第3節 ― 二人分の朝食
灰冠ホテルの配膳記録室は、華やかな食堂の裏側にあった。
壁一枚を隔てた向こうでは、朝食の終わりを告げる食器の音が響いている。
銀の蓋が重なり。
皿が水へ沈められ。
給仕たちが低い声で注文を確認する。
厨房から流れ込む熱気には、焼いた肉と黒珈琲、温めたパンの匂いが混じっていた。
だが、記録室そのものに食欲を誘うものはない。
細長い机。
伝票を挟んだ金属枠。
日付ごとに束ねられた配膳票。
壁際では、小型の蒸気印字機が一定の間隔で歯車を鳴らしていた。
客が口にしたものは、食堂を出れば消える。
皿は洗われ。
残り物は捨てられ。
珈琲の香りも、数時間で薄れる。
それでも。
何を。
いくつ。
どの勘定へ付けたのか。
その記録だけは残る。
「生活には、必ず勘定が残る」
ミラベルは、先ほどレオンが言った言葉を小さく繰り返した。
「何か言ったか」
向かい側で配膳簿をめくっていたレオンが顔を上げる。
「先生の言葉を確認していました」
「俺は確認しなくていい。帳簿を確認しろ」
「自分の言葉には、ずいぶん自信があるんですね」
「訂正が必要なら、君が勝手に記事で直すだろう」
「勝手には直しません。根拠があれば直します」
ミラベルは椅子へ腰を下ろし、配膳記録係から渡された帳簿を開いた。
五階東翼。
三日前。
客室番号ごとに、朝、昼、夜の注文が分けて記されている。
五〇一号室。
朝食一名分。
五〇三号室。
香草茶、温めた乳、焼き菓子。
五〇七号室。
空欄。
ミラベルの指が、その行で止まった。
「ありません」
「何が」
「五〇七号室の勘定へ付けられた配膳記録です。朝食も、昼食も、夕食も」
レオンは答えず、前日の帳簿をミラベルの前へ滑らせた。
五〇七号室。
空欄。
さらに、その前日。
やはり何も記されていない。
「三日間、注文はゼロです」
「ホテルの記録では、五〇七号室は閉鎖中だ」
「閉鎖中の部屋に勘定がないのは、帳簿としては自然ですね」
「部屋の状態とは合わないがな」
五〇七号室には、複数日にわたる生活痕跡があった。
机には茶器の輪染みが重なり。
男は、そこで三日間暮らしていたと考えるのが最も合理的だった。
だが、その生活を支えた食事は。
五〇七号室の記録には、一度も現れない。
「外から食事を持ち込んだ可能性はあります」
ミラベルが言った。
「ある」
「誰かが記録を通さず、厨房から運び出した可能性も」
「ある」
「三日続けて、配膳係が記入を忘れた可能性は?」
「不可能ではない」
「でも、不自然です」
「一つの欄だけを見ればな」
レオンは椅子の背へ寄りかからず、帳簿から少し距離を取っていた。
個々の文字より。
記録の並びを読むときの姿勢だった。
「五〇七号室だけを見るな」
「隣の部屋も?」
「人が食事をしたなら、料理はどこかで作られている。食材も減る。皿も使われる。ホテルの厨房を通ったなら、別の勘定へ付いている可能性がある」
「食事そのものが消えたのではなく、所属する記録が違う」
「まだ仮説だ」
ミラベルは、五〇七号室の下へ並ぶ行へ目を移した。
五〇九号室。
欄の脇には、配膳運用符号としてC―17と記されている。
最初の日の朝。
香草茶。
黒珈琲。
焼いた肉。
卵。
パン。
その横には、二組分の食器を示す印が付けられていた。
「二人分」
ミラベルは、次の日の帳簿を開いた。
五〇九号室。
C―17。
香草茶。
黒珈琲。
焼いた肉。
卵。
砂糖を添えないパン。
二組分。
三日目も同じだった。
香草茶の種類だけが、少し変わっている。
それ以外の注文は、ほとんど変わらない。
「毎朝です」
ミラベルは三冊の帳簿を並べた。
「五〇九号室の勘定に、三日間、二人分の朝食が付いています」
「それが実際に五〇九号室へ運ばれたとは、まだ言えない」
レオンが訂正した。
「配膳簿には、五〇九号室とC―17が記されている。分かるのは、二人分の注文がその勘定へ所属していることまでだ」
「二人が食べたとも限らない」
「一人で二人分を頼んだ可能性もある」
「記録そのものが誤っている可能性も」
「ある」
ミラベルは、五〇九号室の注文をもう一度見た。
一方は、香草茶だけ。
もう一方は、黒珈琲と肉と卵とパン。
同じ朝食記録へ並んでいながら、二つの注文はあまりに対照的だった。
「こちらは香草茶だけ」
ミラベルが片方の欄を示す。
「もう一方は、朝からしっかり食べる人ですね」
「食事の量で性格を決めるな」
「性格とは言っていません。食習慣です」
「本人に確かめるまでは、それも推測だ」
レオンは、公開宿帳から写し取った五〇九号室の宿泊者名を確認した。
「ラヴィニア=セレス」
エルフ旧家セレス家の当主代理。
水源権の売却交渉のため、ヴェルム=クロウを訪れている。
公開宿帳に記された同行者数は、零。
「宿帳では、一人旅ですね」
ミラベルが言う。
「宿帳ではな」
「配膳記録では、二人分」
「配膳記録ではな」
二つの記録は。
どちらも灰冠ホテルが作成したものだった。
一人で泊まっている客。
二人分の朝食が付いた勘定。
片方だけなら、不思議ではない。
客が多めに注文することはある。
訪問客を朝食へ招くことも。
食べずに残すこともある。
だが。
三日間。
ほぼ同じ内容が。
五〇七号室へ残された三日分の生活と重なっている。
偶然として片づけるには、形が整いすぎていた。
「本人へ聞きましょう」
ミラベルが帳簿を閉じる。
「私が聞きます」
「なぜ君が」
「レオン先生が、いきなり『二人目は誰ですか』と聞くより、話してもらえると思います」
「俺は、そんな聞き方はしない」
「では、どう聞くんです?」
「二人目は誰だ、と聞く」
「もっと悪いです」
◇
五〇九号室の扉は、五〇七号室から数歩しか離れていなかった。
その短い距離の途中に、制服警官が立っている。
廊下は封鎖されたまま。
厚い絨毯の上へ、朝の光が細長く差し込んでいた。
グレアムは、扉の前で二人を待っていた。
「記録は」
「五〇七号室の勘定は、三日間空欄だ」
レオンが答える。
「五〇九号室、C―17の勘定には三日間二人分の朝食があります」
ミラベルが続けた。
グレアムの太い眉が動く。
「宿泊客は一人だと聞いたぞ」
「これから本人へ確認します」
「俺も入る」
「警部が立っていると、尋問になります」
「殺人事件の聞き取りだ。間違ってはいない」
「最初から身構えられます」
「なら、俺は黙っている」
ミラベルはグレアムの顔を見た。
「できるんですか?」
「ワトリア嬢。俺を何だと思っとる」
隣でレオンが答えた。
「声の大きい警部だろう」
「お前は先に入れ」
グレアムが扉を叩いた。
しばらくして。
内側から、落ち着いた女の声が返る。
「どうぞ」
扉を開けたのは、ラヴィニア=セレス自身だった。
外見だけなら、四十歳前後。
だが、ヒト族より長い時を生きたエルフ特有の静けさが、目元と姿勢に染みついている。
淡い銀褐色の髪は、首の後ろで緩やかにまとめられていた。
喪を思わせる黒灰色の衣装。
装飾は少ない。
胸元には、古い家紋をかたどった銀の留め具が一つある。
豪華ではない。
しかし、流行に合わせて作られた物ではないことは一目で分かった。
ラヴィニアは、三人を順に見た。
最後に、グレアムの制服へ視線を留める。
「事件についてでしょうか」
「ご迷惑をおかけします」
ミラベルが先に頭を下げた。
「ミラベル=ワトリアです。こちらはレオン=クラウス。グレアム警部は、すでにご存じですね」
「廊下を封鎖された理由を説明してくださった方です」
ラヴィニアの声音は柔らかかった。
だが、グレアムへ向けた視線には歓迎の色がない。
「必要な措置です」
グレアムが言った。
黙っているという約束は。
扉が開いてから十秒も保たなかった。
室内は整っていた。
窓辺に小さな丸卓。
一人掛けの椅子。
書き物机。
閉じられた旅行鞄。
暖炉には、弱い火が残っている。
丸卓の上には、細身の茶器が一組だけ置かれていた。
淡い色の液体から。
苦みを含んだ草の香りが漂っている。
「お時間は取らせません」
ミラベルが言った。
「今朝の配膳記録について、確認させてください」
「朝食のことで、警察が?」
「隣の五〇七号室で、男性が亡くなっていました」
ラヴィニアの表情は崩れなかった。
驚きがないのではない。
感情を外へ出す前に。
自分の内側で受け止めることへ慣れている顔だった。
「それで、五〇九号室の食事が関係しているのですか」
「関係があるかどうかを調べています」
ミラベルは記録帳を開いた。
「セレス夫人は、こちらへお一人で?」
「ええ」
「従者や秘書の方は」
「同行しておりません」
「滞在中に、どなたかを部屋へ泊めましたか」
「いいえ」
「朝食を共にした方は?」
「おりません」
返答に迷いはなかった。
声も一定。
ラヴィニアは丸卓のそばへ戻り。
椅子には座らず、茶器の取っ手へ指を添えた。
「記録では、三日続けて二人分の朝食が、五〇九号室の勘定へ付けられています」
「それは誤りでしょう」
「毎朝です」
「誤りが一日で訂正されなかった。それだけではありませんか」
「注文内容に、お心当たりはありませんか」
ミラベルは配膳票を見ながら読み上げる。
「香草茶。黒珈琲。焼いた肉。卵。砂糖を添えないパン」
ラヴィニアは、自分の茶器へ視線を落とした。
「香草茶は、わたくしの注文です」
「ほかは?」
「存じません」
「普段から、朝食は召し上がらないのですか」
「長い旅でも、朝に固形物は取りません。香草茶だけです」
「こちらへ到着してから、三日間とも?」
「毎朝」
ミラベルはレオンを見た。
レオンは窓のそばに立っている。
質問を譲ったまま、ラヴィニアの返答を聞いていた。
「ホテルから、余分な請求を受けたことは?」
ミラベルが尋ねる。
「会計は出発時にまとめて確認します。途中の明細までは見ておりません」
不自然な答えではなかった。
高級ホテルへ滞在する客が、毎朝の伝票を一枚ずつ確かめるとは限らない。
ましてラヴィニアは、旧家の水源権をめぐる交渉のため、ヴェルム=クロウを訪れている。
「給仕が、余分な食器を持っていたことには気づきませんでしたか」
「わたくしの香草茶は運ばれています。ほかに何を持っていたかまでは見ておりません」
「部屋の中へ運ばせたのでは?」
「入口で受け取ることもあります。書類を広げているときに、使用人を入れたくありませんので」
ラヴィニアは、机の上に積まれた契約書へ目を向けた。
水源の流路図。
古い境界図。
近代式の売却契約書。
いずれも殺人事件とは直接関係のないものに見える。
ただし。
彼女が客室への出入りを避ける理由としては、十分だった。
「配膳票へ二人分が記されていても」
レオンが、初めて口を開いた。
「それが実際に、この部屋へ二人分届けられた証明にはならない」
ラヴィニアの視線が、彼へ向く。
「では、なぜわたくしへ聞くのです」
「あなたの注文ではないものが、あなたの勘定へ付いているからです」
「それはホテルへお尋ねください」
「尋ねる。その前に、あなたが一人で泊まり、香草茶しか頼んでいないことを確認した」
「それで十分では?」
「食事については」
レオンは答えた。
ラヴィニアの目が。
わずかに細くなる。
「もう一つ」
レオンが言う。
「コンラッド=ヘイルという男をご存じですか」
茶器の取っ手へ添えられていた指が止まった。
持ち上げる直前で。
ほんの一瞬だけ。
呼吸が途切れる。
表情は崩れなかった。
目を見開きも。
声を上げもしない。
だが。
名前が耳へ届いてから返答を作るまでに。
それまでの質問にはなかった沈黙が落ちた。
「存じません」
ラヴィニアは答えた。
それから茶器を持ち上げる。
動作は滑らかだった。
「隣室で亡くなっていた男性の名前です」
ミラベルが言った。
ラヴィニアは茶を口へ運ばず。
受け皿へ戻した。
「お気の毒です」
「契約仲介人だった」
グレアムが言う。
「相続や権利売却も扱っていた」
「この都市には、そのような方が大勢いらっしゃるでしょう」
「セレス家の交渉へ関わったことは?」
「ありません」
ラヴィニアの声は。
再び、最初の落ち着きを取り戻していた。
「質問は以上です」
レオンが言った。
ミラベルが彼を見る。
「もう?」
「今はな」
「必要があれば、またお話を伺います」
グレアムが告げる。
ラヴィニアは頭を下げた。
「警察の捜査へ協力することに異存はありません。ただし、セレス家の契約文書を、事件と無関係な者へ見せるつもりもありません」
「関係があれば確認する」
「そのときは、正式な手続きを」
「俺も、そのつもりだ」
グレアムとラヴィニアの視線がぶつかった。
古い権利を守ろうとするエルフ。
現場の事実を優先するドワーフの警部。
どちらも。
譲る気はない。
レオンは二人を残し、先に廊下へ出た。
ミラベルも一礼して続く。
扉が閉じる。
五〇七号室の前には、まだ警官が立っていた。
そのすぐ隣で。
五〇九号室の宿泊者は。
一人で滞在していると証言した。
香草茶しか頼んでいないとも。
だが。
ホテルの配膳記録には。
三日間。
彼女の香草茶とともに、もう一人分の朝食が残されている。
「コンラッドさんを知っていますね」
ミラベルが小声で言った。
レオンは歩みを止めなかった。
「なぜ、そう思う」
「名前を聞いたときだけ、手が止まりました。返事も遅れた」
「反応したことは事実だ」
「知らない人の名前を聞いた反応には見えませんでした」
「君にはな」
レオンは、従業員階段の前で立ち止まった。
「知っている可能性は高い。だが、反応した理由までは分からない」
「怖かったのかもしれない。憎んでいたのかもしれない」
「あるいは、名前ではなく、警察がその名へたどり着いたことに驚いたのかもしれない」
ミラベルは、記録帳へ視線を落とす。
コンラッドの名を聞いたとき。
ラヴィニアの手が止まった。
そこまでは書ける。
彼女が嘘をついたのか。
何を隠したのか。
その理由が殺人へつながるのか。
そこから先は。
まだ書けない。
「反応を見つけても、その理由が分からなければ足りない」
ミラベルが言った。
「君がいつも拾っている部分だ」
「先生に褒められている気がしません」
「褒めてはいない」
「そうだと思いました」
後ろから。
グレアムが五〇九号室を出てきた。
「何が分かった」
「五〇九号室の宿泊者は一人」
レオンが答える。
「本人が注文したのは香草茶だけです」
ミラベルが続ける。
「コンラッドの名には反応しました。でも、理由はまだ分かりません」
「知っていることを隠した可能性は?」
「ある」
レオンが言う。
「食事について嘘をついている可能性も?」
「ある」
「配膳記録の方が誤っている可能性も」
「ある」
グレアムは、五〇七号室と五〇九号室の扉を見比べた。
「五〇七にない食事が、五〇九には余っている」
「隣同士です」
ミラベルが言う。
「だが、余った食事が五〇七へ運ばれたと決めるには早い」
レオンは答えた。
「帳簿が示すのは、五〇九号室とC―17の勘定へ二人分が付けられたことだけだ。実際の届け先は、給仕へ聞かなければ分からない」
「ラヴィニアが嘘をついているなら」
グレアムが言う。
「二人目を部屋へ入れていた可能性も残る」
「食事記録だけが誤っている可能性も残る」
ミラベルが加えた。
「どちらも、まだ捨てない」
レオンは。
階下へ続く従業員階段へ視線を向けた。
「その前に、このホテルが表へ名を出せない客を、どう扱うのかを確認する」
「どういう意味です?」
「宿帳には名前がある。配膳記録には客室と運用符号がある。会計には支払者がいる」
レオンは言った。
「それらが、必ず同じ一人を指しているという保証は、まだどこにもない」
灰冠ホテルは、客の沈黙を預かる。
そのために。
名前を知る者。
食事を運ぶ者。
代金を記す者を分けている。
ならば次に調べるべきなのは。
分けられた記録を、誰が一人の客へ結び直すのか。
そして。
公開宿帳へ名を置けない者を。
このホテルが、どのように泊めているのか。
レオンは階段を下り始めた。
「支配人に聞く」
「何をです?」
ミラベルが続く。
「灰冠ホテルが」
レオンは答えた。
「客の秘密を、どんな記録へ預けているのかを」




