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第107話:大地を流れる声、星の呼吸音

――フォォォォォン……


 空気を微かに震わせる深遠なハミング音が、耳の奥ではなく、頭蓋骨の内側に直接反響していた。

 主樹の地下樹洞。

 黒曜石の配線盤に銀板が完全に結合した瞬間から、アルトを取り巻く「世界の質感」が不可逆な変容を遂げていた。


「……あ……」


 アルトはその場に崩れ落ちそうになり、慌てて大樹の内壁に右手を突いた。

 その瞬間、手のひらを通して、爆発的な情報量が神経系へと流れ込んできた。


 トックン……トックン……トックン――


 それは、ただ樹液が木質部を吸い上げられる音だけではなかった。

 この巨大なトチノキが地下数十メートルの固い花崗岩の岩盤を砕き、幾重にも張り巡らせた無数の細根。

 その毛細根の一本一本が吸い上げる冷たい地下水脈のせせらぎ。

 土壌中の何億もの放線菌や酵母菌が放つ微弱な呼吸熱。

 谷底の湿原の下に横たわる、数万年分の泥炭層が蓄えた地熱の温もり。

 そして、主樹から隣の白樫、ミズナラ、巨ブナへと、地下の菌根菌ネットワークを通じて秒速数ミリの速度で交わされている、微小な生体電気の囁き合い――


 五感が劇的に拡張されていた。

 アルトの肉体そのものが境界の森全体と神経レベルで一体化し、一本の巨大な生命樹の先端の若葉になったかのような生々しい感覚。

 森の動物たちの寝息、樹皮の隙間で蠢く冬眠明けの甲虫の羽音、風が梢の小枝を揺らす微細な摩擦振動、遠くの断崖から滴り落ちる融雪のひとしずくに至るまで、そのすべてが互いに調和し、宇宙そのものが奏でる壮大な多重奏(シンフォニー)となって胸に響き渡っていた。


「すごい……これが、大地を流れる声……星の、呼吸の音なんだ……」


 アルトは息を呑み、震える唇を開いた。

 これまで孤独なツリーハウスで、ノギスを当て、滑車を計算し、生化学の知識を絞り出して推測してきた自然の営みが、いま、直接的で圧倒的な「実感」として全身を満たしている。


 そして、その圧倒的な調和に包まれた瞬間、アルトの胸の奥底で、長年抱え込んできた冷たい澱(おり)のような痛みが、春の雪解け水のように音を立てて融解していった。


 ――お前には、魔力適性が一欠片も存在しない。

 ――神の恩寵を受けられぬ、何の役にも立たない欠陥品め。


 かつて都市の孤児院で、豪奢な法衣を着た教会の司祭たちや、傲慢な貴族の魔導士たちから浴びせられ続けた罵倒の数々。

 彼らが尊大に突き出してきた「魔力測定水晶」は、アルトがどれほど必死に祈るように両手で触れても、曇った石ころのまま一度として光を宿すことはなかった。

 そのせいで、雪の吹きすさぶ早朝から誰よりも早く叩き起こされ、冷水で大聖堂の冷たい石畳を磨かされ、残飯のような硬い黒パンしか与えられず、最後には街の外の境界の森へと厄介払いとして放逐されたのだ。


 だが、今ならその残酷な欺瞞のすべてが、痛いほど明白に理解できた。


 教会や帝国が誇る「魔導技術」とは、大地から無理やり吸い上げ、都合のいいように歪めて結晶化させた、いわば「汚濁した人工魔力」に過ぎなかったのだ。

 彼らの測定器が反応するのは、人間が己の欲望のために扱いやすく矮小化させた、狭い波長の人工的な魔力だけ。

 アルトの魂が宿していたのは、そんな濁った泥水の波長ではない。

 この星そのものが太古から脈動させている、根源的で無垢なエネルギー――「星の原初波動(プライマル・エーテル)」そのものだ。


 濁ったコップに、大海原の奔流は収まらない。

 ただそれだけの理由で、彼らはアルトを「無能」と蔑み、自分たちの狭い常識では理解できない存在を恐怖と侮蔑で排除したのだ。

 教会が説く「神の恩寵」など、民衆から富と労働力を搾取するための、ただの利権の道具に過ぎなかった。


「僕は……欠陥品なんかじゃなかったんだ……」


 ポロリと、熱い涙が一粒、頬を伝って黒曜石の盤面へと零れ落ちた。

 涙の滴が光の回路に触れた瞬間、パルスが一段と柔らかく、アルトを優しく抱擁するように温かな光を放った。


 スッ、と温かい毛並みがアルトの膝に触れた。

 シロだった。

 シロはアルトの顔を見上げ、その琥珀色の瞳に深い憂いと愛情を湛えながら、頬の涙を温かい舌で丁寧に舐めとった。


「クゥゥン……」


 喉の奥を震わせるその甘い声は、かつて雪の吹きすさぶ洞窟で、手作りの温かいスープを分け合ったあの夜と何一つ変わっていなかった。

 古代のコンソールは、シロを「第一種バイオ・ガーディアン」と呼んだ。

 だが、アルトにとってシロは、機械仕掛けの護衛兵でも、神話の生体兵器でもない。

 凍える孤独の中で互いの体温を分け合い、命を繋ぎ合ってきた、世界で唯一無二の家族であり相棒だった。


「ありがとう、シロ……君がいてくれたから、僕はここまで生きてこられたんだ」


 アルトがシロの首筋の豊かな白い毛に顔を埋めると、シロはアルトの背中を包み込むように大きな前足で抱き寄せ、ゴロゴロと大地を揺らすような安らぎの音を鳴らした。

 二人の魂が完全に通じ合った瞬間、大樹の主幹全体を巡るエメラルドグリーンの光脈が、眩いばかりの光量を放って安定した。


『プライム・アーキテクトと生体ガーディアンの同調リンク、完全同期を達成』

『世界樹機関・第一層エネルギーバイパス、全系統アンロック完了』


 コンソールのホログラムが更新され、秘密基地の全設備を示す系統図が目の前に広がった。


「よし……感傷に浸っている場合じゃないね。帝国軍が来る前に、大樹の力を基地の防衛線と直結させよう」


 アルトは袖で涙を拭い、エンジニアの真剣な瞳を取り戻した。


 コンソールの操作は驚くほど直感的だった。

 光のパネルに手をかざし、エネルギーの流れを指先でなぞるだけで、大樹の主根から汲み上げられた純粋なマナが、指定したルートへと導かれていく。

 アルトは地下樹洞と工作鍛冶棟を行き来し、物理的な配線工事を急いだ。

 帝国軍の残骸から回収した銅線と真鍮パイプを束ね、絶縁体として白樺の油分を含んだ樹皮を何重にも巻き付ける。

 手製の伝導ケーブルを、大樹の幹から露出する生体コネクタへと直接ボルト締めしていった。


 まずアルトが繋いだのは、トチノキの迎撃デッキに据え付けた「第092話の重力滑車バリスタ」だ。

 鋼鉄のレールと滑車機構に、大樹から伸びるマナ伝導ファイバーを接続する。

 これにより、バリスタの放つ徹甲矢に大樹の反発力場(カイネティック・フィールド)が付与され、矢の射程は二倍に、装甲貫通力は三倍以上に跳ね上がる。

 鋼鉄の装甲車輪すら、一撃で木っ端微塵に粉砕する威力を得た。


 次に、工作棟の張り出しテラスに配備した「第098話の鹵獲魔導ライフル砲座」。

 帝国の粗悪な使い捨て火薬カートリッジに頼ることなく、大樹から直接マナを急速充填できる「外部給電コネクタ」を確立した。

 これで弾切れの心配は完全に解消され、連続射撃による砲身のオーバーヒートも、大樹の冷涼な循環液によって瞬時に冷却される体制が整った。


 そして何より、四本の大樹を結ぶ空中回廊全体に、不可視の「衝撃減衰力場」が常時展開されるようになった。

 万が一、敵の砲弾が樹上に直撃したとしても、四本の巨木が蜘蛛の巣のように互いにエネルギーを分散吸収し、基地の構造が歪むのを防ぐことができる。


「これで迎撃準備は整った。あとは帝国軍の進軍速度を監視しながら……」


 アルトが地下のコンソールへと戻り、監視マップへと視線を走らせた、その時だった。


 ピピピッ! ピピピッ!


 突如として、不快な鋭い高周波の警報音が地下樹洞に鳴り響いた。

 南西の帝国軍マーカーとは全く異なる方角――東側の境界線、かつて領主の追手や衰弱した難民たちがやってきた鉄条網のルート上に、新たな輝点群が点滅を始めたのだ。


 ただし、その光は帝国の泥臭い赤いマーカーとは明らかに異質だった。

 眩いほどに白く、そして冷酷なまでに純度の高い――「白銀と黄金の光点」だった。


『警告:セクターE2東部境界線において、高位聖光結界および神聖術式の接近を検知』

『未登録武装集団、計十二名。個体魔力反応、極大』

『指向性探知魔法の放射を確認。対象、本世界樹コアへ直進中』


「東から……? 帝国軍の進軍ルートとは真逆だ……!」


 アルトは眉をひそめ、コンソールの望遠ソナーを東の境界線へとズームさせた。

 空中に投影された高解像度のリアルタイム映像に、アルトは息を詰まらせた。


 残雪の残る原生林の入り口に立っていたのは、泥にまみれた帝国兵たちではなかった。

 純白の最高級シルクに金糸で神聖幾何学の刺繍が施された豪奢な祭服をまとい、手には神聖教皇庁の絶対の威光を示す、巨大な黄金の錫杖(しゃくじょう)を掲げた中年の聖職者。

 その顔には、狂信的な傲慢さと、隠しきれない強欲の笑みが張り付いている。


 そしてその背後には、全身を鏡のように磨き上げられた白銀の全身甲冑で固め、長大な両刃剣と聖印を刻んだ大盾を携えた、屈強な宗教騎士たちが抜剣して威圧的な隊列を組んでいた。

 彼らは足元に咲き始めたばかりの野生の花々を軍靴で踏みにじりながら、鉄条網を聖別された銀のハサミで容赦なく切断し、森の内部へと土足で踏み込んできていた。


「あの紋章は……神聖教皇庁・異端審問騎士団……!?」


 アルトの背筋に、氷水を浴びせられたような冷たい戦慄が走った。

 都市が飢饉と寒波で滅びかけ、罪のない民衆が路傍で凍え死んでいた時には、大聖堂の重い扉を閉ざし、施しの一片すら拒絶した連中だ。

 その教会が、大樹の放つ神話のエネルギーを嗅ぎつけ、我が物顔で略奪するためにこの境界の森へと現れたのだ。


 シロが低く、地鳴りのような唸り声を上げた。

 喉仏を震わせ、背中の銀毛を針のように逆立てて、東の空を睨み据えている。


「帝国だけじゃなく、教皇庁の偽善者たちまで……僕たちの森を奪いに来たのか」


 アルトの瞳から、迷いも恐怖も完全に消え去った。

 宿ったのは、静かで、しかし決して消えることのない絶対の決意の炎だった。

 自分たちを捨て、利用し、奪おうとする者たちに、もはや一歩たりとも譲る気はなかった。

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