第13節 ― 空室には客がいる
五〇七号室の扉が開いた。
発見された朝とは違い。
室内に、死体はなかった。
コンラッド=ヘイルの遺体は、すでに検視のため運び出されている。
それでも。
彼がここで暮らし。
ここで殴られ。
ここから助けを求めた痕跡は、消えていなかった。
三日分の新聞。
使われた寝台。
半ばまで書かれた便箋。
灰の残る暖炉。
乾いた茶器の輪染み。
床の一角には、血痕を保護するための覆いが掛けられている。
窓のカーテンは、発見時のまま。
卓上灯も。
警察が調べ終えるまで、消されていなかった。
黄い灯りが。
夜へ沈んだ室内を、狭く照らしている。
グレアム警部が先に入った。
続いて。
レオン。
ミラベル。
最後に。
二人の警官に挟まれたエドモンド=ケイルが、敷居を越えた。
エドモンドの両手は、まだ拘束されていない。
だが。
扉の外にも警官が立ち。
窓は閉ざされ。
逃げられる場所はなかった。
エドモンドは部屋の中央で足を止めた。
コンラッドが倒れていた場所を見る。
すぐに。
視線を逸らした。
宿泊記録主任として。
何度も客室へ入ったことがあるはずだった。
だが今。
彼は備品も。
寝台の乱れも。
机上の紙も見ていない。
床だけを避けていた。
「ここなら話すと言ったな」
グレアムが言った。
エドモンドは答えなかった。
グレアムは、警官から証拠箱を受け取った。
書き物机の上へ。
灰色の布を広げる。
コンラッドへの送金控え。
切り取られた密封随伴票。
ラヴィニア=セレスの偽造署名。
午後十一時十分の料金訂正記録。
五〇七号室への分岐解除を記した、オーリンの作業札。
そして。
五〇七号室の鍵。
重い真鍮飾りに刻まれた数字の溝には。
採取されたあとも。
赤褐色の汚れが、わずかに残っていた。
「順番に確認する」
グレアムの声は低かった。
「この送金控えは本物か」
エドモンドは、机を見た。
「はい」
「コンラッドへ金を渡していた」
「はい」
「何の代金だ」
沈黙。
「宿泊者の情報か」
エドモンドの唇が動いた。
声が出るまでに。
少し時間がかかった。
「最初は」
乾いた声だった。
「到着時刻や、会議室の使用予定だけでした」
ミラベルは記録帳を開いた。
だが。
すぐには書かなかった。
「それを、コンラッドへ売った」
グレアムが言う。
「借金がありました」
「理由を聞いているんじゃない」
「分かっています」
エドモンドは目を閉じた。
始まりは。
彼が小さな情報と呼んだものだった。
偽名の客が、いつ到着するのか。
どの会議室が使われるのか。
誰が、何時に外出したのか。
新聞を読めば、いずれ知られる。
ほかの従業員も目にしている。
一人の客を破滅させるほどではない。
そう言い聞かせ。
エドモンドは金を受け取った。
だが。
一度開いた扉を。
コンラッドは閉じさせなかった。
次に要求されたのは。
客が使った偽名。
面会者。
誰と誰が。
同じ夜に。
同じホテルへいたのか。
一つずつの情報は小さくとも。
組み合わせれば。
商会の密談も。
政治家の私生活も。
証人の居場所も分かる。
それが二段階目だった。
「三か月前」
レオンが言った。
「君は関係を切ろうとした」
エドモンドが目を開く。
「送金が一度途切れている。そのあと、金額が急に大きくなった」
「……はい」
「コンラッドは、過去の送金控えと手紙を持っていると告げた」
「ホテルにも」
エドモンドは言った。
「警察にも、新聞社にも送れると」
情報を売った事実が明らかになれば。
灰冠ホテルにはいられない。
それだけではない。
ヴェルム=クロウのどの宿も。
記録院も。
契約を扱う商会も。
客の秘密を売った男を雇わない。
「それで、さらに要求へ従った」
グレアムが言う。
「はい」
「自分のしたことを隠すために」
「はい」
三段階目に。
コンラッドが求めたのは。
一人の客に関する情報ではなかった。
密封随伴簿の原本。
名前を表へ出せない者たちが。
誰の契約へ所属し。
どの付属室を使ったのか。
灰冠ホテルが六十年間守ってきた秘密へ。
まとめて手を入れるための帳簿だった。
「原本を渡せば」
エドモンドは言った。
「コンラッドは、客を一人ずつ探す必要もなくなる」
「そこまで来て、ようやく止めようと思ったのか」
グレアムの言葉に。
エドモンドの顔が歪んだ。
「違います」
声が、初めて強くなる。
だが。
すぐに自分で押し殺した。
「最初の一件から、許されることではありませんでした」
ミラベルのペン先が。
紙へ触れる。
その一文だけを書き留めた。
罪を認める言葉と。
罪から逃れるための言葉は。
同じ形をしていることがある。
どちらなのかは。
そのあとに選んだ行動が決める。
「コンラッドを五〇七号室へ入れたのは」
レオンが尋ねた。
「原本を渡すためか」
「渡すふりをするためです」
「ふり?」
ミラベルが顔を上げた。
「原本と同じ大きさの帳簿を用意しました」
エドモンドは。
この部屋の書き物机を見る。
昨夜の光景を。
そこへ重ねるように。
「表紙と封印帯だけを似せた、白紙の帳簿です」
「それを渡して」
グレアムが言う。
「逃げるつもりだった」
「すぐには開かせないつもりでした。密封宿帳庫から運び出したように見せて、封印は安全な場所へ着いてから解くようにと」
「数時間、稼ぐ」
レオンが言った。
「そのあいだに街を出る」
「はい」
鉄環線の始発を待つ必要はない。
貨物馬車へ潜り込めば。
夜明け前に市外へ出られる。
原本を手に入れたと信じさせれば。
コンラッドが白紙に気づくまで。
わずかでも距離を稼げる。
そう考えた。
「コンラッドは、信じなかった」
「表紙を開きました」
エドモンドの目が。
五〇七号室の鍵へ移る。
「最初の頁を見て、笑ったんです」
白紙の帳簿。
逃げる準備。
原本を渡すつもりがないこと。
コンラッドは。
初めから分かっていたように笑った。
そして。
すでに証拠の一部を。
別の場所へ送ったと告げた。
エドモンドが逃げれば。
資料はホテルへ届く。
警察へも。
新聞社へも。
エドモンドが情報を売っていた証拠は。
彼が逃げたことによって、公表される。
「本当に送っていたのか」
グレアムが問う。
「分かりません」
「送付先は」
「教えませんでした」
「郵便か。使いか」
「それも」
「市警で継続して調べる」
グレアムが言った。
「郵便局、運送所、貸金庫、コンラッドの取引先。見つからないからといって、最初から虚勢だったとは決めん」
エドモンドは頷かなかった。
資料が本当に存在するのか。
死者が最後まで、彼を支配するためについた嘘なのか。
まだ分からない。
「偽の帳簿はどこにある」
グレアムが尋ねた。
「押収品にも、部屋にもなかった」
「持ち出しました」
「いつ」
「この部屋を出るときです」
「どこへ」
「地下機関室の脇にある、機密書類用の焼却炉へ入れました」
ホテルで不要になった宿泊控え。
書き損じた契約票。
客の名前を含む書類。
外部の廃棄業者へ渡せない紙を。
灰へ変えるための炉。
「部屋の暖炉へ残っていた紙は?」
ミラベルが尋ねる。
「偽帳簿ではありません」
エドモンドが答えた。
レオンが。
暖炉の灰へ目を向ける。
「紙質とインクは、机にあった便箋と一致している。コンラッドが書き損じた紙だ」
燃え残った文字も。
途中まで書かれた便箋の文体とつながっていた。
偽帳簿を。
この暖炉で燃やした痕跡ではない。
「コンラッドは」
エドモンドが言った。
「白紙の頁を捲りながら、ホテルの客を一人ずつ値段へ変えました」
商会の秘密交渉。
政治家の愛人。
追われている証人。
債務を隠した貴族。
誰が。
いくら払うのか。
実際の名を一つも知らないくせに。
帳簿さえあれば。
全員へ値段を付けられると。
「ホテルすべての秘密を売ると、笑いました」
エドモンドの声が震えた。
「これまで売ってきたのは、君だ」
レオンが言う。
エドモンドの顔から。
被害者のような色が消えた。
「はい」
長い沈黙のあと。
彼は認めた。
「そうです」
コンラッドだけが。
灰冠ホテルの秘密を汚したのではない。
扉を開いたのは。
エドモンドだった。
小さな情報なら。
誰も傷つかない。
一度だけなら。
自分で止められる。
そう言い続け。
コンラッドを、帳簿の奥まで招き入れた。
「最初から、殺すつもりだったのか」
グレアムが尋ねる。
「違います」
エドモンドは、即座に答えた。
「毒も、武器も用意していなかった」
「はい」
「だが、この鍵を持っていた」
「五〇七号室へ入るためです」
コンラッドを。
秘密裏に泊めるため。
エドモンド自身が受付から受け取った鍵。
その先には。
重い真鍮飾りが付いていた。
「コンラッドは」
エドモンドが言う。
「私が消えても、次を買えばいいと言いました」
給仕でも。
女中でも。
受付係でも。
金に困る者は、必ずいる。
秘密を守るホテルほど。
秘密へ値段が付く。
エドモンド一人が逃げても。
灰冠ホテルは。
これからも売り場であり続ける。
「それで、笑った」
エドモンドの指が。
無意識に。
何かを握る形になる。
「私は、鍵を持っていました」
「殴ったのか」
グレアムが問う。
「一度」
「背後から」
「はい」
「午後十時十四分ごろ」
「時計は見ていません」
「傷の状態と、そのあとの呼鈴から推定された時刻だ」
レオンが言った。
「君の記憶ではない」
エドモンドは。
小さく頷いた。
一撃。
コンラッドは倒れた。
床へ崩れ。
動かなくなった。
「死んだと思った」
グレアムが言う。
「動きませんでした」
「脈を確認したか」
「いいえ」
「呼吸は」
「近づけませんでした」
「なら」
グレアムの声が。
重く落ちる。
「死んだと確認したのではない。死んだことにしたかっただけだ」
エドモンドは答えられなかった。
殺意を準備していたわけではない。
鍵を。
凶器として持ち込んだわけでもない。
一撃は。
怒りと恐怖の中で行われた、衝動だった。
だが。
そのあとに続いたことは違う。
「倒れたあと」
ミラベルが尋ねる。
「何をしたんです?」
エドモンドが。
彼女を見る。
グレアムではなく。
レオンでもなく。
記録帳を持つミラベルを。
「探しました」
「何を?」
「送ったと言っていた資料。私の手紙。送金の控え。原本を要求したことが分かる物」
「見つかった?」
「何も」
机の引き出し。
旅行鞄。
衣類。
便箋。
寝台の周囲。
自分を告発する記録を。
エドモンドは探した。
床に倒れた男へ背を向け。
死んだことにしたまま。
「午後十時十八分」
レオンが言った。
エドモンドの肩が。
わずかに震えた。
「コンラッドは、呼鈴紐を引いた」
「……はい」
返事は掠れていた。
「見たんですね」
ミラベルが尋ねる。
「机を調べていました」
「何が聞こえたんです?」
「壁の中で、接点が入る音が」
客室の中で。
受付の鈴は鳴らない。
紐が引かれる。
壁の内側で接点が入り。
信号が。
C―17の線を通って受付裏へ送られる。
「振り返ると」
エドモンドは言った。
「あの男の手が、紐から落ちるところでした」
「生きていると分かった」
「はい」
「助けを呼ばなかった」
グレアムが言う。
「呼鈴は、もう鳴っていました」
「五〇九号室のものとしてな」
レオンが答えた。
エドモンドは目を閉じる。
「誰も五〇七号室へ来ないと、分かっていたんですね」
ミラベルの声は。
責めるよりも静かだった。
その問いが。
エドモンドには、最も答えにくかった。
「表の対応盤では」
彼は言う。
「C―17は五〇九号室です」
「五〇七号室へも分岐されていた」
「はい」
「呼鈴を受けた者は、五〇九号室へ向かう」
「はい」
「五〇九号室は無人。ラヴィニアさんは舞踏室にいる。返事がなければ、設備の誤作動だと考える」
「……はい」
「君は」
レオンが言った。
「コンラッドが最後に残した記録を、誤った部屋へ送った」
「私が、呼鈴を鳴らしたわけではありません」
エドモンドが顔を上げる。
「分かっている」
「ネリーへ、五〇九号室へ行けと命じたわけでもない」
「それも分かっている」
「なら」
「君は、誰も五〇七号室へ来ないと分かっていながら、部屋を出た」
エドモンドの言葉が止まった。
午後十時十八分。
コンラッドは。
まだ生きていた。
助けを求めた。
その事実を。
エドモンドも知った。
それでも。
救助を呼ばなかった。
五〇七号室で。
一人の男が死ぬことを選んだ。
「卓上灯を消さなかったのは」
ミラベルが尋ねる。
「なぜです?」
エドモンドは。
今も黄い炎を保つ灯りを見る。
「呼鈴が鳴ったからです」
「誰かが来ると思った」
「はい」
「それなのに、部屋を出た」
「廊下へ出れば、鉢合わせるかもしれないと思いました。灯りまで消している時間はないと」
実際には。
ネリーは隣の五〇九号室へ向かった。
廊下に。
五〇七号室を訪ねる足音は来なかった。
「鍵を受付へ戻したあと」
エドモンドは続けた。
「灯りが残っていることに気づきました」
「消しに戻らなかった」
「一度戻した鍵を、また持ち出せば」
誰かに見られるかもしれない。
鍵掛けから消えた時刻が。
記憶されるかもしれない。
「怖くて、戻れませんでした」
黄い灯りは。
コンラッドが死んだあとも燃え続けた。
翌朝。
ネリーが。
扉の下へ漏れる光を見つけるまで。
「午後十時二十五分ごろ」
グレアムが言った。
「君は、この部屋を出た」
「はい」
「鍵飾りを拭いた」
「はい」
「受付へ戻した」
「はい」
鍵がないと気づかれれば。
閉鎖中の部屋へ。
誰かが出入りしていることが分かる。
だから。
血を拭き。
元の鉤へ戻した。
その途中。
白紙の偽帳簿も持ち出した。
地下の焼却炉へ入れ。
灰へ変えた。
それから。
午後十一時十分。
エドモンドは。
五〇九号室に付いていた追加料金を一括で取り消した。
オーリンへ。
五〇七号室への分岐だけを外すよう命じた。
そして。
締め処理前の《当日用綴り》から。
コンラッドの密封随伴票を切り取った。
「なぜ、票を処分しなかった」
グレアムが尋ねる。
発見された票。
主室、五〇九号室。
随伴者、一名。
付属室、五〇七号室。
緊急識別符号、C―17。
ラヴィニアの偽造署名。
「一枚抜けたままでは」
エドモンドが言う。
「綴じ糸の切断と、票の厚みが合わないことが分かります」
「だから残した?」
「記載を消し、別の取り消し票へ作り直すつもりでした」
「何の票に見せる」
「設備試験用の臨時室を、使用前に取り消した記録に」
五〇九号室。
ラヴィニア。
コンラッド。
その三つを示す記載を消し。
通常の処理票へ加工する。
翌朝。
記入不備の訂正という理由で、ブルーノと宿帳庫を開き。
当日用綴りへ戻すつもりだった。
「昨夜の収蔵までには間に合わなかった」
「はい」
「それでも、切れた綴りを支配人と一緒に庫へ入れた」
「外装と日付しか確認しないと分かっていました」
「翌朝、書き直すつもりだった」
「はい」
「だが、警察が事務室と宿帳庫を封鎖した」
エドモンドは。
机の上の切り取り票を見る。
「処理できませんでした」
なぜ。
証拠となる票を処分しなかったのか。
捨てるためではない。
一枚が失われた事実そのものを。
後から隠すために必要だった。
「なぜ、ラヴィニア=セレスだった」
グレアムが尋ねる。
「五〇七号室を使わせるだけなら、別の主室へ所属させることもできた」
エドモンドは。
隣室との壁を見る。
五〇九号室。
「最初は、都合がよかったからです」
「隣室だった」
「一人旅で。随伴者の登録がなかった。五〇七号室を付属室として扱っても、公開宿帳へ新しい名前を加える必要がありませんでした」
「責任署名を偽造した」
「はい」
「ラヴィニア本人は知らなかった」
「はい」
「殺したあと」
ミラベルが言う。
「彼女へ疑いを向けるため、その所属を利用した」
エドモンドの指が。
わずかに握られる。
「コンラッドとセレス夫人の関係を、知っていました」
「恐喝の過去を?」
「すべてではありません。コンラッドが彼女へ面会を求めていたことは知っていました」
「だから、記録が見つかれば」
ミラベルの声が硬くなる。
「ラヴィニアさんが疑われると思った」
「彼女には、動機があった」
「あなたが作った動機ではありません」
「分かっています」
「でも、利用した」
エドモンドは。
否定しなかった。
殺人そのものは。
一度の衝動だった。
だが。
生きていると分かったあと、助けなかった。
鍵を拭いた。
偽帳簿を焼いた。
料金を消した。
五〇七号室への分岐を外させた。
随伴票を切り取った。
ラヴィニアに残された動機を利用した。
その一つひとつは。
恐怖の中であっても。
エドモンド自身が選んだ行為だった。
「君は、ホテルの分業を知っていた」
レオンが言った。
「給仕は、名前を知らない」
「はい」
「女中は、支払者を知らない」
「はい」
「機関係は、客を知らない」
「はい」
「受付は、部屋の中を知らない」
「はい」
「一人の従業員が買収されても、客の秘密すべてが漏れないように作られた制度だ」
「そうです」
エドモンドは。
わずかに顔を上げた。
その制度だけは。
今も誇りであるかのように。
「灰冠ホテルは、客の秘密を守ってきました」
「君は、その制度を破った」
グレアムが言う。
「そして最後には、殺人を隠すために使った」
「私が何もしなくても」
エドモンドの声が。
かすかに震える。
「誰も、分からなかったはずです」
「何が」
「あの男がここにいたことを」
エドモンドは。
五〇七号室を見回した。
三日分の生活が残る部屋を。
「公開宿帳に名前はない。五〇七号室は閉鎖中。食事も湯も、五〇九号室。給仕は顔を見ていない。女中は名前を知らない。機関係は設備試験だと思っていた」
言葉を重ねるほど。
彼の声が。
宿泊記録主任のものへ戻っていく。
情報を分類し。
担当を分け。
一人の客を項目へ変える声。
「あの男がここにいたことを、誰も知りませんでした」
「いいえ」
ミラベルが言った。
エドモンドの声が止まる。
「給仕は食事を知っていました」
五〇七号室へ運ばれた、二人分の夕食。
「女中は服を知っていました」
三日間回収された、男性用の衣類と寝具。
「機関係は呼鈴を知っていました」
五〇七号室へ分岐されていた、C―17。
「みんなが、あの人の一部を知っていたんです」
一人の従業員は。
コンラッドのすべてを知らない。
だが。
何も知らなかった者もいない。
ネリーは。
最後の呼び出しを受け取った。
ブルーノは。
五〇七号室の使用を許可した。
会計係は。
誰かが食べ。
湯を使い。
洗濯を出したことを知っていた。
「誰も一人で、コンラッド=ヘイルという人を見ていませんでした」
ミラベルは。
開いていた記録帳を、胸元へ寄せた。
「でも、食べたことも。眠ったことも。服を着たことも。助けを求めたことも。全部、残っていました」
「それらは」
エドモンドが言いかける。
「ただの業務記録ですか?」
ミラベルが問い返す。
エドモンドは答えなかった。
「コンラッドさんは、人を脅していました。あなたから秘密を買い、ラヴィニアさんを恐喝し、ホテルの客まで売ろうとした」
ミラベルは続ける。
「でも、その人が何をしたかと、その人がここにいたことは別です」
人は。
善良だから存在するのではない。
正しいから記録されるのでもない。
罪を犯した者であっても。
殺されたなら。
その死まで。
別人の記録へ置いてよい理由にはならない。
「秘密を守ることは」
ミラベルが言った。
「人がいた事実まで消すことではありません」
エドモンドの顔から。
宿泊記録主任の表情が。
ゆっくりと剥がれ落ちる。
「消してはいない」
彼は呟いた。
「私は、記録を消してはいない」
「そうだ」
レオンが答えた。
エドモンドが顔を上げる。
「君は記録を消したんじゃない」
レオンは。
机上へ置かれた証拠を見る。
配膳票。
洗濯票。
呼鈴記録。
会計記録。
密封随伴票。
どれも。
完全には消されていない。
「別々の場所へ置いて、誰にも一人の人間として見えなくした」
コンラッドの身体は。
五〇七号室にあった。
名前は。
公開宿帳になかった。
食事も。
湯も。
衣類も。
新聞も。
暖房も。
五〇九号室へ所属させられた。
呼鈴は。
C―17という符号になり。
誰もいない五〇九号室の誤作動として処理された。
「一つずつの記録は正しい」
レオンは言った。
「だが、君は所属先を変えた」
エドモンドが。
乾いた笑いを漏らす。
「それを、あなたは偽装と呼ぶ」
「ほかに何と呼ぶ」
「ホテルでは、毎日やっています」
エドモンドは。
隣室の壁を見た。
「客の名前を伏せる。随伴者を主室へ所属させる。食事を支払者へ付ける。仮名を本名の代わりに使う。誰がどの部屋にいたかを、一人の従業員へ知らせない」
「制度は同じだ」
レオンが言う。
「目的が違う」
「紙の上では、同じです」
「紙の上だけを見る者にはな」
レオンの声は。
いつもと変わらず静かだった。
「だから、君は見落とした」
「何を」
「記録を作ったのは、紙じゃない」
給仕が運んだ。
女中が洗った。
機関係がつないだ。
見習い女中が鈴へ応じた。
支配人が部屋を許可した。
人間が。
それぞれ、自分の見た一部分を覚えていた。
「君は、部署が分かれていれば」
レオンは続けた。
「人間まで分かれると思った」
エドモンドは。
何も言わなくなった。
グレアムが。
証拠布の上から、五〇七号室の鍵を持ち上げた。
重い真鍮飾り。
その数字の溝に残った血。
「確認する」
警部の声には。
問いから逃れる余地がなかった。
「コンラッドを五〇七号室へ入れた」
「はい」
「ラヴィニアの署名を偽造し、彼女の随伴者として登録した」
「はい」
「昨夜、この鍵飾りでコンラッドを殴った」
エドモンドは。
床の覆いを見る。
「はい」
「呼鈴が鳴り、生きていると分かったあとも、助けずに部屋を出た」
返答が遅れた。
「……はい」
「鍵を拭いて受付へ戻し、記録を偽装した」
「はい」
グレアムは。
鍵を証拠布へ戻した。
「バルトラム=グレアムの名において」
エドモンドの両側にいた警官が動く。
「エドモンド=ケイル。コンラッド=ヘイル殺害及び証拠隠滅の容疑で逮捕する」
鉄の拘束具が。
エドモンドの手首へ掛けられた。
小さな金属音だった。
呼鈴よりも。
鍵が回る音よりも。
ずっと小さい。
だが。
今度は。
聞き間違える者はいなかった。
エドモンドは抵抗しなかった。
警官に促され。
扉へ向かう。
敷居の前で。
一度だけ、室内を振り返った。
「私は」
言葉が止まる。
灰冠ホテルを守りたかった。
殺すつもりはなかった。
コンラッドが悪かった。
自分も脅されていた。
何を言おうとしても。
すでに語られている。
そして。
どの言葉も。
午後十時十八分に。
助けを求めて伸ばされた手を。
別の部屋から呼び戻すことはできない。
エドモンドは。
何も言わず。
廊下へ出た。
警官たちの足音が。
厚い絨毯へ吸い込まれていく。
グレアムも続こうとして。
扉の前で、レオンへ振り返った。
「供述は、市警で取り直す」
「好きにしろ」
「お前も来い」
「今の話は聞いた」
「正式な調書には、立会人の署名が要る」
「ミラベルがいる」
「先生」
ミラベルが睨む。
「君は記録者だろう」
「警察の調書へ、勝手に私を所属させないでください」
グレアムが鼻を鳴らした。
「二人とも来い」
「命令か」
「そうだ」
「警部は、他人を自分の事件へ所属させるのが好きですね」
「今さら何を言っとる」
グレアムは廊下へ出た。
ミラベルは。
まだ室内へ残るレオンを見る。
「行かないんですか」
「行く」
「では、何を見ているんです?」
レオンは答えず。
五〇七号室を見回した。
《整備中》の札。
使われた寝台。
三日分の新聞。
茶器。
浴室。
机。
呼鈴紐。
一人の男が。
三日間。
ここで生きた痕跡。
「空室だったんでしょうか」
ミラベルが尋ねた。
「公開宿帳ではな」
「でも、コンラッドさんはいた」
「ああ」
「では、空室ではありません」
「ホテルの記録と、部屋の事実。どちらの言葉を使うかによる」
「先生は、最後まで面倒ですね」
「君が簡単に書きすぎるからだ」
「簡単には書きません」
ミラベルは。
記録帳を開いた。
頁の上部へ。
節の題ではなく。
事件を最後まで見た者として。
一行だけ記す。
――空室には、客がいる。
書き終え。
インクが乾くのを待つ。
それから。
五〇七号室の卓上灯へ歩み寄った。
黄い炎を消す。
光が失われ。
室内は。
廊下から差し込む薄明かりだけになった。
扉を閉じる前に。
ミラベルは、もう一度振り返った。
寝台。
浴室。
机。
呼鈴紐。
誰かが隠れている場所はない。
倒れている者も。
助けを待っている者もいない。
今度は。
そこに誰もいないことを。
自分の目で確かめてから。




