第6話:死水の迷宮
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レンタカーのSUVのエンジンがようやく停止し、代わりに不気味な静寂がキャド湖のボート乗り場の駐車場を包み込んだ。時間はすでに夜の9時を回っていた。2018年8月下旬のこの時期、テキサスの闇はひどく深く、異質なものに感じられた。車外へ一歩踏み出した瞬間、重苦しい湿気が5人の仲間の体を容赦なく閉じ込めた。ウシガエルの重苦しい鳴き声と野生のコオロギの声が互いに響き合い、静まり返った夜の静寂を破っている。昼間の猛暑による極端な水分蒸発のせいで、8月の濃い霧が松の木々の梢からもの凄い速さで降りてきており、死んだ鏡のように黒い水面の上は、わずか数メートル先も見えないほどに視界が制限されていた。
湖のほとりにある無人の自動レンタル乗り場には管理人の姿はなく、ただカヌーのレンタル料を入れるための木箱がぽつんと置かれているだけだった。夜風に揺れる吊り下げられたオイルランプの薄暗い光の下、ウィリアムがスリムな木製のカヌー2艇にメンバーを振り分けた。ウィリアム・カーターが主操縦士として後方に座り、その前に吉田千佳が座った。指示に従い、エドは一ノ瀬蓮と宮城芽衣と共に2艇目のカヌーに乗り込んだ。
最初の手漕ぎのオールが氷のように冷たい沼の水に触れた瞬間、彼らは死水の迷宮へと漕ぎ進んでいった。それと同時に、千佳と芽衣のスマホের画面から完全に電波の表示が消え去り、GPSは完全に沈黙した。彼らの周りには、スペインゴケの垂れ下がった巨大なイトスギ(サイプレス)の古木が何千本も水底から突き出していた。木々の形状はどれも完全に均一で酷似しており、東西南北の感覚を狂わせる。イトスギの間に挟まれた狭い水路に入り込むにつれて、彼らは完全に方向を見失い、同じ場所をぐるぐると回り始め事態に混乱し始めていた。
忍び寄り始めたパニックの中、エドの科学的なナビゲーション能力が再び救世主となった。カヌーの上から、エドは薄い霧に遮られた夜空を見上げた。彼の鋭い眼光は、イトスギの古木の葉の隙間に目を凝らし、天体ナビゲーションの技術を実践していた。エドは雲の動きを分析し、北極星の正確な位置を割り出すために北斗七星の配置を探し出していたのだ。
「Will! Don't turn into that narrow path on the right!」
エドの流暢な英語が沼の静寂を切り裂き、カヌーの間に響いた。「あの雲の隙間の北極星の位置からして、右のルートに行くと流れが完全に澱んだ沼の中心部にさらに引き込まれてしまう。僕のカヌーの漕ぎ方に合わせて北西に進んで。あっちの方が木々の密度が少し緩やかだ」天のコンパスを読み解くエドの戦術的な天才ぶりに、ウィリアムは自分のカヌーから感心したように口笛を吹き、蓮は深い敬意を込めた小さな笑みを浮かべてエドの背中を見つめた。
しかし、彼らの平穏は長くは続かなかった。濃い霧がさらに深く立ち込め、水面を這うように包み込んだその時、エドのカヌーの先端が突如として何かにぶつかり、静かな、しかし衝撃的な木の衝突音を立てた。
彼らの目の前には、古びた別の木製のカヌーが、死水の上で行き先もなく不気味に漂っていた。その奇妙なカヌーの中には、髪を振り乱し、服がボロボロに引き裂かれ、黒い沼の泥にまみれた一人の中年女性が座っていた。女性の体は絶え間なく激しく震えていた。彼女の両の目は虚ろに見開かれたまま沼の水面を見つめており、青白い唇からは英語で支離滅裂な恐怖の言葉が絶えず溢れ出ていた。彼女こそがクララ・ヴァンスだった。その精神状態は、想像を絶する凄惨なトラウマによって完全に崩壊しているように見えた。
ウィリアムとエドはすぐに自分たちのカヌーを女性のカヌーの側へと寄せた。同じアメリカ人として、ウィリアムは彼女を落ち着かせるためにできる限り優しいトーンで話しかけた。
「Ma'am? Are you okay? We're tourists from Japan. Where did you come from? Do you need help?」
ウィリアムの低い声を聞いた瞬間、クララ・ヴァンスは突如として狂ったように身体を震わせした。彼女はぎこちない動きで振り返ると、恐ろしいほどの速さで、爪が割れて血に染まった細い両手でエドのカヌーの縁をガシリと掴んだ。そして、彼女の口から狂乱の叫びが爆発し、沼の夜の静寂を切り裂くような甲高い悲鳴が響き渡った。
「Don't go inside! Turn back! Turn the boats back right now!」
泥と涙が混ざり合あったものが頬を伝い落ちる中、クララは悲鳴を上げた。「The cellar... the chainsaws... they don't hunt animals in these woods! They hunt us! They hunt humans! My husband... my children... they ate them all! They ate them alive in that house!」
闇深い沼の中で、千佳、芽衣、そして蓮は、その見知らぬ外国人女性の狂気じみた叫び声を前に完全に恐怖で凍りついていた。あまりにも早口で叫び声の混じった奥地の英語を理解できない彼女たちは、ただただ不安に満ちた丸い目でエドを見つめることしかできなかった。
「エド……あの人、なんて言ってるの? なんであんな風に叫んでるの? あの……野生動物に襲われて怪我でもしてるのよね?」吉田千佳は震える声で尋ね、後ろからウィリアムのジャケットをきつく掴んだ。
「エドくん……声がすごく怖いの。あの人に一体何があったの?」宮城芽衣も言葉を重ね、すでに蓮の背中に顔を完全に隠していた。
一ノ瀬蓮は、自分たちのカヌーの縁を掴むクララの血に染まった手を見つめ、それからエドの目を冷ややかに見つめて正直な答えを求めた。「エド、翻訳してくれ。この人は一体何を言うとるんや?」
エドは生唾を激しく込み上げた。彼女の口から放たれた「全員喰われた(ate them all)」と「チェーンソー(chainsaws)」という言葉を耳にした瞬間、彼の全身の細胞が突如として凍りついた。昼間に古い給油所で目にした、あの血の付着したチェーンソーの不吉な予感が、いま恐ろしい現実となって目の前に突きつけられたのだ。エドは押し寄せる恐怖を必死に堪えながら、震える声でクララの言葉を日本語へと露骨に翻訳し始めた。
「蓮……千佳……芽衣……この人はカナダから来た、クララ・ヴァンスという名前の人だ」エドは静まり返った死水の上で、消え入りそうな声で囁いた。「彼女は……今すぐ引き返せと言っている。ここは観光地なんかじゃない。この湿地林の奥には……人間を狩るサイコパスの家族がいるんだって。彼女の夫と子供たちは……あの隔離された家の中で、捕らえられて生きたまま全員喰われたんだと言っている」
その瞬間、千佳と芽衣の口から押し殺した悲鳴が漏れ出た。カヌーの上の空気は一気に精神的なパニックへと陥った。しかし、ウィリアムとエドがクララのカヌーを手繰り寄せてメインの乗り場へと引っ張ろうと行動を起こす前に、クララ・ヴァンスは突然カヌーの縁から手を離した。彼女の顔は死人のように青ざめ、見開かれた両の目は、エドのカヌーの遥か後方に広がるイトスギの古木の闇の迷路を狂気じみて見つめていた。女性は血に染まった人差し指を立てて黒い濃霧の奥を指差すと、最期の最も恐ろしい悲鳴を上げた。
まさにその秒、それほど遠くない霧の壁の向こう側から、ひどく重苦しい機械の紐を引く音が静まり返った沼に響き渡った。
――ブオォォォン……!! ブロロロロロロン!!!
巨大なチェーンソーの金属刃の咆哮が、突如としてキャド湖の夜の静寂を破り、死水の手触りの上で激しく振動した。その鋭い刃の咆哮はひどく飢えており、残酷で、霧を切り裂きながらゆっくりと、しかし確実に2艇のカヌーの位置へと真っ直ぐ前進してきていた。狂乱に達したクララ・ヴァンスが恐怖のあまり突然黒い沼の水の中へと飛び込み、逃げ惑う中で第6話は幕を閉じる。急速に接近してくる死のメロディの渦中に囚われた5人の仲間は、カヌーの上で完全に身動きを失い、恐怖に凍りつくのだった。
第6話をお読みいただき、ありがとうございました!
都会の喧騒から一転、キャド湖の暗い水面の上でついに本当の恐怖が幕を開けました。クララが告げた恐ろしい現実と、霧の向こうから響くチェーンソーの咆ッセージに、エドたちのサバイバルが本格的に始まります。
次回の第7話では、パニックに陥った彼らが霧の中で散り散りになり、エドの科学的な判断力が命を繋ぐ唯一の武器となります。果たして、この血に飢えた家族の追跡から逃れることができるのか?
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