第7節 ― 高架下の再検証
雨が止んだあとのヴェルム=クロウは、洗われたというより、濡れた汚れを街全体へ塗り広げたように見えた。
煉瓦壁には黒い雨筋が残り、石畳の窪みには煤を溶かした水が溜まっている。工場の煙突は昨夜と変わらず煤煙を吐き、高架線を走る列車の車輪が、湿った鉄骨を低く震わせていた。
中央高架線下の現場は、まだ警察の縄で封鎖されている。
死体はすでにない。
アルヴィン=ヴェインが横たわっていた場所には、白い証拠標識と、身体の輪郭を示す測量紐だけが残されていた。
右肩。
頭。
腰。
脚。
人間が消えたあとへ、形だけを残そうとする警察の仕事は、どこか記録院に似ていた。
違うのは、グレアム警部が、紐の内側に一人の人間がいたことを忘れない点だった。
「随分流されたな」
グレアムは橋脚の下へしゃがみ、泥の表面を睨んでいた。
高架から吊られた防水布が、風を受けて鈍い音を立てている。
「昨夜のうちに覆っていたんですね」
ミラベル=ワトリアが言った。
「だが雨は横からも入る。高架の振動で上から煤水も落ちる。街全体へ蓋をするわけにはいかん」
「記録院なら、雨を規則違反にしそうです」
「書類を出せと言うだろうな」
レオン=クラウスは、二人の会話から離れた場所にいた。
死体の足元があった場所から数歩西側。
昨夜は雨水に覆われていた石畳へ、携帯式の拡大鏡を向けている。
「警部。現場へ入った車両の車輪幅を確認できますか」
「警察馬車か」
「夜警も含めて、死体発見後に通ったものをすべて」
「記録してある」
グレアムが手を出すと、若い警官が現場出入記録と測量図を渡した。
「市警馬車は外側幅四尺一寸。検死運搬車は四尺三寸。夜警の小型車は三尺九寸」
「ここは」
レオンが石畳に残った二本の溝を示した。
東側の倉庫街から高架下へ入り、死体の位置の手前で緩く曲がっている。
雨で輪郭の大半は崩れていたが、橋脚の張り出しに守られた部分だけ、溝の底が残っていた。
グレアムが折尺を当てる。
「三尺四寸」
「警察車両ではありません」
ミラベルが手帳へ書く。
「荷車でしょうか」
「手押し車なら、車輪がもっと細くなる」
グレアムは溝の深さを測った。
「左右の沈み方も同じだ。小型の二輪馬車か器材車だな」
レオンは溝の途中を示す。
高架下へ入る痕は、死体があった位置の手前で深く沈んでいる。
その先に残る痕は、わずかに浅い。
「入ってきたときのほうが重かった」
ミラベルが言った。
「ここで荷を下ろした可能性があります」
「人間一人分ほどの?」
「それを確かめるには、同じ荷重で再現する必要があります」
「死体は使えませんよ」
「分かっています」
「念のためです」
グレアムが部下へ命じる。
「車輪溝の石膏型を取れ。前後四か所。現場へ入った民間車両がないか、発見者と夜警にも再確認だ」
警官が動き始める。
レオンは、途切れた車輪痕を東へ追った。
*
旅客路線の真下を外れると、通りは倉庫と工場ばかりになった。
鉄扉。
荷役台。
石炭置き場。
資材柵。
昼間にもかかわらず、消されないガス灯が蒸気と煤煙の中で黄色く滲んでいる。
レオンは石畳の継ぎ目へ目を落としながら進んだ。
「何を追っているんですか」
ミラベルが尋ねる。
「赤い土です」
石の割れ目に、赤褐色の粒が挟まっていた。
角ばった廃煉瓦の欠片と、光を反射する鉄分が混じっている。
「アルヴィンさんの靴にあったもの」
「シェリルさんの外套にも似た土がありました」
グレアムが粒を覗き込む。
「東倉庫地区の地盤材だ。あそこは湿地を埋めるため、赤粘土と砕いた廃煉瓦を使っている。この街のほかの区域では、あまり見ない」
「アルヴィンさんは東倉庫にいた」
「靴底の土が同じならな」
「シェリルさんも」
「まだ正式鑑定前だ」
グレアムが答えた。
「だが同じなら、兄とは会っていないという話も崩れる」
「依頼人は嘘をついています」
レオンが淡々と言う。
「今は問い詰めないんですか」
「今は、死体の移動経路を調べています」
「話を逸らしましたね」
「順序を守っています」
赤土と車輪痕は、東倉庫と高架のあいだにある保守通路へ続いていた。
表通りを避けた、人目の少ない道だった。
「この道を知っている人ですね」
ミラベルが言う。
「商会関係者、鉄道員、倉庫業者」
グレアムが答える。
「偶然迷い込む道じゃない」
「エドモンドは土地代理人です」
「裏の保守路も知っているでしょう」
レオンが言った。
グレアムが横目で見る。
「証拠が、ブラスウェルへ向かっているな」
「私が向けているのではありません」
「並べ方で方向は変わる」
「変えても、土の色は変わりません」
排水溝を渡る鉄板の上で、片側の車輪が滑った跡が見つかった。
近くの石壁には、黒い油の擦れがある。
レオンが匂いを確かめた。
「機械油ではありません。灯具油です」
「耐風灯具に使う青炎油だな」
グレアムも確認する。
「煤が少なく、書類や測量目盛りを読むための小型灯具に使われる」
「契約書を焼いた火でしょうか」
ミラベルが尋ねた。
「同じ種類の油というだけです」
レオンは油痕の下に落ちた薄い硝子片を見る。
「火屋の一部かもしれません。ですが、ここに灯具があったこと以上は分からない」
「死体を運んだ者が持っていた可能性は」
「高いでしょう」
「契約書の焼却にも使った?」
「可能性はあります」
レオンは硝子片から視線を上げた。
「ただし、油と硝子だけでは、誰が、いつ、何を焼いたのかまでは決められません」
グレアムが頷き、油痕と硝子片の採取を命じた。
*
死体発見場所へ戻ると、鉄道保守員が蒸気排水弁の周囲へ足場を組んでいた。
弁は橋脚の側面にある。
本来は保護箱へ収められ、専用鍵と工具がなければ開けられない。
「鉄道会社の圧力記録では」
グレアムが資料を開いた。
「昨夜九時五十六分から十時二分まで、この排水口だけ放出量が上がっている」
「アルヴィンさんが死んだあとです」
ミラベルが時刻を書き込む。
「火傷も死後につけられた」
「時刻は合う」
保護箱の鍵は壊されていなかった。
代わりに、弁軸の根元へ工具をかけた平行傷が残っている。
「鉄道会社の保守工具ではありません」
グレアムが言う。
「専用品は軸の六面を包む。これは二枚の顎で挟む可変締具だ」
「商会で使う工具ですか」
「鉱山、倉庫、測量現場で広く使われる」
任意提出されたバルグレム規格の締具を傷へ合わせる。
顎の幅。
滑り止めの斜線。
どちらも一致した。
「商会関係者が弁を開けた可能性は高い」
ミラベルが言う。
「だが、同じ工具は何百本もある」
グレアムは先回りして答えた。
「これだけで使用者は決められん」
レオンは、弁の下に残った白い石畳を見ていた。
高温の蒸気によって煤が飛ばされ、石本来の色が露出している。
死体の発見位置とは、少し離れていた。
「火傷をつけたあと、身体を元の位置へ戻しています」
「引きずり痕はなかったぞ」
「引きずっていない」
レオンは、蒸気で洗われた範囲の外側を示した。
石の上に、長方形の薄い格子痕が二つ残っている。
肩側。
脚側。
「荷役用の運搬布だ」
グレアムがしゃがみ込んだ。
「樽や機械部品を持ち上げる、取っ手つきの厚布ですね」
ミラベルが言う。
「死体を布へ載せれば、一人でも荷台から下ろせます」
レオンが答えた。
「馬車の後部板を傾け、布ごと滑らせる。地面では取っ手を持って移動させる。身体そのものは石へ擦れない」
「だから、外套の背中と靴の踵に引きずり傷がなかった」
「ええ」
「赤土も、外套には広くつかない」
「靴底にだけ残れば、生前に本人が歩いた痕にも見えます」
「実際に、アルヴィンさんは東倉庫を歩いた可能性が高い」
ミラベルが言う。
「偽装へ、本物の痕跡を使った」
レオンは彼女を見る。
「この事件では、それが何度も使われています」
本物の紙。
本物の署名。
本物のインク。
本物の赤土。
本物であることが、正しい結論を保証するわけではなかった。
*
「警部!」
高架の反対側から、若い刑事が証拠盆を持って走ってきた。
「橋脚と排水溝のあいだから、金属片が出ました」
盆の上には、親指の爪ほどの真鍮片が載っていた。
緩く湾曲し、外側に細い蔦模様がある。
内側の破断面は新しく、黄色い金属が露出していた。
「昨夜は泥に沈んでいました。排水を止めて掻き出したところ、底から」
レオンが拡大鏡を当てる。
蔦模様の中に、鉱山槌を図案化した小さな印がある。
「バルグレム商会」
ミラベルが言う。
「上級測量士や土地代理人が使う測量杖の装飾環だ」
グレアムが答えた。
「エドモンドも持っていましたか」
「執務室の杖立てにありました」
レオンが言う。
間もなく、商会から任意提出された黒い測量杖が運ばれてきた。
柄の近くには、商会紋章を刻んだ真鍮環が巻かれている。
その一部が欠けていた。
グレアムは真鍮片を欠損部へ近づける。
曲線。
厚み。
蔦模様。
破断面。
すべてがつながった。
「一致します」
ミラベルが息を呑む。
「接合前と接合状態を撮影しろ。破断面を傷めるな」
写真機が準備される。
杖の木部には新しい擦れ傷があり、石突きには赤い土が付着していた。
「東倉庫の土でしょうか」
「鑑定が必要です」
レオンは答えた。
「少なくとも、杖の一部が高架下に落ちた事実は動きません」
「馬車の照合は」
グレアムが部下へ尋ねる。
「バルグレム商会契約代理部の小型二輪馬車が、現場の車輪幅と一致します」
警官が回答書を開いた。
「東倉庫に三台。うち一台が昨夜使用されています。出庫記録には、エドモンド=ブラスウェル上級代理人の個人鍵印」
グレアムは回答書を受け取った。
「馬車を封鎖しろ。車輪、荷台、運搬布、灯具、工具。残っているものを全部調べる」
「捜査班が向かっています」
ミラベルは測量杖を見た。
車輪幅。
出庫記録。
赤土。
商会工具の弁痕。
蒸気放出の時刻。
運搬布。
測量杖の真鍮片。
証拠は、エドモンド=ブラスウェルへ集中していた。
「これだけ揃っても、殺人容疑ではないんですか」
「現場偽装と死体運搬への関与は、極めて濃い」
グレアムが答える。
「殺人は?」
「凶器がつながらん」
ミラベルは測量杖を示した。
「これで殴った可能性は」
「形が違います」
レオンが、検死時に作成された頭部傷の拡大図を開いた。
致命傷の周囲には、規則的な細い圧痕が複数並び、一か所だけ間隔が広い。
測量杖の石突きは円形に近い。
真鍮環も曲面だった。
「横にして殴れば?」
「丸い木部の痕になります。真鍮環なら蔦模様か曲面が残る。傷の幅も合いません」
「では、別の凶器を使った」
「可能性はあります」
「それなら、エドモンドが東倉庫で殺し、死体を運んだ可能性も残る」
「残ります」
レオンは即答した。
「ですが、この高架下で殴ったのではない」
死体の位置を示す白い紐を見る。
「致死量の血がない。火傷は死後。死体は東側から馬車と運搬布で運び込まれている」
「つまり」
グレアムが言う。
「ここは殺害現場ではない」
「ええ」
レオンは、死体の頭部があった標識の前へ立った。
「エドモンドは死体をここへ運んだ」
ミラベルの鉛筆が、その言葉を記す。
「ですが、ここで殺した者ではない」
高架の上を貨物列車が通過した。
車輪の轟音。
鉄骨の震え。
橋脚から落ちる煤。
三人は列車が過ぎるまで口を閉じた。
「東倉庫で殺されたと?」
音が遠ざかってから、グレアムが尋ねた。
「赤土と運搬経路は、そこから始まっています。殺害場所である可能性は高い」
「殺した者もエドモンドか」
「分かりません」
「契約書を焼いた者は」
ミラベルが尋ねる。
「灯具がこの経路を通った可能性はあります。ですが、油痕だけでは、エドモンドが署名欄を焼いたとは断定できない」
「青色吸取砂を置いた者も?」
「まだ不明です」
「それでも、死体と現場の偽装には関わった」
「馬車と杖の記録が真正であり、証拠が第三者に置かれたものでなければ」
レオンはグレアムを見る。
「極めて高い確率で」
「相変わらず歯切れが悪いな」
「証拠以上のことを言わないだけです」
ミラベルは東倉庫方面を見た。
「エドモンド以外に、昨夜あそこへいた者を調べる必要がありますね」
「契約手続の関係者を全員だ」
グレアムが答える。
「アデラ=ロームも」
その名を口にしたとき、ミラベルは商会の契約照合室を思い出した。
アデラの机に置かれていた、重い真鍮製の携帯照合圧印器。
平らな底面。
金属の接合音。
だが、見たというだけだった。
頭部傷との照合は、まだしていない。
「まだ足りん」
グレアムが短く言った。
「殺人犯を決めるにはな」
「エドモンドは拘束しますか」
「証拠隠滅と死体遺棄の疑いで聴取する。馬車と杖を押収。東倉庫の契約室も封鎖だ」
「逃げたら」
「見張りをつける。商会の上級代理人が街を出れば、どこかの記録に残る」
グレアムは部下を呼び寄せた。
「商会へ気送を出せ。昨夜の夜間会議に関する記録を、すべて任意提出させる」
「出席簿だけでよろしいですか」
「開始時刻、終了時刻、出席者、途中退席、議事録、各頁の確認署名、入退室帯、時計の照合記録、伝信機の受信記録。全部だ」
「エドモンド本人については」
「昨夜九時十五分から九時四十分までを、一分も空けずに確定しろ」
「承知しました」
警官が走り去る。
「会議記録が本物なら」
ミラベルが言った。
「エドモンドには、殺害時刻のアリバイができますね」
「本物ならな」
「商会の正式記録です」
「だから調べる」
グレアムは答えた。
「記録があることと、正しいことは同じじゃない。クラウスに何度も聞かされて、嫌でも覚えた」
「教育の成果ですね」
レオンが言う。
「お前に教わったつもりはない」
ミラベルは笑いかけたが、すぐに現場へ目を戻した。
アルヴィンの死体があった場所。
赤土。
車輪痕。
工具傷。
灯具油。
真鍮片。
死後につけられた火傷。
それらは、エドモンドがここにいたと示している。
死体を運んだ。
蒸気事故に見える現場を作った。
だが。
殺したかどうかは、まだ分からない。
契約書を焼いたかどうかも。
青い砂を置いたかどうかも。
一人の人間がすべてを行ったのか。
殺した者と、殺人を別の事件へ書き換えた者がいたのか。
証拠は、まだそこまで語っていなかった。
高架の向こうから、次の列車の汽笛が聞こえる。
白い蒸気が排水弁の周囲へ漂い、死体の輪郭を一瞬だけ覆った。
霧が流れたあと。
そこには、誰もいなかった。




