第116話:柱の傷、少年から青年の眼差しへ
パチ、パチパチ……
カマドの中で、よく乾燥したナラの薪が静かに爆ぜ、赤く熾きた炭が柔らかな熱を部屋いっぱいに放っていた。
帝国軍が荒野の彼方へと永久に敗走してから、一夜が明けた。
東向きの木枠の窓から、春の柔らかな朝の陽光が斜めに差し込み、磨き抜かれた板張りの床に黄金色の光の帯を描いている。
外からは、冬を越したヒガラやホオジロの澄んださえずりが微かに聞こえ、大樹の梢を揺らす風の音だけが静かに流れていた。
戦争の硝煙も、金属の軋みも、すべてが幻であったかのように、森は本来の深い静寂を取り戻していた。
絨毯の上では、シロが大きな体を丸めて規則正しい寝息を立てていた。
昨日の決戦の疲労を癒すように、時折ピクピクと耳を動かしながら、穏やかな眠りに浸っている。
アルトはカマドの上の鉄鍋に手製のヤギのミルクを注ぎ、温室で摘んできた乾燥鎮静香草を一つまみ浮かべた。
鉄板の上では、昨日水車挽きの全粒粉で焼いておいた丸パンが香ばしく温められ、香ばしい小麦の香りが部屋中に立ち込める。
コト、と音を立てて木製の器を並べ、温めたパンを二つに割る。
中からフワリと立ち上る白い湯気。
温室の蜜蜂たちが届けてくれた黄金の蜂蜜をスプーンですくい、たっぷりと垂らすと、蜜がパンの気泡にジュワリと染み込んでいく。
シロのボウルには温かいミルクと蜂蜜、そして昨日収穫した完熟の野イチゴを浮かべた。
「シロ、朝ごはんだよ」
アルトが優しく声をかけると、シロはフンスと鼻を鳴らし、ゆっくりと前足を伸ばして大きなあくびをした。
のっそりと起き上がると、ボウルに顔を近づけ、嬉しそうにハフハフと音を立てて蜂蜜ミルクを舐め始めた。
アルトも椅子に腰掛け、温かいパンを口いっぱいに頬張った。
カリッとした香ばしい皮と、もっちりとした甘い生地。
そこに絡み合う濃厚な蜂蜜のコクと、ミルクのまろやかさ。
噛み締めるたびに、体の芯からじわりと温かい力が湧き上がってくる。
かつて都市の孤児院にいた頃、朝食といえば水で薄めた塩味の薄い粥と、カビの生えた黒パンの端切れだけだった。
貴族の子供たちが豪奢な焼き菓子を口にする横で、飢えに耐えかねて厨房の残飯を漁り、見つかっては冷たい石畳の上で棒で打たれたものだ。
だが今、アルトの目の前にあるのは、誰の施しでもない、自分とシロが流した汗と工夫によって実った、地上で最も贅沢な朝食だった。
自分たちの力で生きている――その誇りが、胸の奥をじんわりと満たしていた。
食事を終え、食器を湧き水で洗い流したあと、アルトは作業台の引き出しから「それ」を取り出した。
真鍮の柄を持つ、一本の古い折りたたみ小刀。
三年前の春――都市の孤児院から「魔力適性ゼロの無能」と宣告され、身一つで境界の森へと追い出された時、アルトのポケットの中に残されていた、たった一つの私物だ。
かつて鍛冶工房のゴミ捨て場に落ちていた刃こぼれした鉄屑を、夜な夜な泥炭と砥石で磨き直して手に入れた、幼い日の唯一の相棒。
森に来てからも、木を伐り、皮を剥ぎ、蔓を切り、魚を捌くたびに研ぎ澄まし、今では峰の部分が少し痩せていたが、切れ味は新品の時よりも遥かに鋭く輝いていた。
アルトは小刀を右手に握り、中央居住棟の真ん中を貫く「大黒柱」の前へと歩み寄った。
樹齢数百年のトチノキの主幹そのものを利用して削り出した、直径一メートルを超える頑丈な生きた柱。
大樹が呼吸するように微かなぬくもりを宿すその柱の肌に、二本の深い横一文字の傷が刻まれていた。
アルトの指先が、そっと一番下の傷に触れた。
――十一歳の春。
追放された初日、雪解けの泥水に足を滑らせ、凍える手で小さな洞窟を見つけ、泣きながら刻んだ傷だ。
背丈は柱の腰当てよりも低く、腕は枯れ枝のように細く、少しの寒風で歯の根が合わなくなるほど弱々しかった。
親の顔も知らず、誰からも愛されず、役立たずの烙印を押されて放り出された少年。
いつ凍死してもおかしくない絶望の中で、ただ自らに言い聞かせるように、震える手で刻んだ頼りない傷跡。
「僕は今日、ここで生きていたんだ」
あの日の冷たい涙と、悴んだ指先の記憶だ。
そして、指先を少し上へ滑らせる。
そこにあるのは、一番下の傷から指四本分ほど上に刻まれた、二本目の傷。
――十二歳の秋。
ツリーハウスの骨組みが完成し、シロと一緒に初めて温かいスープで乾杯した夜に刻んだ傷だ。
重い丸太を担ぎ、滑車を架け、石を積み上げる日々の過酷な労働によって、背筋が少し伸び、手のひらには職人のような固いタコができ始めていた頃の記憶。
シロを保護し、家族と呼べる存在ができ、生きることに希望を見出し始めた日の節目。
「あれから……もう三年か」
アルトは静かに息を吐き、大黒柱に背中をぴったりと当てた。
踵を柱の根元につけ、後頭部を樹皮に押し当て、まっすぐに前を見据える。
足の裏が、しっかりと板張りの床を捉えている。
小刀を右手に持ち、刃の平らな腹を自らの頭頂部に水平に添えた。
刃先が柱の樹皮に触れた位置を、ずれないよう慎重に指先で押さえる。
そして――体を反転させ、柱と向き合った。
アルトは息を整え、目印をつけた樹皮の位置に小刀の切っ先を当てた。
カリッ、ジョリッ――
心地よい木質の削れる音が響き、白木の新鮮な香りが立ち上る。
小刀を横へと一気に引き、深々と新たな三本目の傷を刻み込んだ。
削り落ちた樹皮の粉を指先で払い落とし、アルトは一歩後退って、刻まれた三本の傷を見比べた。
「…………っ!」
アルトは息を呑み、目を見張った。
三本目の傷は――二本目の傷から、指四本分どころではなかった。
頭一つ分。
十五センチ以上も遥かに高い位置に、力強く刻み込まれていたのだ。
壁に掛けられた手鏡に、自らの姿を映してみる。
そこにあったのは、かつて都市の路地裏で怯えていた、みすぼらしい孤児の少年の姿ではなかった。
顎のラインは骨太に引き締まり、首筋には逞しい筋肉がつき、肩幅は昨年の上着がきつくなるほど広くなっていた。
足のサイズも二回り大きくなり、冬の間に自らの手で鹿革をなめし直して縫い上げた二代目のモカシンが、いまや足の形にぴったりと馴染んでいる。
作業着の袖から伸びる前腕は、何百本もの木を伐り、重い鉄を叩き、荒野を開拓してきた鍛冶職人そのものの力強い張りとタコを湛えていた。
何より、その瞳だった。
澄み切った琥珀色の双眸には、迷いも、飢えへの怯えも、誰かへの依存もなかった。
自らの両手で世界を切り拓き、大切な家族を守り抜いた者だけが持つ、静謐で揺るぎない青年の眼差しが、そこにはあった。
「クゥン……」
シロが静かに歩み寄ってきて、柱に新しく刻まれた傷を見上げ、それからアルトの顔を見上げて、嬉しそうに目を細めた。
かつて雪の洞窟で出会った時、手のひらに収まるほど小さかった白い子犬は、いまや肩高二メートルを超える神話の霊獣へと成長している。
アルトの背丈も大きく伸びたため、二人の視線の高さは、昔と変わらず自然に交錯していた。
「シロ、見てよ。僕、こんなに大きくなった」
アルトが笑いかけると、シロは温かい鼻先をアルトの逞しくなった手のひらにすり寄せ、力強く喉を鳴らした。
無邪気な子供の時代は、もう終わった。
飢えと寒さに震えていた棄民の少年は、この広大な原生林の中で、大地の恵みと工学の知恵によって、誰よりも誇り高く、逞しい青年の姿へと育っていたのだ。
アルトは居住棟の南側の窓辺に立ち、外を見下ろした。
四本の巨木を結ぶ美しい木造の空中回廊。
朝日に照らされてガラスが黄金色に輝くシラ樫の空中温室。
谷底で心地よい回転音を立てて水しぶきを上げる巨大水車。
遠くの境界線で平和そうに若草を食むオオツノジカの群れ。
そのすべてが、アルトの設計図と、シロとの二人三脚の歩みによって形作られた、世界で唯一の楽園だった。
かつて世界に拒絶された少年が築いたこの秘密基地は、いまや一つの自立した天空の都市として、揺るぎなく大地に根を張っていた。
だが――その静かな朝の感慨に浸っていたその時。
ポォォォォン……――
部屋の隅。
昨日の激戦を終えて沈黙していたはずの黒曜石の古代コンソールから、まるで教会のパイプオルガンのような、荘厳で透き通った和音が響き渡った。
「え……?」
アルトとシロが振り返ると、コンソールの銀板から、柔らかなエメラルドグリーンの光の粒子が、部屋全体を満たすように天井へと立ち上っていた。
昨日のような迎撃アラートの赤い光ではない。
それは、祝福と敬意に満ちた、温かな星の息吹そのものだ。
光の粒子は空中で幾重にも交差し、かつて見たことのない巨大な幾何学模様を、部屋の空間いっぱいに描き出そうとしていた。
木造の梁や漆喰の壁が、神殿の内部のように神聖な青緑色の薄絹をまとっていく。
アルトは息を呑み、小刀を作業台に置くと、吸い寄せられるようにコンソールへと歩み寄った。
シロも足音を立てずに寄り添い、二人の視線の先で――失われた古代の記憶が、その真実の扉を今開こうとしていた。




