第9節 ― 死者の署名
夜の黒鴉館では、紙を動かす音がよく響いた。
一階の《煤鳩亭》は、すでに看板を下ろしている。
椅子は机の上へ伏せられ、厨房の火も落ちていた。石炭の熾火が崩れる小さな音と、遠い高架線を走る貨物列車の車輪音だけが、古い梁を伝ってくる。
二階の鑑定室には、三人が残っていた。
レオン=クラウス。
ミラベル=ワトリア。
バルトラム=グレアム警部。
中央の鑑定台には、二種類の契約が並べられている。
《生存確認・土地権利再審申立書》。
シェリルがアルヴィンから預かった控え割符。
その隣には、
《土地権利放棄・旧移転追認契約書》。
記録院に保管されている原本から作成された認証複写。
二つの文書には、同じ番号が打たれていた。
東倉―四八一七二。
数字の七に残る二重打刻。
右下へずれた二度目の線。
数字槌上部の欠け。
斜線末端の薄い掠れ。
同じ旧式番号機が、同じ番号を二つの契約へ打ったことは、すでに確かめられている。
そして、シェリルの控え割符と、記録院の契約へ取りつけられた提出署名片。
二つの切断面も一致した。
紙は、最初は一枚だった。
署名も、一度しか書かれていない。
「確認します」
ミラベルは手帳を開いた。
「アルヴィンさんが読んだのは、生存確認と土地権利再審の申立書」
「控え割符が、それを示しています」
レオンが答える。
「彼は、その内容を確認して署名した」
「本人の手紙、シェリルとリュシアンの証言、控え割符。すべてが同じ目的を示している」
「土地放棄ではない」
グレアムが言った。
「死者として処理された自分を、生者へ戻すための申立てだ」
「署名したあと、割符が左右に分けられた」
ミラベルは、控え割符の切断面へ指を近づけた。
「契約名の書かれた左側は、アルヴィンさんが持ち帰った。署名のある右側は、手続担当者が預かった」
「ええ」
「けれど、その提出署名片は、生存再審申立書には戻されなかった」
彼女は、土地放棄契約の認証複写へ目を移す。
「同じ番号を打った、別の契約へ取りつけられた」
そこにある青い名は、アルヴィン本人のものだった。
筆跡も。
筆圧も。
ヴェイン家の青インクも。
すべて真正。
一画たりとも偽造されていない。
「同じ番号の文書が二つ存在するとは、通常は考えません」
レオンが言った。
「番号、透かし、署名、接合圧印が合っていれば、記録院は一つの正規契約として扱う」
「旧式番号機なら、同じ番号を二度打てる」
グレアムが言う。
「中央の機械台帳へ自動転記されないからな」
「犯人は、生存再審申立書と土地放棄契約へ、同じ番号を打った」
ミラベルは二つの文書を見比べた。
「アルヴィンさんには、生存再審申立書を読ませた。その紙と一枚につながった署名票へ署名させた」
彼女の指が、控え割符から認証複写へ移る。
「署名後、右側だけを切り離し、土地放棄契約へ移した」
「署名の形は変わりません」
レオンが言う。
「書いた者も、インクも、筆圧も同じです」
「でも、意味だけが変わる」
ミラベルは手帳の空いた行へ、鉛筆を置いた。
しばらく考え。
一文字ずつ書いた。
「署名は偽物ではない」
レオンが、彼女の手元を見る。
「偽装されたのは、署名の居場所です」
鉛筆の先が止まった。
遠くを走る列車の音が、鑑定室の壁を低く震わせる。
「居場所か」
レオンが小さく繰り返した。
「不正確ですか」
「法的には、《署名の契約所属》と書くべきでしょう」
「では、直します」
「いいえ」
ミラベルの手が止まる。
「そのままで」
「法的には不正確なのでは?」
「この事件を理解するには、あなたの言葉のほうが正確です」
グレアムが眉を上げた。
「クラウスが人の言葉を認めたぞ」
「珍しいんですか」
「俺は初めて見た」
「大げさです」
ミラベルは手帳へ視線を戻した。
「消しませんからね」
「好きにしてください」
「今日は素直ですね」
「事実が整理されたので」
ミラベルは、もう一度その一行を見た。
署名の居場所。
アルヴィンの名は、本来、自分が生きていることを証明する文書へ置かれた。
それを、土地を手放し、四年前の処理を認める文書へ移した。
生きているという宣言を。
自ら消えることへの同意へ。
署名の形を変えず、意思だけを正反対にした。
「偽の署名なら、鑑定で見破れます」
ミラベルが言った。
「ですが、本物だから本人の意思だと思われる」
「犯人は、そこを利用した」
レオンが答える。
「疑われない署名が必要だった」
「アルヴィンさんが生きていることを証明するために書いた名を、死者の土地を処理するために使った」
「ええ」
「署名を盗んだだけではないんですね」
ミラベルは、青い文字を見つめた。
「彼が最後に伝えようとしたことまで、書き換えた」
*
グレアムは椅子から立ち、鑑定台の上へ別の資料を並べた。
「文書偽装の仕組みは分かった」
「紙の話を終わらせるんですか」
ミラベルが尋ねる。
「次は殺人だ」
最初に置かれたのは、エドモンド=ブラスウェルの会議記録だった。
会議開始、午後九時十五分。
議事確認署名、午後九時二十三分。
二度目の確認署名、午後九時三十一分。
会議終了、午後九時三十六分。
入退室記録。
時計の打刻。
出席者と給仕の証言。
どれも、同じ時間にエドモンドが本館会議室へいたことを示していた。
次に、検死報告。
アルヴィンの死亡推定時刻は、午後九時二十分から三十分。
「会議記録は真正だ」
グレアムが言った。
「参加者全員と、複数の機械記録が一致している。エドモンドは殺害推定時刻に、東倉庫にはいなかった」
「アルヴィンさんを殺していない」
ミラベルが言う。
「その可能性が極めて高い」
「ですが、死体は運んだ」
グレアムは、次の証拠を並べた。
高架下の車輪痕。
エドモンドの個人鍵印で使用された商会馬車。
荷台の赤土。
運搬布に残ったアルヴィンの毛髪。
測量杖から欠けた真鍮片。
蒸気弁へ残る商会工具の痕。
「会議終了後、エドモンドは東倉庫へ戻った」
グレアムが言う。
「そこからアルヴィンの死体を馬車で運び、高架下へ置いた。蒸気弁を開き、死後の身体へ火傷をつけた」
「そこまでは、物証がつながっています」
レオンが答えた。
「死体を運んだことと、蒸気事故に見せかけたことは、否定しにくい」
「白手袋も」
ミラベルが鑑定書を開く。
「掌側に、ヴェイン家の青インク。指先ではなく、細い署名票を押さえる位置に付着している。血液はない」
「署名手続へ立ち会った可能性が高い」
レオンが言う。
「しかし、その手袋が殺害へ使われた証拠はありません」
「エドモンドは、署名の場にもいた。死体を運んだ。現場を作った」
「それでも、殺したとは限らない」
「殺したと認めれば会議記録と矛盾する」
グレアムが言った。
「死体を運んだと認めれば、契約不正へ関わったことまで話さなければならん。だから、どちらも黙っている」
「戻ったときには、アルヴィンさんが死んでいた」
ミラベルが言う。
「その可能性が高い」
「その場に、誰がいた?」
三人の視線が、アデラ=ロームの証言書へ移った。
昨夜、午後六時十二分から十一時四十分まで、記録院にいた。
ただし。
入退室記録を書いたのは、アデラ自身。
夜間内扉の記録を管理していたのも、アデラ。
東倉庫で使用された個人照合鍵の登録者も、アデラ。
所在不明の旧式番号機について、最後の保全確認を行ったのも、アデラだった。
「アデラには、客観的なアリバイがない」
ミラベルが言った。
「ありません」
「同じ番号の契約を作れる」
「権限と知識はある」
「四年前の死亡記録にも、昨夜の偽契約にも関わっている」
「ええ」
「動機も」
グレアムが口を挟む。
「アルヴィンが生存を認められれば、四年前の記録も、土地移転も崩れる」
「では」
「まだ足りん」
グレアムは即座に言った。
「東倉庫へいた可能性。偽装できる権限。動機。それだけでは殺人犯にはできない」
「エドモンドが証言すれば」
「共犯者が自分の罪を軽くするために、アデラへ殺人を押しつけたと反論される」
「気送記録と個人鍵は」
「文書偽装への関与を示す。だが、アルヴィンの頭を殴った証拠ではない」
グレアムは、最後に頭部傷の拡大写真を置いた。
後頭部の裂傷。
その周囲に並ぶ、細い平行圧痕。
複数の線。
一か所だけ、間隔の広い空白。
「殺した者だけが残した証拠を探す」
グレアムは写真を太い指で叩いた。
「死体は嘘をつかん」
「最初の夜、レオンさんは紙のほうが正直だと言いましたね」
ミラベルが言う。
「言いました」
「死体と紙が違うことを言ったら、どちらを信じるんです」
「両方です」
「矛盾していても?」
「死体も紙も、自分の形を偽りません」
レオンは写真を手に取った。
「人間が、その意味を変えるだけです」
「なら、これは何を意味している」
グレアムが問う。
レオンは写真を照合灯へ置いた。
斜めから光を当てる。
細い線が陰影を持って浮かび上がる。
測量杖の傷ではない。
杖は丸く、幅も合わなかった。
商会馬車の中から、凶器に相当する器具も見つかっていない。
「平らな金属面」
ミラベルが言う。
「細い突起が並んでいる」
「一か所だけ、突起が欠けている可能性がある」
レオンが答えた。
彼は拡大写真へ折尺を添えた。
一本ごとの幅。
線の間隔。
空白部分。
数字を追っていた目が、途中で止まった。
鑑定室の白い光の向こうに、別の部屋が浮かんだ。
バルグレム商会の契約照合室。
固定された机。
割符式署名票。
契約本文へ置かれた提出署名片。
アデラが机の端から持ち上げた、重い真鍮製の器具。
短い柄。
厚い長方形の基部。
接合部へ置き。
押し下げる。
がちん。
紙へ、細い圧印が並ぶ。
「どうしました」
ミラベルが尋ねた。
レオンは答えない。
写真に残る線。
契約紙に刻まれた接合圧印。
同じだと、まだ断定はできない。
底面を直接見ていない。
突起の数も。
欠損の有無も確認していない。
だが、形は似ている。
「クラウス」
グレアムの声が低くなる。
「何を思い出した」
レオンは拡大鏡を置いた。
「バルグレム商会で、アデラが使っていた器具があります」
「何の器具だ」
「提出署名片を契約本文へ固定する、携帯照合圧印器です」
ミラベルが息を止める。
「真鍮製の、重い道具」
「底面は長方形」
レオンは、写真の圧痕を指した。
「接合圧印を刻むため、細い突起が並んでいます」
「何本だ」
「確認していません」
「傷と一致するか」
「まだ分かりません」
「なら、今は凶器と呼べん」
「ええ」
レオンは即座に認めた。
「確認が必要です」
グレアムは外套を取り、椅子から立ち上がった。
「記録院へ行く」
「今からですか」
ミラベルが窓を見る。
霧燈通りは、すでに夜の底へ沈んでいた。
「夜間当直がいる。機材室を封鎖し、圧印器を確認する」
「任意で見せるでしょうか」
「見せなければ、令状を取る理由が増える」
「私も行きます」
「警察の捜索だ」
「私も器具を見ています」
「クラウスが確認する」
「不公平です」
「お前は記者だ」
「以前は捜査補助者でした」
「その契約は、とっくに切れた」
「再契約を」
「署名は?」
「口頭で充分です」
「この事件を調べて、まだそんなことが言えるのか」
ミラベルは一瞬黙り。
「では、あとで書面にします」
「来るなと言っている」
「縄の外にいます」
「まだ縄はない」
「着いたら張ってください」
グレアムは深い息を吐いた。
「勝手にしろ。ただし、機材へ近づくな」
「同行は認めたんですね」
「そういうところだけ、記録を正確に取るな」
ミラベルはすでに外套を手にしていた。
レオンは、鑑定台に残された二つの契約を見た。
生者へ戻るための申立書。
死者の土地を手放す契約。
その二つをつないだのは、アルヴィン本人の署名だった。
文書の仕掛けは解けた。
何へ署名したのかも分かった。
だが、それだけでは彼を殺した者の名は書けない。
署名の居場所を変えた者。
死体の居場所を変えた者。
命を奪った者。
三つの行為を、同じ人物の罪として重ねてはならない。
レオンは照合灯を消した。
二つの契約が、夜の色へ沈む。
最後まで見えていたのは、アルヴィン=ヴェインという青い名だった。
その名のそばで。
死者の後頭部へ残された細い線だけが、まだ誰の行為にも属していなかった。




