第4節 ― 秘密を預かる宿
灰冠ホテルの支配人室は、客を迎えるための部屋ではなかった。
窓は細く。
壁は厚い。
客室や舞踏室を飾る絵画もなく、代わりに宿泊規約、非常時の避難図、従業員の勤務表が額へ収められている。
机の背後には、黒硝子と真鍮で作られた灰冠ホテルの紋章。
その下に。
ホテルの理念が刻まれていた。
――客の名より、客の沈黙を預かる。
ブルーノ=ホルツは、その言葉を背負うように机の向こうへ立っていた。
椅子を勧めることはない。
レオンも、座るつもりはなかった。
ミラベルは記録帳を開き。
グレアムは両腕を組んでいる。
宿泊記録主任エドモンド=ケイルだけが、壁際へ控えていた。
姿勢は正しく。
口元には、客へ応対するときと変わらない静かな緊張がある。
「五〇九号室の宿泊者は一人」
グレアムが切り出した。
「本人もそう答えた。公開宿帳にも同行者はいない。だが、五〇九号室とC―17の勘定には、三日続けて二人分の朝食が付いている」
「配膳記録の誤りについては、現在確認しております」
ブルーノが答える。
「確認を待つあいだにも、隣室には死体がある」
「承知しています」
「なら、公開宿帳に載らない客をどう扱っているか話せ」
ブルーノの眉間へ、深い皺が刻まれた。
「警部。亡くなった方の身元と死因を明らかにする必要があることは理解しています」
「同時に、無関係な客の秘密も守りたい」
グレアムが先を取る。
「はい」
ブルーノは否定しなかった。
「当ホテルには、公にできない事情を抱えた方も宿泊されます。交渉中の契約当事者。身辺の危険から逃れている方。家族や商会に知られず、証人と会う必要のある方」
「愛人と泊まる政治家もいるだろう」
「客の事情へ順位をつけることは、当ホテルの役目ではありません」
グレアムが鼻を鳴らす。
それ以上、制度論を続ける前に。
ミラベルが、静かに二人の間へ言葉を差し入れた。
「公開宿帳へ名前を出さずに、同行者を泊める制度があるんですね」
ブルーノは彼女を見る。
新聞記者として警戒したのか。
質問の意図を測ったのか。
返答までに短い間があった。
「ございます」
「無記名随伴者」
レオンが言った。
ブルーノの視線が移る。
「ご存じでしたか」
「似た制度を採用する宿はある。運用は宿ごとに違う」
「灰冠ホテルでは、正式な宿泊者が責任を負うことを条件に、その随伴者の氏名を公開宿帳へ記載しない場合があります」
「随伴者とは?」
ミラベルが尋ねた。
「従者、秘書、護衛、家族、交渉相手。事情はさまざまです」
「名前を隠すだけか」
レオンが問う。
「いいえ」
ブルーノは机の引き出しから、一枚の未使用票を取り出した。
薄い灰色の紙。
上部には、灰冠ホテルの冠の紋章。
公開宿帳のような長い記入欄はなく、短い枠だけが並んでいる。
主たる宿泊者。
随伴者人数。
主室番号。
使用付属室。
緊急識別符号。
そして。
主室客の責任署名。
「随伴者本人の名前を書く欄がありません」
ミラベルが言った。
「原則として、氏名は記録しません」
「責任署名は、誰がする」
グレアムが問う。
「主室に宿泊する方です」
ブルーノが答えた。
「自分の契約へ無記名随伴者を所属させることを認め、その身元と行動へ責任を負う。その意思を、本人の署名で確認します」
「従業員が代筆することは?」
「認められていません」
エドモンドが答えた。
説明を補う声は落ち着いていた。
「主室客本人の署名がない随伴票は、正式な票として扱えません」
レオンは、署名欄を見た。
「筆跡の照合は」
「公開宿帳、または主室契約書の署名と照合します」
「何か起きたとき、名前がなくて身元を確認できるのか」
グレアムが尋ねる。
「主室客の申告と緊急識別符号を照合します」
「主室客が嘘をついたら」
「ホテルとの契約違反です」
「殺されたあとでは、違反を問うても遅い」
ブルーノの顔が硬くなった。
「制度は、客を消すためのものではありません」
ミラベルが、未使用票を見る。
「一人の従業員が、随伴者のすべてを知ることもない」
「その通りです」
ブルーノは頷いた。
「受付係は主室客の名を知ります。給仕は注文と運用符号を知る。女中は使用された部屋を知る。会計係は支払者を知る。しかし、誰が実際に随伴しているかを全員へ知らせる必要はありません」
「一人が買収されても、客の秘密すべては漏れない」
レオンが言う。
「それが目的です」
秘密を守るための分業。
今回の事件がなければ。
ミラベルも、それを不自然だとは思わなかっただろう。
一人の使用人へ、客の名前も。
部屋も。
食事も。
支払いも。
すべて知らせる必要はない。
だが。
分けられた情報を、必要なときに一人の人間へ戻せなければ。
誰かが倒れたとき。
その呼び声が、どこへ属するのかさえ分からなくなる。
「付属室というのは?」
ミラベルが尋ねた。
ブルーノは、机の横へ置かれた客室配置図を広げた。
各階の客室が、小さな長方形で整然と描かれている。
「当ホテルでは、複数の客室を一つの宿泊契約へまとめられます。中心となる部屋を主室。それに付随する部屋を付属室と呼びます」
「部屋は別でも、契約は一つ」
「はい。主室に貴族や商会主が泊まり、付属室を秘書や護衛が使う場合があります。公開宿帳へ記載される客室番号は、原則として主室だけです」
「では」
ミラベルは、配置図へ視線を落とした。
「付属室に人が泊まっていても、公開宿帳だけを見れば、その部屋が使われているとは分からない」
「無記名随伴制度を利用している場合は」
「空室と、付属室は違う」
レオンが言う。
「明確に違います」
「だが、公開宿帳だけでは区別できない」
ブルーノは、一瞬答えなかった。
「公開宿帳は、すべての情報を開示する帳簿ではありません」
「五〇七号室も、どこかの付属室だった可能性がある」
グレアムが言った。
「制度上は」
ブルーノは慎重に答えた。
「五〇七号室は、三日前から修理閉鎖中だった」
「はい」
「なら、付属室として使うための随伴票もないんだな」
「公開宿帳には――」
ブルーノが言いかけ。
自分で言葉を止めた。
レオンの視線が、彼へ向いていた。
「公開宿帳では分からない」
ブルーノは言い直した。
「確認するには、密封随伴簿を見る必要があります」
「ようやく話が進んだな」
グレアムが言う。
「見せろ」
支配人室に。
短い沈黙が落ちた。
廊下の遠くで。
荷車の車輪が、床を横切る音がする。
ホテルは営業を続けている。
客たちは朝の新聞を読み。
給仕は食器を運び。
五階東翼だけが。
何も起きていないように閉ざされていた。
「密封随伴簿を、そのまま警察へ渡すことはできません」
ブルーノが言った。
グレアムの腕が解かれる。
「事件と無関係な方の情報が含まれています」
「帳簿を持ち出せとは言っていない。五〇七号室と五〇九号室に関係する部分を確認する」
「ほかの票も同じ綴りにあります」
「なら覆いを掛けろ」
グレアムは、ブルーノの机へ片手を置いた。
「生きている客の秘密は守れ」
声は大きくなかった。
「だが、死んだ男の存在まで秘密にするな」
ブルーノは黙った。
やがて。
壁際のエドモンドが口を開いた。
「一部開示では、いかがでしょう」
全員の視線が集まる。
「事件当日を含む期間と、五階東翼に関係する票だけを確認していただく。原本は密封宿帳庫から出さず、それ以外の記録には覆いを掛けます」
「閲覧する者は」
ブルーノが尋ねる。
「警部、クラウス氏、ワトリア嬢。私と支配人が立ち会います」
「記者を入れるのか」
ブルーノがミラベルを見る。
「ワトリア嬢は捜査へ協力している」
グレアムが答えた。
「記事へ、無関係な名前を書かないという保証は」
ミラベルは記録帳を閉じた。
「事件と関係のない方の名前は書きません」
「記者の口約束を信じろと?」
「信じてくださいとは言いません」
ミラベルは、ブルーノの視線を受け止めた。
「でも、秘密を守るために、人が泊まった事実まで消してよいとは思いません。必要のない名前は伏せます。誰かが死んだ事実は伏せません」
ブルーノは。
若い記者の顔を見つめた。
記事にされる危険を測ったのか。
彼女の言葉を信じられるか考えたのか。
やがて視線を外す。
「原本は、宿帳庫から出しません」
「必要が生じれば、令状を取る」
グレアムが言う。
「そのときは、法に従います」
◇
「密封随伴簿は、常に庫内へ保管されているのですか」
支配人室の奥へ向かいながら。
ミラベルが尋ねた。
「いいえ」
答えたのはエドモンドだった。
「宿泊中の随伴者については、確認や変更が必要になる場合があります。当日使用中の票は、日中から料金締めまで、私の事務室にある《当日用綴り》へまとめてあります」
「あなたの事務室で?」
グレアムが聞き返す。
「宿泊記録主任として、付属室の変更、緊急符号の照合、料金処理に対応するためです」
「なら、日中はあんた一人でも触れられる」
「業務上は」
エドモンドは認めた。
「ただし、票の作成には主室客の責任署名が必要です。変更した場合も、変更履歴を残します」
「夜はどうする」
「一日の料金整理が終わったあと、当日用綴りを密封宿帳庫へ収めます」
エドモンドの視線が。
奥の鉄扉へ向く。
「宿帳庫を開けるには、支配人と私の鍵が必要です」
「昨夜も、同じ手順で?」
レオンが尋ねた。
「はい」
ブルーノが答えた。
「料金締めのあと、エドモンドが当日用綴りを運び、私が立ち会って庫へ収めました」
「中身を一枚ずつ確認したか」
グレアムが問う。
「いいえ」
ブルーノは答えた。
「票の内容は、日中に宿泊記録主任が処理します。夜間の収蔵では、綴りの外装、日付、封印欄を確認します。無記名随伴者の事情を、必要もなく毎晩読み直すことはしません」
「つまり」
ミラベルが言う。
「日中と締め処理までは、エドモンドさんが票を扱う。夜になったら、支配人と二人で宿帳庫へ収める」
「そうです」
「庫へ入ったあとは、一人では取り出せない」
「はい」
厳重な庫。
だが。
票は、初めから鉄扉の向こうにあるわけではない。
秘密を運用するためには。
誰かが日中、その記録へ触れなければならない。
レオンは何も言わなかった。
ただ。
エドモンドの指が。
上着の袖口を一度だけ整えるのを見た。
乱れていたわけではない。
視線も、すぐ鉄扉へ戻っている。
それが質問への動揺なのか。
単なる習慣なのか。
今はまだ。
決める材料がなかった。
密封宿帳庫の扉には。
上下に二つの鍵穴があった。
ブルーノが上側へ鍵を差し込む。
続いて。
エドモンドが、下側の鍵穴へ別の鍵を入れた。
二人が顔を見合わせる。
同時に鍵を回すと。
内部で二つの錠が、続けて重い音を立てた。
厚い鉄扉が開く。
向こうには。
乾いた紙と防虫香の匂いが満ちていた。
窓はない。
壁一面の棚には、灰色の帳簿箱が並ぶ。
年。
月。
日付。
宿泊階。
外から読めるのは、それだけだった。
「金庫より厳重ですね」
ミラベルが囁いた。
「金貨は、盗まれたと分かる」
レオンが答える。
「秘密は、漏れたことに気づかない場合がある」
エドモンドが。
昨夜収蔵した当日用綴りの箱を、棚から下ろした。
扱いに迷いはない。
箱を中央の閲覧台へ置き。
外装の日付と封印欄を確認する。
ブルーノも、昨夜自分が記した確認印を見た。
「封印欄に異常はありません」
箱を開く。
中に収められていたのは。
分厚い一冊の帳簿ではなかった。
宿泊契約ごとに作られた細長い票を重ね。
背へ穴を開け。
灰色の綴じ糸で束ねた《当日用綴り》だった。
ブルーノは革製の覆い板を置き。
五階以外の票が見えないよう隠す。
「ここから先だけです」
グレアムは返事をせず。
五階に関係する部分を確認した。
主室。
随伴者人数。
付属室。
緊急識別符号。
主室客の責任署名。
随伴者本人の名はない。
名前を伏せながら。
誰の契約へ。
どの部屋へ。
何人が所属しているのかだけを残す。
「五〇九号室」
グレアムが言った。
エドモンドが、該当する主室契約の位置を示す。
ラヴィニア=セレス。
その契約に。
現在、無記名随伴票は綴じられていなかった。
付属室の登録もない。
「何もないな」
グレアムが言う。
「五〇九号室には、無記名随伴者は登録されておりません」
エドモンドが答えた。
「これで、セレス夫人が一人で滞在されていたことは確認できたはずです」
「確認できたのは」
レオンが言った。
「今、この綴りに随伴票がないことだけだ」
エドモンドの視線が。
レオンへ移る。
「記載がないこと以外に、どのような解釈があるのでしょう」
「綴りが完全なら、君の言う通りだ」
レオンは票面ではなく。
背の綴じ目を見ていた。
古い糸は、紙の粉を吸い。
灰色が、少し白く褪せている。
結び目には。
防虫香の細かな粉が付着していた。
だが。
一か所だけ。
糸の輪が途切れている。
「ミラベル」
「はい」
「何が違う」
ミラベルは、閲覧台へ身を寄せた。
紙には触れない。
レオンが見ている場所を探す。
最初は分からなかった。
同じ灰色の糸。
同じ小さな綴じ穴。
同じように重ねられた票。
けれど。
一か所だけ。
糸の短い端が、外側へ立っている。
擦り切れたのではない。
繊維が引き伸ばされず。
切断面だけが、周囲より明るかった。
「ここ」
ミラベルが言った。
「切れています」
ブルーノが、身を乗り出す。
「綴りを出し入れしたときに、傷んだ可能性は」
レオンは小型の拡大鏡を取り出した。
切断面。
糸へ付着した紙粉。
綴じ穴の縁。
「自然に擦り切れた形ではない」
「刃物か」
グレアムが問う。
「刃か、よく切れる細い道具。繊維が一方向へ押し切られている」
「いつ切られた」
「正確な時刻は分からない。だが、周囲の糸より切断面は新しい」
グレアムが、エドモンドを見る。
「昨夜、庫へ入れる前に気づかなかったのか」
「気づきませんでした」
エドモンドの声は変わらない。
「当日用綴りは業務中、必要に応じて開きます。夜の収蔵前に、すべての綴じ糸を拡大鏡で検査することはありません」
「票が外されたのか」
ミラベルが尋ねる。
「可能性はある」
レオンは答えた。
「切れた糸だけで、一枚が実際に抜かれたとまでは断定できない」
「外せる状態にするため、糸を切った可能性」
「ある」
「五〇九号室の随伴票だった可能性は?」
「位置は近い」
レオンは、空いた綴じ目と五〇九号室の主室契約を見比べた。
「だが、近いことだけで、そこに五〇九号室の票があったとは言えない」
「責任署名も」
ミラベルは、未使用票で見た欄を思い出す。
「票がなければ、誰の署名があったのか分からない」
「そうだ」
ブルーノが、ゆっくりと息を吐いた。
安堵ではない。
ホテルの最深部へ収めたはずの記録が。
完全ではない可能性を突きつけられた息だった。
「では」
ブルーノが言う。
「この切断が、事件と関係する証拠はない」
「今はな」
レオンが答えた。
「だが、関係がないと判断する理由もない」
「それでは、何でも疑える」
「殺人現場に関係する期間の記録が、人為的に切られている。調べるには十分だ」
グレアムは部下を呼び。
原本の位置を動かさないまま。
切断箇所の図。
糸の状態。
前後の票の位置を記録させた。
原本は、ホテルから持ち出さない。
だが。
何も見なかったことにもさせない。
ミラベルは。
五〇九号室の主室契約を見た。
現在、随伴者なし。
付属室なし。
記録だけを読めば。
ラヴィニアは一人で泊まっている。
隣の五〇七号室は。
誰の付属室でもない。
コンラッド=ヘイルは。
このホテルへ泊まっていない。
すべてが。
最初に見た公開宿帳と同じ結論を示している。
それなのに。
五〇七号室には、三日分の生活が残っている。
五〇九号室とC―17の勘定には、二人分の朝食が付いている。
そして。
二つを結び得る当日用綴りの糸が。
一か所だけ、人の手で切られている。
「秘密を守るための帳簿なのに」
ミラベルが呟いた。
「票が外されれば、誰がどの部屋へ所属していたのか分からなくなります」
「もともと、随伴者の名前は書かれていない」
レオンが言う。
「消えるのは名前ではない」
「では、何が?」
「誰が責任を負い」
レオンは。
主室客の責任署名欄を見た。
「その人間が、どの契約と、どの部屋へ所属していたかだ」
人間そのものを消す必要はない。
その者が。
誰の客で。
どの部屋を使い。
どの記録へつながっていたのか。
その結び目だけを外せばよい。
だが。
それはまだ、事件の真相ではなかった。
糸が切られている。
そこまでは事実。
一枚の票が外された可能性がある。
そこからは仮説。
外された票が五〇九号室に属し。
コンラッドの滞在を記録していた。
そこまで進む証拠は、まだない。
レオンは拡大鏡を閉じた。
「空欄を、潔白の証明にするのはまだ早い」
密封宿帳庫の鉄扉の向こう。
ホテルのどこかで。
客室を呼ぶ鈴が鳴った。




