第110話:森の主(オオツノジカの群れ)の防衛協定
サワサワサワ……――
梢を渡る春風に揺られ、ブナとミズナラの若葉が柔らかな音を立てていた。
泥炭沼の向こうに現れた「オオツノジカの主」は、一切の警戒心を滲ませることなく、ゆっくりと一歩ずつアルトたちの方へと歩み寄ってきた。
肩高二メートル半、頭上まで含めれば三メートルを優に超えるその巨躯は、森の王と呼ぶにふさわしい圧倒的な威容を誇っていた。
青銅のように鈍い光沢を放つ巨大な角は、何重にも優美な弧を描いて枝分かれし、その根元には大樹のエメラルドグリーンの光脈と同調するように、淡い若草色の燐光が宿っている。
角の表面には、厳しい冬を生き抜いた証である無数の小傷が刻まれ、その隙間には春の息吹を告げる苔や小さな地衣類が青々と張り付いていた。
巨鹿はアルトの眼前、わずか二歩の距離で足を止めると、その濡れた深い黒い瞳でじっとアルトを見つめ――
フシュー、と温かい息を吐きながら、ゆっくりと巨大な角を傾け、自らの額をアルトの胸の前に差し出した。
「……覚えているんだね」
アルトは息を呑み、そっと両手を伸ばして、巨鹿の温かい鼻先と額の毛並みに触れた。
指先に伝わってくる、力強く温かな命の鼓動。
掌に擦り付けられるビロードのような短い冬毛の感触。
鼻孔をくすぐるのは、春の若草と日向の土、そして大樹の精髄が合わさったような、神聖な野生の匂いが鼻腔を満たす。
忘れもしない、昨年の初冬のことだ。
雪が降り積もり始めた森の谷底で、都市の密猟者が仕掛けて放置した錆びた鉄罠に右前足を挟まれ、骨が見えるほどの重傷を負って雪の中で倒れていたのが、この巨鹿だった。
当時、まだツリーハウスを作り始めたばかりだったアルトは、テコの原理と金ノコを使って必死に分厚い鉄の罠をこじ開け、自らの衣服を裂いて包帯にし、採取したばかりの月見草とハハコグサをすり潰して傷口に塗り込んだのだ。
さらに、雪深くて餌が取れない彼らのために、洞窟に備蓄していた貴重な塩と干し草を惜しげもなく分け与えた。
動物は、人の善意を決して忘れない。
教皇庁の偽善者たちが略奪のために森を踏みにじった時、この巨鹿は自らの群れを率いて、アルトたちの危機に駆けつけてくれたのだ。
スッ、と白い影が横に並んだ。
シロだった。
シロは威嚇の唸り声を一切上げず、静かに巨鹿の前へと進み出ると、鼻先をコツンと巨鹿の鼻先へと触れ合わせた。
――トクン。
その瞬間、大樹の主幹から淡い光の波紋が広がり、地下の古代コンソールが微かに心地よいチャイムを鳴らした。
頭蓋骨の奥に、コンソールの情報が直接伝わってくる。
『生体探知網:地域生態系マスター[オオツノジカ種群]との同盟リンクを承認』
『移動式監視ノード:計四十八頭が境界探知ネットワークへ編入されました』
「え……!? 鹿たちまで、大樹のシステムと繋がったのか……!?」
アルトが驚きの声を上げると、巨鹿は「任せておけ」と応じるように、フンスと力強く鼻を鳴らした。
神話の時代、白銀の狼とオオツノジカは、この聖域を守護する二大眷属だったのだ。
シロが雷霆の力で侵入者を討ち滅ぼす「矛」であるならば、森の隅々を駆け巡り、危険を察知するオオツノジカの群れは、広大な境界林の「目と耳」だった。
「みんな、冬を無事に越せて本当によかった……! そうだ、待ってて、いいものがあるんだ!」
アルトは笑顔を弾けさせ、空中回廊の螺旋階段を駆け上がってツリーハウスへと戻った。
そして、両腕いっぱいに抱えて降りてきたのは――大きな木箱と、竹編みの籠だった。
木箱の中に入っているのは、アルトが冬の間にコツコツと精製した「特製ミネラル岩塩ブロック」だ。
谷底の岩塩層からノミで切り出した粗塩を、水車の石臼で細かく砕き、薪の灰汁を加えて夾雑物を沈殿させ、木枠に入れて重石で圧縮乾燥させたものだ。
余分な苦味が抜け、カリウムやマグネシウムなどの天然ミネラルが豊富に凝縮されている。
草食動物にとって、塩分は春先の換毛と体調維持に欠かせない、何物にも代えがたい宝物なのだ。
さらに竹籠の中には、先ほどシラ樫の空中温室で収穫したばかりの、朝露に濡れたみずみずしい月見草の新芽、野生のクローバー、そして甘い香りを放つ鎮静香草の束が山盛りになっていた。
「はい、みんな! 春のお祝いだよ!」
アルトが岩塩ブロックを広場の平らな岩の上に並べ、新鮮な薬草の束を地面に広げると――
茂みの奥に控えていた雌鹿や若い小鹿たちが、恐る恐る、しかし我慢しきれない様子で駆け寄ってきた。
ペロ、ペロ、ペロペロペロ……!
小鹿たちが目を輝かせ、夢中になって岩塩ブロックを舐め始めた。
冬の間、雪の下の枯草しか食べられず塩分に飢えていた鹿たちにとって、アルトが精製した純度の高いミネラル塩は、至高の馳走だった。
若鹿たちもシャクシャクと音を立てて温室育ちの柔らかな月見草を頬張り、そのあまりの甘さと瑞々しさに、耳をパタパタと嬉しそうに羽ばたかせている。
巨鹿の主も、アルトの手のひらから直接大きな岩塩を器用に舌で巻き取り、満足そうに目を細めて味わっていた。
広場は、穏やかで温かな生命の喜びに満たされていた。
アルトの手作りの工学と、温室の農業が、森の生き物たちとの間に決して断ち切れない強固な信頼の絆を結んでいたのだ。
食事が一段落した頃、巨鹿の主が頭を上げ、澄み切った空に向かって――
ファァァァァァン――
角笛の調べを思わせる、澄み渡る美しい声を森全体へと響かせた。
すると、塩を舐め終えた若鹿たちが、一斉に身を翻した。
十頭は東の境界線へ、十頭は北の尾根へ、そして屈強な成鹿たち二十頭が、西の谷底の街道沿いへと、風のような速さで散開していったのだ。
これによって、境界の森の全周数十キロに及ぶ完全な「哨戒・早期警戒網」が完成した。
どんな不審者の侵入であっても、大樹のコンソールと繋がった鹿たちの視覚と聴覚を通じて、瞬時にアルトの元へと情報が届くようになったのだ。
「ありがとう……みんな」
アルトが呟くと、巨鹿の主はもう一度深く首を垂れ、雌鹿たちとともに静かに森の奥へと戻っていった。
だが――その平和な余韻を、無残にも叩き潰すような異変が起きた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
足元の花崗岩の岩盤から、突如として不気味な重低音の地鳴りが伝わってきた。
地震ではない。
何万トンもの鋼鉄の巨体が、大地を軋ませながら前進してくる時に生じる、金属とレールの凄まじい摩擦振動だ。
ピピピッ! ピピピッ! ピピピッ!
大樹の地下コンソールから、これまでにない最大音量の緊急警報が鳴り響いた。
アルトとシロは顔を見合わせ、直ちに空中回廊を駆け上がって【迎撃望遠塔】の展望デッキへと飛び込んだ。
アルトは真鍮の天体望遠鏡に目を当て、西の地平線――森の境界線の外側に広がる荒野へとレンズを向けた。
そして、レンズの視界に飛び込んできた光景に、アルトは息を呑んだ。
「な……んだ……あれは……!?」
西の荒野に敷設された頑丈な超広軌複線レールの上を、真っ黒な炭煙と白熱の蒸気を天高く噴き上げながら進軍してくる――鋼鉄の超巨大要塞。
ガレリア帝国第7機甲軍団の総力を結集した、究極の決戦兵器。
――超巨大列車砲『グングニル』。
全長百メートルを超える巨大な多軸装甲列車の中心に鎮座するのは、太さ二メートル、砲身の長さだけで三十メートルを超える、漆黒の魔導重巨砲だった。
十二基の巨大な蒸気機関が黒煙を吐き散らし、百人を超える重装甲歩兵が蟻のように群がって、クレーンで巨大な砲弾を装填している。
射程五十キロ。山一つを一撃で粉砕・消滅させる威力を誇る、帝国の神話破壊兵器だ。
「あれが……先遣隊の兵士が言っていた、本隊の列車砲か……!」
アルトは望遠鏡のノギス目盛りを合わせ、弾道と距離を瞬時に計算した。
距離、およそ八キロメートル。
初速毎秒一千メートルを超える超音速の魔導徹甲榴弾。
もし直撃を受ければ、どれほど強靭な古代世界樹であっても、物理的な運動エネルギーだけで大樹の幹がへし折られかねない。
望遠鏡の視界の隅で、列車砲の装甲司令塔のハッチが開き、豪奢な軍服を着た帝国軍の少将が冷酷な表情で軍刀を抜く姿が見えた。
拡声魔導器を通して、地鳴りのように低い号令が荒野に響き渡る。
『照準固定、境界の巨樹座標へ固定完了! 第一弾装填、魔導炉過給圧全開――吹き飛ばせ!』
キィィィィィン……と油圧シリンダーの唸りを上げながら、その長大な砲身がゆっくりと角度を持ち上げ、アルトたちのそびえ立つ大樹の秘密基地へと照準を合わせ始めていた。
周囲の空気が重く沈み込み、荒野の草木が突風に薙ぎ倒される。
「シロ」
アルトが呼ぶと、隣のシロが低く、しかし凛とした頼もしい声で喉を鳴らした。
背中の銀毛が逆立ち、大樹の主幹から吸い上げた青緑色のマナと、シロ自身の蒼雷が融合して、かつてない強烈なプラズマの渦を形成している。
「僕たちには、この大樹がある。森の仲間たちがいる。――絶対に、撃ち落とすよ」
アルトは望遠塔の防護ハッチを固く閉ざし、大樹の第二覚醒フェーズを起動させるため、地下の古代コンソールへと続く緊急滑降索のハンドルを握り締めた。
いよいよ、境界の森の存亡を懸けた、最後の決戦が幕を開けようとしていた。




