第2節 ― 泊まっていない男
灰冠ホテルの文書室には、朝が入ってこなかった。
窓はある。
だが、煤霧に曇った厚い硝子と、宿泊記録を日差しから守る濃紺の幕によって、外の光はほとんど遮られている。
壁際には、革表紙の帳簿が年代ごとに並んでいた。
人が泊まり。
支払い。
去っていった記録。
その一冊一冊が、客の名を閉じ込めた棺のように見えた。
中央の長机には、今朝の公開宿帳が開かれている。
宿泊記録主任エドモンド=ケイルは、その向こう側に立っていた。
四十歳をいくらか越えた、痩身のヒト族。
髪は几帳面に撫でつけられ、濃茶色の上着には皺ひとつない。突然起きた殺人事件のあとでさえ、襟元も袖口も、ホテルの従業員に求められる形を崩していなかった。
ただ。
顔色だけが悪かった。
「コンラッド=ヘイル」
グレアム警部が、照会票に記された名を読み上げた。
机の端には、遺体が所持していた身分証明書が置かれている。
氏名。
年齢。
職業登録番号。
市警が契約業者台帳へ照会した結果、すべて一致していた。
「ヒト族。四十七歳。契約仲介人」
グレアムは証明書を机へ戻した。
「商会同士の揉め事や、相続契約の代理をしていた男だ」
「ご存じなのですか」
ミラベルが尋ねた。
「顔と名前くらいはな」
グレアムの声に、好意はなかった。
「表向きは、話し合いのまとまらん連中を同じ机へ着かせる仕事だ。だが、契約をまとめるより、途中で知った秘密を売る方が得意だったという噂がある」
「恐喝ですか」
「噂だ」
グレアムは短く答えた。
「訴えた者はいない。訴えれば、握られた秘密まで法院へ出るからな」
ミラベルは記録帳へペンを走らせかけ。
途中で止めた。
「では、恐喝をしていたと断定はできませんね」
「ああ。今ここにあるのは、市中の評判だけだ」
「死者は反論できません」
グレアムがミラベルを見る。
やがて、小さく頷いた。
「記事にするなら分けろ。登録上の職業と、証明されていない噂をな」
「はい」
レオンは二人の会話へ加わらず、公開宿帳を見ていた。
到着した客の名。
出身地。
出発予定日。
主室番号。
荷物の数。
支払い方法。
同じ筆跡で埋められた欄もあれば、客自身が記したらしい不揃いな署名もある。
レオンの指は紙面へ触れない。
行と行の間。
綴じ目。
訂正箇所。
余白。
インクの色と乾き方だけを、順に追っていく。
「三日前から今朝まで」
レオンが言った。
「コンラッド=ヘイルの名はない」
「ございません」
エドモンドが即答した。
声は穏やかで、受付で客へ応じるときと同じ礼儀を保っている。
「念のため、過去一週間分を確認いたしました。ヘイル氏のお名前での宿泊記録はありません」
レオンは頁を一枚戻した。
「本人が、本名を使ったとは限らない」
「仮名で滞在されるお客様もいらっしゃいます」
エドモンドは認めた。
「その場合も、保証人または支払い証明とともに、届け出られた名を記録します。警察から示されたヘイル氏の年齢、種族、到着したと考えられる時期と照合しましたが、該当する方はおりません」
「今朝まで滞在している客だけか」
「三日前以降に到着し、すでに出発した方も含めています」
「途中で部屋を替えた客は」
「変更履歴も確認しました」
「宿帳を使わずに泊めた客は」
エドモンドの表情は変わらなかった。
だが。
隣に立つブルーノ=ホルツ支配人の眉が動いた。
「クラウス氏」
ブルーノの声には、早朝から積み重なった苛立ちが滲んでいた。
「当ホテルでは、すべてのお客様を規定に従ってお迎えしております」
「規定に従ったかどうかは、まだ尋ねていない」
「では、何を」
「宿帳に名がないことと、泊まっていなかったことを、同じ事実として扱ってよいのかを聞いている」
文書室の空気が、わずかに張った。
エドモンドは公開宿帳へ視線を落とした。
「少なくとも、この帳簿には記録されておりません」
「それでいい」
レオンは頁から目を離さなかった。
「今の時点で言えるのは、それだけだ」
ミラベルが、頭の中で事実を並べ直すように口にする。
「死んでいた男性はコンラッド=ヘイル。でも、コンラッド=ヘイルという名前の客はいなかった」
「仮名で登録された客にも、彼と一致する者はいない」
「だからホテルの公開記録だけを見れば、コンラッドさんは泊まっていない」
「そうなる」
レオンは宿帳を閉じた。
革表紙が、低い音を立てる。
「だが、五〇七号室には彼の死体がある」
「死体があとから運び込まれた可能性は、まだ残っていますね」
「残っている」
「部屋の生活痕跡も、偽装のために用意されたのかもしれない」
「その仮説も捨てない」
レオンは鑑定鞄を持ち上げた。
「だから、部屋が何を記憶しているかを調べる」
◇
五〇七号室へ戻ると、検視担当者が遺体の周囲を調べていた。
窓のカーテンは、発見時の形を保っている。
卓上灯も消されていない。
警官が廊下と室内の境へ立ち、出入りした者の名と時刻を記録していた。
扉の外。
小卓の上には。
五〇七号室の鍵を収めた証拠袋が置かれている。
レオンは室内へ入る前に、その袋へ目を向けた。
布越しにも分かる、厚く重い真鍮飾り。
平らな面だけが不自然に明るく。
深く刻まれた五〇七の溝には、暗い汚れが残っている。
「鍵が気になるのか」
グレアムが尋ねた。
「目に入っただけだ」
「調べるのは検視へ回してからだ」
「分かっている」
レオンはそれ以上近づかなかった。
磨かれた理由も。
溝の汚れが何なのかも。
今は決めない。
「窓は内側から閉じられている」
グレアムは部下から受け取った現場記録を確認した。
「だが、それだけで出入りがなかったとは言えん。窓枠と外壁はこれから調べる」
「扉も同じだ」
レオンは鑑定用の薄い手袋をはめた。
「鍵が今朝、受付にあったことは確認できる。いつ、誰が戻したかは分からない」
ブルーノが口を開きかけたが。
グレアムの視線を受け、黙った。
検視担当者が遺体の後頭部から顔を上げる。
「打撃による損傷があります。死因となった可能性は高い」
「即死か」
グレアムが尋ねる。
「この傷だけを見て、即死したとはまだ断定できません。打撃後、短時間であれば意識や運動能力が残った可能性もあります」
「分かった。死亡時刻は」
「もう少しお待ちを」
レオンは遺体へ視線を向けた。
倒れたあと。
この男に、何ができたのか。
今はまだ。
その問いへ答える時刻ではなかった。
彼は敷居を越えた。
一歩ごとに足元を確かめる。
血痕を避け。
物の位置を変えず。
まず部屋の中央へは進まず、壁沿いに視線を巡らせた。
ミラベルは扉の内側で立ち止まった。
「入っても?」
「俺の足跡だけで十分だ」
「では、ここから見ます」
「見えるものと、考えたことを分けろ」
「分かっています」
レオンは最初に、床へ置かれた三部の新聞を調べた。
それぞれに異なる日付が印刷されている。
最も古いものは三日前。
次が一昨日。
最後が昨日。
三部とも、一度大きく開かれたあと、読みやすい幅へ折り直されている。
表へ出ている頁も異なった。
「三日分ですね」
ミラベルが言った。
「日付はな」
「読まれたようにも見えます」
「折り目なら作れる」
「まだ、生活の証明にはならない」
「そうだ」
レオンは新聞を元の位置へ戻した。
「だが、今朝死体を運び込み、生活を偽装したのなら、犯人は三日分の新聞を用意し、それぞれ違う頁を読んだように折り直したことになる」
「不可能ではありません」
「不可能ではない。必要な作業が一つ増えるだけだ」
次に、洗面台へ向かう。
白い陶器の内側に、短い髭が残っている。
縁に近いものは乾いて石鹸の膜へ張りつき。
排水口に近いものは、まだ濃い色を保っていた。
そのあいだには。
一度乾いた石鹸水の跡へ、新しい水が流れた筋がある。
レオンは拡大レンズを取り出した。
「一度に捨てられた髭ではない」
ミラベルが、扉のそばから身を乗り出す。
「乾き方が違う?」
「古いものの上へ、もう一度石鹸水が流れている。そのあとに、新しい髭が付着した」
「何度か髭を剃った」
「少なくとも、一度ではない」
洗面台の脇にある石鹸も。
片側だけが濡れ、乾き、再び使われた形に削れている。
「三日間、毎朝剃ったとまでは言えない」
レオンは言った。
「だが、一度だけ部屋を使った者が残した状態ではない」
浴室では。
浴槽の内側に、湯が引いたあとに残る薄い筋がある。
縁へ掛けられた手拭いは、外側だけが硬く乾き、折り重なった内側には湿り気が残っていた。
床には。
水滴を拭き取った淡い跡。
椅子には使用済みの衣類。
背には、別のシャツが掛けられている。
レオンは衣類へ触れず。
肩幅と袖丈を目で測った。
それから。
床の男を見る。
「体格は合う」
「コンラッドさんの衣類だと?」
「そう考えて不自然ではない。ただし、仕立て印や所持品との照合が必要だ」
ミラベルは記録帳へ書く。
体格は一致。
所有者は未確認。
「断定しないんですね」
「断定するために調べている」
「先生は、断定するときだけ声が強くなるので分かります」
「余計な観察だ」
「探偵の助手ですから」
「記者だろう」
「両方です」
グレアムが背後から言った。
「どっちでもいいが、床の血へ近づくな」
ミラベルは素直に半歩下がった。
レオンは書き物机へ向かう。
便箋には、文章が途中まで記されていた。
署名はない。
宛名もない。
乾いたインクと、途中で止まったペン先。
便箋の脇には、茶器を置いた輪染みが重なっている。
濃さは均一ではない。
新しい跡が古い跡へ重なり。
一部は布で拭われて薄くなっていた。
「これも、一度ではありませんね」
ミラベルが言った。
「茶器を何度か置いた」
「あるいは、そう見えるように跡を作った」
「何でも偽装の可能性を残しますね」
「見たままを信じるなら、俺を呼ぶ必要はない」
暖炉には、複数回火を入れたような灰の層が残っていた。
燃え切らなかった小さな紙片もあったが。
レオンは、触れずに一瞥しただけだった。
「紙片は押収する」
グレアムが言う。
「事件に関係するかは、あとで確かめる」
「それでいい」
今ここで分かるのは。
暖炉が使われていたことだけだった。
何が燃やされたのか。
何のためだったのか。
生活の書き損じか。
事件に関わる文書か。
灰から意味を作るには、まだ早い。
「先生」
ミラベルの声がした。
彼女は、寝台を見ていた。
「掛布の乱れが、片側へ寄っています」
「だから?」
「同じ側から、何度も出入りしたように見えます。枕も一つだけ使われている」
「生活観察としては悪くない」
「褒めました?」
「事実と推測を分ければな」
レオンは寝台へ近づいた。
枕には頭を置いた窪み。
掛布には、同じ側から出入りした折れ癖。
寝台脇の床だけ。
室内靴で繰り返し踏まれたように、絨毯の毛が同じ方向へ寝ている。
「この寝台は使われている」
「一度ではなく?」
「一度横になっただけで、足元の絨毯まで同じ癖は残りにくい」
「それも作ろうと思えば作れますね」
「作れる」
「でも」
ミラベルは、五〇七号室を見回した。
「新聞だけではない。洗面台だけでもない。浴室も、衣類も、机も、寝台も。同じ人が、ここで何日か過ごしたように痕跡がつながっている」
レオンは返事をしなかった。
一つひとつは。
小さな痕跡だった。
新聞を読んだ跡。
顔を洗った跡。
湯を使った跡。
衣類を脱いだ跡。
茶を飲んだ跡。
火を焚いた跡。
眠った跡。
どれも。
殺人そのものを証明してはいない。
だが。
別々の場所へ残された痕跡が。
一人の生活として、同じ時間の流れを作っていた。
「死体が運び込まれたのではない」
レオンが言った。
ブルーノが、扉の外で息を止めた。
「断定するのか」
グレアムが問う。
「正確には」
レオンは床の死者を見る。
「死亡後の死体だけを、今朝この部屋へ置いたという仮説では、説明しなければならないことが多すぎる」
三日分の新聞。
繰り返し使われた洗面台。
浴室。
体格の合う衣類。
複数回使われた机と茶器。
暖炉。
同じ生活の癖が残る寝台。
「すべてを偽装することは不可能ではない」
レオンは続けた。
「だが、そのためには、それぞれ異なる時間の経過を作り、同じ人物の生活として矛盾なく配置しなければならない」
「人が本当に暮らしていたと考える方が」
ミラベルが言う。
「必要な仮定が少ない」
「そうだ」
「その人がコンラッドさんだったことは?」
「衣類の体格は合う。死体は室内にある。ほかの居住者を示す痕跡も、今のところ見つかっていない」
「筆跡や衣類の照合は必要」
「必要だ」
「でも、現時点で最も合理的なのは」
レオンは。
黄い卓上灯に照らされた死者の横顔を見る。
「この男は、ここで生活していた」
窓の外では。
朝が始まっている。
馬車が通り。
汽笛が鳴り。
ホテルの食堂では。
何も知らない客たちのために、朝食が運ばれている。
それでも五〇七号室だけは。
昨夜の時間を抱えたまま、閉じられていた。
「一晩だけではない」
レオンが言う。
ミラベルは。
日付の異なる三部の新聞へ目を向けた。
「三日前から」
「少なくとも、三日にわたって生活していたと考えるのが最も自然だ」
グレアムが、扉の外にいるブルーノへ向き直った。
「五〇七号室は、いつから閉鎖していた」
「三日前です」
「理由は」
「壁内の伝声管修理です」
「修理中の部屋で、三日間、人が暮らしていた」
グレアムの声が低くなる。
「それでも、ホテルは知らなかったと言うのか」
ブルーノは、すぐには答えなかった。
その沈黙を。
エドモンドが引き取る。
「公開宿帳には、該当する記録がありません」
正確な返答だった。
だが。
グレアムが尋ねたことへの答えではない。
レオンはエドモンドを見る。
宿泊記録主任は、礼儀正しく視線を受け止めている。
そこに動揺があるのか。
死体を前にした人間の緊張なのか。
この時点では。
まだ区別できない。
ミラベルは、記録帳を胸元へ寄せた。
「人が三日間ここにいたのに、宿帳にはいない」
「そうだ」
「部屋は使われていたのに、空室だった」
「ホテルの記録ではな」
レオンは。
五〇七号室の扉へ掛けられた《整備中》の真鍮札を見る。
札は嘘をついているようには見えない。
公開宿帳にも、不自然な名はない。
五〇七号室の欄は。
整然と空いている。
記録だけを読めば。
ここには誰も泊まっていない。
だが。
部屋は、違うことを語っていた。
「次は」
レオンが言った。
「この男が何を食べ、何を使い、その代金がどこへ記録されているかを調べる」
「生活には、必ず勘定が残る」
グレアムが言う。
「ああ」
レオンは、もう一度部屋を見た。
「宿帳から名前を消すことはできても、三日間の生活すべてを無償にはできない」
ミラベルが、五〇七号室を振り返る。
「泊まった人の名前が、どこにも残っていなくても?」
「だからこそだ」
空室に残された三日分の生活は。
宿帳とは別の場所で。
まだ消されずに。
コンラッド=ヘイルが、ここにいたことを記録していた。




