表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/61

第7節 ― 高架下の再検証

 雨が止んだあとのヴェルム=クロウは、洗われたというより、濡れた汚れを街全体へ塗り広げたように見えた。


 煉瓦壁には黒い雨筋が残り、石畳の窪みには煤を溶かした水が溜まっている。工場の煙突は昨夜と変わらず煤煙を吐き、高架線を走る列車の車輪が、湿った鉄骨を低く震わせていた。


 中央高架線下の現場は、まだ警察の縄で封鎖されている。


 死体はすでにない。


 アルヴィン=ヴェインが横たわっていた場所には、白い証拠標識と、身体の輪郭を示す測量紐だけが残されていた。


 右肩。


 頭。


 腰。


 脚。


 人間が消えたあとへ、形だけを残そうとする警察の仕事は、どこか記録院に似ていた。


 違うのは、グレアム警部が、紐の内側に一人の人間がいたことを忘れない点だった。


「随分流されたな」


 グレアムは橋脚の下へしゃがみ、泥の表面を睨んでいた。


 高架から吊られた防水布が、風を受けて鈍い音を立てている。


「昨夜のうちに覆っていたんですね」


 ミラベル=ワトリアが言った。


「だが雨は横からも入る。高架の振動で上から煤水も落ちる。街全体へ蓋をするわけにはいかん」


「記録院なら、雨を規則違反にしそうです」


「書類を出せと言うだろうな」


 レオン=クラウスは、二人の会話から離れた場所にいた。


 死体の足元があった場所から数歩西側。


 昨夜は雨水に覆われていた石畳へ、携帯式の拡大鏡を向けている。


「警部。現場へ入った車両の車輪幅を確認できますか」


「警察馬車か」


「夜警も含めて、死体発見後に通ったものをすべて」


「記録してある」


 グレアムが手を出すと、若い警官が現場出入記録と測量図を渡した。


「市警馬車は外側幅四尺一寸。検死運搬車は四尺三寸。夜警の小型車は三尺九寸」


「ここは」


 レオンが石畳に残った二本の溝を示した。


 東側の倉庫街から高架下へ入り、死体の位置の手前で緩く曲がっている。


 雨で輪郭の大半は崩れていたが、橋脚の張り出しに守られた部分だけ、溝の底が残っていた。


 グレアムが折尺を当てる。


「三尺四寸」


「警察車両ではありません」


 ミラベルが手帳へ書く。


「荷車でしょうか」


「手押し車なら、車輪がもっと細くなる」


 グレアムは溝の深さを測った。


「左右の沈み方も同じだ。小型の二輪馬車か器材車だな」


 レオンは溝の途中を示す。


 高架下へ入る痕は、死体があった位置の手前で深く沈んでいる。


 その先に残る痕は、わずかに浅い。


「入ってきたときのほうが重かった」


 ミラベルが言った。


「ここで荷を下ろした可能性があります」


「人間一人分ほどの?」


「それを確かめるには、同じ荷重で再現する必要があります」


「死体は使えませんよ」


「分かっています」


「念のためです」


 グレアムが部下へ命じる。


「車輪溝の石膏型を取れ。前後四か所。現場へ入った民間車両がないか、発見者と夜警にも再確認だ」


 警官が動き始める。


 レオンは、途切れた車輪痕を東へ追った。


     *


 旅客路線の真下を外れると、通りは倉庫と工場ばかりになった。


 鉄扉。


 荷役台。


 石炭置き場。


 資材柵。


 昼間にもかかわらず、消されないガス灯が蒸気と煤煙の中で黄色く滲んでいる。


 レオンは石畳の継ぎ目へ目を落としながら進んだ。


「何を追っているんですか」


 ミラベルが尋ねる。


「赤い土です」


 石の割れ目に、赤褐色の粒が挟まっていた。


 角ばった廃煉瓦の欠片と、光を反射する鉄分が混じっている。


「アルヴィンさんの靴にあったもの」


「シェリルさんの外套にも似た土がありました」


 グレアムが粒を覗き込む。


「東倉庫地区の地盤材だ。あそこは湿地を埋めるため、赤粘土と砕いた廃煉瓦を使っている。この街のほかの区域では、あまり見ない」


「アルヴィンさんは東倉庫にいた」


「靴底の土が同じならな」


「シェリルさんも」


「まだ正式鑑定前だ」


 グレアムが答えた。


「だが同じなら、兄とは会っていないという話も崩れる」


「依頼人は嘘をついています」


 レオンが淡々と言う。


「今は問い詰めないんですか」


「今は、死体の移動経路を調べています」


「話を逸らしましたね」


「順序を守っています」


 赤土と車輪痕は、東倉庫と高架のあいだにある保守通路へ続いていた。


 表通りを避けた、人目の少ない道だった。


「この道を知っている人ですね」


 ミラベルが言う。


「商会関係者、鉄道員、倉庫業者」


 グレアムが答える。


「偶然迷い込む道じゃない」


「エドモンドは土地代理人です」


「裏の保守路も知っているでしょう」


 レオンが言った。


 グレアムが横目で見る。


「証拠が、ブラスウェルへ向かっているな」


「私が向けているのではありません」


「並べ方で方向は変わる」


「変えても、土の色は変わりません」


 排水溝を渡る鉄板の上で、片側の車輪が滑った跡が見つかった。


 近くの石壁には、黒い油の擦れがある。


 レオンが匂いを確かめた。


「機械油ではありません。灯具油です」


「耐風灯具に使う青炎油だな」


 グレアムも確認する。


「煤が少なく、書類や測量目盛りを読むための小型灯具に使われる」


「契約書を焼いた火でしょうか」


 ミラベルが尋ねた。


「同じ種類の油というだけです」


 レオンは油痕の下に落ちた薄い硝子片を見る。


「火屋の一部かもしれません。ですが、ここに灯具があったこと以上は分からない」


「死体を運んだ者が持っていた可能性は」


「高いでしょう」


「契約書の焼却にも使った?」


「可能性はあります」


 レオンは硝子片から視線を上げた。


「ただし、油と硝子だけでは、誰が、いつ、何を焼いたのかまでは決められません」


 グレアムが頷き、油痕と硝子片の採取を命じた。


     *


 死体発見場所へ戻ると、鉄道保守員が蒸気排水弁の周囲へ足場を組んでいた。


 弁は橋脚の側面にある。


 本来は保護箱へ収められ、専用鍵と工具がなければ開けられない。


「鉄道会社の圧力記録では」


 グレアムが資料を開いた。


「昨夜九時五十六分から十時二分まで、この排水口だけ放出量が上がっている」


「アルヴィンさんが死んだあとです」


 ミラベルが時刻を書き込む。


「火傷も死後につけられた」


「時刻は合う」


 保護箱の鍵は壊されていなかった。


 代わりに、弁軸の根元へ工具をかけた平行傷が残っている。


「鉄道会社の保守工具ではありません」


 グレアムが言う。


「専用品は軸の六面を包む。これは二枚の顎で挟む可変締具だ」


「商会で使う工具ですか」


「鉱山、倉庫、測量現場で広く使われる」


 任意提出されたバルグレム規格の締具を傷へ合わせる。


 顎の幅。


 滑り止めの斜線。


 どちらも一致した。


「商会関係者が弁を開けた可能性は高い」


 ミラベルが言う。


「だが、同じ工具は何百本もある」


 グレアムは先回りして答えた。


「これだけで使用者は決められん」


 レオンは、弁の下に残った白い石畳を見ていた。


 高温の蒸気によって煤が飛ばされ、石本来の色が露出している。


 死体の発見位置とは、少し離れていた。


「火傷をつけたあと、身体を元の位置へ戻しています」


「引きずり痕はなかったぞ」


「引きずっていない」


 レオンは、蒸気で洗われた範囲の外側を示した。


 石の上に、長方形の薄い格子痕が二つ残っている。


 肩側。


 脚側。


「荷役用の運搬布だ」


 グレアムがしゃがみ込んだ。


「樽や機械部品を持ち上げる、取っ手つきの厚布ですね」


 ミラベルが言う。


「死体を布へ載せれば、一人でも荷台から下ろせます」


 レオンが答えた。


「馬車の後部板を傾け、布ごと滑らせる。地面では取っ手を持って移動させる。身体そのものは石へ擦れない」


「だから、外套の背中と靴の踵に引きずり傷がなかった」


「ええ」


「赤土も、外套には広くつかない」


「靴底にだけ残れば、生前に本人が歩いた痕にも見えます」


「実際に、アルヴィンさんは東倉庫を歩いた可能性が高い」


 ミラベルが言う。


「偽装へ、本物の痕跡を使った」


 レオンは彼女を見る。


「この事件では、それが何度も使われています」


 本物の紙。


 本物の署名。


 本物のインク。


 本物の赤土。


 本物であることが、正しい結論を保証するわけではなかった。


     *


「警部!」


 高架の反対側から、若い刑事が証拠盆を持って走ってきた。


「橋脚と排水溝のあいだから、金属片が出ました」


 盆の上には、親指の爪ほどの真鍮片が載っていた。


 緩く湾曲し、外側に細い蔦模様がある。


 内側の破断面は新しく、黄色い金属が露出していた。


「昨夜は泥に沈んでいました。排水を止めて掻き出したところ、底から」


 レオンが拡大鏡を当てる。


 蔦模様の中に、鉱山槌を図案化した小さな印がある。


「バルグレム商会」


 ミラベルが言う。


「上級測量士や土地代理人が使う測量杖の装飾環だ」


 グレアムが答えた。


「エドモンドも持っていましたか」


「執務室の杖立てにありました」


 レオンが言う。


 間もなく、商会から任意提出された黒い測量杖が運ばれてきた。


 柄の近くには、商会紋章を刻んだ真鍮環が巻かれている。


 その一部が欠けていた。


 グレアムは真鍮片を欠損部へ近づける。


 曲線。


 厚み。


 蔦模様。


 破断面。


 すべてがつながった。


「一致します」


 ミラベルが息を呑む。


「接合前と接合状態を撮影しろ。破断面を傷めるな」


 写真機が準備される。


 杖の木部には新しい擦れ傷があり、石突きには赤い土が付着していた。


「東倉庫の土でしょうか」


「鑑定が必要です」


 レオンは答えた。


「少なくとも、杖の一部が高架下に落ちた事実は動きません」


「馬車の照合は」


 グレアムが部下へ尋ねる。


「バルグレム商会契約代理部の小型二輪馬車が、現場の車輪幅と一致します」


 警官が回答書を開いた。


「東倉庫に三台。うち一台が昨夜使用されています。出庫記録には、エドモンド=ブラスウェル上級代理人の個人鍵印」


 グレアムは回答書を受け取った。


「馬車を封鎖しろ。車輪、荷台、運搬布、灯具、工具。残っているものを全部調べる」


「捜査班が向かっています」


 ミラベルは測量杖を見た。


 車輪幅。


 出庫記録。


 赤土。


 商会工具の弁痕。


 蒸気放出の時刻。


 運搬布。


 測量杖の真鍮片。


 証拠は、エドモンド=ブラスウェルへ集中していた。


「これだけ揃っても、殺人容疑ではないんですか」


「現場偽装と死体運搬への関与は、極めて濃い」


 グレアムが答える。


「殺人は?」


「凶器がつながらん」


 ミラベルは測量杖を示した。


「これで殴った可能性は」


「形が違います」


 レオンが、検死時に作成された頭部傷の拡大図を開いた。


 致命傷の周囲には、規則的な細い圧痕が複数並び、一か所だけ間隔が広い。


 測量杖の石突きは円形に近い。


 真鍮環も曲面だった。


「横にして殴れば?」


「丸い木部の痕になります。真鍮環なら蔦模様か曲面が残る。傷の幅も合いません」


「では、別の凶器を使った」


「可能性はあります」


「それなら、エドモンドが東倉庫で殺し、死体を運んだ可能性も残る」


「残ります」


 レオンは即答した。


「ですが、この高架下で殴ったのではない」


 死体の位置を示す白い紐を見る。


「致死量の血がない。火傷は死後。死体は東側から馬車と運搬布で運び込まれている」


「つまり」


 グレアムが言う。


「ここは殺害現場ではない」


「ええ」


 レオンは、死体の頭部があった標識の前へ立った。


「エドモンドは死体をここへ運んだ」


 ミラベルの鉛筆が、その言葉を記す。


「ですが、ここで殺した者ではない」


 高架の上を貨物列車が通過した。


 車輪の轟音。


 鉄骨の震え。


 橋脚から落ちる煤。


 三人は列車が過ぎるまで口を閉じた。


「東倉庫で殺されたと?」


 音が遠ざかってから、グレアムが尋ねた。


「赤土と運搬経路は、そこから始まっています。殺害場所である可能性は高い」


「殺した者もエドモンドか」


「分かりません」


「契約書を焼いた者は」


 ミラベルが尋ねる。


「灯具がこの経路を通った可能性はあります。ですが、油痕だけでは、エドモンドが署名欄を焼いたとは断定できない」


「青色吸取砂を置いた者も?」


「まだ不明です」


「それでも、死体と現場の偽装には関わった」


「馬車と杖の記録が真正であり、証拠が第三者に置かれたものでなければ」


 レオンはグレアムを見る。


「極めて高い確率で」


「相変わらず歯切れが悪いな」


「証拠以上のことを言わないだけです」


 ミラベルは東倉庫方面を見た。


「エドモンド以外に、昨夜あそこへいた者を調べる必要がありますね」


「契約手続の関係者を全員だ」


 グレアムが答える。


「アデラ=ロームも」


 その名を口にしたとき、ミラベルは商会の契約照合室を思い出した。


 アデラの机に置かれていた、重い真鍮製の携帯照合圧印器。


 平らな底面。


 金属の接合音。


 だが、見たというだけだった。


 頭部傷との照合は、まだしていない。


「まだ足りん」


 グレアムが短く言った。


「殺人犯を決めるにはな」


「エドモンドは拘束しますか」


「証拠隠滅と死体遺棄の疑いで聴取する。馬車と杖を押収。東倉庫の契約室も封鎖だ」


「逃げたら」


「見張りをつける。商会の上級代理人が街を出れば、どこかの記録に残る」


 グレアムは部下を呼び寄せた。


「商会へ気送を出せ。昨夜の夜間会議に関する記録を、すべて任意提出させる」


「出席簿だけでよろしいですか」


「開始時刻、終了時刻、出席者、途中退席、議事録、各頁の確認署名、入退室帯、時計の照合記録、伝信機の受信記録。全部だ」


「エドモンド本人については」


「昨夜九時十五分から九時四十分までを、一分も空けずに確定しろ」


「承知しました」


 警官が走り去る。


「会議記録が本物なら」


 ミラベルが言った。


「エドモンドには、殺害時刻のアリバイができますね」


「本物ならな」


「商会の正式記録です」


「だから調べる」


 グレアムは答えた。


「記録があることと、正しいことは同じじゃない。クラウスに何度も聞かされて、嫌でも覚えた」


「教育の成果ですね」


 レオンが言う。


「お前に教わったつもりはない」


 ミラベルは笑いかけたが、すぐに現場へ目を戻した。


 アルヴィンの死体があった場所。


 赤土。


 車輪痕。


 工具傷。


 灯具油。


 真鍮片。


 死後につけられた火傷。


 それらは、エドモンドがここにいたと示している。


 死体を運んだ。


 蒸気事故に見える現場を作った。


 だが。


 殺したかどうかは、まだ分からない。


 契約書を焼いたかどうかも。


 青い砂を置いたかどうかも。


 一人の人間がすべてを行ったのか。


 殺した者と、殺人を別の事件へ書き換えた者がいたのか。


 証拠は、まだそこまで語っていなかった。


 高架の向こうから、次の列車の汽笛が聞こえる。


 白い蒸気が排水弁の周囲へ漂い、死体の輪郭を一瞬だけ覆った。


 霧が流れたあと。


 そこには、誰もいなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ