第8節 ― 教授の三つの問い
コンラッド=ヘイルの所持品は、五〇七号室の書き物机へ並べられていた。
財布。
懐中時計。
身分証明書。
契約仲介人の名刺。
折り畳まれた手紙。
そして。
掌に収まるほどの、黒革の手帳。
窓の外では。
午後の煤霧が、少しずつ濃くなっている。
厚いカーテンは、発見時の状態を保つため半分だけ開かれていた。そこから差し込む灰色の光と、卓上灯の黄い炎が、机の上で混ざっている。
部屋には。
まだ、死者の生活が残っていた。
三日分の新聞。
使われた寝台。
洗面台と浴室。
衣類。
茶器の輪染み。
それらは。
コンラッドが、この部屋で暮らしていたことを語っている。
だが。
なぜ宿帳に名を残さず、五〇七号室へ入ったのか。
誰の助けを借りたのか。
何をしようとしていたのか。
死者は。
まだ答えていなかった。
「所持品は、これで全部か」
グレアム警部が尋ねる。
机の横に立つ警官が、記録票を確認した。
「衣服、旅行鞄、寝台周辺から回収した物は以上です。机の引き出しには、まだ触れていません」
「よし。廊下で待て」
警官が部屋を出る。
静かに扉が閉じた。
室内に残ったのは。
グレアム。
レオン。
ミラベル。
三人だけだった。
「ホテル側は?」
ミラベルが小声で聞く。
「支配人は文書室だ。エドモンドは会計資料を用意している。オーリンには部下を付けた」
「逃げると思いますか」
「思わなくても付ける。疑うのが仕事だ」
レオンは、黒革の手帳を手に取った。
角は擦れ。
留め紐には、何度も開閉した跡がある。
「恐喝屋の手帳か」
グレアムが言った。
「契約仲介人の手帳です」
ミラベルが訂正する。
「恐喝をしていたというのは、まだ噂です」
「分かっとる」
「前にも同じことを言いました」
「分かっているから、契約仲介人の所持品として調べとるんだ」
「それならいいです」
グレアムが、レオンを見る。
「お前の助手は、ますます細かくなったな」
「記録者として正常な成長だ」
「先生が雑なので、私が気をつけているんです」
「俺は雑ではない」
「食事と生活については雑です」
「事件と関係がない」
「生活の痕跡から事件を解いている最中に、その言い方をしますか?」
グレアムが低く笑った。
「ワトリア嬢の勝ちだな」
レオンは答えず。
手帳の留め紐を外した。
最初の頁には。
日付。
面会予定。
商会名。
契約官の名。
宿泊施設。
依頼人と思われる頭文字と金額。
断片的な記載が続いている。
本人にしか意味を戻せない略記だった。
「暗号ですか」
ミラベルが、レオンの肩越しに見る。
「暗号と呼ぶほど整っていない」
「本人用の略記」
「おそらくな」
「解けますか」
「比較する記録があれば」
レオンは頁を送った。
直接指を触れないよう。
手袋の端で、一枚ずつ角を持ち上げる。
途中。
手帳の背に近いところで。
一枚の紙が、わずかに動いた。
手帳の頁ではない。
二つ折りにされ。
頁の間へ差し込まれている。
「何か挟まっています」
ミラベルが言った。
「見れば分かる」
「先生が見落としていないか確認しました」
「今、見つけたところだ」
レオンは薄い挟み具を取り出した。
折り目の端を持ち上げ。
紙を傷つけないよう、ゆっくりと引き出す。
署名はない。
封蝋も。
宛名も。
差出人を示す印もなかった。
「手紙ではなさそうですね」
「断定は早い」
「少なくとも、挨拶も宛名もありません」
「そうだ」
レオンは折り目を開いた。
紙の中央へ。
三つの短い文章が並んでいた。
長い説明はない。
命令もない。
答えもない。
ただ。
三つの問いだけが、記されている。
一行目。
> 人は、部屋へ泊まるのか。
二行目。
> 名は、宿帳へ泊まるのか。
三行目。
> 支払者が別人なら、その滞在は誰のものになるのか。
部屋の中から。
音が消えた。
廊下では、警官が行き来している。
階下では、宿泊客が昼の茶を頼み。
壁の中では、蒸気管と呼鈴線が今も働いている。
それでも。
三つの問いを囲む空気だけが。
急に冷えたように感じられた。
ミラベルは紙へ顔を近づけた。
三行を読み終え。
もう一度、最初の問いへ戻る。
「今回の事件、そのものですね」
「結論を急ぐな」
レオンの声が、少し低くなる。
「でも」
ミラベルは、紙へ触れない位置で問いを順に示した。
「人は、五〇七号室に泊まっていた」
「その可能性が最も高い」
「コンラッド=ヘイルという名は、宿帳にない」
「そうだ」
「食事や湯、洗濯、新聞、暖房は、C―17の記録として残った」
「そこまでは確認した」
「そのC―17は、五〇九号室の勘定へ所属していた」
「会計記録の全体は、まだ調べていない」
ミラベルは口を閉じた。
レオンは。
紙の問いが事件へ重なるからこそ。
断定できる事実と。
まだ確認していない推測を分けていた。
「では」
ミラベルは言い直す。
「この紙を書いた人は、少なくとも」
一度、言葉を選んだ。
「人が実際にいる部屋と、その人の名が記録される場所と、代金が所属する場所が、別になる可能性を考えていた」
「それは言える」
「灰冠ホテルの制度を知っていた?」
「この問いだけでは、そこまでは言えない」
「似た制度が、ほかのホテルにもあるから?」
「主室と付属室。随伴者。別人による支払い。考え方そのものは、灰冠ホテルだけのものではない」
グレアムが。
三つの問いを横から読む。
「だが、今回の事件へ重なりすぎている」
「偶然だとは言っていない」
レオンが答えた。
「これをコンラッドが書いたのか」
「分かりません」
ミラベルが先に答える。
「手帳に挟まっていた。それだけです」
「筆跡は?」
グレアムが、机上の書きかけの便箋を示した。
レオンは。
問いの紙と便箋。
さらに、手帳の記入を並べる。
文字の傾き。
線の太さ。
文字間。
筆圧。
だが。
三つの問いは短く。
共通している文字も少ない。
「同一人物の筆跡だと断定できる材料はない」
レオンが言った。
「違う人物だとも?」
「断定できない」
「便利な答えだな」
「分からないことを、分からないと言っているだけだ」
「コンラッドが誰かから受け取った可能性」
ミラベルが言う。
「ある」
「誰かの言葉を書き写した可能性」
「ある」
「自分で考えて書いた可能性も」
「ある」
「何も絞れませんね」
「紙に書かれていない経緯まで、紙一枚で決めるな」
レオンは。
三つの問いへ目を戻した。
人。
名。
支払者。
身体がいる場所。
名前が置かれる場所。
滞在費を負う者。
それらが同じであるという前提を。
一行ずつ。
別の角度から外している。
正解は書かれていない。
読む者自身へ。
制度の隙間を見つけさせる問いだった。
レオンの表情が。
わずかに硬くなる。
ミラベルは、それを見逃さなかった。
「この問い方に、覚えがあるんですね」
「文体と呼ぶには短すぎる」
「でも、何かを思い出した顔をしました」
「君は最近、余計なところまで見る」
「必要だからです」
グレアムも。
二人の様子へ目を向けた。
答えを教えず。
前提だけを疑わせ。
相手自身に、制度の抜け道を見つけさせる。
命令ではない。
教唆とも、まだ呼べない。
ただ。
その問い方を。
レオンは知っていた。
「ノクス=モリアン」
ミラベルが、その名を口にした。
室内の空気が変わる。
グレアムの顔が険しくなった。
「教授か」
「まだ断定できない」
レオンが即座に言う。
「だが、お前は連想した」
「似ているだけだ」
この紙に。
署名はない。
筆跡も特定できない。
コンラッドが誰から受け取ったのかも分からない。
ノクス本人と会った証拠は。
今のところ、一つもなかった。
「ノクスが書いた証拠はない」
レオンは続けた。
「誰かが言葉を写したのかもしれない。似た問い方を真似たのかもしれない。コンラッド自身が、同じ発想へたどり着いた可能性もある」
「では、教授とは無関係かもしれない」
ミラベルが言う。
「そうだ」
「それでも、先生は警戒している」
レオンは否定しなかった。
グレアムが紙を睨む。
「この問いがあれば、宿泊記録の弱点へ気づけるか」
「きっかけにはなる」
レオンが答えた。
「人がいる部屋。名を載せる宿帳。料金を負う客。それらを別々に考えれば、随伴者や付属室を利用する発想へは進める」
「でも」
ミラベルは言った。
「この紙には、C―17のことは何もありません」
「そうだ」
「表側の対応盤も。裏側の分岐端子も。五〇七号室へ線を延ばす方法も書かれていない」
「配膳票をC―17へまとめる運用も」
グレアムが続ける。
「締め処理前の随伴票へ触れる方法もな」
「なら」
ミラベルが紙を見る。
「この三つの問いを読んだだけでは、今回の偽装は作れない」
「作れない」
レオンは答えた。
「灰冠ホテルの客室運用。付属室の登録。C―17の分岐。会計処理。どれにも、ホテル内部の知識と協力が必要だ」
「コンラッド一人では成立しない」
「少なくとも、外部からこの紙を読んだだけではな」
問いは。
制度の前提を崩す。
だが。
どの線を。
どの端子へつなぐかまでは教えない。
実際の犯罪へ変えるには。
灰冠ホテルの内側から。
部屋と記録を動かす者が必要だった。
「教授が事件を設計した証拠にはならんな」
グレアムが言う。
「ならない」
レオンは。
三つの問いから目を離さなかった。
「だが、こういう問いを犯罪者が持ち始めていることの方が問題だ」
ミラベルは返事をしなかった。
その意味を。
今、この場で広げる必要はなかった。
ノクスが書いたのか。
コンラッドが教わったのか。
誰かが、似た考え方を渡したのか。
それらは。
いずれ調べるべき問いだった。
だが。
五〇七号室で起きた殺人は。
目の前に残された証拠によって調べなければならない。
「この紙は押収する」
グレアムが言った。
「筆跡。紙。インク。手帳へ挟まれた時期。調べられるものは調べる」
「異論はない」
レオンが答える。
「お前は、教授を追わんのか」
「今は、コンラッドを殺した者を追う」
「ノクスにつながるかもしれんぞ」
「つながるかどうかも決まっていない」
レオンは。
三つの問いから視線を外した。
五〇七号室。
切られた綴じ糸。
C―17の分岐端子。
五〇九号室へ所属した三日分の生活。
今ここにある証拠は。
教授の名を追うためのものではない。
現在の殺人へ至るためのものだった。
「教授を連想した途端」
レオンは言った。
「すべてを教授の仕業だと思えば、目の前にいる人間を見失う」
ミラベルが頷く。
「この仕組みには、ホテル内部の協力者が必要です」
「そうだ」
「ノクスが紙を書いたとしても、部屋を使わせた人とは限らない」
「殺した者とも限らない」
グレアムは。
署名のない紙を証拠袋へ収めた。
三つの問いが。
薄い紙の中へ閉じられる。
「では、次は何だ」
レオンは黒革の手帳を閉じた。
「ラヴィニア=セレスだ」
「彼女が犯人だと?」
ミラベルが尋ねる。
「そうは言っていない」
「では」
「彼女は、コンラッドを知らないと答えた」
レオンは。
机上の身分証明書を見る。
「だが、名前を聞いたときだけ反応した。なぜ嘘をついたのかを確かめる」
五〇九号室の宿泊者。
一人で滞在し。
三日間、二人分の朝食を勘定へ付けられていた女性。
「それと、五〇九号室の会計記録だ」
レオンは続けた。
「人が部屋へ泊まり。名が宿帳へ泊まり。支払者が別人なら」
署名のない紙に記された。
最後の問い。
それを。
現在の事件へ戻す。
「コンラッドの三日間が、実際には誰の勘定へ置かれていたのかを調べる」
窓の外で。
午後の煤霧が。
灰冠ホテルの冠を、ゆっくりと覆い始めていた。




