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終幕 ― 最初の一頁

 白鐘女学園から黒鴉館へ戻ったころには、霧燈通りのガス灯が灯っていた。


 一階の《煤鳩亭》には、夕食時を過ぎたあとも、煮込み料理と焼きたてのパンの匂いが残っている。


「座りな」


 マルタ=グレインは、店へ入ってきたエレノアを見るなり言った。


「先に手を洗って――」


「座りな」


「はい」


 エレノアは素直に椅子へ腰を下ろした。


 その前へ。


 牛肉と根菜のシチュー。


 厚切りのパン。


 肉入りの小さなパイ。


 最後に、蜂蜜を掛けた焼き林檎まで置かれる。


「これ、全部?」


「食べるんだよ」


「私一人で?」


「鐘楼から落ちかける元気があるなら、入るだろう」


「落ちてはいません」


「落ちかけたんだろ」


 マルタは、包帯を巻かれた手と。


 脇を応急修繕された制服を順に見た。


「どっちも似たようなもんだ」


「結果が違います」


「結果が良けりゃ、何をしてもいいと思ってる顔だね」


 エレノアは反論しかけたが。


 差し出された匙を受け取った。


「嬢ちゃんも食べな」


 ミラベルの前にも、シチューとパンが置かれる。


「ありがとうございます」


「あんたも、取材だか潜入だかで食事を抜いたんだろう」


「昼に、少しだけ」


「少しは、食べたうちに入らないよ」


 最後に。


 マルタはレオンの前へ、一枚の紙を置いた。


 料理ではなかった。


 レオンが紙面を見る。


「何だ、これは」


「請求書」


「見れば分かる。何の請求だ」


「妹を危ない足場へ行かせた責任分」


「行かせていない。止めた」


「止めきれなかったんだろ」


「それが俺の責任になるのか」


「あんた、兄なんだろ?」


 請求書には。


 エレノアの食事代。


 包帯代。


 制服の応急修繕費。


 そして最後に。


 《大家の心労》


 と記されていた。


「この項目には、算定基準がない」


「今、決めたからね」


「支払い義務もない」


「家賃と一緒に取り立てるよ」


「家賃とは別件だ」


「払ってから言いな」


 マルタは請求帳を抱え、厨房へ戻っていった。


 レオンは請求書を置き。


 向かいの妹を見る。


 エレノアはシチューへパンを浸していた。


「二度と、一人で行くな」


「一人ではありませんでした」


「足場へ出たときは一人だった」


「反省しています」


 エレノアは真面目な顔で頷いた。


「次は足場を先に調べます」


 レオンは片手で額を押さえた。


「そういう意味ではない」


「老朽化の確認は重要でしょう?」


「足場へ上がるなと言っている」


「安全なら?」


「別の道を探せ」


「今回は、その道が混んでいたのよ」


 ミラベルがパンを置いた。


「お二人とも、よく似ています」


「似ていない」


「似ていません」


 兄妹の声が重なった。


 二人は、互いを見る。


「真似をするな」


「お兄さまが合わせたのでしょう?」


「ほら、そこです」


 ミラベルが言った。


 エレノアは食事へ戻り。


 レオンは、冷めかけた珈琲を飲んだ。


 否定する者がいなくなったので。


 ミラベルも食事を再開した。


     *


 パイが皿から消えたころ。


 レオンは椅子の脇へ置いた革鞄を開いた。


「エレノア」


「まだ食べています」


「食べながらでいい」


「説教なら、食後にして」


「違う」


 取り出したのは。


 片手に収まるほどの、小さな手帳だった。


 濃茶色の革装丁。


 四隅には真鍮の金具。


 留め紐を外せば、中には薄い罫線を引いた頁が綴じられている。


 レオンは手帳を机の上へ滑らせた。


 エレノアの匙が止まる。


「私を記録するため?」


「君が、自分で記録するためだ」


「何を?」


「どこへ行くのか。何を見たのか。誰と動くのか」


 レオンは。


 包帯を巻かれた妹の手へ視線を落とした。


「少なくとも、君を探す側へ手掛かりを残せ」


「探されることが前提なのね」


「今回、君は学園を抜け出し。旧東棟へ入り。閉じ込められ。鐘楼の外へ出た」


「順番に並べると、多く見えますね」


「並べなくても多い」


 エレノアは手帳を見る。


「これを書けば、自由に調査していいの?」


「許可証ではない」


「では、追跡票?」


「違う」


 レオンは短く息を吐いた。


「君が何を見て、何を考えたのか。それを、他人が残す記録だけに任せるな」


 エレノアが顔を上げる。


「今回、君が先に見つけたものがあった」


 リボンと洗濯札。


 刺繍の暗号。


 少女たちが守っていた沈黙。


 暖房管を伝う声。


 学園の内側にいなければ。


 拾うことのできなかった手掛かり。


「だが、君が何も書かなければ」


 レオンが言う。


「あとから、別の誰かが意味を決める」


「神経衰弱の生徒が、怪談を追って迷い込んだ、と?」


「ああ」


 ヘレナが作ろうとしていた記録だった。


 残された説明が一つだけなら。


 いずれ、その一つが事実になる。


 エレノアは手袋を外し。


 新しい手帳を手に取った。


 革の表面を、指先でなぞる。


「兄さまが選んだの?」


「文具店へ用途を伝えただけだ」


「どんな用途?」


「落としても壊れにくく。濡れても、頁が剥がれにくいもの」


「屋根や足場へ持っていくため?」


「そう解釈するな」


 エレノアは留め紐を巻いた。


「もらっておくわ」


「使え」


「考えておきます」


「今、書け」


「何を?」


「現在地からだ」


 エレノアは手を伸ばし。


 レオンの胸元から、筆記具を抜き取った。


「勝手に取るな」


「手帳だけ渡して、筆記具を渡さない方が悪いわ」


 最初の頁を開く。


 まだ何も記されていない。


 白い紙。


 エレノアが筆先を置こうとしたとき。


 煤鳩亭の入口で。


 呼び鈴が鳴った。


     *


「エレノア=クラウス嬢へ」


 配達人が差し出した封筒には。


 ヴァルテリア中央記録庁の印と。


 クラウス家の封蝋が押されていた。


 エレノアは封筒を受け取る。


「嫌な予感しかしないわ」


「開けろ」


 レオンが言う。


「私宛てよ」


「兄さんからだろう」


「だから嫌なの」


 封を切る。


 中には、上質な便箋が一枚。


 エドガー=クラウスの整った文字が、余白まで計算したように並んでいた。


 エレノアは黙読し。


 途中で眉を寄せ。


 最後に。


 末尾をもう一度見た。


「何と?」


 ミラベルが訊く。


 エレノアは感情のない声を作り、読み上げた。


「無断外出、七件。校則違反、十二件。記録庁への無断電信利用、一件」


 一行空けて。


「事件解決、一件」


 さらに一行。


「差し引き十九件、叱責対象である。帰宅日時を知らせなさい」


「計算は合っている」


 レオンが言った。


「そこ?」


「兄さんらしい」


 エレノアは、手紙の下部を指で隠した。


「続きがありますね」


 ミラベルが言う。


「ありません」


「追伸が見えました」


「見間違いです」


「読め」


 レオンが命じる。


 エレノアは数秒、抵抗した。


 やがて。


 小さな声で読む。


「追伸。よくやった」


 ミラベルが微笑んだ。


 レオンは何も言わず。


 珈琲へ視線を落とした。


 エレノアは食卓のナイフを取り。


 便箋の末尾だけを、丁寧に切り取った。


「何をしている」


「必要な部分を保存しているの」


 切り取った追伸を。


 もらったばかりの手帳へ挟む。


 残りの便箋は。


 そのまま暖炉へ向けて持ち上げた。


 レオンが手首をつかむ。


「公文書を燃やすな」


「家族の手紙でしょう?」


「兄さんの場合、ほぼ公文書だ」


「私の違反記録よ」


「叱責対象の証拠でもある」


「だから燃やすの」


「保存しろ」


「嫌です」


「手帳へ挟め」


「追伸だけで十分よ」


「十分かどうかを、記録される側が決めるな」


 エレノアの目が細くなる。


「自分の記録を、自分で書けと言ったばかりでしょう?」


 レオンの手が止まった。


 ミラベルが口元を隠す。


「エレノアさんの方が、一枚上ですね」


「褒めるな」


 レオンは便箋を取り上げ。


 革鞄へ収めた。


「帰宅日時は、あとで相談する」


「帰るとは言っていません」


「書簡へ返答しろ」


「検討します」


 エレノアは新しい手帳を開いた。


 最初の頁へ。


 今度こそ、筆を走らせる。


 現在地――黒鴉館一階、《煤鳩亭》。


 同行者――レオン=クラウス。ミラベル・ワトリア。


 少し考え。


 もう一人の名を加える。


 マルタ=グレイン。


 その下へ。


 記録――事件解決、一件。


 最後に。


 切り取った小さな追伸を挟み。


 頁の下へ、自分の名を書いた。


 記録者――エレノア=クラウス。


 誰かに所在を書かれるためではない。


 誰かに人生を決められるためでもない。


 自分が見たものを。


 自分が選んだ言葉で残すために。


 少女は。


 最初の一頁を書き終えた。


# 終幕後


 三日後。


 エレノア=クラウスは。


 灰百合寮の玄関を、正面からくぐった。


 使用人服ではない。


 窓も。


 洗濯籠も使っていない。


 灰色の制服を着て。


 正式な寄宿生として帰ってきた。


「処分通知だ」


 寮母マグダが、一枚の紙を差し出す。


 そこに。


 停学の文字はなかった。


 記されていたのは。


 ――校内奉仕。旧東棟保管資料の分類および整理。


「これは、罰になっているんですか?」


 イザベルが通知を覗き込む。


「なっていないわね」


 エレノアは即答した。


「本人が認めるんじゃない」


 マグダが眉を吊り上げる。


「一日中、埃まみれの箱を運ぶんだ。少しは懲りるだろう」


「中身を読んでも?」


「分類に必要な範囲だけだ」


「分類するには、全部読む必要があります」


「そう言うと思ったよ」


 マグダは大きく息を吐いた。


     *


 旧東棟の記録室には。


 エレノアのほかに。


 ルチア。


 イザベル。


 そして、校内奉仕を申し出た数人の寮生が集まっていた。


 窓は修理のため開け放たれ。


 長年籠もっていた紙と煤の匂いが、冷たい風に少しずつ薄められている。


 少女たちは箱を開き。


 創設年ごとに記録を分け。


 破損した紙の間へ、保護用の薄布を挟んでいった。


「ここにも、《第十三在籍者》があります」


 ルチアが古い名簿を持ち上げる。


「名前は?」


「ありません。入所日と、退所日だけ」


「こちらには、教師見習いとして北部へ移ったとあります」


 イザベルが別の記録を読む。


「怪談では、旧東棟で死んだことになっていたのに」


「生きて出ていった人の話は、怪談になりにくいのでしょうね」


 エレノアは箱の底へ手を入れた。


 指先へ。


 紙とは違う、硬い感触が触れる。


 引き出したのは。


 手のひらに収まる、小さな札だった。


 角は丸く摩耗し。


 表面の文字も薄れている。


 だが。


 同じ箱へ残された古い分類印と、紙質は一致していた。


 ルチアが埃を払い。


 三人で札を覗き込む。


 そこには。


 簡潔な記録が残されていた。


 ――第十三在籍者


 ――氏名 本人の希望により記さず


 ――退所後 西方鉄道書記として勤務


 誰も。


 すぐには口を開かなかった。


 名前はない。


 だが。


 その少女が学び。


 学園を出て。


 鉄道の書記として働いたことは残されている。


 旧東棟で死んだのではない。


 壁の中へ消えたのでもない。


 自分で選んだ次の居場所へ。


 確かに歩いていった。


「生きていた」


 ルチアが静かに言った。


「ええ」


 エレノアは札を、窓から差す光へ傾けた。


「怪談より、その後の人生の方が面白そうね」


「また調べるつもりですか?」


 イザベルが警戒する。


「校内奉仕よ」


「西方鉄道は校外です」


「資料整理の結果、追加の照合が必要になるかもしれないでしょう?」


「必要性を決めるのは教師です」


「教師が見落としたから、怪談になったのでは?」


 イザベルが反論する前に。


 ルチアが笑った。


 エレノアは。


 レオンから渡された革装丁の手帳を取り出した。


 札の文面を、最初から書き写す。


 所在。


 発見者。


 記録箱の分類番号。


 札に記された、少女の退所後。


 そして。


 推測と事実を分けて記す。


 氏名――記録なし。


 生存――退所後の勤務記録により確認。


 最後に。


 自分の名を添えた。


 記録者――エレノア=クラウス。


 顔を上げれば。


 未整理の箱は、まだ壁際へ幾つも積まれている。


 学園の古い記録。


 少女たちが残した秘密。


 社交界へ届かなかった手紙。


 名前だけが失われた噂。


 死者のいない怪談は。


 どうやら。


 まだ終わってはいなかった。

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