第113話:砲弾を霧に変える、空間歪曲力場
誰もが、天地を裂くような大爆発を予想していた。
七・五トンの鋼鉄の塊が超音速で衝突し、山をも穿つ火薬が炸裂すれば、爆風は大樹を薙ぎ倒し、森の半分が火の海になるはずだった。
だが――
サァァァァァァ……――
起きたのは、信じがたいほどの絶対の静寂だった。
爆発も、轟音も、衝撃波の地響きすら起きなかった。
ただ、耳の奥を優しく撫でるような、春の細波に似た微かな粒子音だけが、天空から降り注いできたのだ。
地上千メートル。
テトラヘドロン絶対防護障壁の頂点に激突した八百ミリ魔導徹甲榴弾。
その赤熱化した鋼鉄の弾頭が、エメラルドグリーンのハニカム力場に触れたその瞬間――
フワッ、と弾頭の先端が輪郭を失った。
時速三千キロを超える凄まじい運動エネルギーが、力場の六角形格子を通過した瞬間に、熱力学第二法則を根底から覆すようにゼロへと変換されたのだ。
力場は運動を力で受け止めたのではない。
旧神話時代の超空間幾何学が、砲弾の進行ベクトルを虚数軸へと逃がし、同時に弾頭を構成する超硬質鋼の結晶格子と、内部に充填された魔導火薬の化学結合を瞬時に解離させたのだ。
サラサラサラサラ……
先端から尾部にかけて、七・五トンの鋼鉄の巨体が、まるで温かい水に浸された角砂糖のように、青緑色と白銀の光の微粒子へと姿を変えていく。
質量が消滅したわけではない。
山一つを吹き飛ばすはずだった破壊の質量が、大樹の生体マナ循環によって無害で純粋な光エネルギーへと完全に中和・還元されたのだ。
空を埋め尽くしたのは、息を呑むほどに美しい「光の粉雪」だった。
春の澄み渡る青空の下、何億、何兆ものエメラルドとダイヤモンドの粒がキラキラと日光を反射しながら、ゆっくりと原生林の梢の上へと降り注いでくる。
その光の粉が若葉に触れるたび、木々は喜びに震えるように新緑の色を深め、冬枯れの枝先から小さな新芽が一斉に弾け飛ぶ。
アルトが迎撃テラスの手すりからそっと手のひらを差し出すと、舞い落ちてきた光の粒が皮膚に触れた瞬間、温かい春の陽だまりのようにフッと溶け、清冽なオゾンと若草の香りが鼻腔をくすぐった。
傷ついた下草の葉脈が生き生きと蘇り、湿地帯の泥炭土からは、微細な生命の息吹を告げる白い湯気がふわりと立ち上る。
それは、死をもたらす兵器の残滓などではなく、大樹がもたらした奇跡の祝福そのものだ。
「消え……た……?」
地下樹洞の点検ハッチを押し開け、迎撃テラスへと駆け上がってきたアルトは、空を見上げて呆然と呟いた。
ツリーハウスの木枠一つ、温室のガラス一枚すら揺れていなかった。
谷底の水車は規則正しく心地よい水音を響かせ、床下の温泉パイプは適度な温もりを居住棟へ供給し続けている。
風鈴のような澄んだ音を立てて舞い落ちる光の粉雪を、シロが鼻先でフンと息を吹きかけて散らしている。
温室の隅では、巣箱のクロミツバチたちが安心したように再びブゥンと羽音を響かせ始め、プランターの野イチゴの赤い実が、光の粒子を浴びて一段と艶やかな輝きを放っていた。
森の地上では、オオツノジカの主が安堵の息を長く吐き出し、光の雪にじゃれつく子鹿たちの頭を優しく舐めていた。
完全無欠の防御。
手作りの工学と古代世界樹のシステムが、帝国の誇る最強兵器を、文字通り「命を育む光の肥料」へと変えてみせたのだ。
だが、その奇跡の光景を前に、真逆の地獄を味わっていた者たちがいた。
八キロメートル彼方の荒野。
列車砲『グングニル』の周囲を埋め尽くしていた帝国第7機甲軍団の千名を超える将兵は、誰一人として呼吸すらできずに立ち尽くしていた。
「な……な……」
シュタインメッツ中将の手から、高価な軍用双眼鏡が滑り落ち、泥の上にボトッと音を立てて転がった。
歴戦の将軍の顔は、血の気を完全に失って死人のように土気色に変色し、額からは滝のような脂汗が流れ落ちて顎を伝っている。
直撃したはずだった。
弾道計算はミリ単位で完璧だった。
それなのに、巨弾は煙を上げることもなく、木を一本へし折ることもなく――空中でただの光の塵となって消え失せたのだ。
「バカな……! あり得ん! 物理法則が狂っている! 八百ミリ徹甲榴弾だぞ!? あの弾頭一つで、大要塞の外壁すら粉砕したのだぞ!? なぜ爆発せん!? なぜ森が消し飛んでいないのだぁぁぁっ!!」
中将の狂乱の絶叫が荒野に木霊した。
周囲の兵士たちも、恐怖のあまり膝をガタガタと震わせ、武器を取り落とす者が続出していた。
彼らが信仰してきた「鉄と火薬の万能性」が、未知の神話の前に赤子のように弄ばれたのだ。
何人かの兵士は「神の御業だ……」「我々は神罰を受ける……」と讬ち、その場にへたり込んでいた。
「中将閣下! ど、どうされますか!? 撤退の指示を――」
「黙れぇぇぇっ! 第二弾だ! 第二弾を装填しろ! 魔導炉の過給リミッターを解除しろ! 森ごと、あの空間ごと吹き飛ばせぇぇぇっ!!」
中将は抜き放った軍刀を狂ったように振り回し、砲兵たちを怒鳴り散らした。
恐怖に駆られた砲兵たちが、悲鳴を上げながら予備弾のクレーンを操作する。
だが、無理な過給運転を強いられた四基の大型魔導炉は、すでに赤黒い火花を吹き、悲鳴のような高周波の蒸気音を上げていた。
ドガァァァァァンッ!!
安全装置を無視して強引に放たれた第二弾。
だが、その弾丸もまた、大樹のテトラヘドロン障壁に触れた瞬間、何事もなかったかのようにサラサラとした光の粉雪となって霧散した。
それだけではない。
超高圧のマナを無理矢理に詰め込まれた列車砲の薬室が、激しい逆流を起こしたのだ。
バリバリバリッ! ドゴォォォォン!
三十五メートルの巨大な砲身の冷却ジャケットが、内圧に耐えかねて真っ赤に破裂した。
過熱蒸気と冷却油が四方八方へと噴き出し、砲尾の魔導炉が一基、激しい爆発を起こして黒煙を噴き上げる。
帝国の切り札たる巨砲は、大樹に指一本触れられないまま、自らの暴力の重みに耐えかねて自壊を始めていた。
「ひ、ひぃぃ……! 砲身に亀裂が! 魔導圧が逆流しています!」
「通信機が全滅です! 過負荷パルスで真空管がすべて焼き切れました!」
「撃てん……もう撃てんぞ……! 逃げろぉぉっ!」
兵士たちの間に、完全な恐慌が広がった。
先遣隊から鹵獲された技術を遥かに超える、異次元の防衛力。
装甲車の無線機からは激しいノイズと煙が吹き上がり、軍団の指揮命令系統は完全に瓦解していた。
鉄の装甲を脱ぎ捨てて武器を投げ出し、逃げ出そうとする兵士すら現れ始めた。
その混乱を、地上十五メートルの迎撃テラスから静かに見下ろす瞳があった。
アルトだった。
少年の顔には、傲慢さも嘲笑もなかった。
ただ、自分たちの静かな生活を踏みにじりに来た侵略者たちに対する、静かで、冷徹な決意だけが宿っていた。
「二度も撃ってきた……やっぱり、言葉で言っても分からないんだね」
アルトは迎撃テラスの手すりに備え付けた計器盤の真鍮メーターを確認した。
水車動力棟の回転数――毎分六十回転、正常。
地下温泉パイプの圧力弁――安全域に復帰。
大樹の生体マナ循環率――百八パーセント、過負荷による損傷なし。
手作りで築き上げてきた基地のあらゆる構造体が、七・五トンの巨弾の直撃を完全に受け流し、何一つ軋みすら上げていなかった。
アルトが確認を終えて顔を上げると、隣に寄り添っていたシロが、低く喉を鳴らした。
その琥珀色の瞳は、荒野の彼方に蠢く鋼鉄の軍勢を真っ直ぐに見据えている。
シロの体からは、すでに大樹のシステムと共鳴した莫大な電磁エネルギーが、青白い光輪となって立ち上っていた。
「シロ。僕たちの家を守るために……あいつらに、二度とこの森を侵そうなんて思えないくらいの『決定的な報い』を受けさせよう。――でも、兵士たちの命は奪わない。武器と兵器、そしてあの鉄の線路だけを、二度と使えないように無力化するんだ。それが、僕たちエンジニアの戦い方だ」
「グルルルル……!」
シロが力強く頷き、背中の銀毛を一斉に逆立てた。
蒼い雷光が、パチパチと大気を焦がす音を立てて全身に収束していく。
シロの四肢に、大樹から汲み上げられた無尽蔵のマナが奔流となって流れ込み、その筋肉が神話の巨狼としての真の力を解放し始めていた。
「行こう、シロ! 一番高い場所へ!」
アルトの声に応え、シロは四肢の強靭なバネをしならせた。
トチノキの迎撃テラスから、空中回廊の手すりを軽やかに飛び越え、さらにその上――地上二十メートルの見張り台の最頂点へと、純白の巨影が風のように駆け上がっていった。
春の強風がシロの豊かな銀毛を激しく波打たせ、雲間から差し込む一条の陽光が、その孤高の姿を神々しく照らし出す。
神話の白狼が、天を仰ぐ。
いよいよ、聖域の反撃の幕が上がろうとしていた。




