壁の先端さえかすかに見渡すことができた。
あの息の詰まる街とは完全に隔絶された、美しく誇り高い天空の世界。
大樹の枝を吹き抜ける風は清らかで、甘い花の蜜と若葉の芳香を含んでいた。
だが――突風がゴオッと吹き抜けた瞬間、アルトの足元がツルリと滑り、身体が大きくよろめいた。
「わっ……!?」
心臓が喉から飛び出そうになり、アルトは無我夢中で大枝の幹にしがみついた。
冷や汗が全身から噴き出す。
足元を見下ろして、アルトは息を呑んだ。
大枝の太さは確かに大人の胴体ほどもあり、頑丈そのものだ。
しかし、その表面は丸太のように曲面を描いており、雨露を吸った青苔がびっしりと生えていて、酷く滑りやすかった。
さらに、自然の枝ゆえに複雑な凹凸やコブが連なり、平らな面などどこにも存在しなかった。
立っているだけでも足首の腱に常に無理な緊張がかかり、一歩踏み外せばそのまま地上四メートルの奈落へと滑落してしまう。
「……枝の表面が丸いままじゃ、ここで暮らすことなんてできない」
座って休息を取ることもできない。
道具を置けば転がり落ち、シロを抱き上げて乗せれば滑って落ちてしまう。
ましてや、ここで安心して身体を伸ばして眠ることなど、絶対に不可能だった。
アルトは大枝の三方に広がる分岐点を見渡した。
大樹の主幹から、東、南、西へと向かって、三本の太い横枝がほぼ同じ高さで扇形に伸びている。
その三本の枝が囲む空間の広さは、およそ二間四方(約三・六メートル四方)。畳にして四畳半ほどの広さがあった。
「あそこだ……あの三本の枝の上に、梁を渡して……」
少年の頭の中で、建築の構想が急速に組み上がっていった。
枝の丸みに直接立つのではない。
三本の枝の間に頑丈な横木を渡し、その上に平らな板材を隙間なく敷き詰めるのだ。
大地と同じように、足を滑らせる心配もなく、安心して大の字に寝転がれる「水平な床」。
それさえ作ることができれば、この大枝の上は地上で最も安全な、誰にも侵されない聖域になる。
「待っててね、シロ。今降りるからね」
アルトは安全を確かめながら、新しく設置した十二段のステップ階段を一歩一歩、確実に踏みしめて地上へと降りていった。
地面に足がついた瞬間、シロが歓声を上げるように駆け寄ってきて、アルトの膝に飛びついてきた。
アルトはシロを抱き上げ、地面の乾いた土の上に小刀の先で簡単な設計図を描き始めた。
「シロ、次は板材集めだ。大枝の上に、僕たちのための真っ平らな床を張るんだ!」
シロは図面を熱心に覗き込み、「ワンッ!」と嬉しそうに吠えた。
空への階段は架かった。
次はいよいよ、天空の我が家の基盤となる「水平な床」を敷き詰める、大工仕事の幕開けだった。




