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第13節 ― 自分の名で答える

 白鐘女学園の講堂には、祭の飾りだけが残されていた。


 壇上の白い鐘。


 銀糸の百合。


 寄付者へ贈られるはずだった花輪。


 成績優秀者へ渡されるはずだった証書。


 楽器には布が掛けられたまま。


 合唱隊の席は空いている。


 オーレリア=ベルモントの名で朗読されようとしていた作文は、壇上中央の机へ置かれ、一行も読まれていなかった。


 午後。


 全校生徒と教師が、改めて講堂へ集められていた。


 来賓と寄付者の一部も残っている。


 扉の内側には、グレアム警部と警邏官。


 壇上の端には、中央記録庁の記録官。


 その隣には。


 三つの印によって封じられた木箱が置かれていた。


 中央記録庁。


 ヴェルム=クロウ市警。


 白鐘女学園。


 どの封蝋にも、破られた跡はない。


 箱の中には。


 暖房炉へ入れられる直前に回収された、黒革の帳簿がある。


 生徒席の最前列には、ルチア=フェインが座っていた。


 灰百合寮から届けられた制服は、痩せた体へ少し大きく見える。


 顔色も、まだ白い。


 それでも。


 旧療養室で灰色の毛布に包まれていたときとは違う。


 胸元には。


 自分の銀百合章が留められていた。


 右にはイザベル。


 左にはエレノア。


 エレノアの手には包帯が巻かれ、制服の脇には、鐘楼の窓枠で裂けた跡が残っている。


「痛む?」


 ルチアが小声で訊いた。


「これくらい平気よ」


「医師は安静にするように言っていました」


「座っているでしょう?」


「鐘楼の外へ出ないことも、安静に含まれると思います」


「今日は、もう出ないわ」


「今日は?」


 イザベルが低く繰り返す。


「言葉の隙間を探すのはやめなさい」


「マグダ寮母みたいね」


「あなたの監督を続ければ、誰でも似てきます」


 エレノアは反論しかけた。


 その前に。


「静粛に」


 セラフィナ=アルド校長の声が響いた。


 講堂が静まる。


 セラフィナは、白い鐘の前に立っていた。


 長い年月を生きたエルフらしい落ち着きは、まだ失われていない。


 だが。


 目元には、深い疲労が刻まれていた。


「本日の白鐘祭は、中止いたします」


 生徒席に。


 小さなざわめきが広がった。


 教師たちは、すでに知らされている。


 生徒たちも、祭が続かないことは分かっていた。


 それでも。


 校長自身の言葉で中止が告げられた瞬間。


 数週間を準備へ費やした者たちの落胆と。


 何かが決定的に変わったという不安が。


 講堂全体へ伝わった。


「本校の在籍記録、成績記録、奨学制度および遠隔修学制度に、重大な不正が確認されました」


 寄付者席から声が上がる。


「確認された、とは。まだ調査中なのではありませんか」


「刑事上、行政上の責任については、正式な調査が続きます」


 セラフィナは逃げずに答えた。


「しかし、本校の記録と現実が一致していないこと。生徒の成果が、別の生徒の名へ移されていたこと。そして、ルチア=フェインさんが本人の意思に反して旧東棟へ隔離されていたことは、すでに確認されています」


 視線が。


 一斉にルチアへ向いた。


 ルチアの肩が強張る。


 エレノアは何も言わず。


 包帯を巻いた手を、座席の間へ置いた。


 触れはしない。


 だが、ルチアから見える場所に。


 ルチアはその手を見て。


 わずかに肩の力を抜いた。


「記録上の偽装について」


 セラフィナが続ける。


「レオン=クラウス氏から説明していただきます」


     *


 レオンが壇上へ上がった。


 黒い外套は脱いでいる。


 手には革鞄。


 胸元には、いつもの鑑定レンズ。


 聴衆へ礼はしなかった。


 代わりに。


 中央記録庁の記録官へ顔を向ける。


「封印の確認を」


 記録官が木箱の前へ進む。


「中央記録庁印、異常なし。市警印、異常なし。白鐘女学園印、異常なし」


 グレアムも封蝋を確かめた。


「回収後、この箱は市警と中央記録庁の共同管理下にあった。誰も開けていない」


 セラフィナも校長印を確認する。


「本校の封印にも、破損はありません」


 三者の立ち会いのもと。


 封蝋が割られた。


 紐が解かれ。


 木箱の蓋が開く。


 黒革の帳簿が姿を現した。


 表紙には。


 二つの円が、上下に重なって押されている。


「《補助履修対照簿》」


 レオンが言った。


「公開在籍簿とは別に、学籍室で管理されていた内部帳簿だ」


 記録官が白手袋を着け、最初の頁を開く。


 正式在籍者。


 補助筆記生。


 課題の種別。


 成績を登録する名。


 提出日。


 寄付金の管理番号。


 細い罫線の中へ。


 二人分の名前が並べられていた。


「この帳簿は、誰の成果を、誰の記録へ移したのかを照合するために使われていた」


「清書作業の記録です」


 教師席の最前列から、ヘレナ=ヴァルクが言った。


 両側には女性警邏官が立っている。


 手錠は掛けられていない。


 だが。


 席を離れることは許されていなかった。


「療養中の遠隔修学生が送った課題を、読みやすい形へ整えるための補助です」


「清書と記された箇所もある」


 レオンは認めた。


「だが、清書では説明できない記載もある」


 記録官が頁をめくる。


 文学作文。


 原稿作成、ルチア=フェイン。


 正式提出、オーレリア=ベルモント。


 歴史課題。


 資料選定、引用作成、本文執筆、ルチア=フェイン。


 正式提出、オーレリア=ベルモント。


 契約法試験。


 受験補助、ルチア=フェイン。


 成績登録、オーレリア=ベルモント。


「受験補助は、本人の口述を書き取ったものです」


 ヘレナが言う。


「その試験日に」


 レオンは革鞄から医療照合書を出した。


「オーレリア=ベルモントは、ドック=セリム海浜療養院へ入院していた」


 療養院からヴェルム=クロウまでは。


 急行列車でも半日以上。


 同じ日の午前に診察を受け。


 午後に白鐘女学園の試験を口述することはできない。


「事前に指示を受けていた可能性があります」


「試験問題は、開始直前まで封印されていました」


 契約法担当の教師が、青ざめた顔で言った。


「開封したのは、私と……ヴァルク先生です」


 視線がヘレナへ集まる。


 レオンは、さらに記録を並べた。


 白鐘女学園の出席簿。


 課題提出表。


 成績票。


 灰百合寮の居住記録。


 そのすべてが。


 オーレリアを一年間、学園へ出席させていた。


 対して。


 鉄道の旅客照合記録。


 ドック=セリムの郵便記録。


 海浜療養院の診療記録。


 学園の外にある三種類の記録は。


 同じ一年間。


 オーレリア本人を、西岸の町へ置いている。


「鉄道は移動を記す。郵便は発送地を記す。療養院は受診を記す」


 レオンは言った。


「互いに独立した記録が一致している。それに対して、この学園だけが、オーレリアを通常出席の生徒として扱った」


「遠隔修学制度は、違法ではありません」


「そのとおりだ」


 レオンは否定しない。


「病気の生徒が学び続けるために必要な制度でもある。問題は、遠隔修学と記さなかったことだ」


 通信履修の印はない。


 長期欠席の記載もない。


 寮で暮らしているとさえ記録されている。


「本人がいない事実を隠し、別の生徒の出席と成果を使って、通常の在学記録を作った」


 レオンは、壇上の原稿を見る。


「その成果を作った生徒の一人が、ルチア=フェインだ」


 続いて。


 ルチアの退学予定通知を置く。


「ルチアは、家庭上の事情による自主退学として処理される予定だった」


 署名は、ルチア本人の筆跡。


 だが。


 署名欄のインクだけが、本文より古い。


「過去に提出された署名票が、転用された可能性が高い」


「可能性にすぎません」


 ヘレナが言う。


「そうだ」


 レオンは即座に認めた。


「インクの年代差だけでは、どの署名票を、誰が、どのように転用したかまでは証明できない」


 講堂の何人かが、戸惑ったように顔を上げる。


 追及する側が。


 自ら証拠の限界を示したからだ。


「だが」


 レオンは続ける。


「ルチア本人は、退学へ同意していない。家族も申請していない。本人は発効予定日の前日まで、学園内の旧療養室へ閉じ込められていた」


「療養措置です」


「外部の医師は診察していない」


「移送先で診断する予定でした」


「本人は移送を拒否した」


 グレアムが言った。


「移送票には、医師の対面診断も、家族の確認もなかった」


 レオンは、次に三通の封筒を並べた。


「家族へは、ルチア本人の筆跡を持つ手紙が送られていた」


 学園生活は順調。


 体調は回復している。


 面会は待ってほしい。


 心配はいらない。


「最近の手紙を、ルチア本人は書いていない」


「本人が過去に書いた文章です」


 ヘレナが言う。


「家族を安心させるために使用しただけです」


「使用した」


 レオンは、その言葉だけを拾った。


 ヘレナは口を閉ざした。


「白鐘女学園の書式授業では、生徒が作成した模範書簡を学籍課へ保管していた。ルチアも、《家族を安心させる手紙》を書かされている」


 最近届いた手紙には。


 その課題と同じ文章が使われていた。


「複写方法は、まだ確定していない。だが、本人が最近書いていない文章を、本人の文字のまま家族へ送り続ける材料は、学園内にあった」


 レオンは、最後に創設時の建築図面を広げた。


 現在の図面から消された旧療養室。


 食事用の昇降棚。


 暖房室と寮へつながる伝声管。


「ルチアは、ここから夜間点呼へ声を送った」


「十三番。ここにおります」


 幽霊の声ではない。


 呼ばれなかった少女が。


 自分はまだここにいると伝えるための返事だった。


「灰衣の目撃証言が二種類に分かれた理由も、確認されている」


 小柄。


 右足を引く。


 平らな室内履き。


 それはルチア。


 背が高い。


 背筋を伸ばす。


 硬い踵の革靴。


「私です」


 ヘレナが言った。


 講堂が静まる。


「旧東棟へ生徒を近づけさせないため、灰色の外套と白い覆いを使いました」


「怪談を利用した理由は」


 レオンが訊く。


「説明よりも効果的だからです」


 ヘレナの声は変わらなかった。


「危険な旧校舎へ近づくなと言えば、好奇心から入ろうとする生徒がいる。幽霊が出ると言えば、多くは近づかない」


 前列で。


 エレノアが、わずかに首を傾げた。


 レオンが見下ろす。


「君は黙っていろ」


「何も言っていないわ」


「顔が言っている」


 張りつめた講堂のどこかで。


 小さな笑いが漏れた。


 すぐに消える。


 レオンは再び聴衆へ向き直った。


「偽造されたのは、個々の文字ではない」


 署名は本人のもの。


 手紙も本人が過去に書いたもの。


 遠隔修学も、補助筆記も、療養措置も。


 制度としては実在している。


「存在する記録と制度を組み替え、現実とは別の意味を持たせた」


 オーレリアは、ここにいる。


 ルチアは、帰郷した。


 本人が退学を望んだ。


 家族は納得している。


 課題はオーレリアが書いた。


「それが」


 レオンは言った。


「この事件の記録上の偽装だ」


     *


 レオンが壇上を下りる。


 入れ替わるように。


 ミラベルが手帳を持って立った。


「記録へ書かれなかった声について、読み上げます」


 開いた頁には。


 代理筆記をさせられた奨学生たちの証言が記されている。


 名前は伏せられていた。


 全校生徒の前で。


 再び誰かの人生を、本人の意思なく公開しないためだった。


「最初は、清書だけだと説明された」


 ミラベルが読む。


「文字を整えるだけなら、自分の勉強にもなると思った」


 次の証言。


「引用を追加するように言われた。その次は、本文も直すように言われた。最後には、最初から全部書くようになった」


 次。


「断れば、奨学金を再審査すると言われた」


 教師席が静まり返る。


「自分の書いた文章が、優秀だと褒められた。でも、呼ばれた名前は自分のものではなかった」


 別の頁。


「同じ内容を理解している生徒が二人いると不自然になるからと、自分の成績は下げられた」


 ミラベルは、手帳から目を上げた。


「証言した生徒たちは、自分から仕事を申し出たのではありません」


 清書。


 補助。


 協力。


 学園を守るため。


 そのような言葉で。


 拒めば学ぶ場所を失う少女たちへ、他人の成績を作らせた。


 イザベルが立ち上がった。


「私も、書きました」


 寮長として。


 誰よりも規則を守り。


 仲間へ沈黙を求めてきた少女だった。


「最初は清書でした。その次に文章を直しました。そのうち、最初から書くようになりました」


「なぜ相談しなかったのです」


 教師の一人が訊いた。


「誰にですか」


 イザベルが問い返す。


「課題を渡した教師に? 奨学金を審査する学籍主任に? 学園がなくなれば困るのは、あなたたちだと言った人に?」


 教師は答えられなかった。


「私は従いました」


 イザベルの声は震えていた。


「従えば、ここにいられたからです。自分の名前で評価されなくても、学べるならよいと思おうとしました」


 ルチアも立ち上がる。


 足元がわずかに揺れた。


 エレノアが手を伸ばしかける。


 だが。


 ルチアは小さく首を振った。


 自分の足で立った。


「私は、自分の作文がオーレリアさんの名で表彰されると知りました」


 壇上の原稿へ目を向ける。


「同じ作文を書いた私の成績には、《文章構成に難あり》と記されていました」


 同じ文章。


 同じ引用。


 同じ考え。


 名前だけが違う。


「だから、補助履修対照簿を調べました」


「自分で学籍室へ入り、不正に記録を見たのでしょう」


 ヘレナが言う。


「落ち着いて考える時間を与えたのです。騒ぎを大きくしなければ、奨学金の返還も求めず、療養先も用意すると説明しました」


「扉を外から閉められました」


「夜間に危険な建物を歩かないためです」


「家族へ、私の名前で手紙を送りました」


「心配させないためです」


「私の退学書類を作りました」


「家族へ返還義務を負わせないためです」


「私の作文は?」


 ルチアが訊いた。


 ヘレナの返事が止まる。


「私の答案は?」


 壇上へ置かれた原稿を見つめる。


「私が学んだことは、誰のためだったんですか」


 講堂に。


 答えは返らなかった。


     *


「学園を存続させるためです」


 しばらくして。


 ヘレナが言った。


 席から立ち上がる。


 両脇の警邏官が動いたが。


 グレアムが手で止めた。


 ヘレナは逃げようとしていない。


「この学園は、何度も閉鎖の危機にありました」


 寄付がなければ。


 冬の暖房も。


 教師の給与も。


 教材も。


 奨学生の食費も払えない。


「富裕な家庭は、娘を名門校の卒業生にしたい。病気や旅行で通えなくとも、在籍と成績を維持したい。そのための寄付を、学園は必要としていました」


「本人が作っていない成績まで?」


 ミラベルが訊く。


「在籍しているだけの娘へ、高額な寄付を続ける家はありません」


「だから奨学生へ作らせた」


「優秀な生徒が、教育上の補助をしたのです」


「断れる補助でしたか」


 ミラベルの問いに。


 ヘレナは答えなかった。


 レオンが、中央記録庁から届いた確認票を示す。


「オーレリア本人は、代理筆記を知らなかった」


 本人認証印。


 母親の確認。


 療養院記録官の照合。


「オーレリアは、自分の名で保存された虚偽の出席、作文、試験成績を受け取らないことを希望している」


 ベルモント家の代理人が立ち上がる。


「家族は、娘の将来を考えて――」


「本人の希望は、本人の記録として扱われます」


 中央記録庁の記録官が言った。


「家族の希望とは別です」


 代理人は口を閉ざした。


 オーレリアも。


 自分の名前へ、知らない人生を与えられた少女だった。


 名を使われた。


 だが。


 その名へ縫い付けられた成果を作った者は。


 別にいる。


 エレノアが立ち上がった。


     *


「これは、いない人をいることにした事件ではありません」


 講堂の全員が。


 十七歳の少女を見る。


 包帯を巻いた手。


 裂けた制服。


 教師に止められ。


 兄に止められ。


 それでも。


 友人の不在を、家庭の事情という一言で終わらせなかった少女。


「いる人を、いないことにした事件です」


 エレノアは。


 オーレリアの名が記された成績表を見る。


 次に。


 隣に立つルチアを見る。


「オーレリアさんの名前が盗まれたのではない」


 オーレリアの名は。


 本人の知らないところで利用された。


 だが。


 その名前の下へ置かれた作文も。


 答案も。


 学んだ時間も。


 オーレリア自身が作ったものではない。


「ルチアの人生が、オーレリアさんの記録へ縫いつけられたんです」


 刺繍布のように。


 異なる色の糸を重ね。


 不自然な針目を裏へ隠し。


 表から見れば、一つの整った模様に見えるように。


 ルチアの作文。


 ルチアの答案。


 ルチアの成績。


 ルチアが学んだ時間。


 それらが。


 オーレリアの名へ縫い付けられた。


 代わりに。


 ルチア自身の記録には。


 学習不適応。


 神経衰弱。


 家庭上の事情。


 自主退学。


 本人が選ばなかった言葉が並べられた。


「数人の記録を調整したことで」


 ヘレナが言う。


「何十人もの少女が学べたのです」


「数人?」


 エレノアが彼女を見る。


「すべての人を救うことはできません」


「だから、自分で犠牲になる人を選んだの?」


「学園がなくなれば、ここにいる全員が――」


「学園を守ったのではありません」


 エレノアの声が。


 ヘレナの言葉を切った。


「学園という名前を守るために、ここにいる少女たちを使っただけです」


 講堂に掲げられた紋章。


 創設者の肖像。


 九十年の歴史。


 寄付者名簿。


 卒業生の記録。


 守られようとしたのは。


 それらが形作る、《名門女学園》という名前だった。


「暖房費を払うために、誰かの文章を奪う。奨学生を残すために、その奨学生の成績を別人へ渡す。評判を守るために、異議を唱えた生徒を閉じ込める」


「現実を知らないから言えるのです」


「知っています」


 エレノアは答えた。


「この学園を出ても、私には家がある。別の教師も雇える。イザベルやルチアとは違う」


 イザベルが顔を上げる。


「だからこそ」


 エレノアは続けた。


「私が黙ったら、学園を失うことが怖くて声を上げられない人に、代わりに黙れと言うのと同じです」


「理想だけでは、学校は運営できません」


「では、運営できていなかったんです」


 エレノアは言った。


「誰かの人生を帳簿の外へ落とさなければ続かないなら、続いているふりをしていただけです」


 ヘレナの表情が。


 初めて、わずかに崩れた。


     *


「もう十分です」


 セラフィナ校長が、壇上中央へ進んだ。


 エレノアを止める言葉ではない。


 ヘレナを庇う言葉でもなかった。


「ヴァルク先生」


 長年、学園の学籍と財政を支えてきた女性を見る。


「遠隔修学制度を拡大することは、私も認めました」


「校長先生」


「寄付を失えば、学園を維持できない。その説明を受け、詳細な運用をあなたへ任せた」


 セラフィナは、生徒席へ向き直る。


「補助筆記が清書を越え、代理履修へ変わっていることを、私は知りませんでした」


 そこで一度。


 言葉を切った。


「ですが、知らなかったことは、責任がないことを意味しません」


 教師たちが校長を見る。


「長く姿を見せない生徒が、在寮していることになっていた。不自然な成績に気づいた教師もいた。奨学生たちの評価が、理由なく下げられていた。旧東棟へ生徒を隔離する申請もあった」


 一つずつ。


 見ようとすれば、見えたものだった。


「私は、学園を失うことを恐れました」


 寄付が減ること。


 教師が去ること。


 奨学生を受け入れられなくなること。


「だから、深く確認しなかった」


 生徒たちから、目を逸らさない。


「ヴァルク先生だけが、見えない場所を作ったのではありません。私が、見なくてよい場所を残しました」


「あなたが責任を負えば」


 ヘレナが言いかける。


「負うべきです」


 セラフィナは答えた。


「学園を守るという言葉で、生徒へ沈黙を求めた責任を」


 校長は、中央記録庁の記録官へ向き直った。


「白鐘女学園は、調査へ全面的に協力します」


 そして。


 講堂全体へ告げる。


「本日をもって、代理在籍および成果の代理作成を停止します」


 次に。


 ルチアとイザベル。


 その後ろへ座る奨学生たちを見る。


「奨学生を含む全生徒の成績は、対照簿、提出原稿、答案、添削記録をもとに再審査します」


 ルチアへ。


「ルチア=フェインさんの退学処分は、学園内において直ちに取り消します」


「では、ルチアは?」


 エレノアが訊いた。


「白鐘女学園の在学生です」


 答えは明確だった。


 ルチアの唇が。


 わずかに震えた。


「オーレリア=ベルモントさんについては、本人の希望に従います。代理によって成立した出席、作文、答案、成績は無効とし、本人が実際に履修した内容のみを改めて審査します」


 それは。


 オーレリアから人生を奪うことではない。


 本人が作っていない優秀な記録から。


 彼女自身の名を解放することでもあった。


「この作文は」


 ルチアが、壇上の原稿を見る。


「私が書いたものです」


 セラフィナも、原稿へ目を向けた。


「正式な照合が終われば、あなたの名で保管します」


「表彰は?」


 生徒席から声が上がる。


「本日の表彰は、すべて中止します」


 教師席がざわめく。


「正しい作者と成績を確認し、改めて審査します。現在の順位も評価も、そのまま信用することはできません」


 白鐘祭は。


 優秀な生徒を祝うための式典だった。


 だが。


 誰が、何を学び。


 誰が、何を書いたのか。


 その記録自体が偽装されていた。


 白い鐘を。


 鳴らすことはできなかった。


     *


 夜。


 灰百合寮の窓には、いつもの灯りが戻っていた。


 中止された祭の白布が。


 取り外されないまま、夜風に揺れている。


 講堂の鐘は、一度も鳴らなかった。


 旧東棟の暖房管も。


 今夜は、誰の声も運んでいない。


 消灯十五分前。


 灰百合寮の少女たちは、二階の中央廊下へ並んでいた。


 以前と同じ場所。


 壁には真鍮の暖房管。


 窓の外には、霧に沈んだ旧東棟。


 寮母マグダ=クロフトが、点呼簿を抱えて立っている。


 点呼簿は、新しく取り替えられてはいなかった。


 古い頁へ。


 訂正線と。


 中央記録庁の保全印が加えられている。


 オーレリア=ベルモントの名は。


 乱暴に消されてはいない。


 《本人希望により在寮記録無効・再審査》


 理由を添えて訂正されていた。


 ルチア=フェインの名も。


 空欄へ新しく書き足されたのではない。


 過去の在寮記録から、連続する形で復元されている。


 不在にされた期間を。


 何もなかった空白にはしない。


 《学園内療養措置として記録されていた期間につき、事実確認中》


 帰郷したことにも。


 自主退学したことにもされていない。


 まだ確認できていないことまで含め。


 そのまま記されていた。


「今夜から」


 マグダが言った。


「代理返事は禁止だ」


 イザベルが、わずかに目を伏せる。


「本人がここにいるなら、本人が答える。いないなら、いないと記す。理由が確認できなければ、確認できていないと記す」


 マグダは点呼簿を開く。


「分からんものを、分かったふりで埋めるな」


 それは。


 生徒たちだけに向けた言葉ではなかった。


 マグダ自身へ。


 学園へ。


 記録を作る、すべての者へ向けられていた。


 少女たちが姿勢を正す。


 今夜。


 廊下に並んでいるのは十二人。


 名簿にも十二人。


 誰かの名を。


 別の誰かの言葉で埋める必要はない。


 マグダが最初の名を呼ぶ。


「イザベル=ノイン」


「はい。おります」


 次の名。


 また次。


 一人ずつ。


 自分の声で答える。


「エレノア=クラウス」


「はい。ここにおります」


 マグダが目を上げた。


「今日は、な」


「明日もいる予定です」


「予定ではなく、いろ」


 少女たちの間へ。


 小さな笑いが広がる。


 点呼は続く。


 誰も。


 暖房管を見なかった。


 壁から声がするのを待たなかった。


 最後から二番目の名が呼ばれる。


 返事。


 マグダの指が。


 次の行へ移る。


 廊下が静かになる。


「ルチア=フェイン」


 ルチアは。


 一瞬だけ、目を閉じた。


 三日前。


 呼ばれていない十三番として。


 暖房管へ向かい、返事をした。


 名前を言えば。


 錯乱した生徒の声として消される。


 助けを求めれば。


 学園を傷つける者にされる。


 だから。


 死者の怪談から、番号を借りた。


 だが今は。


 壁の中にはいない。


 灰色の毛布も。


 白い覆いもない。


 自分の制服を着て。


 自分の名が書かれた列に立っている。


 隣にはイザベル。


 その先にはエレノア。


 廊下の端には、取材客として残ったミラベル。


 そして階段の下には。


 男性立入禁止を理由に追い返されながらも、点呼が終わるまで玄関で待つと言い張ったレオンがいる。


 ルチアは顔を上げた。


「はい。ここにおります」


 明瞭な声だった。


 暖房管へ吸い込まれない。


 壁の向こうへ歪んで響かない。


 目の前にいる者たちへ。


 まっすぐ届く声だった。


 マグダが。


 ルチアの名の脇へ印を付ける。


 代理の斜線ではない。


 欠席の印でもない。


 在室を示す、一つの丸。


「確認した」


 点呼簿が閉じられる。


 その夜。


 十三人目の声は聞こえなかった。


 必要がなかったからだ。


 ルチア=フェインは。


 誰かの代わりでも。


 怪談の番号でも。


 名簿から消された不在者でもない。


 自分の名で返事をする。


 白鐘女学園の、一人の生徒として。


 そこにいた。

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