第125話:帝都の空が割れる日_魔導炉の暴走臨界
境界の森から東へ数百キロメートル――ガレリア帝国の心臓部たる帝都グラナダは、かつて大陸で最も栄華を誇った近代魔導文明の頂点だった。
天を衝く白亜の摩天楼。整然と区画された石畳の大通り。夜さえも昼のように照らし出す無数の魔導街灯。
豪奢な馬車が行き交い、最新式の魔導列車が黒煙を上げて大陸各地から富と資源を運び込むその大都市は、永遠の繁栄を約束されているかのように見えた。
大学府の講義室では、魔導貴族の子息たちが豪華なビロードの長袍を身にまとい、魔法こそが世界を統べる唯一の理だと高らかに論じ合っていた。
だが、その繁栄のすべては、地下深くから星の血液を吸い上げる巨大な心臓――【中央魔導炉・第一号基】の稼働によって支えられていたに過ぎない。
その帝都の空が、ある朝、突如として紫黒色の亀裂とともに引き裂かれた。
ズズズズズ……ドォォォォンッ!
地割れのような重低音が大地を揺らし、帝都の中心部にそびえる高さ百メートルを超える魔導炉の排気塔から、禍々しい紫色の稲妻が噴水のように噴き上がった。
大気を震わせるサイレンの絶叫。
皇宮の最上階、金箔と紅絹で飾られた謁見の間では、皇帝フレデリック四世が豪奢な玉座から転がり落ち、金モールの軍服を震わせながら怒声を張り上げていた。
「何事だ! 何が起きた! 技師長を呼べ! 直ちに炉の出力を安定させよ!」
血相を変えて謁見の間に転がり込んできたのは、煤まみれの白衣を着た帝国最高魔導技師だった。
その顔面は蒼白を通り越し、死人のように土気色に変色している。
「へ、陛下……! だ、駄目です! 地脈からのエネルギー吸入圧が、突如としてゼロになりました……! それどころか、西の境界の森方面から、清浄な原初マナの逆流波が押し寄せております!」
「逆流波だと……!? あの忌々しい第7軍団はどうした! 境界の森を制圧し、大樹の資源を強奪したはずではないのか!」
「しょ、将軍閣下の軍団は……全滅です! 列車砲も装甲列車も、すべて森の防衛結界と白い天狼によって灰燼に帰したとの急報が……!」
「な、何だとぉぉぉっ!?」
皇帝の絶叫が広間にこだまする。
だが、絶望の知らせはそれだけにとどまらなかった。
「さらに、地脈の逆流によって中央魔導炉の触媒核が熱暴走を起こしております! 炉内に溜まっていた高濃度の魔力廃液が限界圧力を超え、もはや緊急停止レバーも作動いたしません! あと数分で……炉心が臨界爆発を起こします!」
「馬鹿な……! 我が帝国が……世界を統べる余の帝国が、滅びるなどと……!」
ドォォォォォォォォンッ!!!!
皇帝の言葉を遮るように、大地が跳ね上がった。
帝都の中央魔導炉が、内側から吹き飛んだのだ。
白亜の装甲壁が紙風船のように破裂し、何千トンもの鋼鉄と耐火レンガが粉々に砕け散って空へと吹き飛んだ。
立ち上ったのは、ただの炎ではない。
何千年分もの大地からの搾取によって濃縮された、ドロドロとした紫黒色の「魔導毒素の津波」だった。
ヒュオオオオオオオオッ!
爆発の衝撃波が帝都全域を薙ぎ倒した。
摩天楼のガラスが一斉に粉々に砕け散り、街灯の柱が飴細工のようにへし折れる。
中央駅では、発車を待っていた魔導列車が爆風で脱線して横転し、高圧魔導ボイラーが火を噴いて黒煙を上げた。
大学府の研究棟では、かつてアルトに「無能」の判子を押し付けた元恩師マルクスが、天井から崩落した石材の下敷きになりながら、泥水をすすって悲鳴を上げていた。
そして、空高く吹き上がった紫黒色の有毒噴煙は、太陽の光を完全に遮り、帝都の上空を真夜中よりも暗い闇で覆い尽くした。
ゴオオオオオオ……!
空から降ってきたのは、雨ではなかった。
大気中の熱エネルギーを一瞬で奪い去る、氷のような「魔導灰の猛吹雪」だった。
気温計の針が、狂ったように下がり始める。
十度、五度、零度、マイナス十度、マイナス二十度――
真夏のように暖かかったはずの春の帝都が、たった一時間の間に、生命の生存を許さない絶対零度の氷地獄へと変貌していったのだ。
「ひ、ヒィィィッ! 寒い! 凍える!」
「火をつけろ! ストーブはどうした!」
「駄目だ、魔導コンロが動かない! 魔導石が全部、灰になって砕け散った!」
逃げ惑う貴族や市民たちの悲鳴が、凍てつく突風にかき消されていく。
これまで帝国の人間たちは、手軽な魔導エネルギーに溺れ、薪を割り、火を起こし、自らの手でパンを焼くという基本的な生きる術を完全に忘れていた。
魔導炉が停止した瞬間、彼らは極寒の雪山に放り出された赤子同然の存在に成り果てたのだ。
豪奢な毛皮を奪い合って貴族同士が泥沼の乱闘を演じ、銀行の前では金貨を詰め込んだ金庫をめぐって役人たちが銃を撃ち合っている。
だが、その金貨の重みこそが、雪の上に倒れた身体を立ち上がらせない死の重石となった。
どれほど山のような黄金を持っていても、寒さをしのぐ一本の薪にも、凍傷を癒す一滴の薬草湯にも代えられない。
金貨は、ただ冷たく凍りついた路上に散乱し、風に舞う雪の下へと埋もれていくだけだった。
「西だ……! 西の境界の森へ逃げろ!」
「あそこには大樹がある! 緑が生き残っている!」
誰かが叫んだその絶望の叫び声に、生き残った兵士や役人、貴族たちが雪崩を打って西の街道へと殺到した。
かつて「棄民のゴミ捨て場」と見下し、無能の少年を追放したあの境界の森だけが、いまや全大陸で唯一、生命の温もりを保ち続けている最後の希望の地となっていたのだ。
その頃――境界の森のツリーハウス。
見張り台に立ったアルトは、真鍮の望遠鏡を目に当て、東の空をじっと見つめていた。
春のそよ風が吹く森の暖かさとは裏腹に、東の地平線は、インクを流し込んだような不気味な黒紫色の雲に覆われ、激しい雷光が瞬いていた。
「……始まったんだね」
アルトが低く呟くと、隣に座るシロが低く喉を鳴らした。
シロのサファイアの瞳もまた、東から吹き寄せてくる不穏な大気の乱れを鋭く捉えていた。
地下のコンソールが告げていた「二十八日の猶予」。
だが、第7軍団の壊滅と地脈バイパスの開通が引き金となり、帝国の崩壊は予測よりも遥かに早く、破滅的な連鎖となって現実のものとなった。
「帝都の魔導炉が吹き飛んだんだ。あの黒い雲は、大地から奪った熱を吐き出しながら凍りつく、毒の寒波だ」
アルトは望遠鏡の倍率を上げ、東の境界線の荒野へとレンズを向けた。
地平線の向こうから、黒い猛吹雪を背に受けながら、無数の黒い点――雪と泥にまみれて這うように進む人間たちの列が、境界の森を目指して押し寄せてくるのが見えた。
かつてアルトに追放を宣告した街の役人たち、利権を貪っていた豪商たち、そして傲慢な貴族たち。
彼らは飢えと寒さに震え、泥炭の沼地に足を取られながら、境界の森の緑に向かって必死に手を伸ばしていた。
「シロ、迎撃テラスの点検に行こう。備えを完璧にしておかないとね」
アルトは望遠鏡を腰のホルスターに収め、シロを伴って迎撃テラスへと向かった。
テラスの樫の木の手すりには、重力滑車バリスタが据え付けられている。
アルトは麻糸と腱を撚り合わせた極太の弦に指をかけ、親指で弾いて音を確かめた。
ビィィィン……!
澄んだ高い金属音が返ってくる。テンションに狂いはない。
矢筒に収められた特大の徹甲銛は、聖銀騎士団の大剣を溶かし直して鍛造した耐魔白銀鋼の特製品だ。
鏃の刃先は剃刀のように鋭く研ぎ澄まされ、青銅のガイド溝には菜種油がたっぷりと注がれていた。
さらにアルトは、手元の真鍮の操作盤を覗き込み、四本の大樹が張る空間歪曲力場の共鳴周波数をチェックした。
主軸ジェネレーターからの清浄な電力供給により、エメラルドグリーンの防護ドームは安定した出力波形を描いている。
外界の毒の吹雪がどれほど吹き荒れようと、この森の結界を侵食することはできない。
「僕たちを捨てた人たちが、今度は僕たちの家を求めてやってくる」
アルトは静かに呟き、シロの純白の首筋に手を添えた。
その双眸には、恐怖も、動揺もなかった。
ただ、この半年間、生きるために血の滲むような思いで土を耕し、木を組み、シロと築き上げてきた聖域を、断固として守り抜くという冷徹な決意だけが宿っていた。
自分たちを捨てた者たちが、今度は救いを求めて押し寄せてくる。
だが、アルトの心は、あの凍える雪山で一度死んだ時に、すでに揺るぎない覚悟を固めていた。
他人の命を奪うことしか知らない者たちに、渡す居場所など、この森のどこにもない。
アルトは革の手袋をぐっと引き締め、腰の工具帯のノミとナイフの位置を確かめた。
シロもまた、アルトの決意に応えるように、純白の巨躯を低く沈め、力強い爪先で樫のデッキをしっかりと踏みしめた。
背中の銀線から、微かな静電気の青い燐光がチリチリと火花を散らす。
吹雪の唸りが東の地平線から轟く中、手作りの要塞都市は、静かに、そして完璧な迎撃態勢を整えて侵入者の来訪を待ち受けていた。




