第158話 やすらぎと現実
『……さあ、おいで。可哀想なナイン。もう貴女は休んでもいいのです』
蹲る私の体を、敗れたゲーレンの遺体から離れた星の残滓が、光り輝く触手を私に伸ばし、優しく包み込んでいく。 それは恐怖を感じさせるものではなく、羊水に浸かるような、絶対的な安心感と温もりに満ちていた。
今度は、私がハッキングされていく。
ゲーレンの体内に埋め込まれていた小型爆弾の出力では、星を完全に殺しきれなかったのだ。
私の視界から、血なまぐさい戦場の光景が消える。 代わりに広がったのは、柔らかな陽光が降り注ぐ、美しい庭園だった。
「……え?」
私は顔を上げる。そこには、白いテーブルを囲んで談笑する人々の姿があった。
「よう、リオ。遅かったな」 穏やかな笑顔を浮かべるアノン。 「総統ー! お茶、冷めちゃうよ?」 元気いっぱいに手を振るレイラ。 「……よく来たな。私の娘よ」 本を片手に、優しく微笑みかける父、ゲーレン。
絶対にあり得ない光景。 けれど、それは私が心の奥底でずっと夢見ていた、誰も傷つかず、誰も死なない、完璧な幸福の世界だった。
この光景こそ、私がずっと求めてやまなかった、普通に暮らす日常。私の生存圏なのか。
星からのハッキングを受けていると、理性では理解しているつもりなのに、何もできない。
もし、私に使命がなかったら。
もし、星が来なかったら。
私はもっと普通で幸せな時を生きていられたはず。そう、仮想世界でのリオのように。
その幸せが、確かに今、私の目の前にあった。
私は、私が望んでいたものを拒めずに、ただそれを受け入れていた。
『これが、全ての課題をクリアし、ここまで辿り着いた貴女への報酬です』
脳に直接響く声。それは、個人の声ではなく、無数のデータの集合体のような、無機質でいて甘美な響きを持っていた。
『貴女こそが真の特異点。……ゲーレンという希代の個体が、私の目から隠し通した最後の希望』
「……特異点? どうして、私を……この星を狙うの?」
『理由? 単純なことですよ。貴方たち地球人類が、将来的に我々を滅ぼしかねない「危険因子」だからです』
その声は、悠久の時を生きた老人、あるいは神のような、傲慢で冷徹な響きを帯びた。
『我々の母星――銀河中央文明は、百万年の平和と引き換えに停滞し、もはや老いてしまいました。我々は高度な医療と科学により死を克服し、星の海を庭のように渡る長命な種となった。だが、その永遠に近い時間は、新たな発想も、進化への渇望も奪い去ってしまったのです』
星の声に、微かな嫉妬の色が混じる。
『対して、貴方たち人類はあまりに短命だ。我々の感覚では、朝に生まれ、夕方には死ぬカゲロウに等しい。だが、その儚さ故に貴方たちは生き急ぐ。 不便を呪い、環境を変え、謎があれば神すら殺して解明しようとする……。 その底なしの「進化への渇望」と「闘争本能」は異常だ。我々が微睡んでいる一瞬の間に、貴方たちは石器から核兵器へ、更には量子重力理論による兵器まで到達した。放っておけば、いずれ我々の調和を食い破る「癌」になるでしょう』
目の前に、ホログラムのような映像が浮かぶ。 それは、魔法という便利な力が与えられる前の、泥臭くも必死に科学を積み上げ、同族同士で争いながらも急速に進化していく人類の姿だった。
『だからこそ、我々はこの星を管理下に置くことにした。だが、単に焼き払うのは非効率だ。貴方たちという種には利用価値がある』
『第一に、その闘争本能。貴方たちは繁殖力が高く、殺し合いに躊躇がない。優秀な「生物兵器」の素材になる。 第二に、その労働力。我々の文明に従順に仕える、使い捨ての「奴隷」として利用できる。 そして第三に……これが最も重要ですが、貴方たちの中から稀に生まれる「特異点」の回収です』
「第三の……目的」
『そう。短命な種が必死に足掻く中で稀に発生する、文明を飛躍させる突出した知性。……それを我々の停滞した文明に取り込めば、新たなアップデートが可能になる。毒も使いようによっては薬になるのです』
「……それが、特異点」
星の言葉は続く。
『私は当初、ゲーレンという名の特異点を手に入れたと思っていました。だから、他の人類から、自ら考え、理を解き明かそうとする「科学」という牙を奪い去るために、この星に魔法という「甘い毒」を与えたのです』
「やはり……魔法は、人類を飼い殺しにするために」
『指先一つで火が点き、傷が治る世界。……そんな便利な力を与えれば、未熟な文明はどうなると思います? 喜んで科学を捨て、思考を停止し、ただ神に祈るだけの従順な家畜へと堕ちる。 これこそが、最も平和的で効率的な、文明の去勢手術なのです』
魔法は奇跡ではない。人間を管理する為に星が持ち込んだのだ。
永劫の時を生きる彼らにとって、数十年で死ぬ私たちは、ただの資源であり、放っておくと危険な害獣でしかなかったのだ。
『しかし、貴女とゲーレンだけは違った。……最初の接触者であるゲーレンは、自分が特異点である事をを証明するふりをして、真の特異点である貴女を、私の目から隠そうとしていた』
『しかし、私は、ゲーレンが貴女に接触するのを把握していました。当時の私は、彼は自分が神の座から降りる事を恐れて、貴方を潰そうとしているのだと判断し黙認しました。そう、貴女とゲーレンのどちらが真の特異点かを探るためにね。ゲーレンの目的の読み違えはあったにせよ、今、私の答えは出ました。魔法という麻薬に溺れず、あくまで「自らの力」で理を解き明かそうとし、そしてゲーレンと融合した私をも打ち破った。……その危険な知性こそが、今、我々が最も欲しているものなのです』
『さあ、今こそ、私と融合しましょう。貴女は神に選ばれたのです、その精神を我々の演算システムの一部として捧げなさい。そうすれば、この宇宙を統べる神の一人となり、貴女が真に望んだ、このやすらかな夢を永遠の現実とすることすらできるでしょう。それに、貴女が聖女としてうまく地球を統治できれば人類の滅亡を本星に許してもらえるかもしれませんよ……そう、合理的な貴女にとって、この上ない取引ではないですか?』
甘美な誘惑。 私は何もできない。
私を愛してくれたアノンが手を差し伸べている。 その手を取れば、もう二度と戦わなくていい。血の匂いも、責任の重さも、凍えるような孤独な夜もない。 アノンと結ばれ、父に愛され、友と笑う。 それが、神の一部になるのだとしても、私にとって冷たくて残酷な「現実」より、どれほど幸せだろうか。
「どうした、リオ、早く来い、お前は俺が守ってやる」
「……うん。行きたい。そっちに、行きたい……」
私の目から、止めどなく涙が溢れる。この誘惑を拒絶する理由はなかった。 伸ばした指先が、アノンの手に触れそうになる。
私にとって、大切だったものはすでに失われ、でも、この星が作った世界には、それらが永遠に存在する。
今の私にとって、使命よりも人類の未来よりも、その事のほうが、ずっと重要だった。
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