第10節 ― イル=ヴァスの問い
灰冠ホテルの会計室で。
午後十一時十分の頁が、開かれている。
五〇九号室。
ラヴィニア=セレス。
その名の下へ置かれていた、もう一人分の生活費。
追加の朝食。
夕食。
湯。
洗濯。
新聞。
暖房。
それらへ。
一本の訂正線が引かれている。
同じ時刻。
五〇七号室へ延びていたC―17の分岐も、取り外された。
訂正に使われた印は。
宿泊記録主任のもの。
だが。
印の持ち主と。
実際に押した者が同じだとは、まだ証明されていない。
レオン=クラウスは、会計簿を見ている。
ミラベル=ワトリアは、記録帳を開いている。
グレアム警部は、答えを保留した男を見ている。
彼らの時間は。
このあとも進む。
問いかけ。
調べ。
触れられた記録と。
戻された物を、一つずつ確かめる。
わたしが止めるのは、彼らではない。
あなたへ流れている。
この事件記録である。
ごきげんよう、読者諸君。
わたしは、イル=ヴァス。
ここで、記録を止めよう。
必要な手掛かりは。
すでに、あなたの前へ置かれている。
新しい証拠は加えない。
隠し通路も。
神格の力も。
今まで一度も名を呼ばれなかった共犯者も。
この問いには必要ない。
神はただ。
すでに置かれた記録を、指し示す。
では。
最初の空白を見よう。
コンラッド=ヘイルの名は。
公開宿帳にない。
五〇七号室は。
三日前から修理閉鎖中と記されている。
それでも。
部屋には、複数日にわたる生活があった。
このホテルには。
名を公開せず。
主室客の責任によって、随伴者を付属室へ泊める制度がある。
そのための票には。
主室。
付属室。
人数。
識別符号。
そして。
主室客本人の責任署名が必要となる。
昨夜の当日用綴りでは。
一枚が外された可能性を示すように、綴じ糸が切られていた。
ゆえに。
第一の問いを置こう。
> コンラッド=ヘイルは、なぜ宿帳にいないまま、三日間滞在できたのか。
次に。
客室番号のない記録を見よう。
五〇七号室で使われたと証言された食事。
湯。
衣類。
新聞。
暖房。
それらの業務票へ書かれていたのは。
五〇七号室という番号ではない。
C―17。
呼鈴と伝声管を管理するための設備符号である。
表側の対応盤は。
事件の前も。
事件のあとも。
C―17――五〇九号室。
その表示を変えていない。
だが。
裏側では。
本来の五〇九号室を残したまま。
C―17が、五〇七号室へも分岐されていた。
事件後。
午後十一時十分。
外されたのは、五〇七号室へ延びていた物理的な枝だけである。
紙に残ったC―17は変わらない。
後から表の対応盤によって読めば。
五〇七号室で使われたものも。
五〇九号室のものとして見える。
第二の問いを置こう。
> 五〇七号室で使われた食事と呼鈴は、なぜ五〇九号室の記録になったのか。
では。
午後十時十八分へ戻ろう。
呼鈴記録機は。
C―17からの信号を残した。
ネリー=コームは。
表の対応盤に従って、五〇九号室へ向かった。
返事がなかったため。
夜勤用の鍵で扉を開き。
居間。
寝台の周囲。
浴室まで確かめた。
五〇九号室は。
無人だった。
そのあと。
ネリーは舞踏室へ下り。
ラヴィニア=セレスが、そこにいることも確かめた。
部屋が無人だったこと。
宿泊者が別の場所にいたこと。
二つは。
別々に確認された事実である。
それでも。
C―17は鳴った。
呼鈴記録機は。
客室番号を記していない。
どの部屋から信号が入ったのかを。
あとから決めたのは。
表側の対応盤を読んだ人間である。
第三の問いを置こう。
> 誰もいなかった五〇九号室から、なぜ午後十時十八分に呼鈴が鳴ったのか。
次に。
五〇九号室の宿泊者を見よう。
ラヴィニアは、一人で滞在していた。
香草茶以外の朝食を頼んでいない。
それでも。
彼女の勘定へ、もう一人分の生活が付けられていた。
彼女は。
コンラッドを知らないと嘘をついた。
過去に恐喝され。
事件の前日には、面会を求める手紙を受け取っていた。
彼を憎む理由がある。
だが。
犯行が行われたと考えられる時間帯。
彼女が舞踏室にいたことは。
複数の証言によって確認されている。
共犯や依頼の可能性は。
証拠がないため、まだ肯定も否定もできない。
それでも。
コンラッドの食事。
湯。
衣類。
新聞。
暖房。
呼鈴。
そのすべてを五〇九号室へ所属させれば。
ラヴィニアは。
憎んでいた男を密かに泊め。
会おうとし。
隣室で殺した人物として記録できる。
第四の問いを置こう。
> 犯人は、なぜラヴィニアの部屋へ、コンラッドの滞在を所属させたのか。
最後に。
一人の名ではなく。
分けられた仕事を見よう。
食事を運んだ者は。
客の名を知らない。
衣類を回収した者は。
支払者を知らない。
設備へ触れた者は。
その部屋を使う者を知らない。
支配人は。
五〇七号室の使用を許可したが、宿泊者の正体を知らない。
宿泊記録を扱う者は。
客の身分と所属を管理するが、食事も洗濯も運ばない。
誰も。
一人の客の全体を見ていなかった。
さらに。
受付へ戻されていた五〇七号室の鍵を見よう。
その鍵には。
掌へ重く沈む真鍮飾りが付いている。
閉鎖中の部屋の鍵でありながら。
平らな面だけが、不自然なほど清掃されていた。
五〇七の刻印の奥には。
拭き取られなかった暗い汚れが残っている。
それが何かは。
まだ、確定していない。
だが。
鍵が今朝、受付へ戻されていたことと。
昨夜ずっとそこにあったことは、同じではない。
切られた綴じ糸。
五〇七号室へ作られ。
午後十一時十分に外された分岐。
同じ時刻に一括訂正された料金。
受付へ戻された鍵。
それぞれの操作は。
一つずつなら。
複数の者が行える。
印があることと。
その者が押したことも同じではない。
権限があることと。
犯罪に使ったことも同じではない。
ゆえに。
犯人の名を急いではならない。
まず。
すべての記録と物へ。
業務上、到達できた者を確かめたまえ。
第五の問いを置こう。
> 宿泊記録、設備記録、客室鍵のすべてを操作できた人物は誰か。
以上。
五つの問いを置いた。
宿帳にいない男は。
三日間、ホテルで生活した。
五〇七号室にあった生活は。
五〇九号室の勘定へ所属した。
午後十時十八分。
無人の五〇九号室を示す符号が鳴った。
ラヴィニアは。
自分の知らない男の滞在を負わされた。
事件のあと。
午後十一時十分に。
物理的な分岐と。
会計上の所属が、同時に整えられた。
紙は。
必ずしも嘘をついていない。
料理は作られた。
湯は使われた。
衣類は洗われた。
呼鈴は鳴った。
料金は訂正された。
鍵は受付へ戻された。
どれも。
本当に起きたことである。
ただし。
正しい事実が。
正しい部屋へ置かれているとは限らない。
正しい答えは。
誤った問いからは生まれない。
空室とは。
誰もいない部屋なのか。
それとも。
誰の記録も置かれていない部屋なのか。
答えを語れば。
これは記録になる。
問いを残せば。
これは事件になる。
それでは。
観測を再開しよう。




