第115話:跪く帝国将軍、「貴様は何者だ」
ヒューゥゥゥゥ……――
冷たい夕暮れの風が、荒野に立ち込める白い過熱蒸気と黒煙をゆっくりと吹き払っていった。
西の空に沈みかけた太陽が、赤錆色の大地を長く薄暗い影で覆っていく。
そこは、わずか数十分前まで帝国最強を誇っていた大軍勢の、無惨な墓場だった。
ねじ曲がった超広軌のレールの上で、横倒しになって黒煙を噴き上げる三編成の重装甲列車。
中央から無惨にへし折れ、飴細工のようにくの字に曲がった口径八百ミリの列車砲『グングニル』。
千名の兵士たちは泥炭の上にへたり込み、装甲を脱ぎ捨て、機能停止した武器を地面に投げ出して、ただ茫然自失の表情で虚空を見つめていた。
誰一人として立ち上がろうとする者はおらず、誰一人として銃を構え直そうとする者もいなかった。
戦意という概念そのものが、あの天狼の一声によって綺麗さっぱり消滅してしまっていたのだ。
同時に、兵士たちの胸を満たしていたのは、奇妙なまでの安堵感だった。
あの絶望的な咆哮を浴びながら、自分たちの命は奪われなかった。
手足は繋がり、心臓は動いている。
怪物は、自分たちの命ではなく、ただ「暴力の道具」だけを完全に奪い去っていったのだ。
その鉄屑の真ん中で、一人、泥炭の上に膝を突き、折れた軍刀の柄を泥に突き刺して震えている男がいた。
シュタインメッツ中将。
豪奢を極めた金モールの軍服は泥水と機械油でドロドロに汚れ、胸の勲章は千切れ飛び、誇り高き白髪は煤で真っ黒に染まっていた。
数々の小国を蒸気甲冑の足元で踏み躙り、灰燼に変えてきた歴戦の司令官。
その男の喉からは、ヒュー、ヒュー、と引き攣った呼吸音だけが漏れ出していた。
ガラガラガラ……――
その時、静寂を破って、軽やかな滑車の音が頭上から響いてきた。
「ひっ……!?」
中将が怯えたように顔を上げた。
大樹の天蓋から地上へと斜めに渡された一本の細いスチールワイヤー。
そのワイヤーを伝って、小さな木製の空中トロッコが、滑らかに荒野の境界線へと滑り降りてきたのだ。
ゴンドラが地面すれすれでピタリと止まり、中から「それ」が降り立った。
ザッ、と泥炭を踏みしめたのは――粗末な鹿革のモカシンだった。
膝当てのついた作業用のズボンに、道具袋をぶら下げた鹿革のエプロン。
年齢は、どう見ても十三か十四歳。
まだ幼さの残る顔立ちの、小柄な少年だった。
手には銃も剣も持たず、腰の革袋にノギスと真鍮のコンパスを挿しているだけの、無防備な姿。
そしてその隣には、肩高二メートルを超える純白の巨狼――先ほど天空を裂いたあの神話の天狼が、従順そうに寄り添って歩いていた。
少年と巨狼は、千名の帝国兵が息を呑んで見つめる中、静かに泥炭を踏みしめて前進してきた。
そして、跪くシュタインメッツ中将の前、わずか三歩の距離で足を止めた。
「な……っ……」
中将の瞳が、狂乱と混乱に激しく揺れ動いた。
現れたのが、身の丈十メートルの大魔導師や、全身を神話の鎧で固めた古代の王であれば、まだ理解できた。
だが、千名の機甲軍団を無血で壊滅させ、列車砲をへし折った絶対の主が――作業着を着た、ただの人間の子供だったのだ。
「き、貴様……貴様は、何者だ……!?」
中将は血走った目を剥き出しにし、震える指先を少年へと向けた。
声は恐怖と悔しさで裏返っていた。
「子供の姿に化けた……太古の神の化身か!? それとも、帝国の技術を嘲笑うために現れた、星の怪物か……!? 名を名乗れ! 我が帝国第7機甲軍団を、一人の血も流さずに完膚なきまでに叩き潰した……貴様の、真の名は何なのだぁぁぁっ!!」
中将の絶叫が荒野に木霊した。
周囲の兵士たちも、息を殺して少年の唇を見つめていた。
誰もが、神話の神名や、伝説の古代皇帝の名が告げられることを確信していた。
だが――少年、アルトは、静かに首を横に振った。
その澄んだ琥珀色の瞳には、傲慢さも、勝利の嘲笑も、復讐の憎悪すらもなかった。
ただ、自らの足で大地を踏みしめ、自らの手で生き抜いてきた者だけが宿す、静謐で揺るぎない光が宿っていた。
「神でも、化身でもありません」
アルトの声は静かだった。だが、荒野の隅々にまで澄み渡るように響いた。
「僕は、昨年の秋に街の孤児院から『魔力なしの無能』と蔑まれて追い出された、ただの子供です」
「な……に……?」
中将の思考が完全に凍結した。
「雪が降る森の中で、凍え死にそうになりながら、シロと一緒に洞窟でスープを分け合い、春を待ちました。冬が明けてから、木を伐り、石を運び、滑車を架けて、二人で生きていくための場所を作りました。温室で野菜を育て、水車で小麦を挽いて、ただ今日を生きるために工夫を重ねてきただけです。ここは……僕とシロが、自分たちの手で作り上げた、ただの『秘密基地』です」
「ひ、秘密基地だと……!? あの神話の巨城が……ただの子供の、隠れ家だというのか……!?」
「そうです」
アルトは真っ直ぐに中将を見据えた。
「僕たちは、誰かを支配したいわけでも、帝国の領土を奪いたいわけでもありません。ただ、この場所で、自分たちの手でご飯を食べ、シロと一緒に静かに暮らしたいだけです。でも――僕たちの居場所を暴力で奪おうとするなら、僕たちは全力でそれを守ります」
アルトは腰の道具袋から、小さな木製の小瓶を一つ取り出し、中将の前の泥炭の上へと静かに置いた。
温室の月見草と鎮静香草から精製した、手作りの治癒軟膏だ。
「火傷を負った兵士たちがたくさんいます。その軟膏を塗れば、痛みが引いて傷が塞がります。――動ける者から順に、怪我人を支えて、森の外へ引き返してください。そして二度と、僕たちの世界に足を踏み入れないでください」
淡々と告げられたその言葉と、差し出された一つの薬瓶。
そこには、あらゆる軍事力や帝国の法を根底から無力化する、圧倒的な「不可侵の真理」と「生命への慈悲」が存在していた。
文明の傲慢、軍事の狂気、大国の覇権――それらすべてが、自給自足の砦を守る少年の誇りの前には、ただの哀しい独善に過ぎなかったのだ。
「あ……あああ……」
シュタインメッツ中将の喉から、崩壊の音が漏れた。
折れた軍刀が手から滑り落ち、ドロリとした泥水の中に沈んでいく。
かつて無敵を誇った帝国軍の最高司令官は、泥炭の上に両手を突き、額を泥に擦り付けながら、子供の足元に完全に平伏した。
「全軍……武器を捨てよ……! 負傷者を担ぎ……速やかに撤退せよ……!」
中将の絞り出すような号令が荒野に響いた。
「境界の森に……手を出してはならぬ……! あそこには……触れてはならぬ、星の理がある……!」
その号令を皮切りに、千名の帝国兵たちは、壊滅した兵器の残骸を捨て置き、軟膏を分け合って負傷者を背負いながら、西の地平線へと向かって静かに敗走していった。
二度と、この境界の森を侵略しようとする者は現れない。
少年の毅然とした名乗りと慈悲が、境界の森に完全な「絶対不可侵の平和」を永遠に刻みつけたのだ。
やがて、荒野から人の気配が完全に消え去った。
残されたのは、夕闇に沈む鉄屑の残骸と、清涼な夜風だけだった。
アルトは散乱する壊滅した列車砲や装甲板を見渡した。
歪んだ八百ミリ砲身の超硬質鋼、何千メートルもの純銅ケーブル、そして魔導炉から零れ落ちた高純度のマナ水晶。
侵略者にとっては無惨な敗北の墓標だが、アルトにとっては、これからの秘密基地の拡張や、来たるべき冬のための暖房配管、さらには新たな空中回廊を補強するための、天文学的な価値を持つ「宝の山」だった。
明日から、シロと一緒に少しずつ分解して運び、炉火で精錬し直そう――そう考えると、エンジニアとしての静かな創作意欲が胸を満たした。
森の境界線の木陰から、オオツノジカの主が静かに現れ、アルトとシロに向かって誇らしげに角を傾けた。
若鹿たちも森の奥へと戻り、原生林は再び、誰にも侵されない神聖な安らぎを取り戻していた。
「終わったね、シロ」
アルトが呟くと、シロは温かい鼻先をアルトの手のひらにすり寄せ、力強く喉を鳴らした。
二人は空中トロッコのゴンドラに乗り込み、ワイヤーを手繰り寄せた。
ガラガラガラ……と滑車が回り、ゴンドラは夜空へと向かって静かに上昇していく。
見上げる大樹の巨躯には、エメラルドグリーンの光脈が満天の星々と呼応するように優しく輝き、ツリーハウスの窓からは、暖かなカマドのオレンジ色の光が漏れていた。
居住棟に戻り、カマドに薪をくべると、パチパチと心地よい爆ぜる音が部屋を満たした。
温室で摘んできた鎮静香草を煮出し、採れたての濃厚な蜂蜜をたっぷり溶かしたハーブティーを二人で分け合う。
湯気の向こうで、シロが満足そうに足を投げ出して絨毯の上に丸くなり、アルトの膝に顎を乗せて目を細めた。
二人の家が、ここにあった。
すべての戦いを乗り越えた少年と白狼は、懐かしい我が家の温もりの中で、深く穏やかな呼吸を取り戻していった。




