第7節 ― 客室番号のない記録
灰冠ホテルの文書室へ、三つの記録が集められた。
配膳票。
湯の使用票。
洗濯票。
いずれも、客の滞在を証明するために作られたものではない。
料理を間違いなく運ぶため。
沸かした湯を正しい勘定へ付けるため。
衣類を、別の客へ返さないため。
ホテルが日々の仕事を滞りなく進めるための、ささやかな記録だった。
レオンは長机の上へ、三日分の票を並べていた。
紙の大きさも。
色も。
書式も異なる。
配膳票は、油や湯気に耐える厚い黄紙。
湯の使用票は、水滴が落ちても滲みにくい青灰色の紙。
洗濯票は、布へ結びつけられるよう細長く切られている。
作った部署も。
保管されていた場所も違う。
それでも。
すべての票の同じ位置に、同じ符号が残っていた。
C―17。
ミラベルは、机の端から一枚ずつ確かめる。
「初日の朝食。C―17」
次の票へ指を移す。
「初日の入浴用の湯。C―17」
細長い洗濯票。
「男性用シャツと手拭い。C―17」
さらに翌日の束。
「朝食。湯。洗濯物。全部同じです」
「昨夜の夕食もだ」
グレアムが、黄紙の一枚を指した。
「午後七時十分。二名分。C―17」
配膳票には、給仕が証言した料理の内容が記されている。
肉料理。
温野菜。
パン。
黒珈琲。
湯。
届け先の欄にあるのは。
五〇七でも。
五〇九でもない。
C―17という符号だけだった。
そのほかにも。
三日間の新聞配達欄。
暖房弁の運転簿。
それぞれ同じ期間へ、C―17の記録が残っていた。
「客室番号が、一つもありません」
ミラベルが言った。
「業務には必要がないからだ」
レオンが答える。
「料理を作る者は、C―17の注文だと分かればいい。洗濯係も、同じ符号で受け取った衣類を、同じ符号へ返せばいい」
「でも、給仕は実際には五〇七号室へ夕食を運んだ」
「本人の証言ではな」
「ドロテアさんも、五〇七号室から衣類と寝具を回収した」
「それも証言だ」
「票には、どちらもC―17としか書かれていない」
「そうだ」
ミラベルは、三種類の票を見比べた。
客室番号がない。
それ自体は、記録の欠陥ではなかった。
ホテルの従業員は、表側の対応盤を見れば。
C―17を、五〇九号室として読める。
料理を作る者も。
湯を用意する者も。
洗濯物を返す者も。
符号を正しく扱えば、仕事は滞らない。
だが。
符号が一つの部屋だけに結びついているとは限らない。
「この票だけでは」
ミラベルが言った。
「食事や湯が、実際にどの部屋で使われたのか分かりませんね」
「C―17の勘定へ付けられたことは分かる」
「それを、部屋と呼べますか?」
「呼べない」
レオンは黄紙を一枚持ち上げた。
「C―17は客室ではない。壁の中を走る呼鈴と伝声管を管理する、設備符号だ」
「なのに、ホテルはその符号を客室の代わりに使っている」
「表の対応盤と、実際の設備接続が一致しているという前提でな」
グレアムが腕を組む。
「表の盤では、C―17は五〇九号室だ」
「三日間の朝食も、会計では五〇九号室の追加注文として扱われた」
ミラベルが言った。
「五〇七号室には、何も残らなかった」
「正確には」
レオンが訂正する。
「五〇七という客室番号を記した業務票が、初めから作られていない」
五〇七号室では。
誰かが食べ。
湯を使い。
衣類を洗濯へ出し。
新聞を読み。
暖房を使っていた。
その痕跡は、ホテルの各記録へ残っている。
消されてはいない。
ただし。
それが五〇七号室の生活だったことは。
どの紙にも書かれていなかった。
「記録がないのではなく」
ミラベルは、ゆっくりと言葉を探した。
「どの部屋の記録なのか、紙だけでは決められない」
「そういうことだ」
レオンは三日分の票を、日付順へ並べ直した。
朝食。
湯。
洗濯。
新聞。
暖房。
夕食。
その一つひとつが。
C―17という符号によって、同じ生活へつながっていく。
「少なくとも朝食には」
ミラベルが言った。
「ラヴィニアさんの香草茶と、別の誰かの食事が同じC―17へまとめられていた」
「五〇九号室で二人が食べた可能性は、記録だけなら残る」
「でも給仕は、夕食を五〇七号室へ運んだ」
「ドロテアも、五〇七号室から衣類を回収した」
「証言と記録が、同じ方向を示している」
「その可能性は高い」
グレアムが机を指で叩いた。
「なら、残るのは設備だ」
レオンは顔を上げる。
「裏側の接続を見る」
◇
受付裏の呼鈴装置は、昼になっても休まなかった。
客室から呼鈴が入るたび。
壁の装置が短く鳴り。
符号札が跳ね上がる。
係員が表側の対応盤へ目を走らせ。
客室番号を確認し。
担当の使用人を向かわせる。
機械は、殺人事件など知らない。
警察が周囲を調べていても。
五階東翼が封鎖されていても。
客が湯を求めれば鳴り。
食事を求めれば鳴る。
日常の要求を。
変わらず記録し続けていた。
表側の対応盤には。
今も同じ表示がある。
C―17――五〇九号室。
ネリーが昨夜見たものと。
現在の表示は一致している。
札が、五〇七号室を示していたことはない。
レオンは、その盤の横へ視線を移した。
設備主任以外は開けない。
真鍮製の保守扉。
「裏を見せてもらう」
グレアムが言った。
呼び出されていたオーリン=ヴォスが。
工具箱を床へ置いた。
「呼鈴が鳴るたびに開ける場所ではない」
「だから開ける」
オーリンはグレアムを睨んだ。
だが。
警官が隣へ立つと。
腰から保守鍵を外した。
錠が鳴る。
真鍮扉を開くと。
表の整然とした札とは異なる、設備の内側が現れた。
細い金属管。
被覆された呼鈴線。
系統ごとに並ぶ分岐端子。
古い改装のたびに追加された接続金具が、壁面へ何層にも重なっている。
「これがC―17です」
オーリンが、一つの端子列を示した。
本来の線は。
上方へ延び。
五〇九号室へ向かっている。
「五〇九号室への接続は、残っていますね」
ミラベルが言った。
「最初から外していない」
オーリンが答えた。
レオンは薄い手袋をはめ。
端子へ触れずに拡大鏡を近づけた。
本線の脇。
分岐金具を追加できる小さな端子。
その固定ねじの周囲だけ。
金属表面が新しく削れている。
古い工具傷には、煤と油が入り込んでいた。
だが。
この傷の溝は鋭く。
内側へ汚れが積もっていない。
ねじ頭にも。
工具の顎が強く噛んだ、新しい圧痕が残っていた。
「最近、ここへ何かを取り付けた」
グレアムが言った。
「取り付けて、外した」
レオンが答える。
「同じねじへ、締めた傷と緩めた傷がある」
「何を取り付けた」
グレアムがオーリンを見る。
オーリンの顎が固くなる。
「作業札を確認すると言ったはずだ」
「確認したのか」
オーリンは工具箱を開いた。
油染みのある革札を一枚取り出す。
日付は三日前。
系統符号、C―17。
作業内容の欄には。
《仮分岐》とだけ書かれていた。
行き先の欄は。
空白だった。
「臨時作業をしたことは、すでに認めたな」
グレアムが言う。
「今度は、何をしたのか話せ」
オーリンは。
表の対応盤を見た。
C―17――五〇九号室。
続いて。
開かれた裏側の端子へ視線を戻す。
「三日前」
低い声で言った。
「C―17の本線から、五〇七号室へ分岐を延ばした」
ミラベルのペンが止まる。
「五〇九号室への接続は?」
「残したままだ」
「では、その三日間は」
ミラベルが、表側の札を見る。
「五〇九号室も、五〇七号室も、同じC―17を使っていた」
「そうだ」
「どちらの部屋で呼鈴を引いても」
「受付にはC―17と出る」
「記録機も?」
「時刻とC―17だけを印字する」
「表の対応盤では」
「五〇九号室として読まれる」
昨夜。
午後十時十八分。
五〇七号室で呼鈴紐が引かれたとしても。
受付裏で上がる札は、C―17。
記録機が残すものも、C―17。
表側の対応盤が示す客室は。
五〇九号室だった。
ネリーが五〇九へ向かったのは。
表示を読み間違えたからではない。
ホテルの正規の手順へ従ったからだった。
「なぜ、五〇七号室へ分岐した」
グレアムが尋ねた。
「修理後の動作確認だと聞いた」
「誰に」
「宿泊記録側からだ」
「名前で答えろ」
オーリンは。
受付裏の入口へ目を向けた。
そこには、エドモンド=ケイルが立っていた。
黒い上着の前で両手を重ね。
変わらない礼儀正しさを保っている。
「エドモンドだ」
グレアムの視線が移る。
「説明しろ」
「五〇七号室は、伝声管修理のため閉鎖中でした」
エドモンドが答えた。
「一時使用の前に、設備の動作を確認する必要があると判断しました」
「一時使用が終わるまで、三日間つないだままにした」
「動作の安定を見るためです」
「正式な修理申請はない」
レオンが言った。
「臨時作業でしたので」
「部門予備費から、オーリンへ勤務外手当を払った」
グレアムが続ける。
「緊急作業への手当です」
エドモンドの返答は滑らかだった。
オーリンだけが。
苛立ちを隠そうともしない。
「俺は人を泊める仕事じゃない」
彼は言った。
「C―17から五〇七へ枝を出せと言われたから、つないだ。それだけだ」
「五〇七号室で誰が設備を使うかは」
ミラベルが尋ねる。
「知らん」
「三日間、C―17へ食事や湯の記録が付いていた」
机から運ばれてきた配膳票と湯の使用票を。
ミラベルが示す。
「それも知らなかった?」
「設備の信号が通れば、こちらでは正常だ。誰が何を注文したかまでは見ない」
「昨夜の午後十時十八分に、C―17が鳴ったことは」
「今朝、記録を見て知った」
「その時刻、五〇七への分岐は残っていた」
オーリンは頷いた。
「ああ」
「いつ外した」
「昨夜、午後十一時十分だ」
管理室にいた全員の視線が。
彼へ集まった。
「正確な時刻か」
グレアムが尋ねる。
「作業札へ書いた」
オーリンは、もう一枚の革札を出す。
日付は昨夜。
午後十一時十分。
C―17。
《仮分岐解除》。
「何を解除した」
グレアムが問う。
「五〇七号室へ延ばしていた枝だけだ」
オーリンは、開かれた端子を指した。
「本来の五〇九号室は、最初からC―17へつながっていた。五〇七への分岐を外したことで、五〇九だけが残った」
「五〇九号室へ戻したのではない」
ミラベルが確認する。
「戻したのは設備の状態だ」
オーリンが答える。
「五〇七への臨時分岐を外し、元の五〇九号室だけにした」
「誰の指示で?」
オーリンは。
今度は迷わず。
エドモンドを見る。
「宿泊記録主任からだ」
受付裏の空気が。
静かに固まった。
グレアムが、エドモンドへ顔を向ける。
「午後十一時十分に、五〇七号室への分岐を外させた」
「臨時使用が終了したためです」
エドモンドが答えた。
「終了したと、誰から聞いた」
ごく短い間。
彼は沈黙した。
「当日の業務記録を確認する必要があります」
「自分で指示しておいて、理由を覚えていないのか」
「宿泊記録主任として、多くの変更を処理します」
グレアムの顔から。
最後の愛想が消えた。
だが。
レオンが先に口を開く。
「今は、そこまでだ」
「何だと」
「エドモンドが、五〇七号室への分岐を作らせた」
レオンは事実を並べる。
「昨夜、午後十一時十分に、その分岐だけを外させた。それは確認できた」
「十分怪しいだろう」
「怪しいことと、殺人を知っていたことは別だ」
「庇うのか」
「疑いと証明を分けている」
レオンは、エドモンドへ視線を向けた。
「君が二度の作業を命じたことは、否定しないんだな」
「はい」
「その間、五〇七号室からC―17へ信号が入る状態だったことも」
「設備上は、そうなります」
「表側の対応盤は、三日間ずっと五〇九号室を示していた」
「はい」
「なら」
ミラベルが言った。
「午後十時十八分の呼鈴は、五〇九号室から鳴ったとは限らない」
グレアムがオーリンを見る。
「五〇七号室の紐を引けば、C―17が鳴ったんだな」
「ああ」
「十時十八分にも」
「分岐を外したのは十一時十分だ。それ以前なら鳴る」
誰もいない五〇九号室。
夜勤鍵で中まで確認したネリー。
舞踏室にいたラヴィニア。
それでも。
受付ではC―17の呼鈴が鳴った。
その信号が来た場所は。
「五〇七号室」
ミラベルが呟いた。
レオンは。
すぐには頷かなかった。
「オーリンの作業札と、現在の端子の状態が正しいならな」
「まだ条件があるんですね」
「設備に別の不具合がなかったか。作業札の筆記時期。工具傷と、オーリンの工具が対応するか」
「調べることは残っている」
「だが」
レオンは、開かれた分岐端子を見る。
「午後十時十八分に、五〇七号室からC―17を鳴らせる状態だったことは、かなり強く裏づけられた」
ミラベルは、三日分の記録へ目を戻す。
「食事も」
「C―17」
「湯も、洗濯物も、新聞も、暖房も」
「C―17」
「そのC―17は、五〇九号室を残したまま、五〇七号室にもつながっていた」
「そうだ」
「事件のあと、五〇七号室への分岐だけが外された」
「オーリンは、そう証言した。作業札もある」
五〇七号室の生活記録は。
消されていなかった。
配膳票に。
湯の使用票に。
洗濯票に。
新聞配達欄に。
暖房弁の運転簿に。
呼鈴の印字紙に。
すべて残されている。
ただ。
それが五〇七号室へつながっていたことを示す、物理的な枝だけが。
午後十一時十分に外されていた。
後から記録を読む者は。
表の対応盤を見る。
C―17――五〇九号室。
そして。
三日間の生活すべてを。
五〇九号室のものとして読み取る。
「客室番号のない記録」
ミラベルが言った。
「紙を書き換えなくても、接続を外せば、どの部屋の記録だったのか分からなくなる」
「正確には」
レオンが答える。
「現在残っている対応だけを見れば、五〇九号室の記録だと誤認する」
「食事も湯も、実際に提供された」
「記録は正しい」
「C―17という符号も正しい」
「それも正しい」
「間違っているのは」
ミラベルは。
表の対応盤と、裏の空いた分岐端子を見比べた。
「今の接続を、過去にも同じだったと思うこと」
レオンが頷く。
「変更履歴が残っていなければ、過去の記録は現在の設備によって読み替えられる」
グレアムは。
エドモンドから目を離さなかった。
「三日前につながせたのも、昨夜外させたのもこいつだ」
「それは事実だ」
レオンが認める。
「だが、設備操作を命じた事実だけでは、殺人まで証明できない」
エドモンドは。
礼儀正しい姿勢を崩さずに立っていた。
しかし。
彼が管理する宿泊記録の中で。
五〇七号室へ残された三日間は。
何一つ消されることなく。
五〇九号室のものとして読める状態へ変わっていた。
「仕組みは見えた」
レオンが言った。
「まだ事件は解けていない」
「次は何を調べます?」
ミラベルが尋ねる。
「誰がこの仕組みを思いついたか、ではない」
レオンは答えた。
「まず、コンラッドが何を知り、何を持ち込んだのかを見る」
コンラッド=ヘイルの手帳。
五〇七号室に残された、書きかけの手紙。
押収された燃え残り。
死者の側に残された記録は。
まだ、すべて読まれていない。
レオンは。
表側のC―17――五〇九号室という札ではなく。
裏側の。
何もつながっていない分岐端子へ、最後の視線を向けた。
「部屋を移した者を探す前に」
彼は言った。
「記録の読み方を、誰に教わったのかを確かめる」




