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第8節 ― 四人の嘘

 嘘は、真実の反対側にあるとは限らない。


 罪を隠す嘘。


 恥を隠す嘘。


 自分を守る嘘。


 誰かを守るための嘘。


 どれも、口から出た瞬間には同じ形をしている。


 知らない。


 見ていない。


 そこには行っていない。


 私は何もしていない。


     *


 黒鴉館二階の探偵事務所には、大きな白紙が壁へ貼られていた。


 中央に、事件当夜の時刻線。


 その上に、四人の名。


 シェリル=ヴェイン。


 リュシアン=アスト。


 エドモンド=ブラスウェル。


 アデラ=ローム。


 それぞれの下には、最初の証言が記されている。


 ――事件当夜、兄とは会っていない。


 ――制度上の助言をしただけで、四年間の行方は知らない。


 ――アルヴィン本人とは一度も会っていない。


 ――昨夜は記録院におり、東倉庫へは行っていない。


 ミラベル=ワトリアは、右手に黒鉛筆、左手に赤鉛筆を持っていた。


 黒で確認された事実を書く。


 赤で矛盾を囲む。


 だが、四人の証言へ一律に《嘘》と書くことはできなかった。


「書かないのですか」


 机で商会の会議記録を読んでいたレオン=クラウスが尋ねた。


「書けば、四人とも同じ嘘つきに見えます」


「四人とも嘘をついている」


「理由が違います」


「理由は、嘘を事実には変えません」


「でも、嘘の意味は変えます」


 暖炉の前で、グレアム警部が帳簿を閉じた。


「嘘は嘘だ。だが、殺人を隠す嘘と、誰かを警察から守る嘘を同じ罪にはできん」


「警部は、もう見分けられたんですか」


「まだだ」


 グレアムは壁の四人を見た。


「だから、口から聞く」


     *


 ヴェイン家旧邸は、北西外縁部の貨物支線に囲まれていた。


 崩れた石壁。


 蔦に覆われた正門。


 遠くには、建設中の精錬工場の煙突が立っている。


 屋敷の中には、売却された家具の跡と、装飾を外した穴だけが残っていた。


 壁の一角に、若いアルヴィンとシェリルを描いた肖像画がある。


 アルヴィンの右手には、家印環。


 隣に立つシェリルは、今とは違う顔で笑っていた。


 現在の彼女は、窓際へ立ち、革鞄を胸へ抱いている。


「お兄さんとは、昨夜会っていますね」


 ミラベルが言った。


「前にも答えました」


「会っていない、と」


「はい」


 レオンは机へ三つの証拠袋を置いた。


 アルヴィンの靴底から採取された赤土。


 東倉庫地区の地盤材。


 黒鴉館で、シェリルの外套から落ちた土。


「三つの組成が一致しました」


 グレアムが言った。


「北東採土場の赤粘土、廃煉瓦、精錬所の鉄滓。東倉庫地区で使われている混合材だ」


 シェリルの指が、鞄の留め具へ食い込む。


「兄と会っただけなら、殺人ではありません」


 ミラベルは彼女を正面から見据えなかった。


 逃げ道を完全に塞がないよう、少し斜めへ座っている。


「でも、隠したままでは、お兄さんが最後に何をしたのかも分からなくなります」


「話せば、私も罪人になります」


「何の罪だ」


 グレアムが尋ねる。


「兄が四年間生きていたと知っていた。死亡記録を訂正せず、相続処理を受け入れた」


「利益を得たのか」


「何も」


 シェリルは、荒れた室内を見回した。


「土地は商会へ移り、家財は債務へ消えました。残ったのは、この屋敷だけです」


「なら、今のところ、お前を相続詐欺で拘束する理由はない」


「今のところ」


「証拠のない約束はせん」


「警察も、兄をアルヴィンと呼ばなかった」


「間違いなく呼ぶために調べている」


 グレアムの声は低かった。


「歯列、時計、筆跡、家系記録。それに、お前の証言が加わる。昨夜殺された男の名を、捜査記録へ残せる」


「四年前の死亡記録よりも?」


「その死亡記録が正しいかを、今調べている」


 窓の外を貨物列車が通過した。


 振動で肖像画がわずかに揺れる。


 シェリルは、絵の中の兄を見た。


「午後九時を少し過ぎた頃でした」


 やがて彼女は言った。


「東倉庫の裏で、兄と会いました」


 ミラベルは鉛筆を取らなかった。


「手紙には、倉庫の場所は書かれていませんでした」


「リュシアンさんから聞きました。兄が一人で記録院の担当者へ会いに行くと知って、家で待てなかったんです」


「お兄さんは、何と言いましたか」


「手続は終わった。自分の名で署名した、と」


「何への署名だと?」


「生存確認と、土地権利の再審申立てです」


 シェリルの声が強くなる。


「土地を放棄するためではありません。自分が生きていると認めさせれば、四年前の移転を止められる。まだ間に合うと」


「それから」


 レオンが尋ねた。


「明日の朝までに連絡がなければ、霧燈通り十三番地へ行けと言われました」


「私のところへ?」


「はい。レオン=クラウスという男に、預けるようにと」


 シェリルの手が革鞄へ触れる。


「何を?」


「封筒です」


「それで、黒鴉館を知っていた」


「はい」


 三日前の手紙には、黒鴉館もレオンの名も記されていなかった。


 シェリルがそこを訪れたこと自体が、事件当夜にアルヴィンと会った証明だった。


「なぜ、最初に渡さなかった」


 レオンが問う。


「あなたが元記録院職員だったからです」


「お兄さんは私を指定した」


「兄が信用していても、私には分かりませんでした。記録院を裏切った人なのか、記録院から送り込まれた人なのか」


「だから、古い手紙だけを渡した」


「はい」


 シェリルは鞄から、生成り色の封筒を取り出した。


 切手も宛名もない。


 青い糸が一周巻かれている。


「今、渡せますか」


 ミラベルが尋ねた。


 シェリルは差し出しかけ、手を止めた。


「先に、リュシアンさんの話を聞いてください」


「彼が隠していることを知っている?」


「兄が、四年間どのように生きていたか」


 シェリルは封筒を胸へ戻した。


「それを知らなければ、この紙を開くことで、誰が危険になるのかも分かりません」


 グレアムはレオンを見た。


「今は押収しない」


 警部が言った。


「だが、逃げるな」


「逃げません」


「兄の名を残したいならな」


     *


 アスト古書堂では、リュシアン=アストが四つの茶器を並べて待っていた。


「警察は、古書を買うには人数が多いですね」


「四年前の通行証用紙と薬代帳について聞きに来た」


 グレアムは挨拶を省いた。


 リュシアンの指が、茶器の縁で止まった。


「何のお話でしょう」


「地方鉱区用の旧式通行証。無効穿孔のない紙だ」


 ミラベルが続ける。


「アルヴィンさんが消えた直後の日付で、深夜往診、縫合糸、止血粉。支払者はL・アスト。患者名は空白でした」


「店では怪我人を保護することもあります」


「アルヴィンが消えた翌日だ」


「偶然でしょう」


「医師の診療帳を確認する」


 グレアムが言う。


「患者名は記されていないはずです」


「詳しいな」


 リュシアンは口を閉じた。


「シェリルさんが、昨夜アルヴィンと会ったことを認めました」


 ミラベルが言う。


「東倉庫の場所は、あなたから聞いたと」


 リュシアンは目を閉じ、しばらく動かなかった。


「彼女には近づくなと言いました」


「それでも場所を教えた」


「兄が危険な場所へ行ったと知れば、探すでしょう。間違った倉庫へ入り込むよりはよいと思いました」


「四年前も同じか」


 レオンが尋ねる。


「危険だと知って、アルヴィンを逃がした」


 リュシアンはレオンを見た。


 やがて、長い息を吐く。


「アルヴィンは、四年前の土地移転記録を調べていました。正式な異議申立てを出す直前、何者かに襲われた」


「誰に」


「顔は見ていません。商会の人間か、雇われた者かも分からない」


「どこへ匿った」


「言えません」


「殺人事件だ」


「その場所は、今もほかの者が使っています」


「失名者か」


 グレアムが言った。


 リュシアンの表情が硬くなる。


「記録上、死者にされた者。身分証を奪われた者。工場事故で死んだことにされた者。名を捨てなければ生きられなかった者たちです」


「拠点と協力者を話せ」


「お断りします」


「アルヴィンを殺していないと、どう証明する」


「すべて話せば、警察は名簿を作る」


「作らん」


 グレアムの声が、紙に囲まれた店内へ響いた。


「今回の殺人に関係のない失名者は調べない。名も聞かん。報告書にも書かない」


「捜査責任者個人の約束ですか」


「責任者としての判断だ」


「上層部が命じれば」


「名簿がなければ出せん」


「書面にできますか」


「できん」


「なぜです」


「書けば、俺以外も読める」


 リュシアンの目が揺れた。


 記録しないという約束だけが、古書堂の紙の山の中で交わされた。


「警察が、違法通行証を見逃すと?」


「正当だとは言わん」


 グレアムは答えた。


「だが俺は、殺された男を調べに来た。生き延びた者を数えに来たんじゃない」


 リュシアンは、しばらく警部を見ていた。


「四年前、私がアルヴィンを逃がしました」


 ようやく言った。


「治療を手配し、偽名の通行証を用意した。遠方の鉱山町へ送り、連絡を絶たせました」


「死亡記録を知ったのは」


「逃亡から二週間後です」


「訂正を申し立てなかった」


「申し立てれば、居場所を追われる」


「シェリルには?」


「生きていることだけ伝えました。場所は教えていません」


「最近、戻ると決めた理由は」


「新設精錬所と債券発行です。土地の永久取得が確定する前に、自分を生者へ戻す必要があった」


「生存再審の書類を作ったのは、あなたですね」


「書式を整えました」


「アデラ=ロームへ接触したのも」


「ええ」


「なぜ彼女を選んだ」


「四年前の死亡処理に関わっていた。誤りを訂正するなら、元の処理を知る者が必要だと思った」


「その人間が、記録を守る側だった」


 ミラベルが言った。


 リュシアンは視線を伏せる。


「私の判断が、アルヴィンを危険へ送った」


「殺した者の罪まで背負わないでください」


「しかし、私が会合を手配しなければ」


「アルヴィンさんは、ほかの方法で戻ろうとしたと思います」


「慰めですか」


「違います。あの人は、逃げ続けるために戻ったのではありません」


 リュシアンは返事をしなかった。


「シェリルの封筒には、何がある」


 レオンが尋ねる。


「《生存確認・土地権利再審申立書》の控え割符です」


「知っていたのに、なぜ黙っていた」


「シェリルが、あなたを信用していなかったからです」


「あなたもでしょう」


「記録院にいた人間を、失名者は簡単には信じません」


「私は追放されています」


「記録院に嫌われていることは、私たちの味方である証明にはならない」


 レオンは反論しなかった。


「今は?」


 ミラベルが尋ねる。


 リュシアンの目が、グレアム、ミラベル、レオンの順に動く。


「封筒を開くべき時期だと思います」


     *


 バルグレム商会の会議記録は、エドモンド=ブラスウェルのアリバイを証明していた。


 会議開始、午後九時十五分。


 午後九時二十三分と三十一分の議事確認署名。


 会議終了、午後九時三十六分。


 最終頁にも、エドモンド本人の署名がある。


 入退室記録。


 出席者の証言。


 給仕記録。


 会議中に届いた気送符号。


 それぞれが、同じ時間を異なる方法で残していた。


「会議にいたことは間違いありません」


 レオンが言った。


 長机の向かいに立つエドモンドの肩から、わずかに力が抜ける。


「最初から申し上げています」


「殺害推定時刻については、アリバイが成立する」


 グレアムは認めた。


「では、疑いは晴れたと」


「殺人についてだけだ」


 警部は、机へ物証の写真を並べた。


 高架下で見つかった測量杖の真鍮片。


 商会馬車と一致した車輪痕。


 蒸気弁の工具傷。


 荷台の赤土。


 運搬布に付着したアルヴィンの毛髪。


 エドモンドの顔から、安堵が消える。


「会議後、個人鍵印で商会馬車が使われている」


「部下が使用した可能性があります」


「使用者の記入はない」


「記入漏れでしょう」


「東倉庫の契約室でも、会議前にあんたの個人鍵が使われている」


「鍵を貸した可能性が」


「貸出記録はない」


「紛失していたのかもしれません」


「翌朝には手元にあった」


 エドモンドは黙った。


「それから」


 グレアムは、透明な証拠袋を机へ置いた。


 中には、薄い白手袋が一組入っている。


「昨夜着用していた手袋を、任意提出してもらったな」


「捜査へ協力したまでです」


「右手袋の掌側から、ヴェイン家の青インクが検出された」


 エドモンドの視線が袋へ落ちる。


「指先ではない」


 レオンが言った。


「細長い紙片を机へ押さえたときに触れる位置です」


「同系統のインクを扱ったことはあります」


「血液反応はありませんでした」


 ミラベルが鑑定書を読む。


「つまり、署名手続には立ち会った。でも、血のついた身体には触れていない?」


「そこまで断定はできません」


 レオンが答えた。


「少なくとも、この手袋は署名票へ触れた可能性を示し、殺害へ直接使われた証拠にはならない」


 グレアムはエドモンドを見た。


「もう一度聞く。アルヴィンと会ったな」


「記録上死亡しているアルヴィン=ヴェイン本人とは、会っていません」


「本人とは?」


 ミラベルが繰り返す。


「正式な身元確認前です。死者の名を用いた申立人と接触した可能性は否定しません」


「顔を見て、声を聞いて、署名票を押さえた。それでも会っていないと言った」


「本人とは認定していません」


「言葉の定義で、人間まで消すんですね」


「契約では、定義が必要です」


 グレアムは会議記録の一行を指した。


 午後九時二十九分。


 東倉庫から緊急符号を受信。


「これを見て、顔色を変えたと三人が証言している」


「業務上の問題でしょう」


「アルヴィンの死を知らされた?」


「会っていない人物の死を、なぜ私へ知らせるのです」


「それを聞いている」


 エドモンドは答えない。


「会議が終わったあと、東倉庫へ戻ったな」


「記憶にありません」


「それで馬車を使った?」


「部下かもしれません」


「測量杖も部下へ貸した?」


「可能性はあります」


「真鍮片が高架下へ落ちたことも知らない?」


「知りません」


 グレアムは物証を一枚ずつ見た。


「アリバイは本物だ。だから、あんたは殺害時刻にアルヴィンを殴っていない」


 エドモンドが顔を上げる。


「そのあと何をした」


「何も」


「人を殺していないのに、なぜ死体を運んだ者にしか残せない証拠が、あんたへ集中している」


「状況証拠です」


「それを崩すのが、あんたの仕事だ」


 エドモンドは沈黙した。


「市外へ出るな」


 グレアムが言った。


「馬車、測量杖、東倉庫の契約室へ近づくことも禁じる」


「任意の要請ですね」


「拒否した記録は残る」


 エドモンドの口が閉じた。


「戻ったとき、何を見た」


 グレアムが最後に尋ねた。


「何のことか分かりません」


「いずれ分からせる」


     *


 中央記録院契約照合課。


 アデラ=ロームの在庁記録には、入室午後六時十二分、退室午後十一時四十分とあった。


 昨夜、彼女が記録院から一度も出ていないことを示す記録である。


「この入退室簿を書いたのは?」


 レオンが尋ねた。


「夜間当番者です」


「昨夜は」


「私です」


「内扉の使用記録も」


「私が管理しました」


「気送管室の入室簿も」


「同じです」


 ミラベルは手元の紙へ整理した。


 アデラが記録院にいた証拠。


 ――アデラが記入した入退室簿。


 途中で外出していない証拠。


 ――アデラが管理した夜間記録。


「これは、独立した証明ではありません」


 ミラベルが言った。


「正式な入退室記録です」


「自分で書いた、自分のアリバイです」


「夜間当番者が一人の場合は、通常の運用です」


「東倉庫の照合机では、あなたの個人照合鍵が使用されています」


 グレアムが言う。


「現地担当者へ貸した可能性があります」


「貸出簿は」


「記入漏れでしょう」


「受付の特例記録も漏れた。鍵の貸出記録も漏れた」


「夜間業務では不備が起こることがあります」


「記録院の記録は、人間の証言より正しいのでは?」


 ミラベルが尋ねた。


「完全だとは言っていません」


「あなたに有利な記録は正式で、不利な空欄は記入漏れですか」


 アデラの表情は動かない。


「事実として考えられる可能性を説明しています」


 レオンが薄い帳簿を机へ置いた。


「地下保管庫の旧式番号機が一台、所在不明です」


 アデラの顔から、ごくわずかに血の気が引いた。


「台帳には三台。実物は二台」


「保管は総務部の管轄です」


「最終点検の確認署名は、あなたです」


「管理責任者として、担当者の報告を確認しました」


「現物は見ていない?」


「担当者を信用しました」


「その担当者は退職後、死亡しています」


 アデラは口を閉じた。


「記録は残ります」


 レオンが言った。


「担当者が死んでも、機械が消えても。紙だけは」


「何を言いたいのです」


「あなたの在庁記録は、あなたが記録院にいた証明ではない」


 彼は入退室簿を閉じた。


「あなたが、いたと書いた証明です」


「それでも、あなたの推測より記録が優先されます」


「ええ」


「なら」


「だから、記録以外の証拠を探しています」


 アデラは何も答えなかった。


 追い詰められているようには見えない。


 自分の記入した記録が訂正されることだけを、静かに拒んでいるようだった。


     *


 夕方。


 黒鴉館二階の白紙には、四人の証言が書き直されていた。


 最初の言葉へ赤い線が引かれている。


 消しはしない。


 なぜ隠したのかを示すものもまた、事件の記録だった。


 シェリル。


 ――事件当夜、兄とは会っていない。


 その下に。


 午後九時過ぎ、東倉庫裏でアルヴィンと面会。


 兄から封筒を預かる。


 リュシアン。


 ――四年間の行方は知らない。


 その下。


 重傷のアルヴィンを保護し、偽名通行証で逃亡を助けた。


 失名者の連絡網については証言を拒否。


 エドモンド。


 ――アルヴィン本人とは会っていない。


 その下。


 会議前、東倉庫契約室で個人鍵を使用。


 白手袋からヴェイン家の青インク。


 殺害推定時刻の会議アリバイは成立。


 会議後の商会馬車使用と、死体運搬を示す物証。


 アデラ。


 ――昨夜は記録院におり、東倉庫へは行っていない。


 その下。


 在庁証明は本人記入。


 東倉庫で個人照合鍵を使用。


 旧式番号機一台が所在不明。


「四人とも、違うものを守っていました」


 ミラベルは言った。


 グレアムとレオンのほかに、シェリルとリュシアンも事務所へ来ている。


「シェリルさんは、自分と兄を記録院から守った」


 最初の名。


「リュシアンさんは、今も生きている失名者を警察から守った」


 次の名。


「エドモンドは、商会と、自分が何を目撃したかを隠している」


「死体偽装への関与もだ」


 グレアムが言う。


「まだ本人は認めていません」


「物証は認めている」


 ミラベルは最後の名を見る。


「アデラさんは、記録院の制度と、四年前から続く処理を守っている」


「それだけかは、まだ分からん」


 殺害者を決める証拠は、まだ揃っていない。


 四人の嘘は崩れ始めた。


 だが、誰がアルヴィンを殺したのかは、まだ紙の下に隠れている。


「封筒を」


 レオンが言った。


 シェリルは革鞄を開いた。


 生成り色の封筒を取り出す。


 青い糸の結び目には、小さな紙片が挟まれていた。


 アルヴィンの筆跡。


 ――必要になるまで開くな。


 その下。


 ――開いたなら、記録院ではなく、クラウスへ。


「兄は、あなたを信用していたのでしょうか」


 シェリルが尋ねる。


「会ったことはありません」


「私が話しました」


 リュシアンが言う。


「正式記録が正しいという理由だけでは納得しない男がいると」


「褒め言葉ではありませんね」


「褒めてはいません」


 シェリルの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


「開けます」


 彼女は青い糸へ指をかけた。


 一度目は、震えてほどけなかった。


 ミラベルは手を差し出しかけ、止める。


 兄が生者として残したものを、開くのはシェリル自身でなければならない。


 二度目。


 結び目がほどけた。


 青い糸が、机の上へ落ちる。


 封筒から取り出されたのは、細長い灰白色の紙だった。


 右側が、不規則な線で切り離されている。


「控え割符」


 ミラベルが言った。


 シェリルは紙の表面を読んだ。


 最初の一行で、唇が震える。


 《生存確認・土地権利再審申立書》


 申立人。


 アルヴィン=ヴェイン。


 申立内容。


 四年前の死亡記録の再確認。


 本人確認審査の開始。


 ヴェイン家旧領の権利移転処理の一時停止。


 署名場所。


 バルグレム商会東倉庫契約室。


 発行時刻。


 午後八時五十五分。


 署名手続完了。


 午後九時四分。


「兄が言ったとおりです」


 シェリルの声が掠れた。


「土地を放棄する契約ではない」


 彼女は控え割符を両手で持った。


「自分が生きていることを申請した」


「番号を」


 レオンが言った。


 東倉―四八一七二。


 七の数字が、わずかに二重打刻されている。


 記録院にある《土地権利放棄・旧移転追認契約書》と、同じ番号だった。


 ミラベルが、契約書の認証複写を机へ置く。


 最終頁には、アルヴィン本人が青いインクで名を書いた提出署名片がある。


 その番号も、


 東倉―四八一七二。


「同じです」


 グレアムが言った。


「一字も違わん」


 レオンは、記録院で警察立会いのもと作成した切断面の転写紙を取り出した。


 提出署名片の左端。


 雷の裂け目のような凹凸が、細い線で写されている。


 それを、シェリルの控え割符の右端へ重ねる。


 深い谷。


 二つの突起。


 中央の細い裂け。


 上から下まで、一つずつ噛み合っていく。


 隙間はなかった。


「一致しています」


 ミラベルが息を呑んだ。


 左側の紙には、


 《生存確認・土地権利再審申立書》。


 右側の提出署名片には、


 アルヴィン=ヴェインの真正な署名。


 だが、その右側は記録院で、


 《土地権利放棄・旧移転追認契約書》


 へ取りつけられている。


 番号は同じ。


 透かしも同じ。


 切断面も同じ。


 間違いなく、一枚の割符式署名票だった。


 それにもかかわらず。


 左側が示す契約と、右側が取りつけられた契約が違う。


「兄は、生存再審へ署名したんです」


 シェリルが言った。


「ええ」


 レオンが答える。


「では、記録院の署名は」


「アルヴィン本人のものです」


「兄が、二つの契約へ署名した?」


「いいえ」


 レオンは二枚の紙を指した。


「署名は一度です」


「でも、同じ番号が」


「同じ番号を持つ契約本文が、二つ作られた」


 ミラベルが気づく。


「契約名が印刷されているのは、署名者へ渡す控え割符と、契約本文です」


「提出署名片には」


 レオンが続ける。


「番号、透かし、署名、立会印しかありません」


「だから、右側だけを別の本文へ移せる」


「同じ番号の本文さえ用意できれば」


「旧式番号機」


 グレアムが言った。


「機械台帳へ自動転記されない古い番号機で、同じ番号を二度打った」


 ミラベルは控え割符と契約複写を見比べた。


 署名は本物。


 紙も本物。


 番号も本物。


 透かしも本物。


 切断面も本物。


 偽物の署名など、どこにもない。


「偽造されたのは、名前ではない」


 彼女は呟いた。


「アルヴィンさんは、本当に自分の名を書いた」


「ええ」


「でも、その署名が置かれた契約が違う」


 グレアムは、すぐには結論を口にしなかった。


「原本同士の照合。番号機の特定。署名票を発行した者。立会記録。まだ証拠として固める必要がある」


「これでも足りないんですか」


 シェリルが尋ねる。


「犯人が否定できない形にする」


「警察は、いつも証明を求めるんですね」


「求めなければ、今度は別の誰かの名を間違って残す」


 シェリルは、控え割符を胸へ抱いた。


 兄が死者ではなく、生者として受け取った紙。


 四年間失われていた名が、自分自身へ戻るはずだった手続。


「問いが変わりました」


 ミラベルが言った。


「これまでは、アルヴィンさんが何へ署名したのか分からなかった」


 彼女は控え割符へ指を置く。


「生存確認と、土地権利再審のために署名した」


 次に、記録院の契約複写。


「その本物の署名片が、土地放棄契約へ取りつけられている」


「ええ」


「では、誰かが署名の居場所を変えた」


「それを行った手を、次に証明します」


 レオンは壁の四人の名を見た。


 シェリルの嘘は崩れた。


 リュシアンの嘘も。


 エドモンドには、殺害時刻のアリバイがある。


 アデラのアリバイは、自分が書いた記録の上に立っている。


 だが、まだ犯人の名は書かない。


 紙の左右が合っただけでは、その紙を切り離し、別の契約へ置いた手までは見えない。


 ミラベルは黒鉛筆を取り、白紙の最下部へ新しい一文を書いた。


 一文字ずつ。


 この事件の中心に、ようやく姿を現した事実を。


 一つの署名が、二つの異なる契約に属している。

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