↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
88/228

第2節 ― 泊まっていない男

 灰冠ホテルの文書室には、朝が入ってこなかった。


 窓はある。


 だが、煤霧に曇った厚い硝子と、宿泊記録を日差しから守る濃紺の幕によって、外の光はほとんど遮られている。


 壁際には、革表紙の帳簿が年代ごとに並んでいた。


 人が泊まり。


 支払い。


 去っていった記録。


 その一冊一冊が、客の名を閉じ込めた棺のように見えた。


 中央の長机には、今朝の公開宿帳が開かれている。


 宿泊記録主任エドモンド=ケイルは、その向こう側に立っていた。


 四十歳をいくらか越えた、痩身のヒト族。


 髪は几帳面に撫でつけられ、濃茶色の上着には皺ひとつない。突然起きた殺人事件のあとでさえ、襟元も袖口も、ホテルの従業員に求められる形を崩していなかった。


 ただ。


 顔色だけが悪かった。


「コンラッド=ヘイル」


 グレアム警部が、照会票に記された名を読み上げた。


 机の端には、遺体が所持していた身分証明書が置かれている。


 氏名。


 年齢。


 職業登録番号。


 市警が契約業者台帳へ照会した結果、すべて一致していた。


「ヒト族。四十七歳。契約仲介人」


 グレアムは証明書を机へ戻した。


「商会同士の揉め事や、相続契約の代理をしていた男だ」


「ご存じなのですか」


 ミラベルが尋ねた。


「顔と名前くらいはな」


 グレアムの声に、好意はなかった。


「表向きは、話し合いのまとまらん連中を同じ机へ着かせる仕事だ。だが、契約をまとめるより、途中で知った秘密を売る方が得意だったという噂がある」


「恐喝ですか」


「噂だ」


 グレアムは短く答えた。


「訴えた者はいない。訴えれば、握られた秘密まで法院へ出るからな」


 ミラベルは記録帳へペンを走らせかけ。


 途中で止めた。


「では、恐喝をしていたと断定はできませんね」


「ああ。今ここにあるのは、市中の評判だけだ」


「死者は反論できません」


 グレアムがミラベルを見る。


 やがて、小さく頷いた。


「記事にするなら分けろ。登録上の職業と、証明されていない噂をな」


「はい」


 レオンは二人の会話へ加わらず、公開宿帳を見ていた。


 到着した客の名。


 出身地。


 出発予定日。


 主室番号。


 荷物の数。


 支払い方法。


 同じ筆跡で埋められた欄もあれば、客自身が記したらしい不揃いな署名もある。


 レオンの指は紙面へ触れない。


 行と行の間。


 綴じ目。


 訂正箇所。


 余白。


 インクの色と乾き方だけを、順に追っていく。


「三日前から今朝まで」


 レオンが言った。


「コンラッド=ヘイルの名はない」


「ございません」


 エドモンドが即答した。


 声は穏やかで、受付で客へ応じるときと同じ礼儀を保っている。


「念のため、過去一週間分を確認いたしました。ヘイル氏のお名前での宿泊記録はありません」


 レオンは頁を一枚戻した。


「本人が、本名を使ったとは限らない」


「仮名で滞在されるお客様もいらっしゃいます」


 エドモンドは認めた。


「その場合も、保証人または支払い証明とともに、届け出られた名を記録します。警察から示されたヘイル氏の年齢、種族、到着したと考えられる時期と照合しましたが、該当する方はおりません」


「今朝まで滞在している客だけか」


「三日前以降に到着し、すでに出発した方も含めています」


「途中で部屋を替えた客は」


「変更履歴も確認しました」


「宿帳を使わずに泊めた客は」


 エドモンドの表情は変わらなかった。


 だが。


 隣に立つブルーノ=ホルツ支配人の眉が動いた。


「クラウス氏」


 ブルーノの声には、早朝から積み重なった苛立ちが滲んでいた。


「当ホテルでは、すべてのお客様を規定に従ってお迎えしております」


「規定に従ったかどうかは、まだ尋ねていない」


「では、何を」


「宿帳に名がないことと、泊まっていなかったことを、同じ事実として扱ってよいのかを聞いている」


 文書室の空気が、わずかに張った。


 エドモンドは公開宿帳へ視線を落とした。


「少なくとも、この帳簿には記録されておりません」


「それでいい」


 レオンは頁から目を離さなかった。


「今の時点で言えるのは、それだけだ」


 ミラベルが、頭の中で事実を並べ直すように口にする。


「死んでいた男性はコンラッド=ヘイル。でも、コンラッド=ヘイルという名前の客はいなかった」


「仮名で登録された客にも、彼と一致する者はいない」


「だからホテルの公開記録だけを見れば、コンラッドさんは泊まっていない」


「そうなる」


 レオンは宿帳を閉じた。


 革表紙が、低い音を立てる。


「だが、五〇七号室には彼の死体がある」


「死体があとから運び込まれた可能性は、まだ残っていますね」


「残っている」


「部屋の生活痕跡も、偽装のために用意されたのかもしれない」


「その仮説も捨てない」


 レオンは鑑定鞄を持ち上げた。


「だから、部屋が何を記憶しているかを調べる」


     ◇


 五〇七号室へ戻ると、検視担当者が遺体の周囲を調べていた。


 窓のカーテンは、発見時の形を保っている。


 卓上灯も消されていない。


 警官が廊下と室内の境へ立ち、出入りした者の名と時刻を記録していた。


 扉の外。


 小卓の上には。


 五〇七号室の鍵を収めた証拠袋が置かれている。


 レオンは室内へ入る前に、その袋へ目を向けた。


 布越しにも分かる、厚く重い真鍮飾り。


 平らな面だけが不自然に明るく。


 深く刻まれた五〇七の溝には、暗い汚れが残っている。


「鍵が気になるのか」


 グレアムが尋ねた。


「目に入っただけだ」


「調べるのは検視へ回してからだ」


「分かっている」


 レオンはそれ以上近づかなかった。


 磨かれた理由も。


 溝の汚れが何なのかも。


 今は決めない。


「窓は内側から閉じられている」


 グレアムは部下から受け取った現場記録を確認した。


「だが、それだけで出入りがなかったとは言えん。窓枠と外壁はこれから調べる」


「扉も同じだ」


 レオンは鑑定用の薄い手袋をはめた。


「鍵が今朝、受付にあったことは確認できる。いつ、誰が戻したかは分からない」


 ブルーノが口を開きかけたが。


 グレアムの視線を受け、黙った。


 検視担当者が遺体の後頭部から顔を上げる。


「打撃による損傷があります。死因となった可能性は高い」


「即死か」


 グレアムが尋ねる。


「この傷だけを見て、即死したとはまだ断定できません。打撃後、短時間であれば意識や運動能力が残った可能性もあります」


「分かった。死亡時刻は」


「もう少しお待ちを」


 レオンは遺体へ視線を向けた。


 倒れたあと。


 この男に、何ができたのか。


 今はまだ。


 その問いへ答える時刻ではなかった。


 彼は敷居を越えた。


 一歩ごとに足元を確かめる。


 血痕を避け。


 物の位置を変えず。


 まず部屋の中央へは進まず、壁沿いに視線を巡らせた。


 ミラベルは扉の内側で立ち止まった。


「入っても?」


「俺の足跡だけで十分だ」


「では、ここから見ます」


「見えるものと、考えたことを分けろ」


「分かっています」


 レオンは最初に、床へ置かれた三部の新聞を調べた。


 それぞれに異なる日付が印刷されている。


 最も古いものは三日前。


 次が一昨日。


 最後が昨日。


 三部とも、一度大きく開かれたあと、読みやすい幅へ折り直されている。


 表へ出ている頁も異なった。


「三日分ですね」


 ミラベルが言った。


「日付はな」


「読まれたようにも見えます」


「折り目なら作れる」


「まだ、生活の証明にはならない」


「そうだ」


 レオンは新聞を元の位置へ戻した。


「だが、今朝死体を運び込み、生活を偽装したのなら、犯人は三日分の新聞を用意し、それぞれ違う頁を読んだように折り直したことになる」


「不可能ではありません」


「不可能ではない。必要な作業が一つ増えるだけだ」


 次に、洗面台へ向かう。


 白い陶器の内側に、短い髭が残っている。


 縁に近いものは乾いて石鹸の膜へ張りつき。


 排水口に近いものは、まだ濃い色を保っていた。


 そのあいだには。


 一度乾いた石鹸水の跡へ、新しい水が流れた筋がある。


 レオンは拡大レンズを取り出した。


「一度に捨てられた髭ではない」


 ミラベルが、扉のそばから身を乗り出す。


「乾き方が違う?」


「古いものの上へ、もう一度石鹸水が流れている。そのあとに、新しい髭が付着した」


「何度か髭を剃った」


「少なくとも、一度ではない」


 洗面台の脇にある石鹸も。


 片側だけが濡れ、乾き、再び使われた形に削れている。


「三日間、毎朝剃ったとまでは言えない」


 レオンは言った。


「だが、一度だけ部屋を使った者が残した状態ではない」


 浴室では。


 浴槽の内側に、湯が引いたあとに残る薄い筋がある。


 縁へ掛けられた手拭いは、外側だけが硬く乾き、折り重なった内側には湿り気が残っていた。


 床には。


 水滴を拭き取った淡い跡。


 椅子には使用済みの衣類。


 背には、別のシャツが掛けられている。


 レオンは衣類へ触れず。


 肩幅と袖丈を目で測った。


 それから。


 床の男を見る。


「体格は合う」


「コンラッドさんの衣類だと?」


「そう考えて不自然ではない。ただし、仕立て印や所持品との照合が必要だ」


 ミラベルは記録帳へ書く。


 体格は一致。


 所有者は未確認。


「断定しないんですね」


「断定するために調べている」


「先生は、断定するときだけ声が強くなるので分かります」


「余計な観察だ」


「探偵の助手ですから」


「記者だろう」


「両方です」


 グレアムが背後から言った。


「どっちでもいいが、床の血へ近づくな」


 ミラベルは素直に半歩下がった。


 レオンは書き物机へ向かう。


 便箋には、文章が途中まで記されていた。


 署名はない。


 宛名もない。


 乾いたインクと、途中で止まったペン先。


 便箋の脇には、茶器を置いた輪染みが重なっている。


 濃さは均一ではない。


 新しい跡が古い跡へ重なり。


 一部は布で拭われて薄くなっていた。


「これも、一度ではありませんね」


 ミラベルが言った。


「茶器を何度か置いた」


「あるいは、そう見えるように跡を作った」


「何でも偽装の可能性を残しますね」


「見たままを信じるなら、俺を呼ぶ必要はない」


 暖炉には、複数回火を入れたような灰の層が残っていた。


 燃え切らなかった小さな紙片もあったが。


 レオンは、触れずに一瞥しただけだった。


「紙片は押収する」


 グレアムが言う。


「事件に関係するかは、あとで確かめる」


「それでいい」


 今ここで分かるのは。


 暖炉が使われていたことだけだった。


 何が燃やされたのか。


 何のためだったのか。


 生活の書き損じか。


 事件に関わる文書か。


 灰から意味を作るには、まだ早い。


「先生」


 ミラベルの声がした。


 彼女は、寝台を見ていた。


「掛布の乱れが、片側へ寄っています」


「だから?」


「同じ側から、何度も出入りしたように見えます。枕も一つだけ使われている」


「生活観察としては悪くない」


「褒めました?」


「事実と推測を分ければな」


 レオンは寝台へ近づいた。


 枕には頭を置いた窪み。


 掛布には、同じ側から出入りした折れ癖。


 寝台脇の床だけ。


 室内靴で繰り返し踏まれたように、絨毯の毛が同じ方向へ寝ている。


「この寝台は使われている」


「一度ではなく?」


「一度横になっただけで、足元の絨毯まで同じ癖は残りにくい」


「それも作ろうと思えば作れますね」


「作れる」


「でも」


 ミラベルは、五〇七号室を見回した。


「新聞だけではない。洗面台だけでもない。浴室も、衣類も、机も、寝台も。同じ人が、ここで何日か過ごしたように痕跡がつながっている」


 レオンは返事をしなかった。


 一つひとつは。


 小さな痕跡だった。


 新聞を読んだ跡。


 顔を洗った跡。


 湯を使った跡。


 衣類を脱いだ跡。


 茶を飲んだ跡。


 火を焚いた跡。


 眠った跡。


 どれも。


 殺人そのものを証明してはいない。


 だが。


 別々の場所へ残された痕跡が。


 一人の生活として、同じ時間の流れを作っていた。


「死体が運び込まれたのではない」


 レオンが言った。


 ブルーノが、扉の外で息を止めた。


「断定するのか」


 グレアムが問う。


「正確には」


 レオンは床の死者を見る。


「死亡後の死体だけを、今朝この部屋へ置いたという仮説では、説明しなければならないことが多すぎる」


 三日分の新聞。


 繰り返し使われた洗面台。


 浴室。


 体格の合う衣類。


 複数回使われた机と茶器。


 暖炉。


 同じ生活の癖が残る寝台。


「すべてを偽装することは不可能ではない」


 レオンは続けた。


「だが、そのためには、それぞれ異なる時間の経過を作り、同じ人物の生活として矛盾なく配置しなければならない」


「人が本当に暮らしていたと考える方が」


 ミラベルが言う。


「必要な仮定が少ない」


「そうだ」


「その人がコンラッドさんだったことは?」


「衣類の体格は合う。死体は室内にある。ほかの居住者を示す痕跡も、今のところ見つかっていない」


「筆跡や衣類の照合は必要」


「必要だ」


「でも、現時点で最も合理的なのは」


 レオンは。


 黄い卓上灯に照らされた死者の横顔を見る。


「この男は、ここで生活していた」


 窓の外では。


 朝が始まっている。


 馬車が通り。


 汽笛が鳴り。


 ホテルの食堂では。


 何も知らない客たちのために、朝食が運ばれている。


 それでも五〇七号室だけは。


 昨夜の時間を抱えたまま、閉じられていた。


「一晩だけではない」


 レオンが言う。


 ミラベルは。


 日付の異なる三部の新聞へ目を向けた。


「三日前から」


「少なくとも、三日にわたって生活していたと考えるのが最も自然だ」


 グレアムが、扉の外にいるブルーノへ向き直った。


「五〇七号室は、いつから閉鎖していた」


「三日前です」


「理由は」


「壁内の伝声管修理です」


「修理中の部屋で、三日間、人が暮らしていた」


 グレアムの声が低くなる。


「それでも、ホテルは知らなかったと言うのか」


 ブルーノは、すぐには答えなかった。


 その沈黙を。


 エドモンドが引き取る。


「公開宿帳には、該当する記録がありません」


 正確な返答だった。


 だが。


 グレアムが尋ねたことへの答えではない。


 レオンはエドモンドを見る。


 宿泊記録主任は、礼儀正しく視線を受け止めている。


 そこに動揺があるのか。


 死体を前にした人間の緊張なのか。


 この時点では。


 まだ区別できない。


 ミラベルは、記録帳を胸元へ寄せた。


「人が三日間ここにいたのに、宿帳にはいない」


「そうだ」


「部屋は使われていたのに、空室だった」


「ホテルの記録ではな」


 レオンは。


 五〇七号室の扉へ掛けられた《整備中》の真鍮札を見る。


 札は嘘をついているようには見えない。


 公開宿帳にも、不自然な名はない。


 五〇七号室の欄は。


 整然と空いている。


 記録だけを読めば。


 ここには誰も泊まっていない。


 だが。


 部屋は、違うことを語っていた。


「次は」


 レオンが言った。


「この男が何を食べ、何を使い、その代金がどこへ記録されているかを調べる」


「生活には、必ず勘定が残る」


 グレアムが言う。


「ああ」


 レオンは、もう一度部屋を見た。


「宿帳から名前を消すことはできても、三日間の生活すべてを無償にはできない」


 ミラベルが、五〇七号室を振り返る。


「泊まった人の名前が、どこにも残っていなくても?」


「だからこそだ」


 空室に残された三日分の生活は。


 宿帳とは別の場所で。


 まだ消されずに。


 コンラッド=ヘイルが、ここにいたことを記録していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。