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第13節 ― 空室には客がいる

 五〇七号室の扉が開いた。


 発見された朝とは違い。


 室内に、死体はなかった。


 コンラッド=ヘイルの遺体は、すでに検視のため運び出されている。


 それでも。


 彼がここで暮らし。


 ここで殴られ。


 ここから助けを求めた痕跡は、消えていなかった。


 三日分の新聞。


 使われた寝台。


 半ばまで書かれた便箋。


 灰の残る暖炉。


 乾いた茶器の輪染み。


 床の一角には、血痕を保護するための覆いが掛けられている。


 窓のカーテンは、発見時のまま。


 卓上灯も。


 警察が調べ終えるまで、消されていなかった。


 黄い灯りが。


 夜へ沈んだ室内を、狭く照らしている。


 グレアム警部が先に入った。


 続いて。


 レオン。


 ミラベル。


 最後に。


 二人の警官に挟まれたエドモンド=ケイルが、敷居を越えた。


 エドモンドの両手は、まだ拘束されていない。


 だが。


 扉の外にも警官が立ち。


 窓は閉ざされ。


 逃げられる場所はなかった。


 エドモンドは部屋の中央で足を止めた。


 コンラッドが倒れていた場所を見る。


 すぐに。


 視線を逸らした。


 宿泊記録主任として。


 何度も客室へ入ったことがあるはずだった。


 だが今。


 彼は備品も。


 寝台の乱れも。


 机上の紙も見ていない。


 床だけを避けていた。


「ここなら話すと言ったな」


 グレアムが言った。


 エドモンドは答えなかった。


 グレアムは、警官から証拠箱を受け取った。


 書き物机の上へ。


 灰色の布を広げる。


 コンラッドへの送金控え。


 切り取られた密封随伴票。


 ラヴィニア=セレスの偽造署名。


 午後十一時十分の料金訂正記録。


 五〇七号室への分岐解除を記した、オーリンの作業札。


 そして。


 五〇七号室の鍵。


 重い真鍮飾りに刻まれた数字の溝には。


 採取されたあとも。


 赤褐色の汚れが、わずかに残っていた。


「順番に確認する」


 グレアムの声は低かった。


「この送金控えは本物か」


 エドモンドは、机を見た。


「はい」


「コンラッドへ金を渡していた」


「はい」


「何の代金だ」


 沈黙。


「宿泊者の情報か」


 エドモンドの唇が動いた。


 声が出るまでに。


 少し時間がかかった。


「最初は」


 乾いた声だった。


「到着時刻や、会議室の使用予定だけでした」


 ミラベルは記録帳を開いた。


 だが。


 すぐには書かなかった。


「それを、コンラッドへ売った」


 グレアムが言う。


「借金がありました」


「理由を聞いているんじゃない」


「分かっています」


 エドモンドは目を閉じた。


 始まりは。


 彼が小さな情報と呼んだものだった。


 偽名の客が、いつ到着するのか。


 どの会議室が使われるのか。


 誰が、何時に外出したのか。


 新聞を読めば、いずれ知られる。


 ほかの従業員も目にしている。


 一人の客を破滅させるほどではない。


 そう言い聞かせ。


 エドモンドは金を受け取った。


 だが。


 一度開いた扉を。


 コンラッドは閉じさせなかった。


 次に要求されたのは。


 客が使った偽名。


 面会者。


 誰と誰が。


 同じ夜に。


 同じホテルへいたのか。


 一つずつの情報は小さくとも。


 組み合わせれば。


 商会の密談も。


 政治家の私生活も。


 証人の居場所も分かる。


 それが二段階目だった。


「三か月前」


 レオンが言った。


「君は関係を切ろうとした」


 エドモンドが目を開く。


「送金が一度途切れている。そのあと、金額が急に大きくなった」


「……はい」


「コンラッドは、過去の送金控えと手紙を持っていると告げた」


「ホテルにも」


 エドモンドは言った。


「警察にも、新聞社にも送れると」


 情報を売った事実が明らかになれば。


 灰冠ホテルにはいられない。


 それだけではない。


 ヴェルム=クロウのどの宿も。


 記録院も。


 契約を扱う商会も。


 客の秘密を売った男を雇わない。


「それで、さらに要求へ従った」


 グレアムが言う。


「はい」


「自分のしたことを隠すために」


「はい」


 三段階目に。


 コンラッドが求めたのは。


 一人の客に関する情報ではなかった。


 密封随伴簿の原本。


 名前を表へ出せない者たちが。


 誰の契約へ所属し。


 どの付属室を使ったのか。


 灰冠ホテルが六十年間守ってきた秘密へ。


 まとめて手を入れるための帳簿だった。


「原本を渡せば」


 エドモンドは言った。


「コンラッドは、客を一人ずつ探す必要もなくなる」


「そこまで来て、ようやく止めようと思ったのか」


 グレアムの言葉に。


 エドモンドの顔が歪んだ。


「違います」


 声が、初めて強くなる。


 だが。


 すぐに自分で押し殺した。


「最初の一件から、許されることではありませんでした」


 ミラベルのペン先が。


 紙へ触れる。


 その一文だけを書き留めた。


 罪を認める言葉と。


 罪から逃れるための言葉は。


 同じ形をしていることがある。


 どちらなのかは。


 そのあとに選んだ行動が決める。


「コンラッドを五〇七号室へ入れたのは」


 レオンが尋ねた。


「原本を渡すためか」


「渡すふりをするためです」


「ふり?」


 ミラベルが顔を上げた。


「原本と同じ大きさの帳簿を用意しました」


 エドモンドは。


 この部屋の書き物机を見る。


 昨夜の光景を。


 そこへ重ねるように。


「表紙と封印帯だけを似せた、白紙の帳簿です」


「それを渡して」


 グレアムが言う。


「逃げるつもりだった」


「すぐには開かせないつもりでした。密封宿帳庫から運び出したように見せて、封印は安全な場所へ着いてから解くようにと」


「数時間、稼ぐ」


 レオンが言った。


「そのあいだに街を出る」


「はい」


 鉄環線の始発を待つ必要はない。


 貨物馬車へ潜り込めば。


 夜明け前に市外へ出られる。


 原本を手に入れたと信じさせれば。


 コンラッドが白紙に気づくまで。


 わずかでも距離を稼げる。


 そう考えた。


「コンラッドは、信じなかった」


「表紙を開きました」


 エドモンドの目が。


 五〇七号室の鍵へ移る。


「最初の頁を見て、笑ったんです」


 白紙の帳簿。


 逃げる準備。


 原本を渡すつもりがないこと。


 コンラッドは。


 初めから分かっていたように笑った。


 そして。


 すでに証拠の一部を。


 別の場所へ送ったと告げた。


 エドモンドが逃げれば。


 資料はホテルへ届く。


 警察へも。


 新聞社へも。


 エドモンドが情報を売っていた証拠は。


 彼が逃げたことによって、公表される。


「本当に送っていたのか」


 グレアムが問う。


「分かりません」


「送付先は」


「教えませんでした」


「郵便か。使いか」


「それも」


「市警で継続して調べる」


 グレアムが言った。


「郵便局、運送所、貸金庫、コンラッドの取引先。見つからないからといって、最初から虚勢だったとは決めん」


 エドモンドは頷かなかった。


 資料が本当に存在するのか。


 死者が最後まで、彼を支配するためについた嘘なのか。


 まだ分からない。


「偽の帳簿はどこにある」


 グレアムが尋ねた。


「押収品にも、部屋にもなかった」


「持ち出しました」


「いつ」


「この部屋を出るときです」


「どこへ」


「地下機関室の脇にある、機密書類用の焼却炉へ入れました」


 ホテルで不要になった宿泊控え。


 書き損じた契約票。


 客の名前を含む書類。


 外部の廃棄業者へ渡せない紙を。


 灰へ変えるための炉。


「部屋の暖炉へ残っていた紙は?」


 ミラベルが尋ねる。


「偽帳簿ではありません」


 エドモンドが答えた。


 レオンが。


 暖炉の灰へ目を向ける。


「紙質とインクは、机にあった便箋と一致している。コンラッドが書き損じた紙だ」


 燃え残った文字も。


 途中まで書かれた便箋の文体とつながっていた。


 偽帳簿を。


 この暖炉で燃やした痕跡ではない。


「コンラッドは」


 エドモンドが言った。


「白紙の頁を捲りながら、ホテルの客を一人ずつ値段へ変えました」


 商会の秘密交渉。


 政治家の愛人。


 追われている証人。


 債務を隠した貴族。


 誰が。


 いくら払うのか。


 実際の名を一つも知らないくせに。


 帳簿さえあれば。


 全員へ値段を付けられると。


「ホテルすべての秘密を売ると、笑いました」


 エドモンドの声が震えた。


「これまで売ってきたのは、君だ」


 レオンが言う。


 エドモンドの顔から。


 被害者のような色が消えた。


「はい」


 長い沈黙のあと。


 彼は認めた。


「そうです」


 コンラッドだけが。


 灰冠ホテルの秘密を汚したのではない。


 扉を開いたのは。


 エドモンドだった。


 小さな情報なら。


 誰も傷つかない。


 一度だけなら。


 自分で止められる。


 そう言い続け。


 コンラッドを、帳簿の奥まで招き入れた。


「最初から、殺すつもりだったのか」


 グレアムが尋ねる。


「違います」


 エドモンドは、即座に答えた。


「毒も、武器も用意していなかった」


「はい」


「だが、この鍵を持っていた」


「五〇七号室へ入るためです」


 コンラッドを。


 秘密裏に泊めるため。


 エドモンド自身が受付から受け取った鍵。


 その先には。


 重い真鍮飾りが付いていた。


「コンラッドは」


 エドモンドが言う。


「私が消えても、次を買えばいいと言いました」


 給仕でも。


 女中でも。


 受付係でも。


 金に困る者は、必ずいる。


 秘密を守るホテルほど。


 秘密へ値段が付く。


 エドモンド一人が逃げても。


 灰冠ホテルは。


 これからも売り場であり続ける。


「それで、笑った」


 エドモンドの指が。


 無意識に。


 何かを握る形になる。


「私は、鍵を持っていました」


「殴ったのか」


 グレアムが問う。


「一度」


「背後から」


「はい」


「午後十時十四分ごろ」


「時計は見ていません」


「傷の状態と、そのあとの呼鈴から推定された時刻だ」


 レオンが言った。


「君の記憶ではない」


 エドモンドは。


 小さく頷いた。


 一撃。


 コンラッドは倒れた。


 床へ崩れ。


 動かなくなった。


「死んだと思った」


 グレアムが言う。


「動きませんでした」


「脈を確認したか」


「いいえ」


「呼吸は」


「近づけませんでした」


「なら」


 グレアムの声が。


 重く落ちる。


「死んだと確認したのではない。死んだことにしたかっただけだ」


 エドモンドは答えられなかった。


 殺意を準備していたわけではない。


 鍵を。


 凶器として持ち込んだわけでもない。


 一撃は。


 怒りと恐怖の中で行われた、衝動だった。


 だが。


 そのあとに続いたことは違う。


「倒れたあと」


 ミラベルが尋ねる。


「何をしたんです?」


 エドモンドが。


 彼女を見る。


 グレアムではなく。


 レオンでもなく。


 記録帳を持つミラベルを。


「探しました」


「何を?」


「送ったと言っていた資料。私の手紙。送金の控え。原本を要求したことが分かる物」


「見つかった?」


「何も」


 机の引き出し。


 旅行鞄。


 衣類。


 便箋。


 寝台の周囲。


 自分を告発する記録を。


 エドモンドは探した。


 床に倒れた男へ背を向け。


 死んだことにしたまま。


「午後十時十八分」


 レオンが言った。


 エドモンドの肩が。


 わずかに震えた。


「コンラッドは、呼鈴紐を引いた」


「……はい」


 返事は掠れていた。


「見たんですね」


 ミラベルが尋ねる。


「机を調べていました」


「何が聞こえたんです?」


「壁の中で、接点が入る音が」


 客室の中で。


 受付の鈴は鳴らない。


 紐が引かれる。


 壁の内側で接点が入り。


 信号が。


 C―17の線を通って受付裏へ送られる。


「振り返ると」


 エドモンドは言った。


「あの男の手が、紐から落ちるところでした」


「生きていると分かった」


「はい」


「助けを呼ばなかった」


 グレアムが言う。


「呼鈴は、もう鳴っていました」


「五〇九号室のものとしてな」


 レオンが答えた。


 エドモンドは目を閉じる。


「誰も五〇七号室へ来ないと、分かっていたんですね」


 ミラベルの声は。


 責めるよりも静かだった。


 その問いが。


 エドモンドには、最も答えにくかった。


「表の対応盤では」


 彼は言う。


「C―17は五〇九号室です」


「五〇七号室へも分岐されていた」


「はい」


「呼鈴を受けた者は、五〇九号室へ向かう」


「はい」


「五〇九号室は無人。ラヴィニアさんは舞踏室にいる。返事がなければ、設備の誤作動だと考える」


「……はい」


「君は」


 レオンが言った。


「コンラッドが最後に残した記録を、誤った部屋へ送った」


「私が、呼鈴を鳴らしたわけではありません」


 エドモンドが顔を上げる。


「分かっている」


「ネリーへ、五〇九号室へ行けと命じたわけでもない」


「それも分かっている」


「なら」


「君は、誰も五〇七号室へ来ないと分かっていながら、部屋を出た」


 エドモンドの言葉が止まった。


 午後十時十八分。


 コンラッドは。


 まだ生きていた。


 助けを求めた。


 その事実を。


 エドモンドも知った。


 それでも。


 救助を呼ばなかった。


 五〇七号室で。


 一人の男が死ぬことを選んだ。


「卓上灯を消さなかったのは」


 ミラベルが尋ねる。


「なぜです?」


 エドモンドは。


 今も黄い炎を保つ灯りを見る。


「呼鈴が鳴ったからです」


「誰かが来ると思った」


「はい」


「それなのに、部屋を出た」


「廊下へ出れば、鉢合わせるかもしれないと思いました。灯りまで消している時間はないと」


 実際には。


 ネリーは隣の五〇九号室へ向かった。


 廊下に。


 五〇七号室を訪ねる足音は来なかった。


「鍵を受付へ戻したあと」


 エドモンドは続けた。


「灯りが残っていることに気づきました」


「消しに戻らなかった」


「一度戻した鍵を、また持ち出せば」


 誰かに見られるかもしれない。


 鍵掛けから消えた時刻が。


 記憶されるかもしれない。


「怖くて、戻れませんでした」


 黄い灯りは。


 コンラッドが死んだあとも燃え続けた。


 翌朝。


 ネリーが。


 扉の下へ漏れる光を見つけるまで。


「午後十時二十五分ごろ」


 グレアムが言った。


「君は、この部屋を出た」


「はい」


「鍵飾りを拭いた」


「はい」


「受付へ戻した」


「はい」


 鍵がないと気づかれれば。


 閉鎖中の部屋へ。


 誰かが出入りしていることが分かる。


 だから。


 血を拭き。


 元の鉤へ戻した。


 その途中。


 白紙の偽帳簿も持ち出した。


 地下の焼却炉へ入れ。


 灰へ変えた。


 それから。


 午後十一時十分。


 エドモンドは。


 五〇九号室に付いていた追加料金を一括で取り消した。


 オーリンへ。


 五〇七号室への分岐だけを外すよう命じた。


 そして。


 締め処理前の《当日用綴り》から。


 コンラッドの密封随伴票を切り取った。


「なぜ、票を処分しなかった」


 グレアムが尋ねる。


 発見された票。


 主室、五〇九号室。


 随伴者、一名。


 付属室、五〇七号室。


 緊急識別符号、C―17。


 ラヴィニアの偽造署名。


「一枚抜けたままでは」


 エドモンドが言う。


「綴じ糸の切断と、票の厚みが合わないことが分かります」


「だから残した?」


「記載を消し、別の取り消し票へ作り直すつもりでした」


「何の票に見せる」


「設備試験用の臨時室を、使用前に取り消した記録に」


 五〇九号室。


 ラヴィニア。


 コンラッド。


 その三つを示す記載を消し。


 通常の処理票へ加工する。


 翌朝。


 記入不備の訂正という理由で、ブルーノと宿帳庫を開き。


 当日用綴りへ戻すつもりだった。


「昨夜の収蔵までには間に合わなかった」


「はい」


「それでも、切れた綴りを支配人と一緒に庫へ入れた」


「外装と日付しか確認しないと分かっていました」


「翌朝、書き直すつもりだった」


「はい」


「だが、警察が事務室と宿帳庫を封鎖した」


 エドモンドは。


 机の上の切り取り票を見る。


「処理できませんでした」


 なぜ。


 証拠となる票を処分しなかったのか。


 捨てるためではない。


 一枚が失われた事実そのものを。


 後から隠すために必要だった。


「なぜ、ラヴィニア=セレスだった」


 グレアムが尋ねる。


「五〇七号室を使わせるだけなら、別の主室へ所属させることもできた」


 エドモンドは。


 隣室との壁を見る。


 五〇九号室。


「最初は、都合がよかったからです」


「隣室だった」


「一人旅で。随伴者の登録がなかった。五〇七号室を付属室として扱っても、公開宿帳へ新しい名前を加える必要がありませんでした」


「責任署名を偽造した」


「はい」


「ラヴィニア本人は知らなかった」


「はい」


「殺したあと」


 ミラベルが言う。


「彼女へ疑いを向けるため、その所属を利用した」


 エドモンドの指が。


 わずかに握られる。


「コンラッドとセレス夫人の関係を、知っていました」


「恐喝の過去を?」


「すべてではありません。コンラッドが彼女へ面会を求めていたことは知っていました」


「だから、記録が見つかれば」


 ミラベルの声が硬くなる。


「ラヴィニアさんが疑われると思った」


「彼女には、動機があった」


「あなたが作った動機ではありません」


「分かっています」


「でも、利用した」


 エドモンドは。


 否定しなかった。


 殺人そのものは。


 一度の衝動だった。


 だが。


 生きていると分かったあと、助けなかった。


 鍵を拭いた。


 偽帳簿を焼いた。


 料金を消した。


 五〇七号室への分岐を外させた。


 随伴票を切り取った。


 ラヴィニアに残された動機を利用した。


 その一つひとつは。


 恐怖の中であっても。


 エドモンド自身が選んだ行為だった。


「君は、ホテルの分業を知っていた」


 レオンが言った。


「給仕は、名前を知らない」


「はい」


「女中は、支払者を知らない」


「はい」


「機関係は、客を知らない」


「はい」


「受付は、部屋の中を知らない」


「はい」


「一人の従業員が買収されても、客の秘密すべてが漏れないように作られた制度だ」


「そうです」


 エドモンドは。


 わずかに顔を上げた。


 その制度だけは。


 今も誇りであるかのように。


「灰冠ホテルは、客の秘密を守ってきました」


「君は、その制度を破った」


 グレアムが言う。


「そして最後には、殺人を隠すために使った」


「私が何もしなくても」


 エドモンドの声が。


 かすかに震える。


「誰も、分からなかったはずです」


「何が」


「あの男がここにいたことを」


 エドモンドは。


 五〇七号室を見回した。


 三日分の生活が残る部屋を。


「公開宿帳に名前はない。五〇七号室は閉鎖中。食事も湯も、五〇九号室。給仕は顔を見ていない。女中は名前を知らない。機関係は設備試験だと思っていた」


 言葉を重ねるほど。


 彼の声が。


 宿泊記録主任のものへ戻っていく。


 情報を分類し。


 担当を分け。


 一人の客を項目へ変える声。


「あの男がここにいたことを、誰も知りませんでした」


「いいえ」


 ミラベルが言った。


 エドモンドの声が止まる。


「給仕は食事を知っていました」


 五〇七号室へ運ばれた、二人分の夕食。


「女中は服を知っていました」


 三日間回収された、男性用の衣類と寝具。


「機関係は呼鈴を知っていました」


 五〇七号室へ分岐されていた、C―17。


「みんなが、あの人の一部を知っていたんです」


 一人の従業員は。


 コンラッドのすべてを知らない。


 だが。


 何も知らなかった者もいない。


 ネリーは。


 最後の呼び出しを受け取った。


 ブルーノは。


 五〇七号室の使用を許可した。


 会計係は。


 誰かが食べ。


 湯を使い。


 洗濯を出したことを知っていた。


「誰も一人で、コンラッド=ヘイルという人を見ていませんでした」


 ミラベルは。


 開いていた記録帳を、胸元へ寄せた。


「でも、食べたことも。眠ったことも。服を着たことも。助けを求めたことも。全部、残っていました」


「それらは」


 エドモンドが言いかける。


「ただの業務記録ですか?」


 ミラベルが問い返す。


 エドモンドは答えなかった。


「コンラッドさんは、人を脅していました。あなたから秘密を買い、ラヴィニアさんを恐喝し、ホテルの客まで売ろうとした」


 ミラベルは続ける。


「でも、その人が何をしたかと、その人がここにいたことは別です」


 人は。


 善良だから存在するのではない。


 正しいから記録されるのでもない。


 罪を犯した者であっても。


 殺されたなら。


 その死まで。


 別人の記録へ置いてよい理由にはならない。


「秘密を守ることは」


 ミラベルが言った。


「人がいた事実まで消すことではありません」


 エドモンドの顔から。


 宿泊記録主任の表情が。


 ゆっくりと剥がれ落ちる。


「消してはいない」


 彼は呟いた。


「私は、記録を消してはいない」


「そうだ」


 レオンが答えた。


 エドモンドが顔を上げる。


「君は記録を消したんじゃない」


 レオンは。


 机上へ置かれた証拠を見る。


 配膳票。


 洗濯票。


 呼鈴記録。


 会計記録。


 密封随伴票。


 どれも。


 完全には消されていない。


「別々の場所へ置いて、誰にも一人の人間として見えなくした」


 コンラッドの身体は。


 五〇七号室にあった。


 名前は。


 公開宿帳になかった。


 食事も。


 湯も。


 衣類も。


 新聞も。


 暖房も。


 五〇九号室へ所属させられた。


 呼鈴は。


 C―17という符号になり。


 誰もいない五〇九号室の誤作動として処理された。


「一つずつの記録は正しい」


 レオンは言った。


「だが、君は所属先を変えた」


 エドモンドが。


 乾いた笑いを漏らす。


「それを、あなたは偽装と呼ぶ」


「ほかに何と呼ぶ」


「ホテルでは、毎日やっています」


 エドモンドは。


 隣室の壁を見た。


「客の名前を伏せる。随伴者を主室へ所属させる。食事を支払者へ付ける。仮名を本名の代わりに使う。誰がどの部屋にいたかを、一人の従業員へ知らせない」


「制度は同じだ」


 レオンが言う。


「目的が違う」


「紙の上では、同じです」


「紙の上だけを見る者にはな」


 レオンの声は。


 いつもと変わらず静かだった。


「だから、君は見落とした」


「何を」


「記録を作ったのは、紙じゃない」


 給仕が運んだ。


 女中が洗った。


 機関係がつないだ。


 見習い女中が鈴へ応じた。


 支配人が部屋を許可した。


 人間が。


 それぞれ、自分の見た一部分を覚えていた。


「君は、部署が分かれていれば」


 レオンは続けた。


「人間まで分かれると思った」


 エドモンドは。


 何も言わなくなった。


 グレアムが。


 証拠布の上から、五〇七号室の鍵を持ち上げた。


 重い真鍮飾り。


 その数字の溝に残った血。


「確認する」


 警部の声には。


 問いから逃れる余地がなかった。


「コンラッドを五〇七号室へ入れた」


「はい」


「ラヴィニアの署名を偽造し、彼女の随伴者として登録した」


「はい」


「昨夜、この鍵飾りでコンラッドを殴った」


 エドモンドは。


 床の覆いを見る。


「はい」


「呼鈴が鳴り、生きていると分かったあとも、助けずに部屋を出た」


 返答が遅れた。


「……はい」


「鍵を拭いて受付へ戻し、記録を偽装した」


「はい」


 グレアムは。


 鍵を証拠布へ戻した。


「バルトラム=グレアムの名において」


 エドモンドの両側にいた警官が動く。


「エドモンド=ケイル。コンラッド=ヘイル殺害及び証拠隠滅の容疑で逮捕する」


 鉄の拘束具が。


 エドモンドの手首へ掛けられた。


 小さな金属音だった。


 呼鈴よりも。


 鍵が回る音よりも。


 ずっと小さい。


 だが。


 今度は。


 聞き間違える者はいなかった。


 エドモンドは抵抗しなかった。


 警官に促され。


 扉へ向かう。


 敷居の前で。


 一度だけ、室内を振り返った。


「私は」


 言葉が止まる。


 灰冠ホテルを守りたかった。


 殺すつもりはなかった。


 コンラッドが悪かった。


 自分も脅されていた。


 何を言おうとしても。


 すでに語られている。


 そして。


 どの言葉も。


 午後十時十八分に。


 助けを求めて伸ばされた手を。


 別の部屋から呼び戻すことはできない。


 エドモンドは。


 何も言わず。


 廊下へ出た。


 警官たちの足音が。


 厚い絨毯へ吸い込まれていく。


 グレアムも続こうとして。


 扉の前で、レオンへ振り返った。


「供述は、市警で取り直す」


「好きにしろ」


「お前も来い」


「今の話は聞いた」


「正式な調書には、立会人の署名が要る」


「ミラベルがいる」


「先生」


 ミラベルが睨む。


「君は記録者だろう」


「警察の調書へ、勝手に私を所属させないでください」


 グレアムが鼻を鳴らした。


「二人とも来い」


「命令か」


「そうだ」


「警部は、他人を自分の事件へ所属させるのが好きですね」


「今さら何を言っとる」


 グレアムは廊下へ出た。


 ミラベルは。


 まだ室内へ残るレオンを見る。


「行かないんですか」


「行く」


「では、何を見ているんです?」


 レオンは答えず。


 五〇七号室を見回した。


 《整備中》の札。


 使われた寝台。


 三日分の新聞。


 茶器。


 浴室。


 机。


 呼鈴紐。


 一人の男が。


 三日間。


 ここで生きた痕跡。


「空室だったんでしょうか」


 ミラベルが尋ねた。


「公開宿帳ではな」


「でも、コンラッドさんはいた」


「ああ」


「では、空室ではありません」


「ホテルの記録と、部屋の事実。どちらの言葉を使うかによる」


「先生は、最後まで面倒ですね」


「君が簡単に書きすぎるからだ」


「簡単には書きません」


 ミラベルは。


 記録帳を開いた。


 頁の上部へ。


 節の題ではなく。


 事件を最後まで見た者として。


 一行だけ記す。


 ――空室には、客がいる。


 書き終え。


 インクが乾くのを待つ。


 それから。


 五〇七号室の卓上灯へ歩み寄った。


 黄い炎を消す。


 光が失われ。


 室内は。


 廊下から差し込む薄明かりだけになった。


 扉を閉じる前に。


 ミラベルは、もう一度振り返った。


 寝台。


 浴室。


 机。


 呼鈴紐。


 誰かが隠れている場所はない。


 倒れている者も。


 助けを待っている者もいない。


 今度は。


 そこに誰もいないことを。


 自分の目で確かめてから。

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