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第6節 ― 五人が知っていた一人

 灰冠ホテルには、客の知らない通路がある。


 秘密の抜け道ではない。


 壁の裏へ隠された階段でもない。


 料理を運ぶ者が歩く廊下。


 汚れた寝具を下ろす階段。


 湯を沸かす機関室へ続く道。


 客の衣服を洗い。


 食器を磨き。


 呼鈴へ応じ。


 宿帳の名を、勘定へ変える者たちが使う。


 ホテルの裏側だった。


 表の廊下には、厚い絨毯が敷かれている。


 裏の廊下には、石床しかない。


 表では、銀器の触れ合う音さえ抑えられる。


 裏では車輪付きの台が行き交い、蒸気管が唸り、洗濯槽を回す水が絶えず床を震わせていた。


 客は一つの部屋に泊まる。


 だが。


 その客を支える仕事は。


 ホテルの中で、いくつもの場所へ分かれている。


「まず給仕からです」


 ミラベルは歩きながら言った。


 記録帳を胸へ抱え。


 レオンより半歩先を進んでいる。


「次に客室管理。設備主任。支配人。最後に宿泊記録主任」


「順番に意味はあるのか」


「あります」


「聞こう」


「先生が先にエドモンドさんへ話を聞くと、ほかの人の答えまで帳簿の言葉になりそうだからです」


 レオンの眉が、わずかに動いた。


「帳簿の言葉?」


「『記録上は』『規定では』『確認できません』」


 ミラベルは、エドモンドの静かな口調を思い出すように答えた。


「正しい言葉です。でも、それを最初に聞くと、ほかの人まで自分の見たものではなく、ホテルの公式な説明へ合わせてしまいます」


「だから、現場に近い者から聞く」


「はい。食事を運んだ人には、帳簿ではなく、何をどこへ運んだのかを聞きます」


「悪くない」


「珍しく素直に褒めましたね」


「まだ聞き取りは始まっていない」


「取り消す準備をしながら褒めないでください」


 後ろを歩くグレアムが、低く唸った。


「俺は、いつまで二人の会話を聞かされる」


「警部が最初から大声で尋ねると、全員が規則違反を先に隠します」


 ミラベルが振り返る。


「今回は、私に任せてください」


「俺は声が大きいだけで、聞き込みができんわけじゃない」


「承知しています」


「その言い方は、納得しとらんな」


 レオンが言った。


「黙っていると約束して、十秒で破った実績がある」


「お前は黙れ」


「先生と警部は、少し離れて見ていてください」


 ミラベルは足を止めた。


「私が、見たものとしたことを聞きます。記録と食い違ったら先生が確かめる。証拠を押さえる必要があれば、警部が動く」


「君は」


 レオンが尋ねる。


「なぜ隠していたのかも聞くのか」


「必要なら」


 ミラベルは答えた。


「でも、理由を聞く前に、何を見たのかを聞きます。気持ちだけで証拠を作らないために」


 レオンは何も言わなかった。


 ただ。


 わずかに顎を引く。


 それが了承だった。


     ◇


 夜勤給仕は、配膳用昇降機の前で待たされていた。


 年若いヒト族の男だった。


 白い上着の袖を肘まで捲り。


 指先には、銀器磨きの黒い粉が残っている。


 朝から警察に呼び止められ、顔は強張っていた。


 背後では、配膳台が上下するたび。


 鎖と歯車が鈍い音を立てている。


「昨夜、五階東翼へ夕食を運びましたね」


 ミラベルが尋ねた。


「はい」


 給仕は、グレアムの方を見た。


 警部は数歩離れ、腕を組んでいる。


 黙っていた。


 顔だけで、十分に警察だった。


「午後七時十分ごろ」


 ミラベルが続ける。


「C―17の注文です」


「記録に、そうあるなら」


「記録ではなく、あなたが覚えていることを聞いています」


 給仕は口を閉じた。


 ミラベルは急かさず。


 配膳用昇降機の横へ置かれた空の銀盆を見た。


「どんな食事でしたか」


「夕食です」


「一人分?」


「……二人分です」


 給仕の声が小さくなる。


「何を運びました?」


「肉料理が二皿。温野菜。パン。黒珈琲と、湯を一つ」


「二組の食器も?」


「はい」


「注文を受けたのは、あなたですか」


「伝声管係から票を受け取りました」


「票には何と?」


「C―17。追加夕食、二名分」


「部屋番号は?」


「書かれていません」


 壁際にいたレオンが口を挟む。


「それでも、運ぶ場所は分かっていた」


「五階の配膳係から指示を受けました」


「どの部屋へ運んだ」


 給仕は答えなかった。


 視線が、石床へ落ちる。


 ミラベルは、その沈黙が死体への恐怖だけではないことに気づいた。


 規則から外れた配膳をした。


 あるいは。


 名を伏せた客について話すこと自体が、ホテルへの裏切りだと思っている。


「五〇九号室ですか」


 ミラベルが尋ねる。


「記録では、そうなっています」


「私が聞いているのは、記録ではありません」


 給仕の喉が動いた。


「実際に、どの扉まで銀盆を運びましたか」


 蒸気管を熱が通る。


 壁が、小さく鳴った。


「……五〇七号室です」


 グレアムの腕が解けた。


「閉鎖中の部屋へか」


「《整備中》の札は掛かっていました」


「疑問に思わなかったのか」


「思いました」


「なら、なぜ運んだ」


「臨時使用中だと言われました」


「誰に」


「五階の配膳主任です。主任も、宿泊記録側から指示を受けただけだと」


 責任が。


 一つずつ上へ移っていく。


 だが。


 給仕が、五〇七号室へ夕食を運んだ事実は動かなかった。


「部屋にいた人を見ましたか」


 ミラベルが尋ねる。


「いいえ」


「扉は開かなかった?」


「少しだけ開きました」


「顔は」


「見ていません。銀盆を渡しただけです」


「声は?」


「低い男の声でした」


 レオンが問う。


「何と言った」


「そこへ置け、と」


「それだけか」


「はい」


「二人分の食事を、一人の男が受け取った」


 給仕が慌てて顔を上げる。


「受け取ったのが一人だっただけです。中に、もう一人いたかもしれません」


「その通りです」


 ミラベルが言った。


「あなたが確認したのは、五〇七号室へ二人分の夕食を運び、男の声を聞いたことまで」


「はい」


「その男性がコンラッド=ヘイルだったかは分からない」


「顔を見ていませんから」


「二人分を、実際に何人で食べたかも分からない」


「はい」


 グレアムは、給仕の横に置かれた配膳票を見た。


「それでも、記録はC―17のままか」


「給仕は、部屋番号を書きません」


 男が答える。


「伝声管から来た符号を、料理へ付けたまま運びます。戻した銀盆も、その符号で処理します」


「五〇七号室へ運んだことは、どこにも残らない」


「通常は、対応盤で部屋が分かりますから」


「通常ならな」


 グレアムが低く言った。


 給仕は肩を縮めた。


 ミラベルは記録帳へ書く。


 午後七時十分。


 C―17。


 二人分の夕食。


 実際の届け先――五〇七号室。


 受け取った者――男性と思われる。


 身元――未確認。


 それ以上は、書かなかった。


     ◇


 客室管理主任ドロテア=ベルクは、洗濯室にいた。


 大きな蒸気洗濯槽が並び。


 天井から垂れた鉄管が、白い蒸気を吐いている。


 熱と石鹸の匂いの中で。


 女中たちは、客室ごとに分けられた衣類を台へ置き、番号札を確かめながら畳んでいた。


 布の山に、名前は付いていない。


 あるのは階。


 運用符号。


 洗濯方法。


 返却期限。


 その服を誰が着るのかは。


 洗濯係には、必要のない情報だった。


「仕事を止めるわけにはいきません」


 ドロテアが言った。


「ホテル中の客が、着替えを待っています」


「手は止めなくて構いません」


 ミラベルは、彼女と並んで洗濯台の間を歩いた。


「五〇九号室の勘定へ付いた洗濯物について聞きたいんです」


「警察には記録を提出したよ」


「記録ではなく、衣類について」


 ドロテアの歩みが、一拍だけ遅れる。


「何が知りたいんだい」


「三日前から、男性用の衣類を洗いましたか」


 ドロテアは答えなかった。


 代わりに。


 台の上へ置かれたシャツの袖を揃えた。


 太い指が、布地の端を正確に合わせる。


「五〇九号室の宿泊者は、ラヴィニア=セレス夫人です」


 ミラベルは続けた。


「細身のエルフ女性。でも、洗濯記録には大きな男性用シャツが含まれている」


「記録にあるなら、わたしが隠しているわけじゃないだろう」


「警察へ、最初から話さなかった」


「聞かれなかったからだ」


「宿泊者と、洗濯物の体格が違うことを?」


「ホテルでは、客の衣類を見て事情を詮索しない」


「でも、違いには気づいていた」


 ドロテアが手を止めた。


「客室管理主任を何年やっていると思っているんだい」


 声には。


 怒りより、疲れがあった。


「ヒト族の男物と、エルフ女性の服を間違えるほど目は悪くないよ」


「どこから回収したんですか」


 ドロテアは唇を結ぶ。


「ドロテアさん」


 ミラベルは、声を柔らかくした。


「誰かを守ろうとしているんですか」


 ドロテアの目が鋭くなる。


「記者は、すぐに人の気持ちへ名前を付けたがるね」


「違うなら、違うと言ってください」


「守秘義務を守っているだけだ」


「その向こうで、人が死にました」


 洗濯槽が回る。


 水と布の重い音が。


 しばらく二人の間を埋めた。


 ドロテアは周囲の女中たちへ視線を向ける。


「少し外しな」


 女中たちは手を止め。


 何も尋ねず、別室へ移った。


 扉が閉まる。


「五〇七号室からだよ」


 ドロテアが言った。


「男物のシャツも、下着も。使用済みの手拭いも。五〇七号室から回収した」


「いつから」


「三日前」


「毎日?」


「衣類は毎日じゃない。手拭いと寝具は替えた」


「誰の客だと聞いていましたか」


「五〇九号室の付属客」


 ミラベルのペンが止まる。


「ラヴィニアさんの?」


「主室は五〇九号室だと聞いた。それ以上は尋ねていない」


「誰から?」


 ドロテアは、答える前にレオンを見た。


 次にグレアム。


 最後に、ミラベルへ視線を戻す。


「エドモンドだよ」


「本人の名前は」


「知らない」


「顔は見ましたか」


「まともには見ていない」


「ヒト族の男性だと判断したのは」


「衣類と寝具だ。背丈も肩幅も、セレス夫人とは違う」


「五〇九号室の宿泊者と、体格も種族も違う」


「付属客が、主室の客と同じ体格である必要はないだろう」


 それは正しい。


 秘書。


 護衛。


 交渉相手。


 随伴者が。


 主室の宿泊者と同じ種族である必要はない。


「五〇七号室は閉鎖中だった」


 グレアムが言った。


「修理中の部屋から寝具を回収して、なぜ報告しなかった」


「支配人の許可があると聞いた」


「聞いただけか」


「客室管理は、宿泊記録主任から回された部屋割りへ従う。密封客の事情を、わたしが覗く方が規則違反だ」


「人が死んでも同じことを言うか」


 ドロテアの顔が歪んだ。


「死ぬと知っていたなら、黙ってはいない」


 声が、初めて震えた。


「わたしは、名前を隠して泊まりたい客を何人も見てきた。暴力を振るう夫から逃げた女。証言前に狙われた契約証人。家族に知られれば連れ戻される娘」


 ミラベルは何も挟まなかった。


「秘密を守ることが、その人間を生かす場合もある」


 ドロテアは続けた。


「だから、名前を尋ねなかった。男物だと分かっても、五〇九号室の客とは別人だと気づいても、付属客ならおかしくはない。そう思った」


「その判断が正しかったかは、まだ分かりません」


 ミラベルが言った。


「でも、あなたが見たものは分かりました」


「何を」


「五〇七号室でヒト族男性が使ったと思われる衣類と寝具が、三日間にわたって回収されていた」


 ドロテアは頷いた。


「その男性がコンラッドさんだったことは?」


「今朝、死体を見て初めて顔を知った」


 ドロテアは再びシャツへ手を伸ばした。


 だが。


 布を畳む前に。


 その手を一度、強く握った。


     ◇


 地下機関室へ続く階段では、空気が変わった。


 上階に漂っていた香水や珈琲の匂いは消え。


 油。


 熱い金属。


 濡れた石。


 蒸気の匂いが濃くなる。


 客室伝声管・呼鈴設備主任のオーリン=ヴォスは、配管図を広げた作業台の前にいた。


 三十代後半のドワーフ族。


 短く刈った髪。


 革の前掛け。


 片目には、微細部品を見るための拡大レンズが上げられている。


 工具箱の蓋は閉じられていた。


 両腕には油汚れ。


 だが、指先だけは丁寧に拭われている。


「C―17について聞きたい」


 グレアムが言った。


 離れて見ているという約束は。


 地下へ下りるまでしか続かなかった。


 オーリンの目が、わずかに動く。


「呼鈴盤の不調ですか」


「昨夜、午後十時十八分に鳴った」


「記録を見ました」


「五〇九号室は無人だった」


「接点の誤作動でしょう」


「そう言うと思った」


 グレアムが一歩近づく。


 ミラベルが横から尋ねる。


「三日前、C―17へ臨時作業をしましたか」


「設備には、毎日どこかしら触れています」


「C―17です」


「覚えていません」


「設備主任が、三日前の作業を覚えていない?」


「細かな調整なら、いちいち記憶していません」


 レオンは、作業台の配管図を見た。


「正式な修理申請には、C―17の記載がない」


「なら、作業していないんでしょう」


「今は、覚えていないと言った」


 オーリンの口元が硬くなる。


「どちらです?」


 ミラベルが尋ねる。


「作業をしていないのか。したけれど、正式な申請へ残していないのか」


「設備の動作試験は、修理申請へ載せないことがあります」


「C―17で試験をした?」


 沈黙。


 蒸気弁が開き。


 白い蒸気が、細く機関室へ噴き出した。


「……臨時作業はしました」


 オーリンが言った。


 グレアムの目が細くなる。


「何をした」


「C―17系統の動作確認です」


「どこへ接続した」


「配管図と、手元の作業札を確認してから答えます」


「誰の指示だ」


「宿泊記録側から、試験の依頼がありました」


「エドモンドか」


 オーリンは答えなかった。


「書面は」


 レオンが尋ねる。


「正式な修理申請はありません」


「作業札はある」


「確認します」


「その作業をしたことだけは認めるんだな」


 グレアムが言う。


「C―17へ臨時作業をした。それ以上は、記録を見てから話します」


 レオンが、ミラベルへ小声で告げる。


「ここまでだ」


「なぜ?」


「今追い込めば、規則外作業を隠していることと、殺人を隠していることが同じに見える」


「違う可能性がある」


「まだな」


 オーリンが。


 三日前、C―17へ臨時作業をした。


 今、確認できたのはそこまでだった。


 実際の接続先。


 作業を命じた者。


 事件後に何をしたのか。


 その答えは。


 作業札と設備盤を調べるまで、保留された。


     ◇


 再び支配人室へ戻ると。


 ブルーノ=ホルツは、机へ届いた書類を一枚ずつ整理していた。


 警察に文書庫を調べられ。


 従業員を順に聞き取られ。


 ホテルの内部が少しずつ剥がされても。


 支配人としての姿勢だけは崩していない。


「五〇七号室の一時使用を許可しましたね」


 ミラベルが言った。


 ブルーノの手が止まった。


「誰から聞きました」


「従業員たちは、支配人の許可があると説明されています」


 給仕は、臨時使用中と聞いた。


 ドロテアは、支配人の許可があると聞いた。


 オーリンは、C―17への臨時作業を認めた。


 誰も。


 ブルーノが直接命じる場面を見たとは言っていない。


 ミラベルは、その違いを曖昧にしなかった。


「説明されたことと、私が許可したことは同じではありません」


「では、許可していないんですか」


 ブルーノは答えない。


「五〇七号室は、寝台も浴室も使える状態だった」


 レオンが言う。


「伝声管に不具合がありました」


「通常の客室としては提供できない。だが、事情のある客へ一時的に使わせることはできた」


「質問の形をした断定に聞こえます」


「否定すればいい」


 長い沈黙が落ちた。


 ブルーノは机の向こうで両手を組む。


「一時使用を認めました」


 グレアムが鼻から息を吐いた。


「何のためだ」


「契約上の事情から、名を公開できない監査人を泊めると説明されました」


「誰から」


 ブルーノの視線が。


 壁際に立つエドモンドへ向いた。


「宿泊記録主任からです」


 エドモンドの表情は変わらない。


「五〇九号室の付属客として?」


「そのように処理すると聞きました」


「泊まる者の名前は」


「監査人とだけ」


「顔は」


「確認していません」


「主室客の責任署名は?」


 レオンが問う。


「手続きは、宿泊記録主任の担当です」


「支配人として確認しなかった」


「私が許可したのは、五〇七号室の一時使用です」


 ブルーノの声は硬かった。


「密封客の身分処理までは、担当部署へ委ねました」


 それ以上。


 彼は制度の正当性を語らなかった。


 ただ。


 机上の書類へ視線を落とす。


「殺人が起きるとは、知りませんでした」


「だが、五〇七号室が使われていることは知っていた」


 ミラベルが言う。


「はい」


 それが。


 ブルーノの知っていた部分だった。


     ◇


 最後に。


 ミラベルは、エドモンド=ケイルへ向き直った。


 宿泊記録主任は。


 支配人室の壁際から動いていなかった。


 給仕が食事を運んだ。


 ドロテアが衣類を回収した。


 オーリンがC―17へ臨時作業をした。


 ブルーノが五〇七号室の一時使用を許可した。


 その仕事の中心に。


 宿泊記録主任という役職がある。


「五〇七号室へ泊めた人物の身分と、どの宿泊契約へ所属させるかは、あなたが管理したんですね」


 ミラベルが尋ねた。


「密封客の手続きは、私の担当です」


「支配人には、監査人だと説明した」


「契約上の事情から、身分を公開できない方でした」


「五〇九号室の付属客として扱う予定だった」


「そのとおりです」


「主室客の責任署名は?」


 エドモンドの指が。


 袖口の近くで、わずかに動いた。


 すぐに止まる。


「正式な手続きは、完了しておりません」


「密封随伴簿にも、現在は票がなかった」


「はい」


「でも、五〇七号室は使われていた」


「一時使用です」


「食事も運ばれた」


「配膳部門の仕事です」


「衣類と寝具も回収された」


「客室管理の担当です」


「C―17には臨時作業が行われた」


「設備部門の判断については、私からは答えられません」


 答えは。


 一つずつなら正確だった。


 食事は給仕。


 衣類は客室管理。


 設備はオーリン。


 部屋の許可は支配人。


 エドモンドは、それぞれを自分の仕事から切り離す。


「その人の名前は?」


 ミラベルが尋ねた。


「守秘契約があります」


「死者は、コンラッド=ヘイルです」


「警察から伺いました」


「あなたが身分を管理した密封客と、コンラッドさんは同一人物ですか」


 エドモンドは。


 すぐには答えなかった。


 感情が表へ出た沈黙ではない。


 質問の範囲を測り。


 どの言葉なら規則違反にならず。


 どこまで答えれば、答えたことになるのか。


 慎重に選ぶ沈黙だった。


「密封客の身分情報は、公開宿帳と同じ形式では扱いません」


「知っているか、知らないかを聞いています」


「お答えできません」


 グレアムが一歩踏み出す。


「殺人事件だぞ」


「警部。私は捜査を拒否しているのではありません。正式な手続きに従い、必要な情報を提出します」


「必要かどうかを決めるのは――」


「警部」


 ミラベルが止めた。


 グレアムが、不満そうに彼女を見る。


 ミラベルはエドモンドへ向き直った。


「あなたは、その人の名前を話さない」


「守秘義務があります」


「でも、その人がホテルでどのように扱われるかは管理した」


「宿泊記録主任として」


「公開宿帳へは載せない。五〇九号室の契約へ所属させる。五〇七号室を使わせる」


「私一人で決めたことではありません」


「そうでしょうね」


 ミラベルは言った。


 責める口調ではなかった。


 そのため。


 エドモンドの目に。


 初めて、ごく小さな戸惑いが浮かぶ。


「誰も、一人で決めていないんです」


 ミラベルは、記録帳を開いた。


 これまで書き留めた頁を。


 一枚ずつ戻す。


 午後七時十分。


 C―17。


 二人分の夕食。


 実際の届け先、五〇七号室。


「給仕は、二人分の食事を知っていました」


 自分の中で。


 散らばっていた言葉を並べ直すように。


「でも、食べる人の名前は知らなかった」


 次の頁。


「ドロテアさんは、五〇七号室から男性用の衣類と寝具を回収していました。でも、使っていた人の名前は知らなかった」


 次。


「オーリンさんは、C―17へ臨時作業をした。でも、その設備を誰が使うのかは知らなかった」


 次。


「ブルーノ支配人は、五〇七号室が使われることを知っていた。でも、泊まる人を監査人としか知らなかった」


 最後に。


 エドモンドを見る。


「エドモンドさんは、その人の身分と、ホテルのどこへ所属させるかを知っていた。でも、食事を運ばず、衣類を洗わず、呼鈴にも応じなかった」


 エドモンドは何も言わない。


 ミラベルは。


 五つの頁を、机の上へ重ねた。


 食事。


 衣類と寝具。


 設備符号。


 客室使用。


 身分と所属。


 五つの業務。


 五つの場所。


 五人が知っていた。


 だが。


 誰一人。


 すべてを見てはいない。


「ネリーさんは、この五人とは別です」


 ミラベルが言った。


「彼女は、客の生活を支える記録ではなく、午後十時十八分の最後の呼鈴を受け取った」


 C―17。


 無人の五〇九号室。


 舞踏室にいたラヴィニア。


 誰が、どこから鳴らしたのか分からない鈴。


 それは。


 三日間の生活とは別に残された。


 最後の断片だった。


 ミラベルは、五〇七号室に倒れていた男を思い出した。


 三日分の新聞。


 髭。


 湯。


 衣類。


 食器の輪染み。


 乱れた寝台。


 一人の人間が生きた痕跡は。


 部屋の中では、一つにつながっていた。


 だが。


 ホテルの仕事へ移された瞬間。


 食事。


 洗濯。


 設備。


 部屋。


 身分。


 すべてが。


 別々の手へ渡った。


「誰もコンラッドさんを知らなかったのではありません」


 ミラベルが言った。


 支配人室にいる全員が、彼女を見る。


「みんなが、別々の一部分だけを知っていたんです」


 給仕は。


 彼の食事を知っていた。


 ドロテアは。


 彼の体格と、使った寝具を知っていた。


 オーリンは。


 彼の生活へ関わる設備符号を知っていた。


 ブルーノは。


 彼が使う部屋を知っていた。


 エドモンドは。


 彼がホテルで与えられた身分と所属を知っていた。


 だが。


 誰も。


 それらをコンラッド=ヘイルという一人の人間へ結びつけていなかった。


「一人の客が」


 ミラベルは。


 自分の記録帳を見つめた。


「五つの記録へ分解されていた」


 言葉にした瞬間。


 事件の見え方が変わった。


 五〇七号室から、男が消されたのではない。


 男の存在は。


 ホテルのあちこちへ残っている。


 料理として。


 洗濯物として。


 設備作業として。


 客室の使用許可として。


 密封客の身分処理として。


 どの一つも。


 単独では、コンラッドの滞在を証明しない。


 だが。


 五つを重ねれば。


 三日間、五〇七号室で生活した一人の輪郭が浮かび上がる。


「記録を消したのではない」


 レオンが言った。


 声は静かだった。


「分けたのか」


 グレアムが問う。


「結果として、分かれていたことは確認できる」


「意図的に?」


 ミラベルが尋ねる。


 レオンは、すぐには答えなかった。


「それを決めるには、まだ足りない」


 ミラベルが並べた五つの頁へ。


 視線を落とす。


「分業そのものは、灰冠ホテルの通常制度だ。秘密を守るため、最初から情報を分けている」


「でも今回は」


 ミラベルが言う。


「その分業によって、一人の客が見えなくなった」


「そうだ」


「誰かが、制度を利用した可能性は?」


「ある」


「何を調べれば分かりますか」


 レオンは、五つの記録を指で追わなかった。


 代わりに。


 一つの符号を口にする。


「C―17」


 食事の注文。


 呼鈴。


 設備主任の臨時作業。


 複数の断片に。


 同じ符号が現れている。


「今までは、従業員の記憶を一人へ結び直した」


 レオンが言った。


「次は、記録そのものを並べる」


「配膳票。洗濯票。湯の使用票」


 ミラベルが答える。


「呼鈴記録もだ」


 グレアムが加えた。


「新聞配達欄と暖房弁の運転簿も確認しろ」


 レオンは頷いた。


「同じC―17が、どこまで残っているかを見る」


「それから、設備盤」


 ミラベルが言う。


「オーリンが、実際に何をしたのか」


「作業札と、裏側の分岐端子を確認する」


 レオンの視線が。


 受付裏の対応盤と。


 その奥にある設備盤の方角へ向いた。


「C―17が、どの部屋として読まれていたかではない」


 表の札は。


 五〇九号室を示したままだった。


「実際には、どの部屋からC―17へ信号が入るようになっていたのかを調べる」


 エドモンドは。


 壁際で。


 それまでと同じ静かな姿勢を保っていた。


 ただ。


 腹の前で重ねた指だけが。


 いつの間にか、強く組まれていた。

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