第1節 ― 灰冠ホテルの空室
朝の灰冠ホテルでは、音にも格式が求められる。
客室の扉は静かに閉じる。
銀盆の上で食器を鳴らさない。
靴音を絨毯へ沈め。
眠っている客の夢にさえ、使用人の存在を気づかせない。
見習い女中のネリー=コームは、両腕に新しい手拭いを抱え、五階東翼の廊下を歩いていた。
夜明けを迎えたばかりの窓は、煤霧を透かした青灰色に曇っている。壁の真鍮灯はまだ消されておらず、細い炎が硝子の内側で震えていた。
廊下の時計は、午前七時二十分を指していた。
ネリーは五〇三号室の前を通り。
リネン庫の扉が閉まっていることを確かめ。
従業員階段の脇に置かれた空の洗濯籠を、壁際へ寄せた。
それから。
五〇七号室の前で、足を止めた。
扉の下から、黄い灯りが漏れていた。
ほんの細い線だった。
厚い絨毯と扉との隙間を縫い、廊下へ落ちた光。
それだけなら、客が消し忘れた灯りにすぎない。
だが五〇七号室に、客はいない。
三日前から、壁内の伝声管修理を理由に閉鎖されている。
昨日も、一昨日も。
ネリー自身が扉の前を通った。
取っ手には《整備中》と刻まれた真鍮札が掛かり、清掃も寝具交換も行わないよう、客室管理主任から申し渡されていた。
ネリーは腕の中の手拭いを抱え直した。
真鍮札は、今朝も扉に掛かっている。
見間違いではない。
五〇七。
隣は五〇九号室。
その向こうが五一一号室。
毎朝歩く廊下で、部屋を取り違えるはずがなかった。
「……どなたか、いらっしゃいますか」
声を抑え、扉へ呼びかけた。
返事はなかった。
ネリーは周囲を見た。
廊下に人影はない。
早朝の配膳が始まるまで、まだ少し時間がある。五〇九号室の扉も固く閉ざされ、内部から物音は聞こえなかった。
もう一度。
今度は少しだけ強く、扉を叩いた。
「客室係でございます」
沈黙。
ネリーは真鍮の取っ手へ手を伸ばしかけた。
触れる前に、指を引く。
閉鎖中の客室へ、見習い女中が勝手に入ってはならない。
灯りがあるからといって。
返事がないからといって。
自分の判断で扉へ触れてよい理由にはならなかった。
そもそも五〇七号室の鍵は、受付の鍵掛けへ戻されているはずだ。
ならば。
施錠された扉の向こうで。
誰が灯りをつけたのか。
ネリーは息を呑み、後ずさった。
背を向けて走りかけ。
絨毯の上で足音を立ててはならないという習慣が、こんなときにも彼女を引き止めた。
早足のまま従業員階段へ向かう。
腕の中の手拭いが、一枚だけ床へ落ちた。
拾う余裕はなかった。
◇
「灯り?」
客室管理主任ドロテア=ベルクは、ネリーの報告を聞いても声を荒らげなかった。
ドワーフ族らしい幅広い肩を濃灰色の制服へ収め、銀の混じった髪を隙なく後頭部へまとめている。女中たちの乱れた襟や、磨き残された銀器を遠目から見つける女だった。
その目が、ネリーの青ざめた顔を一度だけ確かめる。
「本当に五〇七だったんだね」
「はい。整備中の札も、そのままでした」
「扉には触ったかい」
「いいえ。二度叩きましたけど、返事はありませんでした」
「それでいい」
ドロテアは壁の時計へ目を向けた。
午前七時二十二分。
それから、机上に開いていた清掃割当簿を閉じる。
「ここにいな。誰にも話すんじゃないよ」
「でも、中で誰かが倒れていたら――」
「だから確認する。あんたは、見たことと聞いたことを、そのまま覚えておきな」
短く言い切り、ドロテアは管理室を出た。
ネリーは言いつけに従うつもりだった。
少なくとも、初めの十秒ほどは。
だが一人で椅子に座っているうちに、あの扉の下の灯りが、瞼の裏へ細く浮かび続けた。
誰かが倒れているのではないか。
修理の職人が、閉じ込められているのではないか。
あるいは。
誰もいないはずの部屋に、誰かがいるのではないか。
ネリーは立ち上がった。
管理室の扉を少しだけ開ける。
廊下の先から、複数の足音が近づいてきた。
先頭を歩くのは総支配人のブルーノ=ホルツだった。
黒い上着。
濃緑のベスト。
曇りひとつない革靴。
早朝にもかかわらず、髭の先まで整えられている。
その右手には、大きな真鍮の鍵が握られていた。
鍵そのものより目を引くのは、末端に取り付けられた重い鍵飾りだった。
掌に収まり切らない厚みのある真鍮板。
表面には、客室番号の五〇七と、灰冠ホテルの冠の紋章が深く刻まれている。
平らな面だけが、不自然なほど明るかった。
今朝磨かれたばかりのように。
けれど、鎖の継ぎ目や数字の溝には古い曇りが残り、五と七の刻印の奥には、煤とも錆ともつかない暗い汚れが入り込んでいた。
後ろにはドロテア。
さらに、制服姿の警備員が一人続く。
ネリーは管理室を抜け、三人のあとを追った。
ドロテアが振り返った。
「待っていろと言ったはずだよ」
「最初に見つけた者として、確認が必要かもしれません」
声は震えていた。
それでも、ネリーは立ち止まらなかった。
ブルーノが彼女を見る。
咎めるでもなく。
慰めるでもなく。
「扉の下から灯りが見えたのは、いつです」
「午前七時二十分です。廊下の時計を見ました。呼びかけましたが、返事はありませんでした」
「昨夜、この部屋へ入った者を見ましたか」
「いいえ」
「修理の職人は」
「昨日は見ていません」
ブルーノの眉間に、深い皺が寄った。
五〇七号室の前へ着く。
灯りは、まだ漏れていた。
ドロテアがしゃがみ、扉の下を目で確かめる。
指先を隙間へ近づけたが、触れはしなかった。
「灯りで間違いないね」
「鍵は、どこに?」
ドロテアが問う。
「今朝、受付の鍵掛けにありました」
ブルーノは重い鍵を見た。
「夜勤の引き継ぎ記録でも、昨夜の時点では掛けられていたことになっています」
「記録では、かい」
ドロテアの問いに。
ブルーノは、すぐには答えなかった。
「夜通し、誰も持ち出していないことまで確認した者はいません」
警備員が取っ手へ手袋越しに触れ、静かに力をかける。
動かない。
「施錠されています」
「内側から、補助錠を使われている可能性は」
「この部屋の扉に補助錠はありません」
ドロテアの返答に、ブルーノは黙った。
ホテルの上階は、まだ眠っている。
だが、その静けさはもう安らぎには感じられなかった。
ブルーノは鍵を差し込んだ。
真鍮飾りが。
その重さで、扉へ触れかける。
彼は左手で支え。
鍵を回した。
低い金属音。
一度。
二度目の抵抗はなかった。
警備員が前へ出た。
「私が開けます」
ブルーノが頷く。
警備員は片手を扉へ添え、ゆっくりと押した。
暖められた空気が、廊下へ流れ出した。
灯油と石鹸。
冷めた飲み物。
燃え残った紙。
そして、その奥に混じる。
硬貨を舐めたときのような、鉄の匂い。
室内の卓上灯が、黄い炎を保っていた。
窓は厚いカーテンで閉ざされている。
寝台の掛布は乱れ。
椅子の背には、着用したあとの衣類が掛けられていた。
書き物机には便箋が広げられ、途中まで文字が並んでいる。
その脇には、底の乾いた茶器。
小卓の磨かれた表面へ、食器を置いた輪染みが重なっていた。
床には新聞が三部。
いずれも一度開かれ、折り直されている。
浴室の扉は半分開き。
白い浴槽の縁には、乾いた湯滴の跡が残っていた。
洗面台には、細かな髭が付着している。
暖炉の灰の中には、燃え切らなかった紙片が黒く縮れていた。
そして。
部屋の奥に、男が倒れていた。
ネリーの喉から、小さな音が漏れた。
叫びになる前に、ドロテアの手が彼女の肩を掴む。
「見るんじゃない」
だが、遅かった。
男は動かなかった。
濃い色の上着。
床へ投げ出された片腕。
後頭部の下で、絨毯の色がさらに暗く変わっている。
警備員が近づこうとした。
「触るな」
ブルーノの声が、鋭く飛んだ。
警備員の足が止まる。
ブルーノも、敷居を越えなかった。
開錠に使った鍵を扉から抜き。
真鍮飾りへ触れる面を増やさないよう、鎖の部分だけを持っている。
彼の顔から。
ホテル支配人としての完璧な平静が、一瞬だけ剥がれ落ちた。
閉鎖されていた客室。
今朝、受付にあった鍵。
そこで倒れている、見覚えのない男。
それだけではない。
この部屋は、空室の姿をしていなかった。
人が眠り。
衣服を脱ぎ。
新聞を読み。
手紙を書き。
湯を使った部屋だった。
ネリーにも、それは分かった。
ただし。
いつから。
誰が。
なぜ。
その答えは、室内のどこにも明記されていない。
「警察を」
ブルーノが言った。
声は低かった。
「正面玄関は使わせないでください。従業員口から呼んでください」
ドロテアが彼を見る。
「宿泊客に隠すためかい」
「現場へ人を集めないためです」
ブルーノは、倒れた男から目を逸らさなかった。
「今は、それを優先します」
ドロテアは何も言わず。
警備員へ顎を向けた。
警備員が部屋から離れる。
ブルーノはネリーへ向き直った。
「あなたは、ここから動かないように」
「はい」
「誰かに何を聞かれても、警察が来るまでは答えないでください」
ネリーは頷いた。
けれど、視線は男の倒れた部屋から離れなかった。
空室だった。
そのはずだった。
それなのに部屋は。
見知らぬ男の三日分にも見える生活を。
何も言わず、抱え込んでいる。
◇
ヴェルム=クロウ市警察のバルトラム=グレアム警部が灰冠ホテルへ到着した頃、朝の霧はまだ馬車寄せの柱へ絡みついていた。
正面玄関に掲げられた冠の紋章は、黒硝子へ煤色の空を映している。
制服警官二名と検視担当を連れたグレアムは、大広間の豪奢な天井も、磨かれた床も、朝食前の宿泊客たちが向ける視線も気に留めなかった。
短い脚で、迷いなく五階へ上がる。
蒸気昇降機を使わなかったのは、機械を信用しないからではない。
途中の階で。
誰が何を見ているかを確かめるためだった。
「五階東翼を閉鎖しろ」
現場を一目見るなり、グレアムは命じた。
「宿泊客も使用人も通すな。五〇七、五〇九、五一一の客には、勝手に部屋を出ないよう伝えろ。理由は言わんでいい」
部下が動く。
ブルーノがすぐに口を開いた。
「警部。宿泊客の秘密については、十分な配慮を――」
「生きている客の秘密は守る」
グレアムは彼を見た。
「だが、人一人が死んだ事実まで秘密にはせん」
ブルーノの口が閉じる。
グレアムは扉の前でしゃがんだ。
ドワーフ族の太い指が、敷居へ触れない位置で止まる。
床。
取っ手。
鍵穴。
扉の縁。
それぞれへ短く視線を走らせた。
「発見してから、誰が中へ入った」
「警備員が一歩、踏み入れかけました」
ドロテアが答えた。
「支配人が止めています。遺体には触れていません。支配人と私は、敷居を越えていません」
「見習いは」
「廊下にいました」
ネリーは背筋を伸ばした。
「最初に見つけたのは、お前か」
「はい」
「時刻は」
「午前七時二十分です」
「何を見た」
「扉の下の灯りです」
「何を聞いた」
「何も。二度、呼びかけました。でも、返事はありませんでした」
「扉には」
「触っていません」
グレアムは一度、頷いた。
「よし。あとで同じことを最初から聞く。それまでは、ほかの連中と話すな」
「はい」
その言い方はぶっきらぼうだったが、責めているわけではなかった。
ネリーの呼吸が、ほんの少しだけ戻った。
「鍵は」
グレアムが尋ねる。
ブルーノが。
鎖の部分だけを持っていた五〇七号室の鍵を差し出した。
「今朝、受付の鍵掛けにありました。この鍵で開けています」
グレアムは、すぐには受け取らなかった。
「触ったのは」
「私だけです。受付から外し、開錠しました」
「今朝、鍵掛けにあったことは確認できる」
「はい」
「昨夜から一度も持ち出されていないことは」
「確認できません」
ブルーノは答えた。
「夜勤の引き継ぎ記録には、鍵掛けへ戻っていたとあります。ただし、夜通し見張っていた者はいません」
「今朝そこにあったことと、一晩中そこにあったことは別だ」
グレアムは部下へ顎を向けた。
警官が証拠用の厚い布袋を開く。
ブルーノは、その上へ鍵を置いた。
グレアムは触れずに観察した。
大きな真鍮飾り。
深く刻まれた五〇七の数字。
冠の紋章。
縁や鎖の周囲には、古い曇りが残っている。
それに対して。
平らな表面だけが、明るすぎた。
「磨いたのか」
「私ではありません」
ブルーノが答える。
「閉鎖中の客室鍵です。通常の客室鍵のように、毎朝磨く対象ではありません」
グレアムの視線が。
数字の刻印へ落ちる。
五と七の細い溝に。
表面を拭いた布が届かなかったような、暗い汚れが残っていた。
「そのまま入れろ」
グレアムが命じる。
「表面も溝も触るな。五〇七号室の鍵、発見時は受付鍵掛け。支配人が開錠に使用。それ以外の使用者は未確認」
警官が復唱し。
鍵を証拠袋へ収めた。
重い真鍮飾りが布越しに机へ置かれたとき。
鈍い音がした。
グレアムは室内へ目を向ける。
検視担当が写真板と測定具を準備している。
「後頭部に傷がある」
グレアムが言った。
「だが、死因も死亡時刻も検視が終わるまで決めるな。灯りが点いていたことも、鍵が受付にあったことも、それぞれ別の事実として扱え」
ブルーノが、証拠袋へ視線を向けた。
「鍵まで押収されるのですか」
「殺人現場を開けた鍵だ。持ち帰って困るか」
「予備鍵の確認が必要になります」
「その確認は警官立ち会いでやれ」
グレアムは室内へ入らず。
乱れた寝台と。
倒れた男を交互に見た。
「面倒な臭いがするな」
ブルーノが眉を寄せる。
「血の臭いなら――」
「そっちじゃない」
グレアムは部下を呼んだ。
「霧燈通り十三番地へ行け。黒鴉館の二階だ」
若い警官が、露骨に嫌そうな顔をした。
「クラウスを呼ぶんですか」
「ほかに誰がいる」
「記録院へ照会した方が――」
「記録院の返事を待っているあいだに、ホテル中の帳簿が礼儀正しく整いすぎるかもしれん」
ブルーノの顔が硬くなる。
「当ホテルを疑っておられるのですか」
「俺は現場にいる全員を疑う。職業病だ」
グレアムは若い警官を睨んだ。
「走れ。レオン=クラウスを連れてこい。起きていなければ叩き起こせ」
「同行者は」
「ワトリア嬢がいれば、一緒でいい。あの娘は、人間の暮らした跡を見る。今回は役に立つ」
◇
それから一時間も経たないうちに。
レオン=クラウスとミラベル=ワトリアが、灰冠ホテルへ現れた。
レオンは黒い外套の襟へ朝霧を残し、片手に革張りの鑑定鞄を提げていた。髪は整えられていたが、顔には早朝に呼び出された人間らしい不機嫌さがある。
隣を歩くミラベルは、記録帳を胸元へ抱えていた。
こちらはすでに周囲を見回している。
玄関係の硬い表情。
宿泊客を遠ざける給仕。
使用を止められた蒸気昇降機。
朝食の時間であるにもかかわらず、大広間へ降りてこない五階の客たち。
「ずいぶん静かですね」
ミラベルが小声で言った。
「高級ホテルは、客に使用人の存在を感じさせないことをサービスと呼ぶ」
レオンは足を止めずに答えた。
「今朝は、警察の存在も感じさせたくないらしい」
「支配人が聞いたら怒りますよ」
「聞こえるように言った」
実際、数歩先を案内していたブルーノの肩が、わずかに動いた。
五階へ着くと、グレアムが廊下の壁へ背を預けて待っていた。
「遅い」
「呼び出されてから一時間も経っていない」
「死体は待ってくれん」
「もう死んでいるなら、急いでも状態は改善しない」
「口だけは朝からよく動くな」
ミラベルが二人のあいだへ顔を出した。
「おはようございます、警部」
「おはよう、ワトリア嬢。朝食は」
「食べてきました」
グレアムがレオンを見る。
「見習え」
「事件と関係があるのか」
「お前の機嫌に関係がある」
レオンは答えず、五〇七号室へ目を向けた。
扉の前には警官が立ち、廊下の両端も封鎖されている。
床には、ネリーが落とした白い手拭いが一枚。
誰も拾わないよう、その周囲へ簡単な印が置かれていた。
レオンは近づく前に、ブルーノへ尋ねた。
「この部屋は」
「三日前から閉鎖しております」
「理由は」
「壁内の伝声管修理です」
「鍵は」
「今朝、受付の鍵掛けにありました。警察が押収しています」
「一晩中、そこにあったことは」
ブルーノの口元が硬くなる。
「確認できません」
「それでいい」
「当ホテルの鍵管理を疑っておられるので?」
「まだ何も疑っていない。確認できる事実と、確認したつもりの事実を分けているだけだ」
ミラベルが記録帳へ書き留める。
グレアムが顎で室内を示した。
「中に男が一人。身元はまだ分からん。後頭部に傷があるが、正式な死因と死亡時刻は検視待ちだ」
「発見者は」
「あちらの見習い女中。午前七時二十分、扉の下の灯りに気づいた。扉へは触れていない」
「窓は」
「まだ調べている。先入観を持たせたくないから、俺からはそれ以上言わん」
「珍しく配慮がある」
「帰すぞ」
レオンは外套をミラベルへ預けた。
「先生、自分で持てますよね」
「現場へ外套の裾を入れたくない」
「そういう理由なら、先に言ってください」
口では不満を述べながらも、ミラベルは外套を腕へ掛けた。
レオンは鑑定鞄を床へ置き、敷居の手前で立ち止まった。
室内へ入らない。
まず。
全体を見る。
黄い卓上灯。
倒れた男。
その周囲に残る。
短時間では作れない生活の痕跡。
視線だけが、一つずつを静かに拾っていった。
ミラベルも、彼の肩越しに室内を見る。
「空室には見えませんね」
「何が見える」
レオンが問う。
「誰かが、ここで何日か過ごしたように見えます」
「根拠は」
ミラベルは室内を見たまま答える。
「一度使っただけではない寝台。日付の違う新聞。洗面台と浴槽。それに、書きかけの手紙や衣類があります」
「そこから何が言える」
「この部屋に、死体以外の生活痕跡が残っている」
「そうだ」
「その痕跡が、死んだ男性のものとは限らない」
「そうだ」
「同じ時期に作られたとも限らない」
「そうだ」
ミラベルは記録帳へ書いた一文の末尾へ、線を引いた。
「では可能性として、死体だけが運び込まれたことも考えられます」
「可能性の一つだ」
「でも、その場合は」
ミラベルは室内を見回す。
「死体とは別に、これだけの生活の痕跡が残っている理由を説明しなければならない」
そこで初めて。
レオンがわずかに振り向いた。
「朝食を取ってきた効果が出ているな」
「先生も食べれば、もう少し感じのよい褒め方ができますよ」
グレアムが鼻を鳴らした。
「掛け合いはあとにしろ」
レオンは再び五〇七号室を見た。
「この部屋へ誰も泊まっていない、というのは」
「ホテル側の説明だ」
グレアムが答える。
「公開宿帳にも、五〇七号室の客はいないそうだ」
「正確には」
ブルーノが言った。
「五〇七号室は、客室として提供されておりません。閉鎖中です」
「違いがあるのか」
「当ホテルの記録上は、明確に」
レオンの目が、わずかに細くなった。
「記録上は」
その言葉を。
確かめるように繰り返す。
室内には、一人の男が死んでいる。
その周囲には。
何日かにわたって誰かが暮らした痕跡がある。
しかしホテルは、この部屋を空室だったと主張している。
死体と宿帳。
部屋と記録。
どちらかが。
同じ時間について異なることを語っていた。
「公開宿帳を見せてもらおう」
レオンが言った。
ブルーノの表情が曇る。
「まず、警察から正式な請求を――」
「すでに警察はここにいる」
グレアムが低く言った。
ブルーノはしばらく黙った。
やがて、ホテル支配人としての礼儀を崩さないまま、硬く頭を下げる。
「ご案内します」
レオンはまだ動かなかった。
五〇七号室の番号札を見上げる。
「この部屋は空室だった」
ミラベルが。
彼の言葉を待った。
「ホテルは、そう記録している」
レオンは言った。
「なら最初に調べるべきなのは、どうやって死体が空室へ入ったかではない」
「何を調べるんです?」
「このホテルが、何をもって部屋を空室と呼んでいるのかだ」
黄い灯りの向こうで。
名を知られない男は。
何も答えなかった。




