第108話:教皇庁の審問官、聖印を掲げる偽善者
ジャリ、ジャリ、ジャリ――
規律正しく大地を踏み荒らす重い金属靴の足音が、静寂に包まれていた原生林の空気を踏みにじっていた。
谷底の小川を渡り、大樹の根元へと続く湿地帯の小道を、十二名の武装集団が進軍してくる。
先頭を歩く二人の従騎士が捧げ持っているのは、銀製の鎖で吊るされた「聖別香炉」だ。
炭火で焚かれた乳香とミルラの甘ったるく濃厚な白煙がモクモクと立ち上り、春の若草と清らかな大樹の匂いを暴力的に塗りつぶしていく。
彼らは足元に芽吹き始めたばかりのフキノトウや可憐な野イチゴの若葉を、分厚い鉄の長靴で容赦なく踏みにじり、鬱蒼とした木々の枝を鬱陶しそうに銀剣の鍔で払い落としながら進んでいた。
中央に立つのは、神聖教皇庁・異端審問特務執行官のヴェルナー司教。
肥え太った体を純白の最高級シルクの法衣に包み、胸元には純金と大粒のサファイアで作られた巨大な聖印を光らせている。
その背後を固める十名の異端審問騎士たちは、鏡面のように磨き抜かれた白銀のフルプレート・アーマーをまとい、両刃の大剣と聖印を彫り込んだタワーシールドを構えていた。
彼らの放つ魔力は、先日の帝国兵たちの油臭い蒸気とは異なり、張り詰めた氷のように冷たく、他者を拒絶する威圧感に満ちていた。
「フン……なんと不潔で鬱陶しい森だ。泥と虫けらどもめが。早くこの地の魔を祓い、清めねばならんな」
ヴェルナーは黄金の錫杖を地面に突き立て、絹のハンカチで鼻を覆いながら大樹を見上げた。
だが、その濁った瞳の奥には、神への敬虔さなど微塵もなかった。
主樹の幹を巡るエメラルドグリーンの光脈、空中に架け渡された幾何学的な空中回廊、そして温室から漏れ出る眩い太陽の光――それらを目にした瞬間、ヴェルナーの口元に下品な涎が垂れんばかりの強欲の歪みが広がった。
「素晴らしい……! これほどのマナ濃度を誇る古代霊樹が、未開の境界林に手付かずで残されていたとはな! 帝国の連中が嗅ぎつける前に余が接収し、教皇猊下に献上すれば、余の枢機卿への昇叙は確実……! 教会領のすべての富を我が意のままにできるぞ!」
かつて都市の孤児院を支配していた頃と同じだ。
民衆から「救済税」と称して最後のパンを巻き上げ、孤児たちには腐りかけた豆しか与えず、その裏で教会の地下室に金貨と極上のワインを溜め込んでいた強欲の塊。
その男が、今度はアルトたちが築き上げたこの聖域を、己の出世の道具として奪いに来たのだ。
「――そこまでだ」
頭上高くから、凛とした澄んだ声が降ってきた。
ヴェルナーがギョッとして顔を上げると、地上十五メートルの迎撃テラスの欄干に、一人の少年が立っていた。
作業用の鹿革エプロンを身につけ、手には一切の武器を持たず、ただ静かに下界の侵入者たちを見下ろしている。
そしてその隣には――
「グゥゥゥゥ……」
巨大な白銀の巨狼が、牙を剥き出しにして前足をテラスの縁にかけていた。
肩高二メートルを超える巨躯。銀色の体毛からはバチバチと蒼い電弧が散り、その琥珀色の瞳は、侵入者の喉笛をいつでも噛み千切れる凶暴な光を放っている。
「ひっ……! も、魔獣だと!? 騎士ども、盾を構えよ! 聖光障壁を展開せよ!」
ヴェルナーが悲鳴を上げ、慌てて騎士たちの背後へと逃げ込んだ。
ガシャン! と十枚の大盾が一斉に噛み合わされ、白銀の甲冑から眩い聖光が立ち上って、彼らの頭上にドーム状の光の盾を形成した。
だが、テラスの少年――アルトは、眉一つ動かさなかった。
大樹のコンソールと神経を繋げている今のアルトには、彼らが張った結界の構造、マナの流動、そして強度の限界値までもが、ガラスのコップを見るように透けて見えていた。
騎士たちの甲冑に刻まれた聖印は、表向きは神聖な紋様を装っているが、実態は兵士たちの生命力を微量ずつ削り取って変換する、粗悪で非効率な旧式のマナ強制変換回路に過ぎない。
「誰の許可を得て、僕たちの森に踏み込んできたんですか」
アルトの声は静かだった。だが、大樹の幹がその声を共鳴増幅させ、森全体に雷鳴のように重く響き渡った。
ヴェルナーは騎士たちの盾の隙間から顔を出し、アルトが幼い少年であること、そして粗末な作業着を着ていることを確認すると、途端に傲慢な態度を取り戻した。
咳払いを一つし、わざとらしく胸の純金聖印を掲げてみせる。
「神を恐れぬ哀れな迷い子よ! 余は神聖教皇庁が誇る異端審問特務執行官、ヴェルナー司教である! 聞くがよい! その大樹が宿す神秘の力は、すべて主なる神が全土の人民のために賜った聖なる恩寵である!」
「…………」
「貴様のような名もなき棄民が、邪悪なる魔獣を手懐け、神の遺産を私物化するなど、断じて神の法が許さぬ大罪! ただちにその魔獣を処分し、大樹の全機能を神聖教皇庁へ明け渡すがよい! さすれば、貴様のこれまでの不敬を慈悲深く赦し、大聖堂の地下牢にて一生涯の贖罪を行う権利を与えてやろう!」
ヴェルナーは悦に入った表情で、さもそれが地上のあらゆる慈悲を超えた施しであるかのように演説を締めくくった。
背後の騎士たちも、当然のように冷酷な眼差しでアルトを見上げている。
彼らにとって、教会に属さない平民など虫けらと同義であり、力無き者が手にした財産を「神の名」のもとに強奪することは、日常茶飯事の神事ですらあったのだ。
だが、アルトの口元に浮かんだのは、怒りですらなく、心底から侮蔑しきった冷ややかな笑みだった。
「神の恩寵……? よくそんな言葉が、その薄汚れた口から出てきますね」
「な、何だと……!?」
「昨年の冬、寒波と飢饉で都市が壊滅しかけた時、あなたたちは何をしましたか?」
アルトの冷徹な問いかけに、ヴェルナーは言葉を詰まらせた。
「凍傷で足の指を失い、飢えて泣き叫ぶ孤児院の子どもたちが大聖堂の門を叩いた時、あなたたちは重い鉄の閂をかけ、施しのスープ一杯すら出さずに雪の中へ追い返した。自分たちの倉庫には、何年分もの最高級小麦と燻製肉を山積みにしたまま、穀物相場を釣り上げて私腹を肥やすために売り惜しみをしていた」
「ぐ、愚弄するな! あれは神が与えた試練であり、信仰なき罪人に与える施しなど――」
「都合のいい時だけ『神の試練』ですか」
アルトはヴェルナーの詭弁を、冷たい刃のように容赦なく切り捨てた。
「僕はこの森に追放されてから、凍る大地を掘り、石を割り、悴む手で木を削って、自分たちの力で生き延びてきました。大樹の力を引き出したのは、僕とシロが流した汗と、工学の積み重ねです。祈りの言葉一つで他人の命を買い叩き、奪うことしか知らない盗賊に、僕たちの血と涙の結晶を渡す道理など、天地がひっくり返っても存在しない」
「き、貴様ぁぁぁっ……! 神を冒涜するか、この薄汚い異端の蛆虫が!」
図星を突かれたヴェルナーの顔が、怒りと羞恥で真っ赤に沸騰した。
聖者ぶった柔和な仮面は完全に剥がれ落ち、豚のように醜悪な本性が剥き出しになる。
「騎士ども、何を突っ立っている! あの生意気な小僧を引きずり降ろせ! 手足を切り落としてでも、大樹の操作方法を吐かせろ! 魔獣は首を刎ねて毛皮を剥ぎ、教皇庁の敷物にしろ!」
「ハッ!」
騎士たちが抜刀した。
十本の白銀の長剣が青白い聖別闘気を纏い、鋭い殺気が森の梢を震わせる。
騎士の隊長が大樹の外階段へ踏み込もうとし、幹の樹皮に剣を突き立てようとした、その瞬間――
ジューッッ!!
樹皮から滲み出た防衛性の高濃度樹液が、白銀の刀身に触れた途端に激しい白煙を上げた。
モース硬度七を誇る聖別鋼の剣先が、熱湯をかけられた氷のようにジュウジュウと音を立てて腐食し、刃こぼれを起こして崩れ落ちたのだ。
「な、何だと!? 聖別された白銀剣が……樹液ごときに溶かされたというのか!?」
「うろたえるな! 退がれ、騎士ども!」
逆上したヴェルナーは黄金の錫杖を両手で掲げ、懐から一枚の赤黒い羊皮紙を取り出した。
それは、教皇庁が禁忌として封印しているはずの、大地と術者の寿命を代償にして放つ「高位殲滅神聖術式」のスクロールだった。
「我が祈りを聞き届けよ! 不浄なる森を焼き尽くし、神の威光を刻み込め――! 【神罰の断罪光柱】!!」
ヴェルナーの狂乱の叫びとともに、上空の雲が渦を巻き、大樹の真上に、直径十五メートルを超える巨大な黄金の多重魔法陣が展開した。
大気中のオゾンが焼き切れ、森全体を蒸発させかねないほどの破壊的な光熱が、迎撃テラスのアルトを目掛けて収束していく。
その光は神聖とは名ばかりの、周囲の生態系を強引に吸い上げて燃料に変える暴力的な術式だった。
頭上の魔法陣が回転するたびに、地表の若草や下草が青白い光の粒子を強制的に吸い上げられ、みるみるうちに灰色へと萎縮していく。
「大樹から命を奪うだけじゃなく、森の植物たちから力まで絞り取るのか……!」
アルトの双眸に、冷たく研ぎ澄まされた怒りが宿った。
自然の循環を尊び、土を慈しんできたアルトにとって、他者の命を平然と消費物としてすり潰す教会のやり口は、最も許しがたい蛮行だった。
隣でシロが、テラスの床板を爪でギリリと削りながら、蒼い雷光を背中に収束させる。
「シロ、大丈夫だよ。あんな歪んだ光、大樹の敵じゃない」
アルトは迎撃テラスの木製手すりの裏側に埋め込まれた、真鍮製のバイパスレバーへと手を伸ばした。
地下の古代コンソールと直結された、世界樹の防衛反射力場――「位相幾何学偏向フィールド」の起動トリガーだ。
アルトは冷徹な眼差しで、上空の光柱を見据えた。
天から落ちてくる破滅の光に対し、少年の指先が静かにレバーを押し下げようとしていた。




