第114話:白銀の天狼、空を裂く咆哮
地上二十メートル。
主樹トチノキの最頂点に組まれた【迎撃望遠塔】の展望デッキの欄干の上に、白銀の巨狼が音もなく降り立った。
西の空は、夕暮れの沈みゆく太陽によって、血のように濃密な紅蓮色に染まり上がっていた。
その夕焼けの残光を背に受け、シロの純白の毛並みが、燃え立つような黄金と白銀の境界色に輝いている。
大樹の梢を吹き抜ける風が、シロの豊かな冬毛を逆毛立たせるたび、毛先から青白い火花がパチパチと散り、周囲の空間に微細なオゾン臭を漂わせていた。
ピリ、ピリピリピリ……
突如として、大気中の風が完全に凪いだ。
木の葉のざわめきも、谷底の小川のせせらぎも、鳥の羽音すらも、何者かの圧倒的な気圧に押し潰されたかのように途絶える。
森を取り巻く大気中の遊離マナが、渦を巻く竜巻のように、見張り台の天辺に立つシロの一点へと猛烈な勢いで収束し始めていた。
乾燥した荒野の砂埃が静電気でふわりと空中に浮き上がり、アルトの腕の柔毛がゾクゾクと逆立つ。
「シロ……!」
地上十五メートルの迎撃テラスで、アルトは手すりの真鍮レバーを固く握りしめ、頭上の相棒を見上げた。
地下の古代コンソールからは、かつてない激しいパルス音が響き渡り、大樹の主幹を走るエメラルドグリーンの光脈が、心臓の収縮のように激しく明滅を繰り返している。
『生体ガーディアン[フェンリル]の最終励起コードを承認』
『世界樹コア・アルファ:全エネルギー供給リミッター、完全解除』
『周波数同調:アルト/シロ――百分率計測不能、完全融合状態』
頭蓋骨に響くシステム音声。
アルトの脳裏に、かつての日々の記憶が走馬灯のように駆け巡った。
雪深い洞窟で、手足を凍らせながら震えていた自分。
罠にかかって瀕死だった小さな白い子犬を抱き上げ、焚き火の温もりを分け合い、最後の乾パンを砕いてスープにして飲ませたあの夜。
春になり、二人で重い丸太を担ぎ、滑車を架け、土を耕し、基地を広げてきたすべての日々。
シロが放とうとしている力は、ただの野生の獣の威嚇ではない。
寒さと孤独の中で互いを支え合ってきた二人の魂の歴史と、大樹が地脈から吸い上げた星そのものの原初エネルギーが完全に一体化し、侵略者たちの暴力を根こそぎ無に帰すための「神話の審判」なのだ。
「やっていいよ、シロ! 思い切り、僕たちの力をあいつらに見せてやれ!」
アルトが叫ぶと同時に、手すりのバイパススイッチを底まで押し下げた。
大樹の四つの頂点から、眩い青緑色の奔流が、電光のようにシロの足元へと吸い込まれていく。
その瞬間――
ボワッッ!!!!
シロの背中から、光の翼が広がった。
幻影ではない。
純粋な高密度プラズマと凝縮された大気マナが、シロの背中を走る二本の銀線から左右へと噴き上がり、全長三十メートルを超える巨大な蒼白い光の翼を空中に形成したのだ。
シロの体躯の背後に、夕暮れの空を覆い尽くすほどの巨大な「神話の巨狼の霊影」がそびえ立つ。
その威厳は、山をも呑み込み、星を巡る天空の支配者たる神々しさを放っていた。
そして――シロが、ゆっくりと紅蓮の夕空に向かって、その顎を天高く掲げた。
胸が大きく膨らみ、肺腑の奥深くに星の息吹が満ちていく。
周囲の空気が絶対零度近くまで急激に冷却され、シロの口腔の周囲に、青白い稲妻の球体がバチバチと超高速で回転し始めた。
大気中のオゾンが凝縮され、空間の屈折率が狂って光が歪む。
次の刹那。
ウォォォォォォォォォォォォォンッッ!!!!
天空が割れた。
それは、耳で聞く音ではなかった。
空間そのものが激しく振動し、鼓膜を通り越して骨の髄、魂の奥底まで直接打ち震わせる――次元を揺るがす「天狼の咆哮」。
ドォォォォォォォォンッ!!!!
シロの口元から放たれたのは、物理的な破壊の弾丸ではなかった。
白銀の衝撃波面と、青白い超極大電磁パルス(EMP)が同心円状の巨大なリングとなって天空へと広がり、地平線に向かって光速で疾走していったのだ。
上空を覆っていた分厚い雨雲が一瞬で円形に吹き飛ばされ、夕暮れの空にぽっかりと巨大な星空の穴が穿たれる。
そして、その神話の波動は――八キロメートル彼方の荒野、帝国第7機甲軍団の本陣へと真っ直ぐに突き刺さった。
ズバババババババッ!!!!
荒野の大地が、まるで絨毯を叩いたかのように激しく波打った。
衝撃波が通り抜けた瞬間、帝国軍のすべての機械兵器が、奇怪な断末魔の絶叫を上げた。
バチバチバチバチバチッ! ドガァァァァン!
千名の装甲兵たちが構えていた連発式魔導カービン銃の薬室が一斉に青白い火花を吹き、内部の魔導信管と水晶発振器が粉々に破裂した。
兵士たちの装甲服に組み込まれた蒸気補助装置が、高周波の磁気誘導によって急激に過熱され、安全弁が次々と吹き飛んでプシューッと白い排気を吐き出しながら完全停止する。
兵士たちは自重数百キロのただの重い鉄屑となった装甲服の中で身動きが取れなくなり、次々と泥炭の上に転がり落ちた。
だが、真の破滅は、彼らが誇る鋼鉄の巨獣たちに訪れた。
ギギギ、ギギギギギギ……メキメキメキッ!
超広軌の重鉄複線レールが、地中を走る強力な誘導電流によって瞬時に赤熱化し、まるで熱せられた飴細工のように、グニャリとねじ曲がって天へと跳ね上がった。
高速で走行していた三編成の巨大な重装甲列車が、レールの破断に伴って凄まじい金属摩擦音を立てながら脱線。
ズザザザザザザッ!と泥炭の荒野を何百メートルも滑走し、次々と横倒しになって折り重なるように転覆していった。
車輪は砕け散り、装甲板は剥がれ、蒸気機関のボイラーから真っ白い水蒸気の柱が天高く吹き上がる。
そして、軍団の象徴――超巨大列車砲『グングニル』。
バキィィィィィンッッ!!!!
三十五メートルの漆黒の巨砲の砲身に、巨大な亀裂が走り抜けた。
超高密度の電磁振動によって鋼鉄の結晶構造が根本から狂わされ、自重千五百トンの巨体が悲鳴を上げながら中央からへし折れたのだ。
四基の巨大魔導炉は一瞬にしてすべてのエネルギーを強制放電させられ、内部の配線管が火花を散らしてショートし、完全に沈黙した。
山を砕くはずだった帝国の究極兵器は、一撃の砲弾を撃ち返すことも許されず、ただのねじ曲がった巨大な鉄屑の残骸へと成り果てていた。
凄まじい土煙と蒸気の噴出。
しかし――奇跡的なことに、千名を超える帝国兵の中に、死者は一人もいなかった。
シロの放った咆哮は、アルトの強い意志通り、生体組織を破壊するものではなく、金属と魔導回路だけを精密に標的とした「完全無力化の術式」だったからだ。
兵士たちは泥と煤にまみれて荒野に転がり、装甲を脱ぎ捨て、武器を失い、ただ腰を抜かして大樹のそびえる天空を見上げるしかなかった。
彼らの瞳にあったのは、戦意などではなかった。
人知を超えた自然の神話、星の守護者そのものに対峙してしまったことへの、純粋な畏怖と絶望だけだった。
完全なる制圧。
帝国最強の機甲軍団は、一人の血も流すことなく、その牙と爪を完全にへし折られたのだ。
フゥゥゥ……――
主樹の天辺で、シロが静かに息を吐き出した。
背中の光の翼が淡い粒子となって夜風に溶け、巨狼の幻影が静かに消え去っていく。
シロは見張り台から軽やかに身を躍らせ、樹上のデッキ、空中回廊、そして迎撃テラスへと、風のように降り立ってきた。
「シロ……!」
アルトが駆け寄り、両腕を大きく広げてシロの逞しい胸元へと飛び込んだ。
神話の巨狼からいつもの大きな相棒へと戻ったシロは、ふしゅうと嬉しそうに鼻を鳴らし、アルトの肩口に巨大な頭をすり寄せて、全体重を預けるようにぐりぐりと押し付けてきた。
アルトは両腕をシロの首筋に回し、密集した純白の冬毛に深く顔を埋めた。
毛並みからは、激戦の余韻であるパチパチとした微かな静電気と、朝露に洗われた森の若葉の匂い、そして陽だまりのような温かな体温が胸いっぱいに吸い込まれてくる。
シロは愛おしそうに目を細め、アルトの耳元を温かな舌でぺろりとひと舐めすると、喉の奥を重低音でゴロゴロと鳴らしながら、長い尾をバタンバタンとデッキに打ち付けた。
先ほど天空を裂いた神話の天狼と、いま目の前で子犬のように甘える白い狼。
そのどちらもが、アルトにとって何一つ変わらない、魂を分かち合ったかけがえのない唯一の家族だった。
「ありがとう……シロ。君のおかげで、僕たちの家を守れたよ」
アルトが微笑むと、シロは自慢げに「ワン!」と短く吠えた。
だが、戦いの後始末はまだ終わっていなかった。
荒野の煙と蒸気の向こうで、何かが泥炭を掻き分ける音がした。
ギィ……ギギギ……
横転した装甲列車の司令室の鋼鉄ハッチが、内側から力任せに押し開けられた。
ひしゃげた鉄板の隙間から、泥と機械油にまみれ、豪奢な金モールの軍服をボロボロに引き裂かれた一人の男が、這うようにして荒野の地面へと這い出てきたのだ。
折れ曲がった軍刀の柄を杖代わりにし、ガタガタと全身を痙攣させながら立ち上がろうとするその男――ガレリア帝国第7機甲軍団長、シュタインメッツ中将だった。
かつて冷酷無比を誇ったその顔面は、硝煙の煤と脂汗でドロドロに汚れ、周囲に散乱する千名の無力化された兵士たちと、ねじ曲がった列車砲の残骸を見回して、狂気寸前の呻き声を漏らしていた。
「シロ、行こう。あの人に、ちゃんと僕たちの言葉を伝えなきゃいけない」
アルトは迎撃テラスの手すりから、地上へと続く懸垂式空中トロッコの操作ワイヤーを引いた。
ゴンドラが滑車を鳴らして手元へと滑り込んでくる。
鹿革のモカシンを履いた十四歳の少年と、純白の巨狼。
二人は夕暮れの静寂が包む荒野へ向かって、静かに足を踏み出そうとしていた。




