第128話:一握りの施しもせず_完全なる無関心の拒絶
迎撃テラスの上に立つアルトの姿は、春の柔らかな日差しを浴びて、静謐な陰影を刻んでいた。
吹き荒れる極寒の吹雪は、結界の膜に阻まれてテラスまでは届かない。
風に揺れるのは、アルトの亜麻色の前髪と、シロの純白のたてがみだけだった。
「ア、アルト……! 本当に、アルトなのか……!?」
泥水に膝まで浸かったマルクスが、震える両手を泥炭から引き抜き、テラスを見上げて叫んだ。
その顔は、凍傷と恐怖で青黒く引きつり、かつて大聖堂で見せていた尊大な威厳など見る影もなかった。
「生き……生きていたのか! おお、神よ! 奇跡だ! 私だ、お前の恩師であるマルクス教授だぞ! 覚えているだろう、お前に文字を教え、帝国の魔導学院に籍を置いてやった、あの恩師の私だ!」
マルクスは必死に顔を歪めて笑みを作ろうとした。
だが、その引きつった口元から漏れるのは、ただの浅ましい媚びへつらいの声だけだった。
その横から、泥まみれの代官も鉄条網にすがりつき、喚き立てた。
「そうだ、アルト君! 私だ、街の代官のヴォルフだ! 君が追放された時、私は内心では反対していたのだよ! すべては帝国上層部の命令だったのだ! 君の才能を、私はずっと信じていた! さあ、早くその鉄条網を開けてくれたまえ! 君の育てたこの森の暖炉で、私たちを温めてくれ!」
代官は懐から泥にまみれた紙束を取り出し、震える手で掲げた。
「見ろ、これは帝国の市民権回復書だ! 君を直ちに上級貴族に推挙する! 街の豪邸も、莫大な領地も、望むだけの爵位もすべて授けよう! だから早く、その温かいスープとパンを寄越すんだ! 指が、指がちぎれそうだぁぁっ!」
商人たちも口々に叫び、泥炭の中から拾い集めた金貨や宝石の入った袋を掲げた。
彼らはアルトがかつて無力な子供であったことを思い出し、適当な甘言と空手形をちらつかせれば、簡単に言いくるめて森の扉を開けさせられると信じ込んでいたのだ。
だが――
テラスの上から彼らを見下ろすアルトの表情は、一ミリたりとも動かなかった。
怒りも、嘲笑も、復讐に燃える激昂もなかった。
そこにあったのは、道端に転がる泥まみれの小石を一瞥するかのような、冷え切った「完全なる無関心」だった。
「……恩師、ですか」
アルトの静かな声が、テラスから涼やかに響き渡った。
叫び狂っていた大人たちの声が、その凛とした声音に圧されるように、ぴたりと止まった。
「僕が魔力適性判定で光を出せなかった時、あなたは何と言いましたか?」
アルトは淡々と、感情を交えず、淡々と過去の事実を告げるように口を開いた。
「『魔力を一滴も生み出せない出来損ないのゴミめ』『帝国に寄生するだけの穀潰しに、食べるパンなどない』……そう言って、僕が冬を越すために拾い集めた小枝と、手作りの木製細工を靴で踏み砕いて笑ったのは、マルクス教授、あなたでしたね」
「そ、それは……! あれは、お前を鍛えるための、厳しい教育の一環でだな……!」
マルクスが狼狽し、脂汗を泥の上に流しながら言い訳を並べ立てようとする。
だが、アルトはその見苦しい言葉を、静かな一言で遮った。
「そして代官様。『自分の力で生きられないゴミは消えろ』と、雪山行きの馬車に僕を押し込み、錆びたナイフ一本だけを放り投げて扉を閉ざしたのは、あなたでしたね。孤児院に届けられるはずだった支援金を着服し、豪邸を建てていたあなたが、僕に『寄生虫』と言い放ったあの光景を、僕は今でも覚えています」
「ぐっ……! そ、それは規則で……!」
代官の言葉が喉に詰まった。
アルトの双眸は、ただどこまでも澄み切っていた。
感情を荒らげることすら、この大人たちに対しては無駄な浪費だと知っているかのように。
「あなた方は、手軽な魔導の力に溺れ、大地から命を奪い尽くして贅沢を貪り、奪う力がなくなった者を容赦なく踏みにじって捨ててきた。そして今、自分たちの作った魔導炉が自滅した途端、僕が生きるために血の滲む思いで耕したこの場所を奪おうとしている」
アルトは腰の工具帯から、一本の使い古した木工ノミを静かに引き抜き、手元で軽く回して見せた。
「僕は雪山で、ナイフ一本から始めました。火を起こすために掌の皮を擦りむき、寒さをしのぐために土を掘り、獣の皮をなめして靴を縫い、木を一本ずつ組んで、シロと一緒にこの家を建てました。あなた方は、他人の富や命を奪うこと以外に、自分の手で何を生み出せますか? その泥にまみれた手で、誰かの腹を満たすパンを一つでも焼いたことがありますか?」
痛烈な問いかけが、荒野の吹雪を切り裂いた。
マルクスも、代官も、商人たちも、ぐうの音も出ないまま顔面を蒼白にして沈黙した。
彼らには何一つなかったのだ。
魔力炉という巨大な他人の力に寄生し、他者を踏み台にして得た偽りの権力以外、自分自身の力で生きる知恵など、何一つ持ち合わせていなかった。
「ここは、僕とシロの家です」
静かだが、鋼のように硬質な宣誓だった。
「自分の手で木を切り、石を積み、種を蒔き、寒さと飢えを乗り越えて築き上げた、僕たちの居場所です。他人の命を奪うことしか知らない人たちに、分け与える薪も、スープも、一片のパンもありません」
「な……何だとぉっ!?」
マルクスが絶望と怒りに顔を真っ赤にして叫んだ。
「お、恩知らずめが! 誰のおかげでここまで大きくなれたと思っている! お前のような孤児を拾って育ててやったのは、我ら帝国社会ではないか! 大人に向かって何たる口の利き方だ! 中に入れろ! 入れろと言っているんだぁぁっ!」
「そうだ! この傲慢な餓鬼め! 兵士たちよ、何を突っ立っている! 鉄条網を切り倒せ! 実力行使で奪い取るんだ!」
代官の号令に、泥炭沼の後方に控えていた数名の護衛兵士たちが、震える手で抜き身の大剣を構えて鉄条網へと突撃しようとした。
だが――
ガルルルル……ッ!
シロがテラスの手すりに前脚をかけ、天を突くような低い威嚇の唸り声を響かせた。
その瞬間、背中の銀線がカッとまばゆい蒼雷の光を放った。
バチバチバチィッ!
不可視の高圧電磁パルスが、境界線の外郭を薙ぎ払った。
兵士たちが手にしていた鉄の大剣が、急激な誘導加熱によって真っ赤に白熱化する。
「ぎゃあああっ!? 熱い、手が焼ける!」
「武器を捨てろ! 持っていられん!」
兵士たちは悲鳴を上げ、真っ赤に焼けた剣を泥水の中へと投げ捨てた。
ジュウウゥゥッと白い水蒸気が立ち上り、武器は泥炭の底へと深く沈んでいった。
完全なる武装解除。
自然の摂理と科学の理の前に、人間の粗雑な暴力など、子供の戯言にすらならなかった。
「次の一歩を踏み越えたら、泥炭沼の底へ沈むことになります」
アルトは冷ややかに告げた。
「命が惜しければ、武器をすべて捨てて、今すぐここから立ち去ってください。僕たちは、あなた方に復讐するつもりもありません。ただ……二度と、僕たちの視界に入らないでください」
そう言い残すと、アルトは躊躇なく背を向けた。
もはや一秒たりとも彼らに視線を向けることはなく、背を向けて扉の閂を下ろすその動作こそが、絶対の断絶を示していた。
「アルト! アルトぉぉぉっ! 待ってくれ! 見捨てるな! 頼む、パンをくれぇぇっ!」
マルクスが泥炭に顔を擦り付け、土下座の姿勢でみっともなく泣き叫んだ。
代官もまた、泥まみれの金貨の袋を抱きしめたまま、雪の上に突っ伏して絶望の呻き声を漏らしていた。
背後にいた一般の平民たちも、かつて自分たちを虐げていた権力者たちの無様な姿を、冷たい蔑みの目で見つめていた。
かつて少年に向けた冷酷な言葉が、何倍もの重みを持つ因果応報の刃となって、彼らの心臓を抉り取っていた。
マルクスたちは泥炭の中から立ち上がることすらできず、手足の感覚を失いながら、這うようにして後方の吹雪の中へと後退していくしかなかった。泥の中にばら撒かれた無数の金貨は、冷たい氷雪の下へと永遠に埋もれていった。
だが、背を向けて回廊を戻っていく少年の足取りは、どこまでも軽やかで、一度たりとも振り返ることはなかった。
ツリーハウスの暖かいリビングへと戻ったアルトは、駆け寄ってきたシロの逞しい首筋を両腕で力いっぱい抱きしめた。
シロは喉の奥をごろごろと重低音で鳴らし、アルトの頬を温かな鼻先で優しく擦り寄せてきた。
ふと、アルトは部屋の中央に立つ大黒柱の前に立ち止まった。
そこには、追放された年の冬、凍える手で刻んだ「十一歳」の拙いナイフの傷跡がある。
アルトは指先でその傷跡をそっと撫でた。
「もう……何も怖くないよ」
あの雪山で泣いていた幼い自分に、アルトは心の中で静かに語りかけた。
奪われるだけの子供だった時代は、完全に終わったのだ。
薪ストーブの心地よい爆ぜる音と、石窯から漂うパンの甘い香り。
過去の亡霊たちとの決別を果たした少年の瞳には、これからの未来を切り拓く、揺るぎない光だけが宿っていた。




