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第10節 ― 署名が属する場所

 中央記録院ヴェルム=クロウ支局の夜間照明は、昼間よりも白かった。


 窓の外では、煤霧が街路灯を黄色く滲ませている。だが契約照合課の内部へ、霧も雨も入り込まない。壁際の蒸気灯は一定の光を保ち、机の上から影を消していた。


 夜間当番の記録官たちは、誰も席を立たなかった。


 筆を止めない。


 顔も上げない。


 それでもグレアム警部が濃紺の制服を着た警官四名と、記録機械に詳しい鑑識官二名を連れて踏み込んだ瞬間、紙をめくる音がわずかに硬くなった。


 レオン=クラウスとミラベル=ワトリアも、その後ろにいた。


 グレアムの手には、契約法院が発行した夜間捜索許可証がある。


「契約照合課の機材保全責任者は」


 低い声が、白い室内へ響いた。


 奥の机から、アデラ=ロームが立ち上がる。


「私です」


 濃紺の服。


 白い襟。


 銀の記録院章。


 いつもと変わらない姿だった。


 驚いた様子もない。開いていた照合簿へ細い栞を挟み、静かに閉じる。


「捜索の理由を確認しても?」


 グレアムは許可証を机へ置いた。


「アルヴィン=ヴェイン殺害事件。契約偽装、証拠隠滅、記録機材の不正使用に関する捜索だ」


「対象物は」


「ブラス式旧番号機。割符式署名票。照合鍵。携帯照合圧印器。それらの使用記録と整備記録」


「旧番号機については、保管台帳の不備だと説明しました」


「不備かどうかは、警察が調べる」


 アデラの視線が、グレアムからレオンへ移る。


「あなたの推測で、記録院の業務区画を捜索するのですか」


「許可を出したのは契約法院です」


 レオンは答えた。


「私は、傷と機械の形を見ただけです」


「それだけで、使用者まで分かると?」


「まだ分かりません」


「では、何を探しているのです」


「分からないことを、分からないまま記録へ閉じないためです」


「以前と同じですね」


「あなたも」


 二人のあいだへ、短い沈黙が落ちた。


「携帯照合圧印器はどこだ」


 グレアムが尋ねる。


 アデラは、自分の机の右側にある低い機材棚を示した。


「登録機材は、そこにあります」


「鍵を」


「記録院の備品です」


「だから捜索対象なんだ」


 アデラは腰の鍵束から一本を選び、警官へ差し出した。


 細い銀色の鍵。


 彼女自身は棚へ触れない。


 警官が扉と鍵穴を写真へ残し、鍵を差し込んだ。


 かちり。


 棚の中には、二つの革箱が収められていた。


 一つは割符裁断器。


 もう一つは、持ち手の短い黒革の箱。


 表面に、機材番号が打たれている。


 照合課―携圧―一七。


「登録使用者」


 グレアムが問う。


 鑑識官が機材台帳を開いた。


「アデラ=ローム上級照合官。現地契約確認用として常時貸与」


 革箱が机へ移される。


 封印前の状態を撮影し、鑑識官が新しい手袋へ替えて留め金を外した。


 箱の内側には、濃い青色の布が張られている。


 中央に収められていたのは、バルグレム商会の契約照合室でアデラが使用していた事務器具だった。


 短い柄。


 掌より少し広い、長方形の真鍮製基部。


 割符式署名票の提出署名片を契約本文へ固定する、携帯照合圧印器。


「触るな」


 グレアムがミラベルへ言った。


「触りません」


「近い」


「見るためです」


「息もかけるな」


 ミラベルは不満そうに一歩下がった。


 レオンは器具ではなく、それが収まっていた布を見ていた。


 底面が触れていた部分だけ、周囲より色が濃い。


「濡れた状態で箱へ戻されています」


「真鍮器具は定期的に清掃します」


 アデラが答えた。


「最後に洗浄したのは、いつだ」


 グレアムが尋ねる。


「必要に応じて行います」


「日付を聞いている」


「日常清掃は記録していません」


「記録院が?」


 ミラベルが口を挟む。


「すべての作業へ個別記録が必要なわけではありません」


「事件の直後に洗ったかどうかも?」


「事件との関係を前提にしないでください」


 アデラの声は、あくまで穏やかだった。


 柔らかいのではない。


 閉じた記録箱のように、外から指をかける場所がない。


「底面を確認します」


 鑑識官が器具を持ち上げ、ゆっくり裏返した。


 ミラベルが息を呑む。


 長方形の底面には、七本の細い金属突起が平行に並んでいた。


 紙へ接合圧印を刻むためのものだ。


 そのうち中央に近い一本だけ、大半が欠けている。


 短い両端だけが残り、その場所へ圧力を加えても、一本の線としては刻まれない。


「七本」


 ミラベルが小さく言った。


「一本分が欠けている」


 グレアムは、アルヴィンの頭部傷を撮影した写真を取り出した。


 裂傷の周囲へ並ぶ、六本の細い圧痕。


 そのあいだにある、一本分の空白。


 器具の横へ写真を置く。


 似ている。


 だが、並べて似ているだけでは、証拠にならない。


「証拠室へ運ぶ」


 グレアムが言った。


「ここでは照合しない」


「記録院の機材を持ち出すのですか」


「許可証に明記してある」


「業務に支障が出ます」


「代替機を使え」


「携帯型は一台だけです」


「人が一人殺されている。契約処理が数件遅れるくらいは我慢しろ」


「記録が遅れれば、権利を失う者もいます」


「なら、殺人へ使われていない機械を用意するんだな」


 室内の筆記音が、一瞬だけ止まった。


 すぐに再開される。


 だが、誰も今の言葉を聞かなかったことにはできなかった。


「殺人へ使われたとは、まだ確定していません」


 アデラが言った。


「そのとおりだ」


 グレアムは認める。


「だから、確かめる」


 圧印器は革箱から出され、証拠布へ包まれた。


 封印紙には、時刻、場所、機材番号、立会人が記入される。


 最後に、アデラへ確認署名が求められた。


 彼女は迷わなかった。


 細い黒線で、自分の名を書く。


 一画の乱れもない。


 自分が使っていた道具を、警察が押収した。


 その事実を、自分自身の署名によって確定させた。


     *


 市警察本部の証拠室は、記録院ほど白くなかった。


 灰色の石壁。


 煤の残る蒸気灯。


 大きさも材質も揃わない証拠箱。


 血のついた衣服、折れた工具、火災現場の灰、偽造印章が、事件番号ごとに鉄棚へ並んでいる。


 記録院が、社会から正式に認められたものを保存する場所なら。


 警察の証拠室は、誰かが隠そうとしたものを保存する場所だった。


 真夜中を過ぎていたが、グレアムは翌朝まで待たなかった。


 証拠台の中央には、押収された携帯照合圧印器。


 その左に、検死官が作った頭部傷の立体複製。


 右には、等寸の拡大写真。


 鑑識官が、器具の底面を測っている。


「外側の幅、二寸八分」


「傷は」


「皮膚の伸びを補正すれば、ほぼ同じです」


「突起の間隔」


「二分二厘。圧痕と一致します」


 レオンは底面へ斜光を当てた。


 七本の突起には、紙へ繰り返し押しつけた摩耗がある。


 欠けた一本の破断面は、すでに丸みを帯び、薄く酸化していた。


「この欠損は古い」


「殺害時に折れたわけではない?」


 ミラベルが尋ねる。


「少なくとも、事件当日に欠けたものではありません」


「なら、傷の空白と合います」


「形状が一致すれば」


「まだ足りないんですか」


「同じ形の器具が存在する可能性を除外する必要があります」


 ミラベルは何か言いかけ、口を閉じた。


「今、自分でも面倒だと思いましたね」


「少しだけです」


「進歩です」


「褒めました?」


「事実を述べただけです」


「遊ぶな」


 グレアムが証拠台を叩いた。


「型を取るぞ」


 柔らかい鑑定蝋が用意された。


 鑑識官が器具を垂直に持ち、一定の力で押し下げる。


 真鍮が蝋へ沈む。


 ゆっくり離す。


 表面に六本の細い線が残った。


 正確には、七本分の幅。


 一か所だけ、線のない空白がある。


 蝋板と検死写真の上へ、透明な目盛紙が重ねられた。


 外側の幅。


 一本ごとの線幅。


 間隔。


 欠損位置。


 欠けた突起の両端に残る、短い圧痕。


 すべてが重なった。


「形状一致です」


 鑑識官が言った。


 声は小さかったが、証拠室にいた全員へ届いた。


 署名片を契約本文へ固定するための道具。


 人間の意思を、正式文書へ結びつけるための道具。


 その底面と同じ形が、アルヴィンの後頭部に残されていた。


「凶器と見てよいか」


 グレアムが尋ねる。


「同じ型の器具で傷が作られた可能性は極めて高い。ただし、押収品そのものが使用されたと確定するには、付着物の確認が必要です」


「洗われている」


 レオンが言った。


 真鍮の表面は、不自然なほどきれいだった。


 古い摩耗や小傷は残っている。


 だが、突起の隙間にあるはずの紙粉やインク滓が、ほとんどない。


 柄の付け根には、新しい研磨布の繊維。


 接合部には、まだ乾ききっていない洗浄油の薄膜があった。


「洗浄時期は」


「油の状態から、ここ一、二日以内でしょう」


「事件後だ」


 グレアムの声が低くなる。


「日常清掃だったという説明はできます」


 レオンが言った。


「事件直後に偶然か」


「本人や弁護人は、そう主張するでしょう」


「お前はいつも、犯人より先に弁護を始めるな」


「法院で反論される前に、こちらで崩すためです」


「なら、洗浄だけでは足りん」


「内部を開けます」


 携帯照合圧印器は、単なる真鍮の塊ではない。


 柄を押すと内部のばねと滑動軸が動き、底面へ均等に圧力を伝える。押印後、ばねが柄を元の位置へ戻す構造になっている。


 表面を拭いても、軸と筒の隙間までは洗えない。


 封印番号を確認し、分解前の写真を撮る。


 側面の固定ねじが外された。


 柄が引き抜かれる。


 筒の内側には、暗い油が残っていた。


「灯りを」


 白い光が近づけられる。


 油の中に、赤褐色の小さな粒がある。


 さらに、ばねの巻き目へ淡い毛髪が絡んでいた。


 鑑識官が細いピンセットで取り出す。


 淡い金灰色。


 短い毛髪。


 途中には、乾いた褐色の付着物。


「被害者のものですか」


 ミラベルが尋ねる。


「比較前です」


 グレアムが止めた。


 検死時に保存されたアルヴィンの頭髪標本が運ばれる。


 同じ照明。


 同じ顕微鏡。


 二つを並べる。


 色。


 太さ。


 表面構造。


 細い髄質。


 いずれも保存標本と一致した。


 毛髪に付着していた褐色物からは、血液反応が出た。


「保存標本と色、太さ、髄質が一致しています」


 鑑識官は慎重に記録した。


「付着状況も含め、アルヴィン=ヴェイン由来の毛髪と判断します」


「同一人物と断定ではない?」


 ミラベルが聞く。


「毛髪だけで絶対的な個人識別はできません。しかし、被害者の傷と一致する器具の内部から、被害者と同じ特徴を持ち、血の付着した毛髪が見つかった。偶然入り込んだと考えるのは困難です」


 グレアムが頷く。


「赤い粒は」


 比較試料が並べられた。


 アルヴィンの靴底。


 商会馬車の荷台。


 東倉庫契約室周辺の地面。


 圧印器の可動部から取り出された粒。


 赤粘土。


 廃煉瓦。


 鉄滓。


 成分と混合の特徴が一致する。


「高架下の泥ではありません」


 鑑識官が言った。


「東倉庫地区の地盤材と同系統です」


「この器具は、東倉庫へ持ち込まれた」


 ミラベルが言う。


「少なくとも、この土が内部へ入る場所で使用されたか、開放されていた」


 レオンが訂正した。


「そして、アルヴィンさんの頭部へ触れた」


「形状と内部の付着物は、そう示しています」


「これで殺人容疑の令状は取れるな」


 グレアムが言った。


「器具と被害者を結ぶ物証としては充分でしょう」


 レオンが答える。


「アデラ本人とは?」


「登録使用者はアデラです」


「貸したと言われる」


「貸出記録はない」


「記入漏れだと」


「個人保管棚へ戻されていた」


「誰かが戻した」


 ミラベルの声に苛立ちが滲む。


「どんな証拠も、他人が使った、記録が漏れたと言えば逃げられるんですか」


「言うことはできます」


 レオンは答えた。


「ですが、説明できることと、信用されることは別です」


「器具が使われたことは」


「物証です」


「誰が持ったかは」


「まだ、人間の説明が必要です」


     *


 証拠室の扉が開いた。


 気送管管理班の警官が、細長い金属箱を運び込んでくる。


「記録院から押収した発送操作帯です」


 封印を確認し、箱が開かれた。


 内部には、幅の狭い記録紙が巻かれている。


 事件当夜。


 東倉庫から中央記録院へ向かう専用気送管。


 午後十時十七分。


 《土地権利放棄・旧移転追認契約書》を収めた筒が発送された時刻。


 重要契約の発送弁は、個人照合鍵を差し込まなければ開かない。


 鍵の凹凸が機械内部の読取板を押し、その形と発送時刻が、操作帯へ自動的に刻まれる。


 人間が書き込む記録ではなかった。


「該当箇所は」


 警官が帯を示す。


 午後十時十七分。


 契約筒EW―九一四。


 発送元、東倉庫。


 操作鍵符号、AR―四四。


「登録者」


 グレアムが尋ねる。


「アデラ=ローム上級照合官です」


「彼女は部署共用鍵だと言っていました」


 ミラベルが言う。


「登録上は個人照合鍵です」


 警官が別紙を開く。


「課外へ持ち出す際には、本人の署名が必要。事件当日の貸出記録はありません。鍵本体は今朝、本人の鍵束から押収され、読み取り形状も一致しています」


「複製は」


「規程では禁止されています。ただし、物理的に不可能ではありません」


 レオンが言った。


「鍵が使われた事実と、アデラ本人が操作した事実は分ける必要があります」


「またですか」


「必要です」


「でも」


「一つの証拠なら、貸したと言える。一つの記録なら、記入漏れと言える。一つの時刻なら、誤差だと言える」


 レオンは発送操作帯を、圧印器の鑑定記録の横へ置いた。


「すべてが同じ夜、同じ場所、同じ契約へ集まった理由は、個別の偶然では説明できません」


 グレアムは、証拠台の資料を行為ごとに分け始めた。


 署名。


 殺害。


 死体運搬。


 現場偽装。


 契約偽装。


 死後の発送。


 四年前の死亡記録。


「整理するぞ」


 警部の声が、証拠室の空気を変えた。


「分かっていること、推測していること、まだ分からないことを混ぜるな」


 ミラベルが手帳を開く。


 レオンは壁際の黒板を引き寄せ、白墨を取った。


 最初に書いた名は、


 エドモンド=ブラスウェル。


「署名手続への立会い」


 ミラベルが言う。


「事実か」


 グレアムが確認する。


「東倉庫契約室で、彼の個人鍵印が使われています」


「それだけでは、本人の入室と断定できません」


 レオンが言う。


「ですが、聴取時に任意提出された白手袋から、ヴェイン家の青インクが検出された」


 透明な証拠袋が台へ置かれた。


 薄い白手袋。


 エドモンドが事件当夜に着用していたものとして、自ら警察へ提出した品だった。


「どこにインクが?」


 グレアムが問う。


「指先ではありません」


 鑑識報告を読んでいたミラベルが答える。


「掌側。細長い署名票を机へ押さえたときに触れる位置です」


「血液反応は」


「なし」


 レオンは黒板へ書いた。


 署名票へ触れた可能性が高い。


「署名の場にいた」


 ミラベルが言う。


「その推論は、複数の証拠と一致します」


「殺害へ直接触れた証拠はない」


「白手袋からは」


 グレアムが頷く。


「次だ」


「殺害推定時刻には、本館会議室にいました」


 ミラベルが言った。


「会議記録は真正。複数の出席者と機械記録が一致しています」


 殺害時刻には不在。


「会議後」


 グレアムが促す。


「個人鍵印を用いて商会馬車が使用されています」


 レオンが答える。


「馬車の車輪幅は高架下の痕跡と一致。荷台と運搬布から、アルヴィン由来と判断された毛髪。東倉庫の赤土。測量杖から欠けた真鍮片は、高架下で発見されています」


「蒸気弁には商会工具の痕」


 ミラベルが加える。


「死後火傷がつけられた時刻とも合います」


 黒板へ。


 死体運搬と蒸気偽装へ関与。


「契約書を焼いたのも、エドモンドですか」


 ミラベルが尋ねる。


「保守通路に、商会用灯具の油と硝子片がありました」


 レオンが答える。


「ですが、それだけでは、誰が署名欄を焼いたかまでは確定しません」


「青色吸取砂を置いた者も」


「まだ不明です」


「高架下の偽装全体へ関わった可能性は高い」


 グレアムが言う。


「だが、個々の作業まで事実として書くな」


 レオンは黒板の文言を変えなかった。


 死体運搬と蒸気偽装へ関与。


 その下に。


 殺害時刻には不在。


「何をした者かは分かります」


 ミラベルが言う。


「何をしていない可能性が高いかも」


「殺害実行」


 グレアムが言った。


「少なくとも、検死時刻と会議記録が正しい限り、エドモンドには不可能だ」


「共謀や指示は」


「あり得ます」


 レオンが答える。


「証拠は?」


「ありません」


「なら、殺人犯とは断定しない」


「ええ」


 死体を運んだ者。


 死を別の形へ見せようとした者。


 だが、アルヴィンの命を奪った時刻には、その場にいなかった者。


「次だ」


 グレアムが言う。


 レオンは、黒板の右側へ書いた。


 アデラ=ローム。


「署名票を扱えた」


 ミラベルが言う。


「立場と権限です」


 レオンが答える。


「本人が扱ったことは、まだ直接証明されていません」


「同じ番号の二種類の契約を作ることも」


「旧式番号機は、彼女の管理責任下から消えています」


「使った姿を見た者はいない」


「したがって、能力と機会です」


 黒板へ。


 同番号書類を作成できる立場。


「アリバイ」


「記録院にいたという入退室簿は、本人が記入。夜間内扉の記録も本人が管理」


 ミラベルが言った。


「客観的な在庁証明ではない」


 自己作成のアリバイ記録。


「凶器」


 グレアムの声が低くなる。


 証拠台には、封印された携帯照合圧印器がある。


「底面の形状が頭部傷と一致」


 レオンが言う。


「内部から、アルヴィン由来と判断された血の付着した毛髪。東倉庫地区の赤土。事件後に洗浄された痕跡」


「アデラの個人保管棚から押収」


「登録使用者もアデラ」


 レオンは黒板へ、慎重に書いた。


 殺害へ使用された可能性が極めて高い器具の登録使用者。


「長いですね」


 ミラベルが言う。


「正確です」


「この器具が使われたことは、事実では?」


「同じ型の別器具という可能性は、ほぼ除外できます」


「では」


 レオンは文言を短くした。


 殺害に使用された圧印器を管理。


「管理したことと、振り下ろしたことは違う」


 グレアムが確認する。


「ええ」


「気送管」


 ミラベルが言った。


「アルヴィンの死後、午後十時十七分。偽の土地放棄契約が東倉庫から発送された」


「操作には、アデラの個人照合鍵」


 死後発送された偽契約に個人鍵が使用。


「四年前の死亡記録にも、確認印を押している」


「下級照合官として、土地権利移転に付随する処理へ関与していました」


「同じ旧式番号機の打刻もある」


「四年前の偽装を設計した者までは、まだ不明です」


 四年前の死亡記録処理にも関与。


 黒板に、二人の名と行為が並んだ。


 エドモンド=ブラスウェル。


 署名票へ触れた可能性が高い。


 死体運搬と蒸気偽装へ関与。


 殺害時刻には不在。


 アデラ=ローム。


 同番号書類を作成できる立場。


 自己作成のアリバイ記録。


 殺害に使用された圧印器を管理。


 死後発送された偽契約に個人鍵が使用。


 四年前の死亡記録処理にも関与。


「文書の仕掛けは解けています」


 ミラベルは言った。


「アルヴィンさんは、《生存確認・土地権利再審申立書》へ署名した」


「ええ」


「提出署名片は切り離され、同じ番号を持つ《土地権利放棄・旧移転追認契約書》へ移された」


「ええ」


「署名が属する場所を、誰かが変えた」


 レオンは二つの契約の認証写真を見た。


 一方は、生きていることを取り戻すための文書。


 もう一方は、自分の土地を手放し、過去の処理を認める文書。


 その間にあるのは、アルヴィン本人が書いた一つの名だった。


「高架下の死体偽装には、エドモンドが関わった」


「物証は、そう示しています」


「アデラの圧印器が、アルヴィンさんの傷を作った」


「器具が使われた事実は、ほぼ確定です」


 レオンは言葉を区切った。


「では、犯人は」


「その器具を持った者です」


「アデラではないんですか」


「アデラが管理し、彼女の棚へ戻されていた。ですが、それだけでは、振り下ろした手まで見えません」


「ここまで揃っても?」


「ここまで揃ったからこそ、本人へ一つずつ説明させられます」


 ミラベルは黒板を見た。


 アデラの名の下へ、証拠が並んでいる。


 犯人の名は、すでに書かれているように見えた。


 だがレオンは、彼女の名前と殺人のあいだへ、最後の線を引かなかった。


「もう分かっているんですよね」


 ミラベルが尋ねる。


「署名が、どの文書へ属していたかは」


「犯人は?」


 グレアムもレオンを見る。


 紙は、署名の移動を示した。


 機械は、使われた鍵を示した。


 死体は、触れた器具を示した。


 だが、殺意はどの記録にも印字されていない。


「それは、文書ではなく人間へ尋ねます」


 レオンが言った。


「明朝、関係者を契約照合室へ集める」


 グレアムが腕を組み直した。


「シェリル。リュシアン。エドモンド。アデラ。記録院監察官」


「何をするんです」


「同じ契約手続を、もう一度行います」


 レオンが答えた。


「一つの署名が、別の文書へ属する瞬間を、全員の前で再現する」


「アデラさんが拒否したら」


「圧印器と個人鍵を根拠に、拘束令状を取る」


「エドモンドは」


「死体遺棄と証拠隠滅の容疑で確保する」


 ミラベルは、証拠室の時計を見た。


 夜は深い。


 それでも事件は、ようやく一つの部屋へ集まり始めている。


「明日、終わるんですね」


 レオンは、すぐには答えなかった。


 殺人犯を捕らえる。


 契約偽装を暴く。


 アルヴィンが何へ署名したかを証明する。


 それで、今回の殺人事件は終わるかもしれない。


 だが、四年前の死亡記録を誰が設計したのかは分からない。


 ヴェイン家の土地も、まだ戻らない。


 アルヴィンの名が、都市の正式な記録へ戻る保証もない。


「殺人事件としては」


 レオンは答えた。


「それ以外は?」


「事件が解決しても、記録が訂正されるとは限りません」


「なら、終わらせるだけでは足りません」


「何をするつもりです」


「書きます」


 ミラベルは手帳を閉じた。


「誰が何をしたかだけではなく。アルヴィンさんが、何へ署名したのかを」


「新聞が載せれば」


「載せなくても」


 レオンは、何も言わなかった。


 グレアムが外套を取る。


「明朝八時、記録院だ。遅れるな」


「私は正式に参加できますか」


「記者として、縄の外から見ろ」


「室内に縄を張るんですか」


「お前が越えないなら必要ない」


「では、越えません」


「信用できんな」


「記録へ残しますか」


「帰れ、ワトリア」


「はい」


 ミラベルはわずかに笑い、扉へ向かった。


 レオンは黒板の前に残った。


 署名が属していた場所は、分かった。


 死体を運んだ者も。


 殺害へ使われた器具も。


 だが。


 その器具を持った手だけが、まだ記録の余白にあった。


     *


 ――ここで。


 わたしは、記録する筆を止める。


 わたしは、イル=ヴァス。


 沈黙のうちに交わされた契約を観測し。


 書かれた言葉の裏側に、書かれなかった意味を探す者である。


 人間たちは、すでに必要なものを集めた。


 四年前の死亡記録。


 焼かれた空白。


 紙の繊維へ沈んだ青い名。


 二つへ裂かれた署名票。


 二度打たれた七。


 自ら書かれたアリバイ。


 機械が刻んだ発送時刻。


 死体を運んだ者の痕跡。


 死者へ触れた真鍮の器具。


 事実は揃った。


 仮説も立った。


 不足しているのは、紙を動かし。


 器具を持ち。


 人間を死者へ変えた者の説明だけである。


 これより先。


 探偵は関係者を、一つの部屋へ集める。


 そして。


 紙ではなく。


 その紙を動かした手へ、問いを向ける。


 だが、彼が名を告げる前に。


 わたしは、この物語を止めよう。

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