第11節 ― 空室は移動していない
停止していた観測が。
再び、動き始める。
夜の灰冠ホテルは、表と裏で異なる時間を刻んでいた。
正面広間では、楽団が最後の演奏を終えたらしい。壁一枚を隔てた向こうから、椅子を引く音と、宿泊客たちの低い話し声が聞こえてくる。
舞踏室の灯りは落とされ。
食堂では、遅い夕食の銀器が片づけられている。
ホテルは。
殺人事件など起きていないような顔で、営業を続けていた。
受付裏だけが。
その顔の内側をさらしている。
壁には、呼鈴記録機。
その隣には、室符号対応盤。
表側の真鍮札には。
今も変わらず。
C―17――五〇九号室。
と記されている。
長机には、三日分の業務記録が置かれていた。
配膳票。
湯の使用票。
洗濯票。
新聞配達欄と暖房弁の記録。
午後十時十八分を印字した呼鈴記録。
五〇九号室の追加料金を、午後十一時十分に一括訂正した会計簿。
すべて。
元の位置と順番を警官が記録したうえで、必要な部分だけが並べられている。
その前には。
灰冠ホテルの関係者が集められていた。
総支配人ブルーノ=ホルツ。
客室管理主任ドロテア=ベルク。
設備主任オーリン=ヴォス。
宿泊記録主任エドモンド=ケイル。
見習い女中ネリー=コーム。
五〇九号室の宿泊者、ラヴィニア=セレス。
夜勤給仕も。
少し離れた壁際に立っていた。
誰も、隣の者と話さない。
呼鈴記録機の歯車だけが。
沈黙の中で、規則正しく回っていた。
「これは、何のためです」
ブルーノが尋ねた。
「無関係なお客様まで、従業員区画へ呼び出す必要があったのでしょうか」
「五〇九号室へ付いた記録が、何を証明するのか確かめるためだ」
グレアムが答えた。
怒鳴ってはいない。
むしろ。
普段より静かな声だった。
「セレス夫人には、すでに十分なご迷惑を――」
「迷惑をかけたのは、警察だけではないだろう」
グレアムの一言に。
ブルーノは口を閉じた。
ラヴィニアは何も言わない。
黒灰色の衣装に身を包み。
胸元の銀の留め具へ片手を重ねている。
視線は。
室符号対応盤の前に立つレオンへ向けられていた。
その隣では。
ミラベルが記録帳を開いている。
「全員へ同じものを見せるんですね」
彼女が小声で尋ねた。
「同じ時刻に。同じ場所でな」
「説明を聞くだけでは足りない?」
「説明は、聞いた者の都合で変わる」
レオンは言った。
「装置がどう動いたかは、全員の目の前で一度だけ示せばいい」
「始めろ、クラウス」
グレアムが言う。
「俺は宿屋の設備係じゃない。見れば分かるようにやれ」
「警部はドワーフだろう」
「ドワーフが全員、管と歯車を見ただけで理解できると思うな」
「違うんですか?」
ミラベルが尋ねる。
「ワトリア嬢まで何を言っとる」
張り詰めた室内へ。
ほんの一瞬だけ。
人間の呼吸が戻った。
レオンは、表側の対応盤を示した。
「ミラベル」
「はい」
「現在、C―17は何号室として扱われている」
「五〇九号室です」
「根拠は」
「表の対応盤に、C―17――五〇九号室とあるからです」
「昨夜も同じだった」
ネリーが言った。
「午後十時十八分に呼鈴を受けたときも、この表示でした」
レオンは頷いた。
「この札は動かさない」
オーリンが、わずかに顔を上げた。
現行の表示を記録するため。
警官が対応盤の配置を書き写す。
C―17。
五〇九号室。
留め具の位置。
札の周囲へ積もった煤。
それらを確認したグレアムが。
オーリンへ顎を向けた。
「裏を開けろ」
設備主任は腰の保守鍵を外した。
「ほかの系統には触れません」
「作業前と後は、警察が記録する」
「それなら」
真鍮製の保守扉へ鍵を差し込む。
低い金属音。
扉の内側には。
表側の整然とした札とは異なる、設備そのものが現れた。
細い金属管。
被覆された呼鈴線。
増築と改装のたびに追加された接続金具。
その中に。
C―17の本線がある。
本来の線は。
今も五〇九号室へつながっていた。
その脇には。
現在、何も接続されていない分岐端子がある。
新しい工具傷の残っていた場所だった。
「事件前の状態を再現しろ」
グレアムが命じる。
オーリンは工具箱から細身の器具と、短い分岐線を取り出した。
端子のねじを緩め。
C―17の本線へ、分岐金具を重ねる。
そこから延びる線を。
五〇七号室へ続く系統端子へ接続した。
ねじを締める。
金属が擦れる、小さな音。
それだけだった。
壁が動くことも。
廊下が曲がることも。
五〇七号室と五〇九号室が入れ替わることもない。
「接続を確認します」
オーリンは検査器具を当て。
二つの端子へ信号が通ることを確かめた。
「これで、事件前と同じ状態です」
「説明しろ」
グレアムが言った。
「C―17の本来の接続先は、五〇九号室です」
オーリンは。
五〇九へ続く本線を示す。
「それを外さずに、五〇七号室へ分岐を追加しました」
「つまり」
ミラベルが言った。
「五〇九号室と五〇七号室の、どちらから呼鈴を引いても」
「受付へ入る信号はC―17だ」
「表側の対応盤は?」
「五〇九号室のままです」
全員の視線が。
表側の真鍮札へ集まる。
C―17――五〇九号室。
表示には。
何の変化もなかった。
「ネリー」
グレアムが呼ぶ。
「はい」
「警官と五階へ行け。五〇七号室の呼鈴を使う」
ネリーの顔へ。
今朝、扉の下の灯りを見たときの恐怖が、わずかに戻った。
ミラベルが彼女を見る。
「無理なら、ほかの人に頼みます」
ネリーは首を横に振った。
「わたしがやります」
警官に伴われ。
彼女は受付裏を出ていった。
レオンは。
五階と通じる伝声管の蓋を開く。
待つ。
しばらくして。
管の奥から、警官の声が返った。
「五〇七号室。入室者、ネリー=コーム。警官二名立ち会い。室内の呼鈴以外には触れていません」
「ネリー」
レオンが呼びかける。
「聞こえます」
「呼鈴紐を、一度だけ引け」
「はい」
管の向こうで。
短く息を吸う音がした。
一拍。
受付裏の呼鈴装置が鳴った。
鋭く。
澄んだ音が。
狭い室内を貫く。
同時に。
呼鈴装置の小札が跳ね上がった。
C―17。
記録機の歯車が動く。
細い紙が一目盛り進み。
活字が紙面を打った。
乾いた音。
全員が。
新しく印字された一行を見る。
現在時刻。
C―17。
それだけだった。
五〇七号室という文字はない。
五〇九号室という文字もない。
「表の盤を見ろ」
グレアムが言った。
C―17――五〇九号室。
変わらない表示。
「今、呼鈴が鳴った部屋は?」
レオンが問いかけた。
誰も、すぐには答えなかった。
目の前の盤だけを読めば。
五〇九号室。
だが。
全員が、呼鈴紐を引いた者の居場所を知っている。
「五〇七号室です」
ミラベルが答えた。
「記録には?」
「C―17だけ」
「対応盤では?」
「五〇九号室」
レオンは伝声管へ向かう。
「確認した。呼鈴には、それ以上触れるな」
警官の復唱を聞き。
蓋を閉じた。
それから。
印字されたばかりの紙を、全員から見える位置へ置く。
「ネリーが五〇七号室の呼鈴を引いた」
レオンが言った。
「我々は、それを知っている」
「立ち会っていたからです」
ミラベルが続ける。
「だが、機械が残したのはC―17だけだ」
「後日、この紙だけを見る人には」
ミラベルは表の対応盤を見る。
「五〇九号室からの呼鈴に見えます」
「そうだ」
オーリンが。
裏側の分岐へ手を伸ばす。
「外します」
警官が、時刻と作業内容を記録する。
オーリンは。
五〇七号室へ延びていた分岐線だけを外した。
本来の五〇九号室への線には触れない。
ねじを締め直し。
検査器具で確認する。
「五〇七号室への分岐、解除」
「現在の接続は」
グレアムが問う。
「C―17から五〇九号室だけです」
保守扉の内側から。
五〇七号室へつながっていた物理的な線が消えた。
だが。
印字紙の一行は変わらない。
現在時刻。
C―17。
「今、この紙を初めて見たとする」
レオンは言った。
「五〇七号室への分岐は、もう存在しない」
全員が。
表の対応盤を見る。
C―17――五〇九号室。
「呼鈴は、どこから鳴ったと判断する」
「五〇九号室」
夜勤給仕が、小さく答えた。
「俺もそう読む」
ブルーノが言った。
「ホテルの正規の対応です」
ドロテアも、表情を硬くしたまま頷く。
「実際には」
ミラベルが言った。
「五〇七号室で鳴らしました」
「だが、その事実は」
レオンは印字紙を指す。
「ここには残っていない」
ネリーが。
五階から戻ってきた。
警官に伴われ。
受付裏の入口で、呼吸を整えている。
彼女は。
表側のC―17――五〇九号室という表示と。
記録機の紙を見た。
「昨夜と同じです」
ネリーが言った。
「午後十時十八分。札にC―17が上がって、対応盤には五〇九号室とありました」
「だから、君は五〇九号室へ向かった」
「はい」
「君は、表示を読み間違えたのか」
ネリーの顔へ。
一瞬、不安が浮かぶ。
だが。
レオンは、彼女が答える前に言った。
「違う」
ネリーの肩から。
わずかに力が抜ける。
「君は、ホテルの決めた手順に従った。C―17を五〇九号室と読み、五〇九号室を確認した」
「でも、部屋には誰もいませんでした」
「それも正しい」
「セレス夫人は、舞踏室にいました」
「それも確認されている」
「なら」
ネリーは。
自分が引いたばかりの呼鈴を思い出すように。
五階へ続く天井を見上げた。
「昨夜も、五〇七号室から鳴ったんですか」
「午後十時十八分にも、同じ分岐が残っていた」
グレアムが答えた。
「オーリンの作業札と、端子の痕跡がそれを示している」
「呼鈴を引いた者がコンラッドだったかは」
レオンが付け加える。
「状況から見て最も合理的だが、今この実演だけで証明したわけではない」
ネリーは頷いた。
それでも。
昨夜の自分が、助けを求める者を無視したわけではないと理解したのだろう。
固く結ばれていた唇が。
わずかに緩んだ。
「五〇九号室に、誰もいないのに鈴が鳴ったのではない」
ミラベルが言った。
「五〇九号室からの呼鈴ではなかった」
「正確には」
レオンが言う。
「C―17へ入った信号を、表側の対応盤によって五〇九号室のものと解釈した」
ラヴィニアが。
ゆっくりと対応盤へ近づいた。
誰も止めなかった。
彼女は。
C―17。
五〇九号室。
その二つを結ぶ表示を見つめる。
「わたくしが舞踏室にいるあいだ」
静かに言った。
「わたくしの部屋から呼鈴が鳴った、という記録は」
「初めから存在しない」
レオンが答えた。
「存在するのは、午後十時十八分にC―17へ信号が入ったという記録だけだ」
「食事も、同じなのですね」
ラヴィニアは長机を見る。
三日分の配膳票。
「C―17の注文だ」
「男性用の衣類も」
「C―17の洗濯票」
「湯も。新聞も。暖房も」
「すべて同じだ」
「それらが五〇九号室へ付いていることは」
ラヴィニアは。
言葉を選ぶように、一度間を置いた。
「わたくしが、コンラッドを自分の客として泊めていた証明にはならない」
「ならない」
レオンは答えた。
「それらが五〇七号室で使われたという従業員の証言がある。設備も、五〇七号室へ分岐されていた。五〇七号室の記録と考えるのが最も合理的だ」
「わたくしがしたことは」
ラヴィニアが言う。
「彼を知っていることを隠し。届いた手紙を燃やし。過去の恐喝を話さなかったことです」
「その事実は残る」
グレアムが言った。
「恐喝されていた過去は、動機としても消えない。人を使った可能性や、何らかの協力をした可能性も、証拠が出れば調べる」
「今は?」
「今のところ、共犯や依頼を示す証拠はない」
グレアムは、表側の対応盤へ目を向けた。
「五〇九号室へ付いた食事、湯、洗濯、呼鈴だけを根拠に、あんたがコンラッドを随伴者として泊めたとは言えん」
「午後十時十八分には」
ミラベルが続ける。
「ラヴィニアさんが舞踏室にいたことも、複数の証言で確認されています」
「少なくとも」
グレアムが言った。
「あんた自身が五〇七号室でコンラッドを殴った、という嫌疑は崩れた」
「完全に疑いを解くとは、言わないのですね」
「俺は警察だ」
「人を安心させることへ向いていない方ばかりですね」
ラヴィニアが、レオンとグレアムを順に見る。
「一緒にするな」
グレアムが即座に答えた。
「そこは嫌なんですか?」
ミラベルが尋ねる。
「当然だ」
ほんの短いあいだ。
ラヴィニアの口元へ。
苦い笑みが浮かんだ。
すぐに消える。
「それでも」
ブルーノが口を開いた。
「五〇七号室は、閉鎖中でした。公開宿帳でも、宿泊者のいない空室です」
「公開記録ではな」
レオンが答える。
「設備に不具合があり、正式な客室として提供されていなかったことも事実です」
「ならば、空室でしょう」
「空室と呼ぶこと自体が、間違いなのではない」
レオンは。
表の対応盤。
開かれた保守扉。
分岐を外されたC―17の端子を、順に見た。
「五〇七号室は、公開記録では空室だった」
「物理的には」
ミラベルが言う。
「コンラッドが三日間生活していた」
「二つの事実が矛盾している」
ブルーノが言った。
「部屋と記録を、同じものだと思えばな」
レオンの視線が。
ホテルの壁の向こう。
五〇七号室のある方角へ向く。
「五〇七号室は、移動していない」
壁も。
扉も。
寝台も。
浴槽も。
コンラッドの死体も。
隣室へ移されてはいない。
「食事も、本当に作られた」
ミラベルが言った。
「湯も使われた。衣類も洗われた。新聞も運ばれた。暖房も使われた。呼鈴も鳴った」
「どの記録も、嘘ではない」
レオンが続ける。
「五〇七号室を、五〇九号室へ動かした者はいない」
室内が静まる。
呼鈴記録機だけが。
細く歯車を回していた。
「空室が客を泊めたのではない」
レオンの声が。
受付裏へ落ちた。
「客の記録だけが、隣室へ移された」
表の対応盤は。
C―17を五〇九号室と示したまま。
その裏側で。
五〇七号室への分岐が作られた。
五〇七号室で使われた食事も。
湯も。
洗濯も。
呼鈴も。
すべてC―17として記録された。
そして事件後。
五〇七号室への物理的な分岐だけが外された。
紙に残ったC―17を。
後から表の対応盤で読めば。
すべてが五〇九号室の記録になる。
部屋を消したのではない。
人を消したのでもない。
一人の男が残した記録を。
本来とは異なる部屋へ所属させた。
「それが、今回の偽装ですか」
ミラベルが尋ねる。
「仕組みとしてはな」
レオンは答えた。
「だが、まだ殺人犯を示したわけではない」
エドモンドが。
それまでの沈黙を破った。
「管理上の不備だった可能性も残るはずです」
全員の視線が彼へ向く。
「C―17を五〇七号室へ一時分岐し、臨時使用の終了後に外した。変更履歴が正式な記録へ残らなかったため、過去の票が五〇九号室のものとして読まれた」
「それだけなら」
レオンが言った。
「設備管理と記録管理の過失だ」
「実際、そうだった可能性があります」
「残っている」
レオンは否定しない。
「だが、分岐が外されたのは、午後十時十八分の呼鈴のあとだ」
午後十一時十分。
五〇七号室への仮分岐解除。
「同じ時刻に、五〇九号室の追加料金が一括で取り消された」
エドモンドの訂正印。
「密封随伴票の綴じ糸も、人為的に切られている」
随伴者の所属を示していた可能性のある票。
「三つの処理が、偶然同じ夜へ重なった可能性も否定はしない」
レオンは言った。
「だが、事件後に整いすぎている」
「推測です」
「そうだ」
「では、私が偽装した証拠にはならない」
「まだな」
エドモンドの瞳が。
ほんのわずかに動いた。
「今、示したのは」
レオンは続けた。
「コンラッドの生活が、なぜ五〇九号室の記録として読まれたのか。その仕組みだけだ」
「誰が殺したかではない」
グレアムが言った。
「次は何を調べる」
ミラベルが尋ねる。
レオンは。
表側の対応盤から。
受付の鍵掛けがある方角へ視線を移した。
五〇七号室の鍵は。
事件後。
そこへ戻されていた。
「記録を動かせた者と」
レオンが言う。
「五〇七号室へ入り、鍵を戻せた者が同じとは限らない」
「別人の可能性もある」
「ある」
「同じ人かもしれない」
「ある」
「どちらを確かめるんです?」
レオンは。
長机の紙から目を離した。
「次は」
静かに言った。
「紙ではなく、鍵を見る」




