↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
98/228

第12節 ― 受付へ戻された鍵

 受付裏の表側対応盤には。


 C―17――五〇九号室。


 変わらない表示が残っていた。


 裏側に再現された五〇七号室への分岐は、すでにオーリンの手で外されている。呼鈴記録機も、何事もなかったように次の信号を待っていた。


 五〇七号室は移動していない。


 移されたのは、そこにいた客の記録だけだった。


 だが。


 記録誤帰属の仕組みが分かっても、コンラッド=ヘイルの後頭部を殴った者までは示されていない。


 レオンは、受付台の内側に並ぶ鍵掛けを見ていた。


 客室番号ごとの真鍮の鉤。


 客が外出したとき。


 清掃を終えたとき。


 使用していない部屋の鍵は、そこへ戻される。


 五〇七号室の鉤だけが空いていた。


「警部は?」


 ミラベルが尋ねた。


「鍵を取りに行った」


「先生が頼んだんですか」


「本人が気づいたことにしてやれ」


「聞こえとるぞ」


 従業員通路から、グレアムの声が返った。


 現れた警部の後ろには、現場担当の警官と検視係が続いている。


 グレアムは受付台の一部を空けさせ、灰色の証拠布を広げた。


 その中央へ置かれたのは。


 五〇七号室の鍵だった。


 細長い鉄の鍵。


 その端には、掌へ収まり切らないほど重い真鍮製の鍵飾りが付いている。


 表には五〇七の数字。


 裏には灰冠ホテルの冠の紋章。


 客が衣服の内側へ入れても、その重さを忘れられない鍵だった。


「発見時、ブルーノ支配人が受付の鍵掛けから持ってきた」


 グレアムが言った。


「五〇七号室を開けたあと、警察がその場で証拠品として回収した。以後は検視係と現場担当の管理下だ」


「今朝、鍵掛けにあったことを確認した人は?」


 ミラベルが尋ねる。


「夜勤受付、朝の受付係、ブルーノ支配人」


「昨夜からずっと掛かっていたことは?」


「証明できん」


 グレアムは答えた。


「午後十時台は、舞踏会と客の出入りで受付も混雑していた。一つの鍵を、夜通し見張っていた者はいない」


「今朝そこにあったことと」


 ミラベルは記録帳へ書く。


「昨夜ずっとそこにあったことは別」


「そういうことだ」


 ブルーノが、証拠布の鍵を見た。


「閉鎖中の客室です。鍵は受付へ置かれているはずでした」


「今日だけで、何度目の『はず』だ」


 グレアムの声に。


 ブルーノは口を閉じた。


 レオンは、すぐには鍵へ触れなかった。


 鍵本体。


 輪。


 鎖の継ぎ目。


 重い真鍮飾り。


 表面の五〇七。


 冠の紋章。


 第一発見時から、不自然に明るかった平面。


 その一方で。


 数字の溝と鎖の根元には、磨き残された暗い汚れがある。


「五〇七号室の錠へ合うことは確認済みだ」


 グレアムが言った。


「複製でもない」


「見ているのは、鍵の歯ではない」


 レオンが答えた。


 ミラベルは真鍮飾りへ顔を近づける。


 証拠には触れない。


「平らな面だけが磨かれています」


「閉鎖中の部屋の鍵を、誰かが磨いた」


「少なくとも、表面を拭いた」


 ブルーノが口を開く。


「客室鍵は、通常――」


「客へ渡す鍵なら磨く」


 ドロテアが先に答えた。


「でも五〇七号室は三日前から閉鎖中だよ。通常の磨きには回していない」


「鍵管理係にも確認済みだ」


 グレアムが言う。


「閉鎖前に磨いたのが最後だそうだ」


 検視係が、小さな証拠容器を証拠布の脇へ置いた。


 中には。


 五〇七の数字の溝から採取された、ごく少量の赤褐色の付着物が収められている。


「先ほど分析が終わりました」


 検視係が言った。


「この付着物は、血液です」


 受付裏の空気が変わった。


 ネリーが口元を押さえる。


 ブルーノは、真鍮飾りから半歩離れた。


 ラヴィニアは表情を崩さなかったが、胸元の銀の留め具へ置いた指へ力が入った。


「コンラッドの血か」


 レオンが尋ねる。


「個人まで特定できる検査ではありません」


 検視係は慎重に答えた。


「ただし、遺体の傷から採取された血液と比べ、色調、凝固、乾燥の進み方に矛盾はありません。付着した時期も、事件時刻と合います」


「別人の血である可能性は、理屈の上では残る」


 ミラベルが確認する。


「残ります」


「血液だけでは、凶器と断定できない」


「それだけならな」


 グレアムは、別の証拠布を開いた。


 検視時に作成された後頭部の傷の図。


 頭髪と皮膚の裂けによって、打撃面の全体は残っていない。


 それでも。


 傷の幅。


 直線に近い縁。


 一端へ集中した深い損傷。


 角を持つ重量物で殴られた形が読み取れた。


 レオンは薄い手袋をはめ。


 真鍮飾りを、鎖の部分から持ち上げた。


 掌へ乗せる。


 重い。


 人の頭部へ振り下ろせば。


 十分な損傷を与えられる重量だった。


 飾りの厚い縁を。


 傷の図と同じ向きへ合わせる。


 検視係が計測器を当てた。


「幅は一致します」


「角の形も」


 ミラベルが言う。


「同じ幅と角を持つ物なら、似た傷を作れる」


 レオンは、すぐに範囲を区切った。


「この形の傷を作れる物が、世界にこれ一つという意味ではない」


「だが」


 グレアムが続ける。


「五〇七号室へ入るための鍵に付いていた。表面だけが拭かれている。刻印の奥には事件時刻と矛盾しない血が残った。傷の幅と角にも合う」


 レオンは真鍮飾りを証拠布へ戻した。


「現場とホテル内で確認された物の中では、これを凶器と考えるのが最も合理的だ」


「なら、市警は凶器として扱う」


「異論はない」


 ミラベルは。


 五〇七号室の鍵を見た。


 部屋へ入るための物。


 扉を閉ざすための物。


 閉鎖中の部屋が、誰にも使われていないと示すため。


 受付へ戻されていた物。


 それが。


 コンラッドを殴った凶器でもあった。


「犯人は、この鍵を持って五〇七号室へ入り」


 ミラベルが言った。


「真鍮飾りで殴った」


「その可能性が高い」


 レオンが答える。


「表面の血を拭き」


 グレアムが続けた。


「鍵掛けへ戻した」


「戻さなければ」


 レオンは、空になった五〇七号室の鉤を見る。


「翌朝、閉鎖中の部屋の鍵がなくなっていることに気づかれる」


「死体が発見される前に」


 ミラベルが言った。


「誰かが五〇七号室へ入ったと分かってしまう」


 ブルーノが苦い顔をした。


「客室鍵へ触れられる者は、一人ではありません」


「そうだ」


 レオンは認めた。


 総支配人。


 宿泊記録主任。


 夜勤受付。


 客室管理主任。


 非常時には警備員。


 鍵だけを見れば。


 扱う機会のある者は複数いる。


「この鍵だけでは、犯人を一人へ絞れない」


 ミラベルが言った。


「鍵だけならな」


 レオンは、これまでの記録を思い返すように。


 集められた者たちを見た。


「五つの条件を確認する」


 密封随伴票へ、締め処理前に触れられる。


 五〇九号室の料金訂正を処理できる。


 C―17の分岐解除を設備主任へ命じられる。


 五〇七号室の一時使用と客室鍵を扱える。


 密封客の身分と所属を管理できる。


「一つずつなら」


 レオンが言った。


「該当する者は複数いる」


 当日用綴りには、エドモンド以外の記録係も業務上近づくことがある。


 料金訂正は、総支配人や会計責任者にも権限がある。


 設備を実際に動かしたのはオーリン。


 鍵を手にできる者も、一人ではない。


 ブルーノは五〇七号室の使用を許可していた。


「だが」


 レオンは、エドモンドへ視線を向けた。


「五つの条件すべてへ、業務上到達できたのは、宿泊記録主任だけだった」


 エドモンド=ケイルは。


 いつもと変わらない姿勢で立っていた。


 黒い上着。


 整えられた襟。


 上着の前へ重ねた指。


「役職が条件を満たすことと」


 エドモンドが言った。


「私が殺したことは同じではありません」


「その通りだ」


 レオンは即座に認めた。


「今の段階で確定したのは、君がすべてへ触れられたことだけだ」


「訂正印も、私の物ではありますが、私が押したとは確定していない」


「そうだ」


「鍵も、私だけが使える物ではない」


「そうだ」


「それなら」


「だから、君の事務室を調べる」


 グレアムが部下へ手を上げた。


「すでに封鎖させてある」


 ブルーノが顔を上げる。


「警部。記録主任の事務室には、事件と無関係な宿泊者の情報が――」


「持ち出す物は事件関係だけだ」


 グレアムが答えた。


「机も帳簿も、本人と支配人の立ち会いで確認する」


「令状は」


 エドモンドが尋ねた。


「正式な令状を取ることもできる」


 グレアムの声は低かった。


「その場合、事務室を閉鎖したまま裁判官の判断を待つ。帳簿箱も印章箱も、誰にも触らせん」


 エドモンドは、短く息を吸った。


「任意の確認であれば」


 グレアムは続ける。


「捜索範囲を、コンラッド=ヘイル、五〇七号室、五〇九号室、C―17、当日用綴り、料金訂正、客室鍵に関係する書類へ限定する。その条件を同意書へ書く」


 ブルーノは。


 ホテルの理念が刻まれた壁と。


 血の残った鍵を見た。


「関係のない客の記録は、警察も記者も閲覧しない」


「市警の部下には俺から命じる」


 グレアムが言う。


「ワトリア嬢は?」


 ミラベルは記録帳を閉じた。


「必要のない名前は見ません。見えても書きません」


 ブルーノは、しばらく黙っていた。


 やがて。


「ホテルを代表して、範囲を限定した任意捜索へ同意します」


 エドモンドへ視線を移す。


「記録主任」


 エドモンドは。


 証拠布に置かれた鍵を一度だけ見た。


「私も同意します」


 警官が作成した書面へ。


 ブルーノとエドモンドが署名する。


 グレアムが確認し。


 立会人として部下が署名した。


「では始める」


     ◇


 エドモンドの事務室は。


 密封宿帳庫の隣にあった。


 壁一面の帳簿棚。


 客室配置図。


 料金訂正票。


 鍵の受け渡し表。


 個人印を収める箱。


 机の上では。


 筆記具が同じ角度へ揃えられている。


 未処理書類は左。


 確認済みの書類は右。


 宿泊者の秘密を。


 正しい部屋。


 正しい勘定。


 正しい綴りへ収め続けた男の仕事場だった。


 グレアムは警官二名へ指示を出した。


「開く前に、引き出しと書類の位置を記録しろ。事件と関係のない客の名は声に出すな。範囲外の書類は表題だけ確認し、その場へ戻せ」


 ブルーノが、わずかに顔を上げる。


「生きている客の秘密は守る」


 グレアムは言った。


「死んだ男の記録だけを探す」


 捜索が始まった。


 印章箱。


 訂正印の使用簿。


 鍵の受け渡し記録。


 部門予備費の控え。


 私的な送金票。


 当日用綴りに関する作業書類。


 一つ開くごとに。


 位置。


 枚数。


 順番が記録される。


 エドモンドは、自分の机から少し離れた場所へ立っていた。


 両側に警官。


 本人の同意で始まった捜索だが。


 書類へ手を伸ばすことは許されない。


「何を探しているんです?」


 ミラベルが、レオンへ小声で尋ねた。


「コンラッドとの関係」


「送金控え」


「可能性はある」


「切り取られた随伴票」


「それもだ」


「でも、証拠なら処分している方が自然ですよね」


「自然だ」


「では、見つからない可能性の方が高い」


「証拠探しに、見つかる保証はない」


「先生は、捜索中にも希望のない言い方をしますね」


「希望で引き出しは開かない」


 机の下段を調べていた警官の手が止まった。


「警部」


 引き出しの奥から。


 灰色の文書箱が出される。


 表題は。


 《宿泊記録主任・個人控え》。


 グレアムが中身を確認する。


 部門予備費の支出票。


 業務上の立替記録。


 私的な送金控え。


 日付順に揃えられている。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 途中で。


 グレアムの指が止まった。


「クラウス」


 レオンが横へ並ぶ。


 送金控えの差出人は。


 エドモンド=ケイル。


 受取人は。


 コンラッド=ヘイル。


 一枚ではなかった。


 異なる日付。


 異なる金額。


 古いものから新しいものまで。


 複数の送金が記録されている。


「何の金だ」


 グレアムが尋ねた。


 エドモンドは答えない。


「貸付か」


 沈黙。


「借金の返済か」


 沈黙。


「ホテルの客に関する取引か」


 エドモンドの顎が。


 わずかに固くなった。


「答えないなら、用途不明の送金として記録する」


 グレアムは送金控えを証拠布へ置いた。


 これだけで。


 金の意味までは確定しない。


 だが。


 コンラッドとエドモンドが。


 事件当夜に初めて関わった者同士ではないことは確定した。


 二人は。


 以前から、金銭によってつながっていた。


「こちらを確認してください」


 別の警官が言った。


 机上の右端。


 翌日へ回す《再処理書類》をまとめた厚紙の綴りがある。


 料金訂正で差し戻された書類。


 付属室変更届。


 記入不備によって、翌日に書き直す予定の票。


 警官は。


 その綴りの中央へ挟まれていた灰色の紙を指した。


 未使用票ではない。


 細長い随伴票。


 綴じ穴の縁には。


 切断された灰色の糸が短く残っている。


「位置を記録しろ」


 グレアムが言った。


 警官が。


 どの書類とどの書類の間に挟まれていたかを書き留める。


 写真板で位置を残したあと。


 票だけを、証拠布へ移した。


 ブルーノの顔色が変わる。


「密封随伴票です」


 レオンは、記載欄を順に見た。


 主室。


 五〇九号室。


 随伴者人数。


 一名。


 付属室。


 五〇七号室。


 緊急識別符号。


 C―17。


 そして。


 最下部の責任署名欄。


 ラヴィニア=セレス。


 流麗なエルフ式の署名が記されていた。


「セレス夫人の責任署名」


 ミラベルが言った。


「本人は、随伴者を許可していないと証言している」


「公開宿帳と、主室契約書の署名を持ってこい」


 グレアムが命じる。


 ブルーノの立ち会いで。


 ラヴィニア本人が記した二つの署名が運ばれる。


 レオンは三枚を並べた。


 公開宿帳。


 主室契約書。


 切り取られた随伴票。


 同じ名前。


 同じ形を真似ようとした線。


 だが。


 完全には一致しない。


 本物の署名は。


 最初の文字へ力を込め。


 途中から、細い線で流れる。


 末尾は。


 一度紙からペンを離し、短い払いを加えていた。


 随伴票の署名は。


 その形を写している。


 しかし。


 線の太さが初めから終わりまで同じ。


 本来一度離れる場所が。


 一筆でつながっている。


「形を見て写した署名です」


 レオンが言った。


「筆順と力の入れ方が違う」


「本人へ確認する」


 グレアムが言う。


 ラヴィニアが事務室へ呼ばれた。


 警官の説明を聞き。


 証拠布へ置かれた票を見る。


 五〇九号室。


 随伴者一名。


 五〇七号室。


 C―17。


 そして。


 自分の名。


「これは」


 彼女の声が。


 初めて、明確に硬くなった。


「わたくしの署名ではありません」


「間違いないか」


 グレアムが尋ねる。


「わたくしは、この票を見たこともありません」


 ラヴィニアは、本物の主室契約書と見比べた。


「この末尾の線は、わたくしならこうは書きません」


 レオンが指摘した部分と同じだった。


「署名を真似た者がいる」


 ミラベルが言う。


「そして、その票がエドモンドさんの事務室にあった」


 レオンは、すぐに結論を急がなかった。


「まず、票そのものを照合する」


 ブルーノが。


 エドモンドと二つの鍵で密封宿帳庫を開ける。


 昨夜収蔵された当日用綴りは。


 警官の立ち会いの下で隣の事務室へ運ばれた。


 切断された綴じ糸。


 抜けている一枚分の位置。


 紙の幅。


 裁断面。


 綴じ穴の間隔。


 残った糸の色と太さ。


 発見された票を。


 失われた箇所へ重ねる。


 穴の位置が合う。


 紙の縁も。


 糸の切断面も。


「間違いありません」


 ブルーノが。


 掠れた声で言った。


「昨夜の当日用綴りから外された票です」


 票が綴じられていた位置。


 五〇九号室の主室契約。


 随伴者一名。


 付属室五〇七。


 緊急識別符号C―17。


 偽造された、ラヴィニアの責任署名。


 それは。


 コンラッドの滞在を。


 ラヴィニアの契約へ所属させるために作られた票だった。


 ミラベルは、エドモンドを見る。


 彼は。


 もう、書類を見ていなかった。


 整えられた机。


 過去の送金控え。


 切り取られた随伴票。


 偽造された責任署名。


 自分が管理してきた記録によって。


 逃げ道を、一つずつ塞がれている。


「エドモンド=ケイル」


 グレアムが言った。


「コンラッドへの過去の送金控えが、あんたの個人記録から出た」


 返事はない。


「二人に以前から金銭関係があったことは、これで確認できる」


 エドモンドは黙ったままだった。


「密封随伴簿から切り取られた票が、あんたの事務室の再処理書類から出た」


 返事はない。


「主室五〇九。付属室五〇七。C―17。責任署名は、ラヴィニア=セレスの偽造署名だ」


 エドモンドの指が。


 上着の前で強く重なる。


「これで」


 ミラベルが言った。


「エドモンドさんが、コンラッドさんを以前から知っていたことは確定しました」


「少なくとも、送金を行う関係にあった」


 レオンが正確に言い直す。


「そして、この偽造票を作り、当日用綴りから外した記録偽装へ直接関与したことも、否定できない」


「票を作った者までは――」


 エドモンドが口を開く。


「では」


 レオンが遮った。


「なぜ、ラヴィニアの偽造署名がある切り取り票を、君の事務室の《再処理書類》へ挟んでいた」


 エドモンドは答えなかった。


「なぜ処分しなかった」


 グレアムが問う。


 沈黙。


「書き直すつもりだったのか」


 沈黙。


「綴りへ戻すつもりだったのか」


 エドモンドの視線が。


 ほんの一瞬だけ。


 切られた綴じ穴へ向いた。


 それ以上の答えはなかった。


 なぜ票を残したのか。


 何を再加工し。


 どこへ戻そうとしていたのか。


 その理由は。


 まだ、本人の口から聞かなければならない。


 グレアムは。


 証拠布の上へ、五〇七号室の鍵を置いた。


 真鍮飾り。


 拭われた表面。


 刻印に残った血。


 傷口と矛盾しない幅と角。


「この鍵を使った者は、まだ物証だけでは一人に決められん」


 グレアムが言う。


「だが、あんたは鍵を扱えた」


 エドモンドは答えない。


「C―17の分岐を外させた」


 沈黙。


「料金訂正にも、あんたの印がある」


 沈黙。


「当日用綴りから外された偽造票が、あんたの事務室にあった」


 沈黙。


「そしてコンラッドとは、事件前から金でつながっていた」


 グレアムは。


 五階へ続く天井を見上げた。


「殺した理由と」


 低い声だった。


「五〇七号室で何が起きたのかは、まだ聞いていない」


 エドモンドの顔から。


 宿泊客へ向ける礼儀正しい表情が。


 少しずつ抜け落ちていく。


「ここで話すか」


 グレアムが尋ねた。


「それとも」


 五〇七号室のある上階へ視線を向ける。


「あの男が死んだ部屋で話すか」


 エドモンドは。


 しばらく何も言わなかった。


 やがて。


 上着の前で重ねていた手を、ゆっくり下ろす。


「……五〇七号室で」


 声は。


 これまでと同じように静かだった。


 だが。


 もう。


 宿泊記録主任の声ではなかった。


 グレアムが部下へ告げる。


「連れていけ」


 警官が、エドモンドの両側へ立つ。


 ミラベルは。


 机の上に残された随伴票を見た。


 主室五〇九号室。


 随伴者一名。


 付属室五〇七号室。


 C―17。


 偽造された責任署名。


 名前のない一人の客。


 けれど。


 その客の名は。


 もう、誰にも分からないものではなかった。


 コンラッド=ヘイル。


 彼が食べたことを。


 眠ったことを。


 湯を使ったことを。


 最後に鈴を鳴らしたことを。


 ホテル中の記録が、別々に覚えていた。


 そして今。


 彼を殴った鍵もまた。


 受付へ戻された場所から。


 死者のために、証言を始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。