第126話:黒い吹雪と、温かな境界線
東の地平線が真っ黒な魔導煙に呑み込まれてから、半日が経過した。
午後を回ると、境界の森の外郭を囲む荒野には、この世の終わりを告げるような黒い猛吹雪が吹き荒れていた。
ヒュオオオオオオオッ! ゴオオオオオッ!
地獄の底から吹き上げるような凍てつく風の咆哮。
視界はわずか数メートル先さえも見通せず、吹き荒れる灰色の雪と氷の粒が、荒野の岩肌をヤスリのように削り取っていく。
気温は氷点下二十五度。
吐き出した息が一瞬で凍りつき、小鳥が飛べば羽を凍らせて墜落するような、死の絶対零度だ。
外郭にわずかに生えていた低木はバリバリと音を立てて氷漬けになり、泥炭の沼地は分厚い氷の板へと変わり果てていた。
かつて帝国の装甲列車が敷設した鉄条網の鉄線は、極度の低温で脆化し、突風に煽られてパキパキと音を立てて破断していた。
だが――その地獄の猛吹雪は、境界の森の境界線を一歩たりとも踏み越えることができなかった。
サワサワサワ……――
地上十メートルの見張り台から下を見下ろすアルトの瞳に映っていたのは、信じがたいほど鮮烈な世界の境界線だった。
境界線の鉄条網の外側では、吹き荒れる吹雪が轟音を立て、地面を白と黒の氷雪で覆い尽くしている。
しかし、境界線の内側――四本の大樹がそびえ立つ聖域の中は、そよ風が若葉を揺らし、木漏れ日が地面の柔らかな苔を照らす、気温二十度の穏やかな春そのものだ。
「すごいね……境界線のところで、雪が完全に消えてる」
アルトが手すりから身を乗り出して呟くと、シロがアルトの足元に大きな前脚を揃えて座り、静かに耳を澄ませた。
結界の境界面――空気中に薄いシャボン玉の膜のように張られたエメラルドグリーンの力場に、外からの黒い吹雪が衝突する。
すると、氷点下二十五度の氷粒も、有毒な魔導灰の煤煙も、境界面に触れた瞬間、パチパチと淡い燐光を散らしながら、一瞬でサラサラとした無害な霧へと還元されて消え去っていた。
主軸ジェネレーターの覚醒によって強化された、空間歪曲フィールド。
それは単に外敵の物理攻撃を跳ね返すだけでなく、外界の気温差や有毒物質を熱力学的に中和し、内部の生体環境を完全に独立して保つ「絶対隔離テラリウム」の役割を果たしていた。
大樹の根元を流れる星の地脈は、外界の暴走エネルギーを外郭で巧みに受け流し、むしろ結界の強度を維持するためのエネルギー源として逆利用していたのだ。
結界の内側では、小鳥たちがシラ樫の枝先でピチピチと楽しげにさえずっている。
足元の床下からは、地下の地熱と温水パイプが放つ温もりが心地よく立ち上り、アルトは薄手の革の作業着一枚で十分に快適だった。
ツリーハウスの台所からは、石窯で焼き始めた全粒粉パンの香ばしい匂いと、干し肉と根菜をコトコトと煮込むポトフの湯気が漂ってくる。
アルトはいったん見張り台からリビングのキッチンへと戻り、火加減を確認した。
鉄鍋の蓋を開けると、黄金色のスープがクツクツと音を立てて煮詰まっている。
温室で初収穫したばかりの甘いニンジンと小玉ねぎ、保存用の乾燥ハーブ、そして冬の間に燻製工房で丁寧にスモークした鹿肉の角切り。
スプーンですくって味見をすると、肉の濃厚な旨味と野菜の滋味が舌の上に広がり、身体の芯まで温かさが染み渡った。
石窯からは、こんがりと焼き色のついたパンを取り出し、木製のブレッドボードの上でザクザクと切り分ける。
シロの前には、特大の深皿に盛られた熱々のポトフと、肉厚な干し肉が用意された。
「シロ、外を監視しながら、温かいスープを食べようか」
アルトが声をかけると、シロは嬉しそうに尻尾を振り、見張り台の木製ベンチの横に陣取った。
二人は湯気立つスープを口に含みながら、外の極寒地獄を静かに見つめた。
半年前、追放されたばかりのあの日が思い出される。
擦り切れた麻布の服一枚で雪山に放り出され、凍傷で紫に変色した手足を引きずりながら、たった一本の錆びたナイフを握りしめていた。
木の枝を擦り合わせて火種を作るのに半日を費やし、吹き込む隙間風に震えながら、冷たい雪を舐めて飢えをしのいだあの過酷な冬。
生き延びるために流した汗と涙のすべてが、いま、この揺るぎない聖域と温かい食事となって結実していた。
外の世界の絶対零度と、この秘密基地の常春。
目と鼻の先、たった数十センチの空間を挟んで、地獄と楽園が完全に断絶されていた。
やがて、アルトは首から提げた真鍮の望遠鏡を手に取り、接眼レンズを目に当てた。
倍率を最大まで絞り、猛吹雪が渦巻く荒野の彼方へと視線を凝らす。
ザッ……ザッ……ザッ……
雪煙を切り裂くように、黒い影が揺れていた。
一つや二つではない。
十、二十、五十……百を超える無数の人影が、猛吹雪の吹き荒れる荒野の中を、這うようにしてこちらへと進んでいた。
彼らはボロボロの防寒具を身にまとい、顔を布で覆い、強風によろめきながら、境界の森のエメラルドグリーンの光を目指して必死に足を前に出していた。
「……避難民だ」
アルトの眉がわずかに寄った。
望遠鏡の視界の中で、先頭を歩く集団の姿が拡大される。
彼らは粗末な毛皮を幾重にも巻き付け、雪まみれの大きな革袋を抱えていた。
だが、その列の様子はあまりにも醜悪だった。
身なりの良い貴族や役人たちが、従者や平民を風除けの盾にするように背後から押しやり、倒れ込んだ老人や子供を踏みつけにして先を急いでいる。
手にした荷物を奪い合い、雪原の中で小競り合いを演じる姿さえも見えた。
その顔つきは、寒さへの恐怖に引きつり、飢えで頬がこけ、目だけが異様な血走った狂気の光を宿している。
先頭を歩く男の胸元には、見覚えのある銀の鎖と、帝国の地方官吏を示す紋章章が揺れていた。かつてアルトに追放処分書を突きつけた街の代官だ。
そして、そのすぐ後ろで、泥炭のぬかるみに足を取られて転び、雪の上に這いつくばっている老人の顔――
「あっ……」
アルトの喉が、微かに引き結ばれた。
望遠鏡の円形の視界の中、泥と雪にまみれて惨めに顔を上げたその老人は――かつてアルトに「無能」の烙印を押し付け、雪山へ放り出す決定を下した男、魔導教師マルクスだった。
あの日、大聖堂の暖かい暖炉の前で、上等な白ワインを口に含みながら、アルトを虫けらのように見下していた傲慢な男。
『お前のような出来損ないは、森の獣の餌にでもなるのがお似合いだ』と吐き捨て、アルトの荷物を雪の吹きだまりへと蹴り飛ばした男。
いま、その男は、かつて見下したその森を目指し、凍傷で黒く変色した指先で雪を掻きむしりながら、死に物狂いで這い進んでいた。
金貨の詰まった革袋を首から下げているが、その重みで腰を痛め、立ち上がることすらできずに雪の上を這いずり回っている。
「マルクス元恩師……それに、街の代官たちだ」
アルトの低い呟きを聞きつけたシロが、テラスの手すりから身を乗り出し、低く「グルルル……」と喉を鳴らした。
シロのサファイアの瞳が、侮蔑と警戒の色を帯びて鋭く細まる。
シロもまた、アルトを傷つけ、雪山で死の淵へと追いやった者たちの匂いを、決して忘れてはいなかったのだ。
背中の銀線がチリチリと青白く発光し、いつでも迎撃できる態勢に入っている。
「シロ、まだ威嚇しなくていいよ。彼らが境界線にたどり着くまで、見届けよう」
アルトは静かにシロの頭を撫でた。
その声には、怒りの昂ぶりも、復讐の快感もなかった。
ただ、荒れ狂う自然の摂理の前に暴かれた、人間の愚かしさを冷徹に見つめる、澄み渡った静けさだけがあった。
荒野を進む大人たちの列は、境界線の鉄条網まで、あと数百メートルの距離へと迫っていた。
だが、その手前には、アルトがかつて築いた泥炭地の沼地トラップが待ち構えている。
吹雪の寒気で表面だけが薄氷で覆われているが、大樹の地脈の温もりによって底は決して凍らない、底なしの泥炭地獄だ。
吹雪の中で力尽き、雪の中に倒れ込んで動かなくなる者も出始めている。
だが、生き残った者たちは、倒れた仲間を振り返ることもなく、ただエメラルドグリーンに輝く境界の森の暖かさだけを求めて、泥炭沼の縁をよろめきながら前進を続けていた。
かつて少年を絶望の淵へと突き落とした大人たちが、いま、自らの足で因果応報の審判の場へと歩みを進めていた。
死の極寒と、命の常春。
その境界線において、過去の因縁が、いま静かに交錯しようとしていた。
アルトは空になったスープ皿を木製テーブルに置き、工具帯のベルトのバックルをカチリと締め直した。
隣ではシロが、口の周りを綺麗に舐め終え、銀色に光る双眸を荒野の侵入者たちへと真っ直ぐに向けて立ち上がった。
二人は見張り台の木製ハシゴを降り、樹上の吊り橋を渡って、境界線を真正面に見下ろす迎撃テラスの最前線へと静かに歩みを進めていった。
すべてを奪おうとした過去の亡者たちと、すべてを自分の手で作り上げた少年。
凍てつく風の唸り声の中、冷徹な対峙の時が刻一刻と近づいていた。




