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第12節 ― 白鐘祭の消える記録

 白鐘祭の朝。


 ヴェルム=クロウを覆う霧は、鐘霧丘の中腹で薄く切れていた。


 正門から講堂へ続く道には白布が渡され、銀糸で百合を刺した旗が並んでいる。


 来賓を乗せた馬車が、次々と坂を上ってきた。


 官僚。


 商会主。


 記録官。


 寄付者。


 磨かれた靴が濡れた石畳へ降り立つたび、灰色の制服を着た少女たちが礼をする。


 誰も。


 その制服のリボンが。


 祭とは別の情報を伝えていることには、気づかなかった。


     *


 午前七時十五分。


 灰百合寮の洗濯室に、寮生たちが集まっていた。


 作業台には。


 端を内側へ折った白いリボン。


 銀糸を一巻きしたリボン。


 番号を書いた洗濯札が置かれている。


「白を折れば、通路は空いている」


 エレノアが言った。


「銀糸は、ヴァルク先生か、学籍課の荷物を見た場所。洗濯札の番号で行き先を知らせる」


 細かな規則は、それだけだった。


 少女たちは普段から。


 制服の乱れで教師の位置を知らせ。


 洗濯札で持ち主と部屋を見分け。


 刺繍糸の色で、誰の道具かを区別している。


 新しい暗号を覚える必要はない。


 いつもの生活へ。


 別の意味を一つ加えただけだった。


「争わないこと」


 イザベルが全員を見回す。


「教師へ手を出さない。扉へ鍵を掛けない。荷物を奪わない」


「止めなくていいの?」


 下級生の一人が訊いた。


「遅らせればいい」


 エレノアが答えた。


「外から正式な命令が届くまで」


 レオンは夜明け前に学園を出ている。


 中央記録庁へ緊急電信を送り。


 エドガー=クラウスへ、学籍、成績、会計、寄付、退学処理に関する記録の保全を求めるために。


 命令が届く保証はない。


 届くとしても、何時になるかは分からない。


 それでも。


 二重名簿を勝手に奪い取るわけにはいかなかった。


 どこから。


 どの状態で。


 誰の立ち会いのもと。


 回収された記録なのか。


 それを残さなければ、少女たちが後から作った偽物だと言われる。


「私は講堂にいます」


 ミラベルが言った。


「表彰式を止め、教師と寄付者を一か所へ留めます」


「イザベルは寮と医務室」


 エレノアが続ける。


「ルチアを一人にしないで」


 昨夜救出されたルチアは、現在の医務室へ移されていた。


 外部の医師が到着するまで。


 水と食事を取り。


 休ませることになっている。


 セラフィナ校長は、その準備を命じた。


 だが。


 ヘレナが事前に作成していた移送票まで、回収されたわけではない。


「エレノアは?」


 イザベルが訊く。


「学籍室から暖房室までの経路を見る」


「一人で?」


「行き先と経路は、札で残すわ」


「それは、一人ではないことと同じではありません」


「兄さまにも言われた」


「では、聞いてください」


「善処するわ」


「その答えは、聞かないという意味でしょう?」


 エレノアは返事をしなかった。


 洗濯室の扉が開く。


 最初の知らせが届いた。


     *


 午前八時五分。


 白いリボンを二重に結んだ下級生が、洗濯室へ駆け込んできた。


「裏門に、医療馬車が来ています」


「誰を運ぶの?」


 イザベルが訊く。


「感染症の療養生。海浜療養院へ移すって」


「校長先生は?」


「講堂で来賓を迎えています。ヴァルク先生の移送票があるから、予定どおりだと」


 続いて。


 銀糸のリボンを付けた少女が入ってきた。


 手には、暖房室を示す札。


「学籍課から、記録箱が三つ出ました」


「古い記録の整理は、式典のあとでしょう?」


「炉の準備ができたから、先に処理するようにって」


 ヘレナは。


 ルチアの移送と。


 二重名簿の焼却を。


 同じ時刻に始めた。


 自分は記録箱に付き。


 医療馬車には、昨夜まで有効とされていた移送票を使わせる。


 二つの場所へ同時に姿を現す必要はなかった。


「イザベルは裏門へ」


 エレノアが言った。


「私は記録箱を追う」


「ルチアさんを馬車へ乗せられたら?」


「名前と本人の意思を、皆に聞かせて」


「あなたは?」


「箱を炉へ入れさせない」


「命令はまだ届いていません」


「届くまで遅らせる」


 エレノアは白いリボンを髪へ結んだ。


 少女たちも。


 それぞれの持ち場へ散っていった。


     *


 午前八時十二分。


 裏門へ続く廊下では。


 白鐘祭の合唱衣装を積んだ長箱が、階段の中央で止まっていた。


「控室へ運ぶ札です」


「いいえ、講堂の番号です」


「今朝、変更されたと聞きました」


「誰から?」


「衣装係です」


 少女たちは何度も謝りながら。


 箱を持ち上げようとはしなかった。


 その先。


 裏門前には医療馬車が止まっている。


 窓には白布。


 扉の前には医療係と、移送票を持った学籍課の職員。


 イザベルは馬車の前へ立った。


「移送される寮生の名前を確認します」


「感染症の疑いがあります」


「名前を言うだけで感染はしません」


「寮長へ知らせる必要はありません」


「では、本人へ確認します」


 医療係が扉を閉めようとする。


 その内側から。


 弱い声がした。


「私は、ルチア=フェインです」


 周囲の少女たちが息を止める。


「移送には、同意していません」


 声は掠れていた。


 それでも。


 裏門にいる全員へ聞こえた。


 イザベルは馬車の取っ手を押さえる。


「本人が拒否しています」


「療養生の判断へ従うことはできません」


「対面で診断した医師は?」


「療養院で診察を受けます」


「では、今は誰の医学的判断で移すのですか」


 職員は答えない。


「道を空けなさい」


 低い声が飛んだ。


 ヘレナではない。


 彼女から移送を命じられた学籍課の教師だった。


「正式な移送票があります」


 イザベルは紙へ目を向ける。


 学籍主任の署名。


 療養先。


 移送日。


 ただし。


 医師の対面診断欄と。


 家族の確認欄は空白だった。


「確認が終わるまで、動かせません」


「あなたに止める権限はありません」


「権限がある方が来るまで」


 イザベルは答えた。


「ここで待ちます」


 背後の少女たちは。


 誰一人、道を空けなかった。


     *


 午前八時二十分。


 講堂で、表彰式が始まった。


 壇上には白い鐘。


 銀糸の百合。


 寄付者へ贈る花輪。


 セラフィナ校長は中央席に座っていた。


 一睡もしていないように見える。


 それでも。


 学園を代表する者として、来賓へ顔を向けていた。


「上級課程文学部門、最優秀作文を発表いたします」


 教師が原稿を持ち上げる。


「受賞者は、オーレリア=ベルモントさん」


 静かな拍手。


 本人はいない。


 それでも。


 名だけが講堂へ呼び出される。


「療養中のため、担当教師が代読いたします。題名は――」


「お待ちください」


 ミラベルが記者席から立った。


 拍手が止まる。


「取材記録の確認です」


「式典後にお願いします」


「朗読したあとでは、遅いんです」


 ミラベルは壇上の原稿を見た。


「その作文を、オーレリアさん本人が書いたことを確認した教師はいますか」


 教師たちの間に。


 短い沈黙が落ちる。


「提出記録には、本人の課題として――」


「記録の話ではありません」


 ミラベルは言った。


「書いている本人を見た方です」


 寄付者席がざわめく。


「オーレリアさんは、一年以上ドック=セリムで療養しています。それなのに学園では、通信履修ではなく、通常出席として記録されている」


「根拠のない中傷です」


 ベルモント家の代理人が立ち上がる。


「根拠を持った者が、まもなく到着します」


「それまで式典を止めろと?」


「少なくとも」


 ミラベルは、読み上げられる直前だった題名を見る。


 ――学ぶ者の名について。


「作者の名を確認できない文章を、別人の名で読まないでください」


 講堂の視線が。


 セラフィナへ集まった。


 校長は。


 ゆっくりと立ち上がった。


「朗読を中止します」


「校長先生」


「作者を確認できるまで、表彰は行いません」


 寄付者たちの声が重なる。


 教師が説明を求める。


 ミラベルは、そのすべてへ届く声で言った。


「ルチア=フェインさんは、生きています」


 講堂が静まった。


「家族のもとへ帰ったのではありません。昨夜まで、この学園の旧療養室へ閉じ込められていました」


 誰かが扉へ向かおうとする。


 セラフィナが壇上から告げた。


「白鐘祭を一時中断します。記録庁と市警による確認が終わるまで、来賓の皆様は講堂でお待ちください」


 教師と寄付者を。


 学園で最も広い一室へ留める。


 ミラベルの役目は。


 果たされた。


 そのとき。


 中庭の向こうで、少女の悲鳴が上がった。


     *


 午前八時二十七分。


 白鐘女学園の正門前へ。


 中央記録庁の標章を付けた黒い馬車が止まった。


 記録官が降り。


 赤い封印を施した文書筒を、レオンへ差し出す。


「中央記録庁監査局より、緊急保全命令です」


 封には。


 中央記録庁の印。


 そして。


 エドガー=クラウスの個人認証印が重ねられていた。


「発効時刻は」


「本日午前八時二十五分。白鐘女学園が管理する学籍、成績、会計、寄付、遠隔履修、退学処理に関する全記録を対象とします」


「補助帳簿と廃棄予定記録も?」


「公開、非公開を問いません。複写、作業控え、廃棄予定を含みます」


 坂の下から。


 重い警察馬車が上ってきた。


 扉が開き。


 グレアム警部が石畳へ降りる。


 後ろには、四人の警邏官。


「クラウス!」


「遅い」


「夜明け前の電信に、事件の全容を書かなかった男が言うな!」


「必要な事項は書いた」


「女学園。監禁。記録焼却。医療馬車。これを最初から一枚へ書け!」


 グレアムは保全命令を読み。


 印を確認した。


「二手だ」


 レオンが言う。


「記録箱は暖房炉。ルチア嬢は裏門の医療馬車」


「保全命令で止められるのは、まず記録だ」


 グレアムが答える。


「馬車には別の根拠が必要になる」


「本人は移送を拒否している」


「医師の対面診断は?」


「ない。家族確認も空欄。昨夜まで本人の意思に反して隔離されていたという申告がある」


「なら十分だ」


 グレアムは警邏官二人を裏門へ向かわせた。


「意識のある本人が拒否し、医師の診断も家族確認もない。さらに不法な拘束と虚偽記録の疑いがある」


 残る二人へ、暖房室を示す。


「市警は、非同意移送の疑いと、証人兼被害者の安全確認を理由に、本人確認が終わるまで馬車を停止できる」


「移送票があると主張するだろう」


「紙があれば、人をどこへでも運べると思うな」


 グレアムは門をくぐった。


「本人の口が、まだ残っている」


     *


 午前八時三十分。


 警邏官が裏門へ到着した。


 医療馬車は。


 まだ、少女たちの衣装箱に行く手を塞がれていた。


 女性警邏官が扉を開く。


 中には。


 灰色の毛布を掛けられたルチアがいた。


「名前を」


「ルチア=フェインです」


「この移送へ同意していますか」


「していません」


「体調を理由に、判断できないと診断されましたか」


「医師には、まだ会っていません」


 女性警邏官は移送票を確認した。


 医師の診断欄。


 家族確認欄。


 どちらも空白。


「本人確認と安全確認が終わるまで、この馬車は動かせません」


「学園内の療養措置です」


 学籍課の教師が言う。


「学園の外へ出る時点で、学内措置ではありません」


 警邏官は答えた。


「昨夜までの拘束についても、本人から事情を聴きます」


 イザベルが馬車へ入り。


 ルチアの肩を支える。


 そのとき。


 下級生が、洗濯札を一枚持って駆けてきた。


 札の裏には。


 鐘楼。


 学籍室。


 二つの番号が並んでいる。


「エレノアが」


 少女は息を切らした。


「鐘楼の外へ出ました」


     *


 同じころ。


 学籍室から暖房室へ続く回廊を。


 三つの記録箱が運ばれていた。


 木製の運搬車。


 蓋には、《旧年度・廃棄》の札。


 その横を。


 ヘレナ=ヴァルクが歩いている。


 灰色の正装。


 白い襟。


 学籍主任の銀章。


 硬い踵が。


 一定の間隔で床を打つ。


「止まって!」


 エレノアが、回廊の角から現れた。


 運搬車の前へ出る。


「その箱を、どこへ運ぶの」


「古い記録の処分です」


 ヘレナが答えた。


「保全命令が来る」


「まだ届いていません」


「届けば、その箱は証拠になる」


「届かなければ、通常の廃棄物です」


「だから、時間を早めたの?」


「祭の進行に合わせ、作業順を変更しただけです」


「ルチアの移送も?」


「適切な療養施設へ送ることは、学園の義務です」


「本人が拒否しても?」


「病人の判断を、常に優先できるわけではありません」


「医師は診たの?」


 ヘレナは答えず。


 使用人へ顔を向けた。


「運びなさい」


 運搬車が動き始める。


 エレノアが横へ回ろうとする。


 ヘレナが、触れずに道を塞いだ。


「講堂へ戻りなさい」


「嫌よ」


「校則違反を重ねれば、あなたの学籍にも影響します」


「今度は、私の名前を消す?」


「家名に守られている方は、何とでも言えます」


 ヘレナの声が低くなる。


「学園がなくなれば、奨学生全員が学ぶ場所を失う」


「その話は」


 エレノアは運搬車を見た。


「名簿を炉から離してから聞くわ」


 正面から追えば。


 ヘレナと使用人を押し退けることになる。


 別の階段には、祭へ向かう来賓がいる。


 エレノアは窓の外を見た。


 鐘楼の中段から。


 学籍室側の棟へ渡された保守足場。


 そこを越えれば。


 学籍室脇の階段から、運搬車より先に暖房室へ下りられる。


「エレノアさん?」


 後ろにいた下級生が呼ぶ。


 エレノアは、洗濯札へ経路を書いた。


 鐘楼。


 学籍室。


 少女へ渡す。


「イザベルか、ミラベルさんへ」


「一人で行くの?」


「行き先は残したわ」


「それは答えになっていません」


 エレノアは返事をせず。


 鐘楼へ向かって走った。


     *


 午前八時三十四分。


 鐘楼の保守扉を開けた瞬間。


 強い風が、エレノアの制服を打った。


 外側の足場は。


 地上から見たときより、ずっと細かった。


 石壁へ打ち込まれた鉄の支柱。


 その上へ渡された、雨を吸った板。


 片側にだけ。


 腰ほどの高さの手摺がある。


 学籍室側の窓までは。


 十数歩。


 エレノアは最初の板へ足を置いた。


 木が軋む。


 板の揺れ。


 支柱の位置。


 風の間隔。


 それだけを見る。


 一歩。


 もう一歩。


 中庭から。


 叫び声が上がった。


「エレノア!」


 レオンだった。


 講堂を出たミラベルも、隣でこちらを見上げている。


「戻れ!」


「もう半分よ!」


「だから戻れ!」


「前へ行く方が近い!」


「距離の問題ではない!」


 ミラベルが両手を口元へ添えた。


「右足を動かさないでください!」


 エレノアが足元を見る。


 右足を置いた板。


 先端が、鉄の受け金具から浮いている。


 釘は赤く錆び。


 木の端は、雨で割れていた。


 切られた跡はない。


 工具を使った痕跡もない。


 誰かが仕掛けた罠ではなかった。


 長年放置された足場へ。


 エレノアが自分で乗った。


 それだけだった。


「左の壁へ体を寄せろ!」


 レオンが叫ぶ。


「右足へ体重を掛けるな。手摺も引くな!」


「前へ移れば――」


「動くな!」


「でも」


「聞け、エレノア!」


 兄の声が。


 中庭へ響いた。


「君が進めないと思って止めているんじゃない!」


 風が吹く。


 白い旗が一斉に鳴る。


「進めると思うから、止めている!」


 エレノアは左手を石壁へ付けた。


 ざらついた壁面を探る。


「腰の下に、百合の石飾りがある」


 レオンが指示する。


「左足の踵を乗せろ」


「あった」


「右は動かすな」


 そのとき。


 学籍室の窓が、内側から開いた。


「エレノア!」


 イザベルが身を乗り出す。


 その後ろには。


 ルチアがいた。


 裏門から戻る途中。


 洗濯札を受け取り。


 女性警邏官に伴われて、学籍室へ先回りしたのだ。


 顔色は白い。


 イザベルの肩に支えられている。


 それでも。


 自分の声で叫んだ。


「動かないで!」


 昨日まで。


 暖房管を通してしか届かなかった声だった。


 今は。


 窓から直接。


 エレノアへ届いている。


 右足の下で。


 錆びた釘が抜けた。


 板が傾く。


 エレノアの体が外側へ流れた。


「エレノア!」


 反射的につかんだ手摺が。


 支柱ごと軋む。


「手摺を放せ!」


 レオンが叫ぶ。


「手摺ごと落ちる!」


 窓から。


 古い鐘縄が投げられた。


 イザベルが両端を握り。


 ルチアが、その腰を後ろから支える。


「縄を!」


 エレノアは手摺から右手を離した。


 直後。


 鉄の支柱が外れ。


 中庭の石畳へ落ちた。


 鋭い音が響く。


 左手だけで石飾りへしがみつき。


 右手を伸ばす。


 一度目。


 届かない。


「体を振らないで!」


 ミラベルが下から叫ぶ。


「縄の方を寄せてもらって!」


 イザベルが縄を動かす。


「今です!」


 ルチアの声。


 エレノアの指が。


 縄をつかんだ。


「足を壁へ当てろ!」


 レオンが言う。


「登ろうとするな。押し返すだけでいい!」


 エレノアは石壁へ靴底を付けた。


 縄を引くイザベル。


 その体を支えるルチア。


 下から方向を示すレオンとミラベル。


 一人では。


 上がれなかった。


 エレノアは壁を蹴る。


 体が窓へ寄る。


 イザベルが手首をつかんだ。


「放さないで!」


「あなたがね!」


 ルチアも腕を伸ばす。


 三人の体が。


 学籍室の床へ倒れ込んだ。


 しばらく。


 誰も動けなかった。


「生きてる?」


 ルチアが訊く。


「たぶん」


「断定できないの?」


「兄さまの真似よ」


 イザベルが、震える息を吐いた。


「あなたは、規則以前の問題です」


「助けた相手に言う言葉?」


「助けられた側が言う言葉ではありません」


 廊下から。


 レオンの足音が近づく。


「そこを動くな!」


「聞こえているわ!」


「本当に聞く人間は、最初から足場へ出ない!」


 扉が開く。


 レオンは。


 空になった保管棚より先に。


 床へ座るエレノアを見た。


 額。


 肩。


 手。


 脚。


 怪我を視線で確かめる。


「立つな」


「名簿は?」


「グレアムが炉へ向かった」


「間に合う?」


「君の足場よりは、確実だ」


 ミラベルも部屋へ入る。


 破れた制服と。


 震えの止まらない手を見る。


「経路は残しましたね」


「ええ」


「次は、出発する前に直接知らせてください」


「札で十分でしょう?」


「十分なら、レオンさんは中庭から叫んでいません」


 エレノアは反論しようとしたが。


 言葉が出なかった。


 恐怖へ。


 ようやく体が追いついていた。


「名簿が先」


 それだけを言う。


 レオンも。


 今度は否定しなかった。


     *


 午前八時四十一分。


 暖房室の炉は。


 白鐘祭の朝には不釣り合いなほど、赤く燃えていた。


 鉄扉の奥で石炭が崩れ。


 火の粉が舞う。


 床には、廃棄予定の記録箱が三つ。


 一つ目の蓋は開いている。


 古い出席表。


 修繕記録。


 食費台帳。


 二つ目には、学籍関係の書類。


 三つ目。


 その底に。


 黒革の帳簿があった。


 使用人が手を伸ばす。


「置け」


 グレアムの声が響いた。


 暖房室の入口には。


 グレアム。


 二人の警邏官。


 中央記録庁の記録官。


 そして。


 ヘレナ=ヴァルクが立っていた。


「通常の廃棄作業です」


 ヘレナが言う。


「部外者の立ち入りは認めません」


「午前八時二十五分から、これは通常ではない」


 グレアムが保全命令を開く。


「学籍、成績、会計、寄付、遠隔履修、退学処理に関する記録の移動、廃棄、書換えを禁ずる」


「その帳簿は、正式な学籍記録ではありません」


「補助帳簿も対象です」


 記録官が答えた。


「作業控え、複写、廃棄予定記録を含むと明記されています」


「作業は、命令が届く前から始まっていました」


「なら、届いた今は止めろ」


 グレアムが炉の前へ立つ。


「発効後に続ければ、正式な記録破壊だ」


 使用人は。


 黒革の帳簿を抱えたまま、動けずにいる。


「開くな」


 グレアムが命じた。


「こちらへ渡すな。その位置で、箱へ戻せ」


 帳簿が。


 三つ目の箱へ戻される。


 警邏官が炉の鉄扉を閉じ。


 制御弁を下げた。


 赤い光が細くなる。


 その直後。


 裏門から戻った警邏官が報告した。


「医療馬車を停止しました」


「本人は」


「ルチア=フェイン。意識は明瞭。移送を明確に拒否しています」


「書類は」


「医師の対面診断欄と、家族確認欄が空白。昨夜までの拘束についても、本人から申告があります」


 グレアムはヘレナを見る。


「療養院で診断を受ける予定でした」


 ヘレナが答えた。


「診断の前に、拒否する本人を学園外へ運ぶつもりだった?」


「学園内では、十分な療養環境を用意できません」


「外から見えない部屋なら、用意できたのにな」


 ヘレナは答えなかった。


 暖房室の入口へ。


 複数の足音が近づく。


 レオン。


 ミラベル。


 イザベルに支えられたルチア。


 最後に。


 片方の手から血を滲ませたエレノアが入ってきた。


「立つなと言った」


「歩くなとは言われていないわ」


「同じ意味だ」


「違うでしょう?」


「あとで話す」


「怒るときの言い方ね」


「今回は長くなる」


 ルチアが。


 黒革の帳簿を見る。


 背の金具。


 擦れた角。


 表紙へ押された、小さな二重円。


「それです」


 声は弱い。


 だが、はっきりしていた。


「《補助履修対照簿》です」


「外見だけで確認できる理由は」


 レオンが訊く。


「表紙の二重円。上の円が正式在籍者。下の円が、代わりに課題を書いた生徒を示していました」


「私も同じ帳簿を見ました」


 イザベルが言う。


「ただし、中の頁が以前と同じかは、開かなければ分かりません」


「それでいい」


 レオンが答えた。


 今、確定しているのは。


 ルチアとイザベルが以前見た帳簿と。


 同じ外見的特徴を持つものが。


 白鐘祭当日の朝。


 学籍室から運び出され。


 暖房炉の前で。


 焼却直前に回収されたこと。


 中身は。


 正式な立ち会いのもとで確認される。


 今ここで開かないからこそ。


 探偵が書き加えたとも。


 少女たちが偽造したとも言えない。


「記録官」


 グレアムが言う。


「箱ごと封印しろ」


 中央記録庁の記録官が。


 帳簿へ直接触れないよう、三つ目の箱を保全布で包む。


 紐を十字へ掛け。


 交差部分へ封蝋を落とした。


 中央記録庁。


 ヴェルム=クロウ市警。


 そして。


 白鐘女学園。


 三者の印が必要だった。


 講堂から駆けつけたセラフィナが。


 封じられようとしている箱の前で、足を止める。


 自分が校長を務める学園から出た記録。


 自分が見ようとしなかったものを。


 内部に抱えた箱だった。


 記録官が、校長印を差し出す。


 セラフィナは長いあいだ。


 それを受け取らなかった。


 やがて。


 震える指で印章を握る。


「私も」


 声は小さかった。


「この記録が、どこから回収されたのか。立ち会った者として残します」


 校長印が。


 赤い封蝋へ押し込まれた。


 中央記録庁。


 市警。


 白鐘女学園。


 三つの印が並ぶ。


 封蝋が固まる。


 記録は。


 炉へ入らなかった。

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