第127話:泥に塗れる元恩師と役人たち_境界線への逃避行
ピューゥゥゥ……――!
吹き荒れる猛吹雪の音を切り裂き、泥炭沼の薄氷を踏み割る鈍い音が、荒野の境界線に響き渡った。
バシャッ! ズブブブブッ……!
「ぎゃあああっ! 足が、足が抜けん!」
「泥だ! 底なしの泥炭だ! 押すな、後ろから押すなと言っているだろうが!」
境界線の鉄条網まであと五十メートルの地点。
かつてアルトが築き、帝国軍の装甲車をも呑み込んだ「泥炭地の底なし沼トラップ」に、避難民の先頭集団が次々と足を踏み入れていた。
寒波の冷気で表面だけが数センチの薄氷で覆われていたため、彼らは硬い地面だと錯覚して雪崩れ込んだのだ。
だが、氷の下に広がっていたのは、大樹の地脈熱で温められ、どこまでも深くドロドロに溶けた黒い泥炭の海だった。
足を抜こうともがけばもがくほど、泥炭は長靴を吸い込み、膝、太もも、そして腰へと容赦なく絡みついていく。
「助けろ! 誰か手を引っ張れ!」
「離せ、貴様! 私の外套を掴むな! 引きずり込まれるだろうが!」
泥水に腰まで浸かった役人たちが、互いの衣服を掴み合って罵声を浴びせ合っている。
かつて街で権勢を誇り、仕立てのよい高級な毛皮を着ていたはずの大人たちが、いまや顔中を黒い泥炭に汚し、みっともなく手足をバタつかせていた。
彼らが必死に抱えていたのは、飢えをしのぐ食糧でもなければ、寒さを防ぐ毛布でもなかった。
帝都や街の金庫から強奪してきた、ずっしりと重い黄金の延べ棒や、革袋に詰め込まれた無数の帝国金貨だった。
チャリン、チャリン、ジャラララッ!
泥炭に足を取られて前のめりに転倒した商人の腕から、破れた革袋が滑り落ち、何百枚もの金貨が黒い泥水の中へとぶちまけられた。
金貨は重みで瞬時に泥炭の底へと沈んでいく。
「ああっ! 私の金が! 私の全財産が沈むぅぅっ!」
商人は血相を変えて泥水の中に頭まで突っ込み、泥を両手ですくい上げながら泣き叫んだ。
だが、その指の間から零れ落ちるのは、ただの生温かい泥炭と腐葉土のヘドロだけだ。
背後から押し寄せてきた別の役人が、泥まみれの商人の頭を踏み台にして鉄条網へと這い上がろうとする。
かつて法と秩序を語っていた帝国のエリートたちの姿はそこにはなく、飢餓と寒波の恐怖に理性を失った、浅ましい獣の群れそのものだ。
ズザザザッ……!
泥だらけになって鉄条網の支柱にすがりついたのは、かつてアルトに追放処分書を突きつけた街の代官だった。
そのすぐ横で、四つん Celebratingして泥から這い上がってきた老人が、激しい咳き込みとともに顔を上げた。
かつてアルトの魔導教師であり、「無能」の烙印を押して雪山へと放逐した元恩師マルクスだ。
「ハァッ……ハァッ……! こ、ここだ……! 間違いない、ここが境界の森だ……!」
マルクスは充血した目を剥き出しにして、目の前に広がる光景を見上げた。
鉄条網の向こう――わずか数歩先の世界。
そこには、猛吹雪の風も届かず、雪の一片すら落ちてこない、奇跡のような新緑の森が広がっていた。
エメラルドグリーンの光脈が巨木の幹を優しく巡り、そよ風が春の花の甘い香りを運んでくる。
境界線のすぐ内側に立つブナの枝には、柔らかな緑の若葉が萌え出で、陽だまりのような温かい空気が漂っていた。
「あ、温かい……! 本当に、ここだけ寒波が届いていないんだ……!」
代官が狂喜の声を上げ、泥にまみれた両手を鉄条網の隙間から森の空間へと差し入れた。
冷え切って感覚の麻痺していた指先に、二十度を超える春の空気が触れる。
その瞬間、代官の顔に浮かんだのは、安堵ではなく、猛烈な強奪の欲望だった。
「門を開けろ! 誰かいないのか! 早くここを通せ!」
「そうだ、我らは帝国の高級官吏だぞ! この森の緑を、我が帝国のために提供しろ!」
彼らは鉄条網を力任せに揺さぶり、金切り声を張り上げた。
だが、大樹の根が編み込まれた頑丈な境界柵は、微動だにしない。
マルクスは懐から、泥まみれになった布袋を引っ張り出し、鉄条網の向こうの地面へと叩きつけるように投げ込んだ。
ジャラァァァンッ!
袋の口が裂け、中から眩い光を放つ金貨と、宝石を散りばめた黄金の懐中時計が転がり出た。
「おい、見ろ! 金だ! 金ならいくらでもある! 百枚……いや、千枚でも払ってやる! 中に通して、暖炉の火とパンを寄越せ!」
「食料だ! 温かい肉とスープを今すぐ持ってこい! 貴族である私を誰だと思っている! 言う通りにすれば、爵位を与えてやってもいいぞ!」
商人や役人たちも我先にと、泥水から拾い上げた金貨や銀の指輪を鉄条網の向こうへ投げ入れた。
彼らの頭の中では、金さえ払えば世界中のどんなものも手に入り、どんな人間も自分たちの前に跪くという、帝都の傲慢な価値観がそのまま生きていた。
だが――散らばった金貨は、青々とした苔の上に落ちても、森の土を温めることも、木の枝からパンを生み出すこともない。
ただの冷たい金属片として、地面に虚しく転がっているだけだ。
サワサワサワ……――
森の奥からは、春風が木々の葉を揺らす静かな葉擦れの音しか返ってこない。
大人たちの怒声と哀願が、吹雪の音にかき消されていく。
誰も出てこない。誰も金貨を拾おうとしない。
完全な沈黙。
「な、なぜ誰も出てこんのだ……! 貴様ら、帝国の高官を無視する気か!」
「火だ……火をくれ……指が、指が凍りついてちぎれそうだ……!」
金が通用しないと知った瞬間、大人たちの傲慢な叫び声は、急速に情けない泣き言へと変わっていった。
寒波の猛威は容赦なく彼らの体温を奪い続けている。
濡れた衣服は泥炭ごとガチガチに凍りつき、唇は紫色に変色し、顎がカタカタと激しく鳴っていた。
境界線の向こうには、手を伸ばせば触れられる距離に天国のような温もりがあるというのに、その境界面を越えることができない。
半年前、大聖堂の暖かい暖炉の前で、上等な白ワインを傾けながらアルトを嘲笑っていた記憶が、皮肉な幻影となってマルクスの脳裏を焼き尽くしていた。
あの時、自分たちが雪山へと蹴り飛ばした「無能」の絶望を、いま自分たち自身が何倍もの濃度で味わわされていたのだ。
その時――
トントン、トントン……
大樹の枝を繋ぐ空中回廊の上から、軽やかな足音が響いてきた。
鉄条網にすがりついていたマルクスたちが、すがるような目で一斉に顔を跳ね上げた。
「だ、誰か来たぞ……!」
「おお、救助か! 早く門を開けてくれ!」
回廊の先端――地上十メートルの高さにそびえる迎撃テラスの手すりに、一人の人影が姿を現した。
革の作業着の上にエプロンを締め、腰の工具帯にノミや真鍮レンチを差した、凛とした佇まいの青年。
その背丈は逞しく伸び、かつて栄養失調で青白かった頬には健康的な血色が宿り、その双眸は澄んだ湖のように深く静まり返っていた。
そして、その隣には――雪よりも白く、サファイアの瞳を静かに光らせた、巨大な白銀の狼が悠然と佇んでいた。
「あ……あいつは……?」
マルクスが泥にまみれた眼鏡を指で拭い、目を凝らした。
代官もまた、口を半開きにしてテラスの青年を見上げた。
その瞬間、マルクスの息が喉の奥で引き攣った。
「アル……ト……? ば、馬鹿な……あ、あの時の、無能の小僧だと……!?」
かつて雪山に捨てられたはずの「出来損ないのゴミ」。
死んだとばかり思い込んでいた無力な子供が、いま、見上げるテラスの上で、この常春の聖域の主として彼らを見下ろしていた。
その姿には、かつての大人の暴力に怯える影など微塵もない。
自らの腕一本で拠点を築き上げ、自然の猛威を調律し、神話の狼を相棒に従えた、揺るぎない開拓者の威厳が満ち満ちていた。
「シロ、少しだけ威嚇して」
アルトが小さく呟くと、シロが一歩前へと進み出た。
フンッ!
シロが短く鼻を鳴らした瞬間、背中の銀線から目に見えない微弱な電磁パルスが全方位へと放射された。
ジジジッ!
マルクスたちの首や指に嵌められていた金鎖や指輪、泥の中に散らばった金貨が急激に静電気を帯び、バチバチと青い火花を散らした。
「ぎゃあああっ!? 熱い、痛い!」
「ひ、ヒィィィッ! 狼だ! 列車砲を噛み砕いたという、あの怪物が……!」
大人たちは悲鳴を上げて金貨から飛び退き、腰を抜かして泥水の中に尻餅をついた。
泥まみれの大人たちの顔に、信じがたい動揺と、底知れぬ恐怖が広がっていった。
かつて少年をゴミのように踏みにじった者たちが、いま、見上げるその少年の足元で、泥に塗れてガタガタと震えていた。
アルトは迎撃テラスの手すりにそっと右手を乗せ、荒れ狂う吹雪の境界面の向こうで震える彼らを、感情の波風一つ立てずに静かに見つめた。
かつて自分を絶望の淵に追いやった大人たちの惨めな姿。
だが、その瞳に浮かんでいたのは、復讐の快感などではなかった。
ただ、この境界線を守り抜くという、絶対的な審判者の冷徹な光だけだった。




