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第9節 ― 誰の部屋だったのか

 五〇九号室を再び訪ねたとき。


 ラヴィニア=セレスは、窓辺に立っていた。


 午後の煤霧は、窓硝子の向こうで夜の色へ沈み始めている。高架鉄道を走る列車の灯りが、遠い霧の中を橙色の線となって横切った。


 室内の暖炉には、弱い火が残っていた。


 燃えた薪が崩れるたび。


 赤い火の粉が、灰の上へ短く舞う。


 丸卓に置かれた茶器は一組。


 朝に見たものと同じだった。


 香草茶は冷え。


 カップの縁には、口を付けた跡がほとんどない。


 ラヴィニアは三人を振り返った。


「また、朝食についてでしょうか」


「いいえ」


 ミラベルが答えた。


「コンラッド=ヘイルについてです」


 その名を聞いても。


 今度のラヴィニアは、手を止めなかった。


 すでに一度。


 反応を見られている。


 知らないという言葉だけでは。


 これ以上、押し通せないことを理解した者の静けさだった。


「存じないと、お答えしたはずです」


「その答えが事実ではないことも、分かっています」


 ミラベルの声は穏やかだった。


 責める響きはない。


 だからこそ。


 ラヴィニアは、すぐに言い返さなかった。


 レオンは扉のそばへ立ち。


 グレアムは暖炉から少し離れた壁際で、両腕を組んでいる。


 三人とも。


 ラヴィニアを取り囲まない。


 だが。


 逃げ道を与えているわけでもなかった。


「セレス夫人」


 ミラベルは記録帳を開かなかった。


「隠したことと、殺したことは同じではありません」


 ラヴィニアの瞳が、わずかに細くなる。


「警察は、そう考えないでしょう」


「警察がどう考えるかは、話を聞いてからだ」


 グレアムが答えた。


「黙ったままなら、今ある記録と証言だけで判断することになる」


「その記録は」


 ラヴィニアは言った。


「わたくしの部屋へ、男を泊めていたと語っているのでしょう」


「正確には」


 レオンが口を開く。


「コンラッドが使ったと考えられる食事、湯、洗濯、新聞、暖房が、五〇九号室とC―17の勘定へ所属していた」


「五〇七号室は、C―17へ分岐接続されていた」


 ミラベルが続ける。


「密封随伴簿には、現在その客の票がありません。でも、綴じ糸には人為的に切られた跡がある」


「五〇七号室を」


 レオンはラヴィニアを見る。


「あなたの契約へ属する付属室として使った形が作られている」


「わたくしは、許可しておりません」


「それを確かめに来た」


 ラヴィニアは。


 しばらくレオンを見つめた。


「わたくしの言葉を信じるのですか」


「信じるかどうかを決めるために、事実を聞く」


「相変わらず、人を安心させる言葉を選ばない方ですね」


「以前に会ったことが?」


 ミラベルが尋ねた。


 ラヴィニアは首を横に振る。


「この方のような人間を、以前にも見たことがあるだけです」


「褒め言葉として受け取っておこう」


「そうできるところも含めて、似ています」


 レオンは表情を変えなかった。


 ミラベルは、ラヴィニアへ向き直る。


「コンラッドさんとは、どのような関係だったんですか」


 暖炉の中で。


 薪が一つ、崩れた。


 ラヴィニアは窓辺を離れ。


 ゆっくりと丸卓の椅子へ腰を下ろした。


 背筋は伸びたままだった。


 それでも。


 立っているときより、少しだけ年齢が見えた。


 外見は四十歳ほど。


 だが、その瞳には。


 ヒト族の人生をいくつも重ねた時間が沈んでいる。


「夫が亡くなったあとです」


 ラヴィニアは言った。


「セレス家の相続契約は、ひどく複雑な状態にありました」


 古い水源権。


 土地の境界。


 ヒト族の法式へ書き直された近代契約。


 エルフの旧い言葉で残された証文。


 夫の死によって。


 それらを誰が継ぎ。


 誰に売却する権限があるのか。


 複数の契約官と仲介人が調査へ入った。


 その一人が。


 コンラッド=ヘイルだった。


「彼は、相続契約の一部に不備があると告げました」


「本当に不備があったんですか」


 ミラベルが聞く。


「ありました」


 ラヴィニアは否定しなかった。


「彼の作った不備ではありません。夫が生前に結んだ契約と、父の代から残る証文が、一部で食い違っていた」


「コンラッドは、それを利用した」


 レオンが言う。


「彼は、契約法院へ提出すれば、セレス家の権利継承そのものが争われると告げました」


「代わりに金を要求したのか」


 グレアムの声が低くなる。


「ええ」


「支払ったのか」


 ラヴィニアは答えなかった。


 グレアムがさらに聞こうとしたが。


 ミラベルが、わずかに手を上げた。


「そこは、今回の殺人を調べるために必要ですか」


「恐喝の事実を確認するには必要だ」


「要求されたことは認めています。実際にいくら渡したかまで、今ここで聞かなくても関係は確認できます」


 グレアムは不満そうに眉を寄せた。


 だが。


 追及を止めた。


 ラヴィニアがミラベルを見る。


「あなたは、ずいぶん奇妙な記者ですね」


「よく言われます」


「新聞記者なら、金額を知りたがるものだと思っていました」


「記事に必要なら聞きます」


 ミラベルは答えた。


「でも今知りたいのは、あなたがコンラッドさんを知っていることまで、なぜ隠したのかです」


「金額を聞かない代わりに」


 ラヴィニアの口元へ。


 笑みには届かない、かすかな動きが浮かんだ。


「もっと答えにくいことを聞くのですね」


「そうかもしれません」


 短い沈黙。


 やがて。


 ラヴィニアは暖炉の火へ視線を落とした。


「わたくしは、あの男を憎んでいました」


 飾りのない言葉だった。


「夫の死を悼む時間もなく。親族と契約官と商会に囲まれていた時期に、彼は一枚の紙を持って現れた」


 その紙があれば。


 セレス家の権利を止められる。


 その紙を伏せてほしければ。


 金を用意しろ。


 声を荒らげることもなく。


 脅迫と呼べる言葉を直接口にすることもなく。


 コンラッドは。


 契約上起こり得ることを説明しただけだった。


 だが。


 選べる道は、一つしかなかった。


「それ以来、会っていませんでした」


「今回、再び連絡が来るまでは」


 レオンが言った。


 ラヴィニアの目が、彼へ移る。


「なぜ、そう思うのです」


「あなたは過去の関係だけでなく、現在の接触まで隠そうとした」


「人は、古い傷を他人へ見せたくないことがあります」


「それも理由の一つだろう」


 レオンは認める。


「だが、あなたは朝、彼の名だけでなく、セレス家との関係を尋ねられたときも即座に否定した。過去だけではなく、今の滞在へつながる何かがある」


 ラヴィニアは。


 燃え残った薪と灰を見た。


 すでに失われた紙の形を。


 その奥へ探すように。


「事件の前日」


 彼女は言った。


「コンラッドから手紙が届きました」


 グレアムが腕を解く。


「手紙はどこだ」


「燃やしました」


「なぜ」


「残しておきたくなかったからです」


「内容は」


「面会を求めるものでした」


「いつ、どこで」


 ラヴィニアは首を横に振る。


「会うつもりがなかったので、詳しく覚える必要もないと思いました」


「覚えていないのか。話したくないのか」


「彼は、このホテルにいることを仄めかしていました」


 ラヴィニアの声は変わらなかった。


「わたくしへ会おうとしていた。それ以上は、答えません」


 レオンは暖炉へ視線を向けた。


 灰の中に。


 手紙の文面を復元できる紙片が残っているか。


 今ここからは分からない。


 ラヴィニアが本当に細部を覚えていないのか。


 それも確認できない。


「返事は」


 ミラベルが尋ねる。


「出していません」


「会わなかった?」


「会っていません」


「ホテル内で、姿を見たことも?」


「ありません」


「五〇七号室にいたことは」


「今朝まで知りませんでした」


 返答は速かった。


 だが。


 先ほどの否定とは違う。


 何度も自分の中で確かめた事実を。


 そのまま出したように聞こえた。


「なぜ、最初から話さなかったんですか」


 ミラベルが言う。


「過去に恐喝され。事件前日に面会を求められ。その相手が、隣室で死んでいた」


 ラヴィニアは、冷えた香草茶を見る。


「それをすべて話せば、あなた方は何を考えますか」


 誰も答えなかった。


「わたくしには、彼を憎む理由がある」


 ラヴィニアは自ら言った。


「彼はわたくしへ会おうとしていた。そして彼が使ったものは、すべてわたくしの部屋へ請求されている」


「動機と、直前の接触と、宿泊記録」


 グレアムが言う。


「疑うには十分だ」


「だから黙ったのです」


「黙れば、余計に疑われる」


「分かっています」


 ラヴィニアの声が。


 ほんの少しだけ低くなった。


「それでも今のセレス家には、恐喝の噂まで受け止める余裕がありません」


 机の上には。


 水源権売却の契約書が積まれている。


 かつて一族が守った水を。


 今は商会へ売らなければならない。


 その交渉の最中に。


 相続契約の不備。


 恐喝。


 殺人への嫌疑。


 それらが広まれば。


 契約相手は、それを価格と条件へ利用するだろう。


 ミラベルは。


 すぐには記録帳を開かなかった。


「あなたが黙った理由は分かりました」


 彼女は言った。


「でも、その理由に同情できることと、証言が事実かどうかは別です」


「ええ」


「会っていないことは、調べます」


「どうぞ」


「手紙を受け取った経路も」


 ラヴィニアの瞳が。


 わずかに揺れた。


 だが。


 拒まなかった。


 グレアムが口を開く。


「事件当夜。午後六時から、どこにいた」


「舞踏室です」


「途中で抜けたか」


「いいえ」


「五階へ戻ったことは」


「ありません」


「その証明は」


「舞踏室には、多くの方がいました」


「確認している」


 グレアムが言った。


「舞踏室の入口係。給仕。楽団員。晩餐会の出席者」


 確認済みの証言を。


 一つずつ、数えるように続ける。


「複数の者が、午後十時十八分の前後にも、あんたが舞踏室にいたと証言している」


 これは。


 五〇九号室の無人確認とは別の証拠だった。


 午後十時十八分。


 ネリーは夜勤用の鍵で、五〇九号室へ入った。


 居間。


 寝台の周辺。


 浴室。


 室内に、人はいなかった。


 そして。


 五〇九号室の宿泊者ラヴィニアは。


 同じ時刻。


 一階の舞踏室で、複数の者に目撃されている。


 一つは。


 客室が無人だった証明。


 もう一つは。


 宿泊者が別の場所にいた証明。


「午後十時十八分」


 レオンが言った。


「C―17へ、五〇七号室から信号を入れられる状態だった」


「オーリンの作業札と、分岐端子の状態が正しければ」


 ミラベルが条件を添える。


「そして、後頭部への打撃を受けたあとも、コンラッドが短時間動けた可能性は、検視で否定されていない」


「なら」


 グレアムが言う。


「午後十時十八分の呼鈴をコンラッドが引いたとすれば、襲撃はその少し前だ」


「正確な時刻には、まだ幅がある」


 レオンは答えた。


「だが、その時間帯にラヴィニアが五階へいた可能性は低い」


「わたくし自身が、五〇七号室で彼を殴った可能性は」


 ラヴィニアが言った。


「崩れたのですね」


「直接の実行犯と考えるには、複数の証言と時刻が合わない」


 グレアムが答えた。


「では、話は終わりですか」


「そう簡単ではない」


 グレアムは腕を組み直す。


「人を使った可能性は残る」


 ミラベルが顔を上げた。


「可能性の話だ」


 グレアムが先に言う。


「動機がある。面会要求もある。本人が手を下さず、誰かに命じた可能性まで最初から捨てるわけにはいかん」


「証拠は」


 レオンが尋ねる。


「今のところない」


「なら、共犯や依頼は証拠不足として保留だ」


「分かっとる」


 グレアムは。


 ラヴィニアを犯人と決めているわけではなかった。


 だからこそ。


 嫌疑を都合よく消すこともしない。


 ミラベルは、ラヴィニアを見る。


「あなたが嘘をついたことは事実です」


「ええ」


「コンラッドさんを憎んでいたことも」


「否定しません」


「でも」


 ミラベルは言った。


「嘘をついた人と、殺した人が同じとは限りません」


 ラヴィニアの目に。


 初めて。


 わずかな疲労が浮かんだ。


「あなたは、本当に奇妙な記者ですね」


「それも、よく言われます」


 レオンは。


 ラヴィニアの部屋を見回した。


 一人分の茶器。


 一人分の荷物。


 一人で泊まっていた女性。


 その隣の五〇七号室では。


 彼女が憎んでいた男が、三日間暮らしていた。


 食事。


 湯。


 洗濯。


 新聞。


 暖房。


 呼鈴。


 それらはすべて。


 五〇九号室とC―17の記録へ所属させられている。


 ラヴィニアには。


 誰より分かりやすい動機があった。


「先生」


 ミラベルが言った。


「何を考えているんです?」


「コンラッドの記録をラヴィニアへ所属させれば」


 レオンは言った。


「彼女を犯人にできる」


 室内が静まった。


 ラヴィニアの表情から。


 わずかに残っていた柔らかさが消える。


「わたくしを陥れるために、五〇七号室へ泊めたと?」


「そこまでは断定していない」


「でも、誰かが五〇九号室を選んだ」


 ミラベルが言う。


「隣室で、同じC―17を分岐しやすかったからというだけかもしれない」


 レオンが答える。


「一人で滞在する主室客だったことも、無記名随伴者を紛れ込ませるには都合がいい」


「コンラッドとラヴィニアさんの過去まで知っていれば」


「記録が調べられたとき、疑いが彼女へ向かう」


 グレアムの目が細くなる。


「動機まで揃うわけか」


「最初から、その目的で選んだとは限らない」


 レオンは言った。


「コンラッドの宿泊は、殺人の三日前から始まっている」


「最初から殺す予定だったのか」


 ミラベルが言う。


「別の事情で殺人が起こり、あとからラヴィニアの過去を利用したのか」


「まだ分からない」


 分かるのは。


 コンラッドの滞在が五〇九号室へ所属することで。


 ラヴィニアに不利な事実が。


 一つの形へまとまることだけだった。


「あなたを疑う理由は、確かにある」


 レオンはラヴィニアへ言った。


「だが、その理由の大半は、ホテルの記録が作っている」


「わたくしがしたのは」


 ラヴィニアが答える。


「彼を憎んだこと。届いた手紙を燃やしたこと。そして、彼を知っていると話さなかったことです」


「面会要求も隠した」


 グレアムが加える。


「ええ」


「その嘘は消えんぞ」


「消してほしいとは申しません」


 ラヴィニアは、まっすぐ警部を見る。


「ただ」


 静かな声だった。


「わたくしがしたことと、記録がわたくしへ所属させたことを、分けてください」


 レオンは何も答えなかった。


 その言葉は。


 今回の事件そのものだった。


     ◇


 五〇九号室を出ると。


 廊下は、すでに夜の灯りへ変わっていた。


 壁の真鍮灯が点され。


 厚い絨毯の上へ、黄い光の輪が続いている。


 五〇七号室の前には。


 今も警官が立っていた。


「手紙を焼いた件は、あとで改めて調べる」


 グレアムが言う。


「だが、舞踏室の証言は崩れそうにない」


「五〇九号室が無人だったことも」


 ミラベルが言った。


「ネリーさんの夜勤記録と証言で確認できます」


「二つは別の証拠だ」


 レオンが言う。


「五〇九号室に誰もいなかったこと。ラヴィニアが舞踏室にいたこと」


「どちらも、直接犯行の可能性を下げる」


「だが、共犯や依頼を否定する証拠ではない」


 グレアムが続けた。


「今のところ、それを示す証拠もない」


 ミラベルが言う。


「だから保留だ」


「警部は、本当に疑うのをやめませんね」


「やめたら刑事ではない」


 レオンは廊下を歩き始める。


「会計記録を見る」


「ラヴィニアさんの料金ですか」


「コンラッドの三日間が五〇九号室へ所属していたなら、勘定にも残っている」


「配膳票や湯の使用票で、追加されたことは確認しました」


「追加されたことと」


 レオンが答える。


「最後まで請求に残ったことは別だ」


 ミラベルが足を速める。


「支払者が別人なら、その滞在は誰のものになるのか」


 コンラッドの手帳にあった。


 三つの問いの最後。


「コンラッドの生活を、ラヴィニアさんの勘定へ残したままなら」


 ミラベルは言った。


「出発時に、本人が気づく」


「事件が発覚しなくても、不自然な料金が残る」


 グレアムが続けた。


「なら」


 レオンは答えた。


「その料金は、消す必要がある」


     ◇


 灰冠ホテルの会計室では。


 一日の料金が、夜ごとに客室別の管理簿へ集められる。


 宿泊料。


 食事。


 湯。


 洗濯。


 新聞。


 暖房。


 各部署で作られた票が。


 出発時には、一枚の請求書へまとまる。


 会計係は、グレアムと部下の立ち会いの下で。


 五〇九号室の管理簿を机へ広げた。


 エドモンド=ケイルも立ち会っている。


 先ほどまでと同じ。


 濃茶色の上着。


 同じ静かな表情。


 だが。


 C―17の分岐と解除が明らかになってから。


 彼の沈黙は。


 礼儀というより、閉ざされた扉に見えるようになっていた。


「三日前から」


 レオンが言った。


 会計係が該当する頁を開く。


 五〇九号室。


 ラヴィニア=セレス。


 宿泊料。


 香草茶。


 そこまでは、ラヴィニア本人の滞在と一致している。


 その下に。


 追加の朝食。


 夕食。


 入浴用の湯。


 男性用衣類を含む洗濯。


 新聞。


 暖房。


 いずれも。


 C―17から回された票によって、五〇九号室へ加算されていた。


「五〇七号室で使われたと考えられるものが」


 ミラベルが言う。


「すべて五〇九号室へ付いています」


「記録の所属としては、予想どおりだ」


 レオンが答えた。


「でも」


 ミラベルは頁の下部へ目を留める。


「このままではありません」


 追加料金の各行へ。


 細い訂正線が引かれていた。


 一項目ずつではない。


 複数の料金をまとめて。


 一つの訂正記録へ結びつける線。


 その先に。


 機械印字された時刻がある。


 午後十一時十分。


 グレアムが机へ身を乗り出した。


「昨夜か」


「はい」


 会計係が答える。


「料金訂正が行われた時刻です」


「何を訂正した」


「五〇九号室へ付いていた追加料金が、一括で取り消されています」


 ミラベルは頁を追った。


 五〇九号室の宿泊料は残っている。


 ラヴィニアの香草茶も。


 取り消されたのは。


 追加の朝食。


 夕食。


 湯。


 洗濯。


 新聞。


 暖房。


 五〇七号室で三日間暮らした人物の生活だけだった。


「午後十一時十分」


 ミラベルが繰り返す。


「オーリンさんが、五〇七号室への分岐を外した時刻と同じです」


 レオンは。


 オーリンの作業札の写しを机へ置いた。


 日付。


 C―17。


 仮分岐解除。


 午後十一時十分。


「今度は前後ではない」


 レオンが言った。


「設備の作業札と、会計記録の機械印字が同じ時刻を示している」


 午後十時十八分。


 五〇七号室から鳴った可能性の高い呼鈴。


 その五十二分後。


 五〇七号室への分岐が外され。


 五〇九号室に付いていた追加料金が、一括で取り消された。


 設備と会計。


 二つの異なる記録で。


 同じ処理が。


 同じ時刻に行われている。


「訂正できるのは誰だ」


 グレアムが会計係へ尋ねた。


「総支配人、会計責任者、宿泊記録主任です」


「訂正した者は記録されるか」


「訂正印が必要です」


 会計係は、欄外の小さな印を示した。


 磨耗した印面。


 宿泊記録主任の職位。


 登録された個人印。


「誰の印だ」


 会計係の視線が。


 エドモンドへ向く。


「エドモンド=ケイル記録主任のものです」


 会計室の時計が。


 一度。


 低い音を立てた。


 全員の視線が。


 エドモンドへ集まる。


 彼は逃げなかった。


 顔色も。


 姿勢も。


 大きくは変わらない。


「あなたが訂正したんですか」


 ミラベルが尋ねた。


 エドモンドは。


 すぐには答えなかった。


 レオンは訂正印を見る。


「印がエドモンドのものだという事実と」


 静かに言った。


「本人が昨夜それを押したという事実は、まだ同じではない」


「印を盗まれた可能性か」


 グレアムが言う。


「盗難。無断使用。押印済みの訂正票。可能性はいくつかある」


「だが、本人には訂正権限がある」


「それも事実だ」


「C―17の分岐を外すよう、オーリンへ指示したのもエドモンド」


「本人が認めている」


 疑いは。


 一つずつ重なっている。


 だが。


 まだ、一つの結論にはできない。


 訂正印を保管していた場所。


 誰が触れられたか。


 訂正理由。


 午後十一時十分に、エドモンドがどこにいたか。


 確認すべきことは残っている。


「答えてください」


 ミラベルは。


 改めてエドモンドへ言った。


「午後十一時十分。五〇九号室の追加料金を一括訂正したのは、あなたですか」


 エドモンドは。


 机上の管理簿を見た。


 五〇九号室。


 ラヴィニア=セレス。


 その名の下から。


 コンラッド=ヘイルの三日間だけが、取り消されている。


「私の印です」


 彼は言った。


「質問への答えになっていない」


 レオンが返す。


 エドモンドの指が。


 上着の前で、わずかに重なった。


「当夜の業務記録を確認してから、お答えします」


「自分が押したかどうかも、帳簿を見なければ分からんのか」


 グレアムの声が低くなる。


「一日に複数の訂正を処理します」


「五〇七号室の臨時使用を終え」


 ミラベルが言う。


「同じ時刻に、五〇七号室で使われた生活費だけが消されています」


「そのように見えることは理解しています」


「見えるだけか」


「訂正の処理者については、確認が必要です」


 エドモンドは。


 それ以上、余計な言葉を口にしなかった。


 グレアムが部下へ向く。


「記録主任の印章を押さえろ。保管箱、貸出記録、昨夜の業務記録もだ」


「承知しました」


 エドモンドは頭を下げた。


 礼儀正しい。


 あまりにも。


 整った動作だった。


 レオンは。


 五〇九号室の管理簿へ視線を戻す。


 三日前。


 コンラッドの生活は、ラヴィニアの勘定へ加えられた。


 昨夜。


 午後十一時十分。


 五〇七号室への物理的な分岐が外され。


 同時に。


 その生活にかかった料金が、一括で取り消された。


 物理的には。


 五〇七号室は、コンラッドが暮らした部屋だった。


 宿泊制度では。


 五〇九号室に属する付属室として扱われていた。


 料金記録では。


 コンラッドの生活は、ラヴィニアの滞在へ所属していた。


 そして訂正後は。


 誰の勘定にも属さないものへ変えられた。


「誰の部屋だったんでしょう」


 ミラベルが呟いた。


 レオンは答えなかった。


 代わりに。


 ラヴィニアの名。


 取り消された料金。


 午後十一時十分。


 エドモンドの訂正印を。


 一つずつ見る。


 部屋は動いていない。


 死体も。


 食事も。


 湯も。


 衣類も。


 新聞も。


 暖房も。


 すべて。


 五〇七号室にあった。


 動かされたのは。


 それらが、誰のものとして記録されるかだけだった。


「証拠は揃った」


 レオンが言った。


 グレアムが顔を上げる。


「犯人が分かったのか」


「問いを置けるところまではな」


 レオンは。


 午後十一時十分の頁を開いたまま。


 管理簿から手を離した。


「ここから先は」


 静かに続ける。


「我々が当然だと思っていたものを、もう一度疑う必要がある」


 宿帳に名がない男。


 空室で続いていた生活。


 隣室へ所属した食事と湯。


 無人の五〇九号室を示した呼鈴。


 切られた随伴票の綴じ糸。


 外された五〇七号室への分岐。


 消された料金。


 そして。


 そのすべてへ、業務上到達できた人物。


 灰冠ホテルの記録は。


 答えを隠しているのではない。


 正しい事実を並べたまま。


 読む者を。


 別の部屋へ案内していた。

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