第8節 ― 四人の嘘
嘘は、真実の反対側にあるとは限らない。
罪を隠す嘘。
恥を隠す嘘。
自分を守る嘘。
誰かを守るための嘘。
どれも、口から出た瞬間には同じ形をしている。
知らない。
見ていない。
そこには行っていない。
私は何もしていない。
*
黒鴉館二階の探偵事務所には、大きな白紙が壁へ貼られていた。
中央に、事件当夜の時刻線。
その上に、四人の名。
シェリル=ヴェイン。
リュシアン=アスト。
エドモンド=ブラスウェル。
アデラ=ローム。
それぞれの下には、最初の証言が記されている。
――事件当夜、兄とは会っていない。
――制度上の助言をしただけで、四年間の行方は知らない。
――アルヴィン本人とは一度も会っていない。
――昨夜は記録院におり、東倉庫へは行っていない。
ミラベル=ワトリアは、右手に黒鉛筆、左手に赤鉛筆を持っていた。
黒で確認された事実を書く。
赤で矛盾を囲む。
だが、四人の証言へ一律に《嘘》と書くことはできなかった。
「書かないのですか」
机で商会の会議記録を読んでいたレオン=クラウスが尋ねた。
「書けば、四人とも同じ嘘つきに見えます」
「四人とも嘘をついている」
「理由が違います」
「理由は、嘘を事実には変えません」
「でも、嘘の意味は変えます」
暖炉の前で、グレアム警部が帳簿を閉じた。
「嘘は嘘だ。だが、殺人を隠す嘘と、誰かを警察から守る嘘を同じ罪にはできん」
「警部は、もう見分けられたんですか」
「まだだ」
グレアムは壁の四人を見た。
「だから、口から聞く」
*
ヴェイン家旧邸は、北西外縁部の貨物支線に囲まれていた。
崩れた石壁。
蔦に覆われた正門。
遠くには、建設中の精錬工場の煙突が立っている。
屋敷の中には、売却された家具の跡と、装飾を外した穴だけが残っていた。
壁の一角に、若いアルヴィンとシェリルを描いた肖像画がある。
アルヴィンの右手には、家印環。
隣に立つシェリルは、今とは違う顔で笑っていた。
現在の彼女は、窓際へ立ち、革鞄を胸へ抱いている。
「お兄さんとは、昨夜会っていますね」
ミラベルが言った。
「前にも答えました」
「会っていない、と」
「はい」
レオンは机へ三つの証拠袋を置いた。
アルヴィンの靴底から採取された赤土。
東倉庫地区の地盤材。
黒鴉館で、シェリルの外套から落ちた土。
「三つの組成が一致しました」
グレアムが言った。
「北東採土場の赤粘土、廃煉瓦、精錬所の鉄滓。東倉庫地区で使われている混合材だ」
シェリルの指が、鞄の留め具へ食い込む。
「兄と会っただけなら、殺人ではありません」
ミラベルは彼女を正面から見据えなかった。
逃げ道を完全に塞がないよう、少し斜めへ座っている。
「でも、隠したままでは、お兄さんが最後に何をしたのかも分からなくなります」
「話せば、私も罪人になります」
「何の罪だ」
グレアムが尋ねる。
「兄が四年間生きていたと知っていた。死亡記録を訂正せず、相続処理を受け入れた」
「利益を得たのか」
「何も」
シェリルは、荒れた室内を見回した。
「土地は商会へ移り、家財は債務へ消えました。残ったのは、この屋敷だけです」
「なら、今のところ、お前を相続詐欺で拘束する理由はない」
「今のところ」
「証拠のない約束はせん」
「警察も、兄をアルヴィンと呼ばなかった」
「間違いなく呼ぶために調べている」
グレアムの声は低かった。
「歯列、時計、筆跡、家系記録。それに、お前の証言が加わる。昨夜殺された男の名を、捜査記録へ残せる」
「四年前の死亡記録よりも?」
「その死亡記録が正しいかを、今調べている」
窓の外を貨物列車が通過した。
振動で肖像画がわずかに揺れる。
シェリルは、絵の中の兄を見た。
「午後九時を少し過ぎた頃でした」
やがて彼女は言った。
「東倉庫の裏で、兄と会いました」
ミラベルは鉛筆を取らなかった。
「手紙には、倉庫の場所は書かれていませんでした」
「リュシアンさんから聞きました。兄が一人で記録院の担当者へ会いに行くと知って、家で待てなかったんです」
「お兄さんは、何と言いましたか」
「手続は終わった。自分の名で署名した、と」
「何への署名だと?」
「生存確認と、土地権利の再審申立てです」
シェリルの声が強くなる。
「土地を放棄するためではありません。自分が生きていると認めさせれば、四年前の移転を止められる。まだ間に合うと」
「それから」
レオンが尋ねた。
「明日の朝までに連絡がなければ、霧燈通り十三番地へ行けと言われました」
「私のところへ?」
「はい。レオン=クラウスという男に、預けるようにと」
シェリルの手が革鞄へ触れる。
「何を?」
「封筒です」
「それで、黒鴉館を知っていた」
「はい」
三日前の手紙には、黒鴉館もレオンの名も記されていなかった。
シェリルがそこを訪れたこと自体が、事件当夜にアルヴィンと会った証明だった。
「なぜ、最初に渡さなかった」
レオンが問う。
「あなたが元記録院職員だったからです」
「お兄さんは私を指定した」
「兄が信用していても、私には分かりませんでした。記録院を裏切った人なのか、記録院から送り込まれた人なのか」
「だから、古い手紙だけを渡した」
「はい」
シェリルは鞄から、生成り色の封筒を取り出した。
切手も宛名もない。
青い糸が一周巻かれている。
「今、渡せますか」
ミラベルが尋ねた。
シェリルは差し出しかけ、手を止めた。
「先に、リュシアンさんの話を聞いてください」
「彼が隠していることを知っている?」
「兄が、四年間どのように生きていたか」
シェリルは封筒を胸へ戻した。
「それを知らなければ、この紙を開くことで、誰が危険になるのかも分かりません」
グレアムはレオンを見た。
「今は押収しない」
警部が言った。
「だが、逃げるな」
「逃げません」
「兄の名を残したいならな」
*
アスト古書堂では、リュシアン=アストが四つの茶器を並べて待っていた。
「警察は、古書を買うには人数が多いですね」
「四年前の通行証用紙と薬代帳について聞きに来た」
グレアムは挨拶を省いた。
リュシアンの指が、茶器の縁で止まった。
「何のお話でしょう」
「地方鉱区用の旧式通行証。無効穿孔のない紙だ」
ミラベルが続ける。
「アルヴィンさんが消えた直後の日付で、深夜往診、縫合糸、止血粉。支払者はL・アスト。患者名は空白でした」
「店では怪我人を保護することもあります」
「アルヴィンが消えた翌日だ」
「偶然でしょう」
「医師の診療帳を確認する」
グレアムが言う。
「患者名は記されていないはずです」
「詳しいな」
リュシアンは口を閉じた。
「シェリルさんが、昨夜アルヴィンと会ったことを認めました」
ミラベルが言う。
「東倉庫の場所は、あなたから聞いたと」
リュシアンは目を閉じ、しばらく動かなかった。
「彼女には近づくなと言いました」
「それでも場所を教えた」
「兄が危険な場所へ行ったと知れば、探すでしょう。間違った倉庫へ入り込むよりはよいと思いました」
「四年前も同じか」
レオンが尋ねる。
「危険だと知って、アルヴィンを逃がした」
リュシアンはレオンを見た。
やがて、長い息を吐く。
「アルヴィンは、四年前の土地移転記録を調べていました。正式な異議申立てを出す直前、何者かに襲われた」
「誰に」
「顔は見ていません。商会の人間か、雇われた者かも分からない」
「どこへ匿った」
「言えません」
「殺人事件だ」
「その場所は、今もほかの者が使っています」
「失名者か」
グレアムが言った。
リュシアンの表情が硬くなる。
「記録上、死者にされた者。身分証を奪われた者。工場事故で死んだことにされた者。名を捨てなければ生きられなかった者たちです」
「拠点と協力者を話せ」
「お断りします」
「アルヴィンを殺していないと、どう証明する」
「すべて話せば、警察は名簿を作る」
「作らん」
グレアムの声が、紙に囲まれた店内へ響いた。
「今回の殺人に関係のない失名者は調べない。名も聞かん。報告書にも書かない」
「捜査責任者個人の約束ですか」
「責任者としての判断だ」
「上層部が命じれば」
「名簿がなければ出せん」
「書面にできますか」
「できん」
「なぜです」
「書けば、俺以外も読める」
リュシアンの目が揺れた。
記録しないという約束だけが、古書堂の紙の山の中で交わされた。
「警察が、違法通行証を見逃すと?」
「正当だとは言わん」
グレアムは答えた。
「だが俺は、殺された男を調べに来た。生き延びた者を数えに来たんじゃない」
リュシアンは、しばらく警部を見ていた。
「四年前、私がアルヴィンを逃がしました」
ようやく言った。
「治療を手配し、偽名の通行証を用意した。遠方の鉱山町へ送り、連絡を絶たせました」
「死亡記録を知ったのは」
「逃亡から二週間後です」
「訂正を申し立てなかった」
「申し立てれば、居場所を追われる」
「シェリルには?」
「生きていることだけ伝えました。場所は教えていません」
「最近、戻ると決めた理由は」
「新設精錬所と債券発行です。土地の永久取得が確定する前に、自分を生者へ戻す必要があった」
「生存再審の書類を作ったのは、あなたですね」
「書式を整えました」
「アデラ=ロームへ接触したのも」
「ええ」
「なぜ彼女を選んだ」
「四年前の死亡処理に関わっていた。誤りを訂正するなら、元の処理を知る者が必要だと思った」
「その人間が、記録を守る側だった」
ミラベルが言った。
リュシアンは視線を伏せる。
「私の判断が、アルヴィンを危険へ送った」
「殺した者の罪まで背負わないでください」
「しかし、私が会合を手配しなければ」
「アルヴィンさんは、ほかの方法で戻ろうとしたと思います」
「慰めですか」
「違います。あの人は、逃げ続けるために戻ったのではありません」
リュシアンは返事をしなかった。
「シェリルの封筒には、何がある」
レオンが尋ねる。
「《生存確認・土地権利再審申立書》の控え割符です」
「知っていたのに、なぜ黙っていた」
「シェリルが、あなたを信用していなかったからです」
「あなたもでしょう」
「記録院にいた人間を、失名者は簡単には信じません」
「私は追放されています」
「記録院に嫌われていることは、私たちの味方である証明にはならない」
レオンは反論しなかった。
「今は?」
ミラベルが尋ねる。
リュシアンの目が、グレアム、ミラベル、レオンの順に動く。
「封筒を開くべき時期だと思います」
*
バルグレム商会の会議記録は、エドモンド=ブラスウェルのアリバイを証明していた。
会議開始、午後九時十五分。
午後九時二十三分と三十一分の議事確認署名。
会議終了、午後九時三十六分。
最終頁にも、エドモンド本人の署名がある。
入退室記録。
出席者の証言。
給仕記録。
会議中に届いた気送符号。
それぞれが、同じ時間を異なる方法で残していた。
「会議にいたことは間違いありません」
レオンが言った。
長机の向かいに立つエドモンドの肩から、わずかに力が抜ける。
「最初から申し上げています」
「殺害推定時刻については、アリバイが成立する」
グレアムは認めた。
「では、疑いは晴れたと」
「殺人についてだけだ」
警部は、机へ物証の写真を並べた。
高架下で見つかった測量杖の真鍮片。
商会馬車と一致した車輪痕。
蒸気弁の工具傷。
荷台の赤土。
運搬布に付着したアルヴィンの毛髪。
エドモンドの顔から、安堵が消える。
「会議後、個人鍵印で商会馬車が使われている」
「部下が使用した可能性があります」
「使用者の記入はない」
「記入漏れでしょう」
「東倉庫の契約室でも、会議前にあんたの個人鍵が使われている」
「鍵を貸した可能性が」
「貸出記録はない」
「紛失していたのかもしれません」
「翌朝には手元にあった」
エドモンドは黙った。
「それから」
グレアムは、透明な証拠袋を机へ置いた。
中には、薄い白手袋が一組入っている。
「昨夜着用していた手袋を、任意提出してもらったな」
「捜査へ協力したまでです」
「右手袋の掌側から、ヴェイン家の青インクが検出された」
エドモンドの視線が袋へ落ちる。
「指先ではない」
レオンが言った。
「細長い紙片を机へ押さえたときに触れる位置です」
「同系統のインクを扱ったことはあります」
「血液反応はありませんでした」
ミラベルが鑑定書を読む。
「つまり、署名手続には立ち会った。でも、血のついた身体には触れていない?」
「そこまで断定はできません」
レオンが答えた。
「少なくとも、この手袋は署名票へ触れた可能性を示し、殺害へ直接使われた証拠にはならない」
グレアムはエドモンドを見た。
「もう一度聞く。アルヴィンと会ったな」
「記録上死亡しているアルヴィン=ヴェイン本人とは、会っていません」
「本人とは?」
ミラベルが繰り返す。
「正式な身元確認前です。死者の名を用いた申立人と接触した可能性は否定しません」
「顔を見て、声を聞いて、署名票を押さえた。それでも会っていないと言った」
「本人とは認定していません」
「言葉の定義で、人間まで消すんですね」
「契約では、定義が必要です」
グレアムは会議記録の一行を指した。
午後九時二十九分。
東倉庫から緊急符号を受信。
「これを見て、顔色を変えたと三人が証言している」
「業務上の問題でしょう」
「アルヴィンの死を知らされた?」
「会っていない人物の死を、なぜ私へ知らせるのです」
「それを聞いている」
エドモンドは答えない。
「会議が終わったあと、東倉庫へ戻ったな」
「記憶にありません」
「それで馬車を使った?」
「部下かもしれません」
「測量杖も部下へ貸した?」
「可能性はあります」
「真鍮片が高架下へ落ちたことも知らない?」
「知りません」
グレアムは物証を一枚ずつ見た。
「アリバイは本物だ。だから、あんたは殺害時刻にアルヴィンを殴っていない」
エドモンドが顔を上げる。
「そのあと何をした」
「何も」
「人を殺していないのに、なぜ死体を運んだ者にしか残せない証拠が、あんたへ集中している」
「状況証拠です」
「それを崩すのが、あんたの仕事だ」
エドモンドは沈黙した。
「市外へ出るな」
グレアムが言った。
「馬車、測量杖、東倉庫の契約室へ近づくことも禁じる」
「任意の要請ですね」
「拒否した記録は残る」
エドモンドの口が閉じた。
「戻ったとき、何を見た」
グレアムが最後に尋ねた。
「何のことか分かりません」
「いずれ分からせる」
*
中央記録院契約照合課。
アデラ=ロームの在庁記録には、入室午後六時十二分、退室午後十一時四十分とあった。
昨夜、彼女が記録院から一度も出ていないことを示す記録である。
「この入退室簿を書いたのは?」
レオンが尋ねた。
「夜間当番者です」
「昨夜は」
「私です」
「内扉の使用記録も」
「私が管理しました」
「気送管室の入室簿も」
「同じです」
ミラベルは手元の紙へ整理した。
アデラが記録院にいた証拠。
――アデラが記入した入退室簿。
途中で外出していない証拠。
――アデラが管理した夜間記録。
「これは、独立した証明ではありません」
ミラベルが言った。
「正式な入退室記録です」
「自分で書いた、自分のアリバイです」
「夜間当番者が一人の場合は、通常の運用です」
「東倉庫の照合机では、あなたの個人照合鍵が使用されています」
グレアムが言う。
「現地担当者へ貸した可能性があります」
「貸出簿は」
「記入漏れでしょう」
「受付の特例記録も漏れた。鍵の貸出記録も漏れた」
「夜間業務では不備が起こることがあります」
「記録院の記録は、人間の証言より正しいのでは?」
ミラベルが尋ねた。
「完全だとは言っていません」
「あなたに有利な記録は正式で、不利な空欄は記入漏れですか」
アデラの表情は動かない。
「事実として考えられる可能性を説明しています」
レオンが薄い帳簿を机へ置いた。
「地下保管庫の旧式番号機が一台、所在不明です」
アデラの顔から、ごくわずかに血の気が引いた。
「台帳には三台。実物は二台」
「保管は総務部の管轄です」
「最終点検の確認署名は、あなたです」
「管理責任者として、担当者の報告を確認しました」
「現物は見ていない?」
「担当者を信用しました」
「その担当者は退職後、死亡しています」
アデラは口を閉じた。
「記録は残ります」
レオンが言った。
「担当者が死んでも、機械が消えても。紙だけは」
「何を言いたいのです」
「あなたの在庁記録は、あなたが記録院にいた証明ではない」
彼は入退室簿を閉じた。
「あなたが、いたと書いた証明です」
「それでも、あなたの推測より記録が優先されます」
「ええ」
「なら」
「だから、記録以外の証拠を探しています」
アデラは何も答えなかった。
追い詰められているようには見えない。
自分の記入した記録が訂正されることだけを、静かに拒んでいるようだった。
*
夕方。
黒鴉館二階の白紙には、四人の証言が書き直されていた。
最初の言葉へ赤い線が引かれている。
消しはしない。
なぜ隠したのかを示すものもまた、事件の記録だった。
シェリル。
――事件当夜、兄とは会っていない。
その下に。
午後九時過ぎ、東倉庫裏でアルヴィンと面会。
兄から封筒を預かる。
リュシアン。
――四年間の行方は知らない。
その下。
重傷のアルヴィンを保護し、偽名通行証で逃亡を助けた。
失名者の連絡網については証言を拒否。
エドモンド。
――アルヴィン本人とは会っていない。
その下。
会議前、東倉庫契約室で個人鍵を使用。
白手袋からヴェイン家の青インク。
殺害推定時刻の会議アリバイは成立。
会議後の商会馬車使用と、死体運搬を示す物証。
アデラ。
――昨夜は記録院におり、東倉庫へは行っていない。
その下。
在庁証明は本人記入。
東倉庫で個人照合鍵を使用。
旧式番号機一台が所在不明。
「四人とも、違うものを守っていました」
ミラベルは言った。
グレアムとレオンのほかに、シェリルとリュシアンも事務所へ来ている。
「シェリルさんは、自分と兄を記録院から守った」
最初の名。
「リュシアンさんは、今も生きている失名者を警察から守った」
次の名。
「エドモンドは、商会と、自分が何を目撃したかを隠している」
「死体偽装への関与もだ」
グレアムが言う。
「まだ本人は認めていません」
「物証は認めている」
ミラベルは最後の名を見る。
「アデラさんは、記録院の制度と、四年前から続く処理を守っている」
「それだけかは、まだ分からん」
殺害者を決める証拠は、まだ揃っていない。
四人の嘘は崩れ始めた。
だが、誰がアルヴィンを殺したのかは、まだ紙の下に隠れている。
「封筒を」
レオンが言った。
シェリルは革鞄を開いた。
生成り色の封筒を取り出す。
青い糸の結び目には、小さな紙片が挟まれていた。
アルヴィンの筆跡。
――必要になるまで開くな。
その下。
――開いたなら、記録院ではなく、クラウスへ。
「兄は、あなたを信用していたのでしょうか」
シェリルが尋ねる。
「会ったことはありません」
「私が話しました」
リュシアンが言う。
「正式記録が正しいという理由だけでは納得しない男がいると」
「褒め言葉ではありませんね」
「褒めてはいません」
シェリルの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「開けます」
彼女は青い糸へ指をかけた。
一度目は、震えてほどけなかった。
ミラベルは手を差し出しかけ、止める。
兄が生者として残したものを、開くのはシェリル自身でなければならない。
二度目。
結び目がほどけた。
青い糸が、机の上へ落ちる。
封筒から取り出されたのは、細長い灰白色の紙だった。
右側が、不規則な線で切り離されている。
「控え割符」
ミラベルが言った。
シェリルは紙の表面を読んだ。
最初の一行で、唇が震える。
《生存確認・土地権利再審申立書》
申立人。
アルヴィン=ヴェイン。
申立内容。
四年前の死亡記録の再確認。
本人確認審査の開始。
ヴェイン家旧領の権利移転処理の一時停止。
署名場所。
バルグレム商会東倉庫契約室。
発行時刻。
午後八時五十五分。
署名手続完了。
午後九時四分。
「兄が言ったとおりです」
シェリルの声が掠れた。
「土地を放棄する契約ではない」
彼女は控え割符を両手で持った。
「自分が生きていることを申請した」
「番号を」
レオンが言った。
東倉―四八一七二。
七の数字が、わずかに二重打刻されている。
記録院にある《土地権利放棄・旧移転追認契約書》と、同じ番号だった。
ミラベルが、契約書の認証複写を机へ置く。
最終頁には、アルヴィン本人が青いインクで名を書いた提出署名片がある。
その番号も、
東倉―四八一七二。
「同じです」
グレアムが言った。
「一字も違わん」
レオンは、記録院で警察立会いのもと作成した切断面の転写紙を取り出した。
提出署名片の左端。
雷の裂け目のような凹凸が、細い線で写されている。
それを、シェリルの控え割符の右端へ重ねる。
深い谷。
二つの突起。
中央の細い裂け。
上から下まで、一つずつ噛み合っていく。
隙間はなかった。
「一致しています」
ミラベルが息を呑んだ。
左側の紙には、
《生存確認・土地権利再審申立書》。
右側の提出署名片には、
アルヴィン=ヴェインの真正な署名。
だが、その右側は記録院で、
《土地権利放棄・旧移転追認契約書》
へ取りつけられている。
番号は同じ。
透かしも同じ。
切断面も同じ。
間違いなく、一枚の割符式署名票だった。
それにもかかわらず。
左側が示す契約と、右側が取りつけられた契約が違う。
「兄は、生存再審へ署名したんです」
シェリルが言った。
「ええ」
レオンが答える。
「では、記録院の署名は」
「アルヴィン本人のものです」
「兄が、二つの契約へ署名した?」
「いいえ」
レオンは二枚の紙を指した。
「署名は一度です」
「でも、同じ番号が」
「同じ番号を持つ契約本文が、二つ作られた」
ミラベルが気づく。
「契約名が印刷されているのは、署名者へ渡す控え割符と、契約本文です」
「提出署名片には」
レオンが続ける。
「番号、透かし、署名、立会印しかありません」
「だから、右側だけを別の本文へ移せる」
「同じ番号の本文さえ用意できれば」
「旧式番号機」
グレアムが言った。
「機械台帳へ自動転記されない古い番号機で、同じ番号を二度打った」
ミラベルは控え割符と契約複写を見比べた。
署名は本物。
紙も本物。
番号も本物。
透かしも本物。
切断面も本物。
偽物の署名など、どこにもない。
「偽造されたのは、名前ではない」
彼女は呟いた。
「アルヴィンさんは、本当に自分の名を書いた」
「ええ」
「でも、その署名が置かれた契約が違う」
グレアムは、すぐには結論を口にしなかった。
「原本同士の照合。番号機の特定。署名票を発行した者。立会記録。まだ証拠として固める必要がある」
「これでも足りないんですか」
シェリルが尋ねる。
「犯人が否定できない形にする」
「警察は、いつも証明を求めるんですね」
「求めなければ、今度は別の誰かの名を間違って残す」
シェリルは、控え割符を胸へ抱いた。
兄が死者ではなく、生者として受け取った紙。
四年間失われていた名が、自分自身へ戻るはずだった手続。
「問いが変わりました」
ミラベルが言った。
「これまでは、アルヴィンさんが何へ署名したのか分からなかった」
彼女は控え割符へ指を置く。
「生存確認と、土地権利再審のために署名した」
次に、記録院の契約複写。
「その本物の署名片が、土地放棄契約へ取りつけられている」
「ええ」
「では、誰かが署名の居場所を変えた」
「それを行った手を、次に証明します」
レオンは壁の四人の名を見た。
シェリルの嘘は崩れた。
リュシアンの嘘も。
エドモンドには、殺害時刻のアリバイがある。
アデラのアリバイは、自分が書いた記録の上に立っている。
だが、まだ犯人の名は書かない。
紙の左右が合っただけでは、その紙を切り離し、別の契約へ置いた手までは見えない。
ミラベルは黒鉛筆を取り、白紙の最下部へ新しい一文を書いた。
一文字ずつ。
この事件の中心に、ようやく姿を現した事実を。
一つの署名が、二つの異なる契約に属している。




