第11節 ― 十三人目は返事をする
扉は、まだ閉じていた。
外側から鍵を掛けるための古い錠前。
何度も白く塗り直され、木目のほとんど消えた扉板。
その向こうから。
細く、途切れがちな呼吸が聞こえている。
エレノアは取っ手へ手を掛けたまま、動かなかった。
先ほどまでなら。
兄に追いつかれるより先に、押し開けていただろう。
だが。
扉を開ければ、すべてが終わるわけではない。
そのことを。
今は、分かっていた。
「ルチア」
扉へ向かって呼びかける。
返事はない。
背後では、ミラベルの覆い付きランプが小さく揺れていた。
レオンは妹の肩越しに扉を見つめ。
セラフィナ校長とマグダ寮母は、狭い石段の途中で息を潜めている。
エレノアは、もう一度口を開いた。
「ルチア=フェイン」
今度は。
名前の一音ずつを、はっきりと呼んだ。
扉の向こうで。
布が擦れた。
寝台が、小さく軋む。
「……エレノア?」
掠れた少女の声がした。
取っ手を握るエレノアの指へ、力が入る。
「そうよ」
震えそうになる声を押さえる。
「迎えに来たわ」
返事の代わりに。
小さな息が漏れた。
泣き声にも。
笑い声にも聞こえた。
レオンが、扉の下の隙間へランプを近づける。
煙はない。
強い薬品の臭いもない。
液体が流れ出した形跡もない。
「下がれ」
「今、返事があったでしょう」
「だから開ける。君が勢いよく飛び込むなと言っている」
「最初からそう言えばいいのに」
「言っても聞かないだろう」
レオンが取っ手を引き受けた。
古い扉が、内側へ開く。
暖房室から上がってきた熱が、狭い部屋へ籠もっていた。
ランプの光が。
ゆっくりと内部を照らしていく。
屋根の傾斜へ隠された小窓。
古い鉄製寝台。
食事受け渡し用の棚。
壁に埋め込まれた伝声管。
机の上には、短くなった鉛筆と、何枚かの紙。
隅には。
白い布と、灰色の毛布。
寝台の上に。
一人の少女が座っていた。
肩まで伸びた茶色の髪は乱れ。
頬は以前より痩せている。
寝間着の上から毛布を巻き、両手で胸元を押さえていた。
顔色は悪い。
唇も乾いている。
だが。
目は開いていた。
こちらを見ていた。
「ルチア」
エレノアが部屋へ入る。
今度は。
レオンも止めなかった。
寝台の前へ膝をつき、友人の顔を見上げる。
「本物?」
ルチアが掠れた声で訊いた。
「何が?」
「あなた」
「失礼ね。幽霊に見える?」
「幽霊の方が、規則を守りそうだから」
「元気そうね」
そう答えたエレノアの目に。
涙が浮かんだ。
本人はすぐ、顔を逸らした。
「それだけ憎まれ口が言えるなら、大丈夫」
「エレノアさん」
ミラベルが静かに呼んだ。
大丈夫かどうかを。
願いだけで決めないでください。
言葉にしなくても、その意味は伝わった。
「分かっているわ」
エレノアは答えた。
レオンが寝台の横へ立つ。
「フェイン嬢。俺はレオン=クラウスだ。エレノアの兄だ」
「知っています」
「妹から、何と聞いている」
「口が悪くて。疑り深くて。勝手に紙へ触ると怒る人」
レオンがエレノアを見る。
「概ね正しいでしょう?」
「最後の一つは、君が原因だ」
ルチアの口元が、かすかに緩んだ。
レオンは手袋を外す。
「手首へ触れる。構わないか」
ルチアが頷いた。
脈は速い。
だが、途切れてはいない。
高い熱も感じられない。
受け答えは明瞭。
目立つ出血や打撲もなかった。
「医師ではないから、重傷でないとは断定しない」
レオンが言う。
「だが、意識は明瞭だ。大きな外傷も見当たらない」
「歩けます」
「今、証明する必要はない」
立ち上がろうとするルチアを、レオンが制した。
マグダが部屋へ入り、水差しを確認する。
顔をしかめた。
「ぬるい」
「毎日、替えられていました」
ルチアが言う。
「食事も」
マグダの太い指が止まる。
「わしが置いていた」
「寮母先生が?」
「中にいるのが、おまえだとは知らんかった」
マグダの声が低くなる。
「感染症の疑いがある療養生だと聞かされとった」
「そう説明されていたんですね」
「すまん」
短い一言だった。
言い訳は続かなかった。
ルチアはしばらく寮母を見つめた。
「食事を、ありがとうございました」
マグダの顔が歪む。
「礼を言うな」
「食べなければ、返事を続けられませんでした」
マグダは自分の腰へ下げた水筒を外した。
「少しずつ飲め」
ルチアは両手で受け取り。
一口だけ含み、ゆっくり飲み込んだ。
その間に。
ミラベルは部屋の中を見回していた。
灰色の毛布。
白い布。
底の平らな室内履き。
伝声管の縁には、何度も手で触れた跡が残っている。
「灰衣の少女は」
ミラベルが訊いた。
「ルチアさんだったのですね」
「全部ではありません」
「やはり、二人いた」
エレノアが言う。
「私が廊下へ出たのは二度だけです」
ルチアは隅の毛布へ視線を向けた。
「制服は取り上げられていました。あれを体へ巻いて。白い布は、枕を包んでいたものです」
「顔を隠したのは?」
「見つかっても、怪談だと思われるように」
「右足を引いていたのは、室内履きが破れていたから?」
エレノアが訊く。
「片方の踵が外れかけていました。急いで歩くと脱げてしまって」
小柄で。
音を立てず。
右足を引く灰衣。
目撃証言と、平らな足跡が一致する。
「背が高く、革靴を鳴らしていた灰衣は?」
ルチアの表情が曇った。
「ヴァルク先生です」
石段の途中で。
セラフィナが、息を呑んだ。
「見たのですか」
「一度だけ」
ルチアは校長を見た。
「私が伝声管を使った次の夜です。廊下へ出ようとしたら、先生が灰色の外套と白い布を持っていました」
「目的を聞いた?」
レオンが訊く。
「生徒を旧東棟へ近づけないためだと。怪談があるなら、利用した方が静かに済むと」
「それは、ルチアさんの証言です」
ミラベルが言った。
疑うためではない。
何が物証によって裏づけられ。
何が本人の証言に留まっているのか。
その境界を、全員へ示すためだった。
「二種類の足跡と目撃証言には一致します」
レオンが頷く。
「ただし、ヴァルクが使った外套や覆面は、まだ確認していない」
「でも、灰衣が二人いた理由は説明できる」
エレノアは伝声管を見る。
「十三番の声も、あなたね」
「三日前から」
「どうして十三番を?」
「創設者の日記を読んだから」
ルチアは答えた。
「学籍室で、古い記録を調べているときに見つけました。本名を隠して保護された少女へ、一時的に与えられた番号だと」
「死んだ少女ではなかった」
「ええ」
「名を伏せて守られた、生きた少女」
「だから、使いました」
ルチアは壁の伝声管へ目を向ける。
「助けて、と叫べば、すぐヴァルク先生に気づかれます。自分の名前を言っても、神経を病んだ生徒が錯乱していると説明される。でも十三番なら、ほかの先生には怪談に聞こえる」
「私なら意味を調べると思った?」
エレノアが訊く。
「怪談を放っておかないでしょう?」
「ずいぶん不確かな計画ね」
「来たでしょう?」
エレノアは答えに詰まった。
ルチアが、ほんの少し笑う。
「あなたなら、たぶん来ると思っていました」
「危なかったのよ」
「あなたが?」
「あなたがよ」
「どちらもです」
ミラベルが割って入った。
「無茶をした方同士で、競わないでください」
「私は閉じ込められていたの」
「私も閉じ込められたわ」
「そういうところです」
ルチアが、初めて声を出して笑った。
すぐに咳き込む。
エレノアが背へ手を伸ばし。
レオンが椅子を寝台へ寄せた。
「話は、休んでからでいい」
「駄目です」
ルチアは首を振った。
「明日になれば、なくなります」
部屋の空気が変わる。
「何が?」
エレノアが訊いた。
「《補助履修対照簿》です」
「二重名簿」
ルチアが頷いた。
「誰が、誰の課題を書いたか。どの答案を、どの生徒の成績へ移したか。寄付金の請求と、教師への指示に必要だから、全部記録されていました」
「どこに?」
「学籍室です。学籍主任の机の近くにある保管棚」
「自分で見たのか」
レオンが訊く。
「はい。イザベルと一緒に」
「見たのは一冊?」
「そのときは。一冊だけです。古い年度のものがあるかは、分かりません」
「覚えている名前は」
「私とオーレリア。イザベルと、別の寄付者の娘。ほかにも何人か」
「思い出せないものを、無理に埋めるな」
「はい」
「なぜ、明日なくなる」
「白鐘祭の記録整理で、焼却する予定です」
ルチアは水筒を握る手を見た。
「ヴァルク先生が、ここへ入れた日に言いました」
「刺繍の《炉》と《白鐘祭》」
エレノアが呟く。
「あれは、名簿が燃やされるという意味だったのね」
「刺繍を持ったまま見つかれば、取り上げられると思いました。だからイザベルへ渡しました」
「届いたわ」
「意味も?」
「調べた。イザベルも話してくれた」
「無事?」
「疑われて。黙り込んで。私と喧嘩をしたけれど、無事よ」
「それを無事と言うのでしょうか」
「いつものことです」
ミラベルが答えた。
ルチアは目を閉じ、細く息を吐く。
安堵だった。
「昨日、私たちが見つけた部屋は?」
ミラベルが訊いた。
「寝台と食器があって、今日の日付を入れた手紙が残されていた小部屋です」
「私が使いました」
ルチアは答えた。
「あそこが、ずっと閉じ込められていた部屋ではないのですね」
「ここから旧東棟の廊下へ出たときに使う、途中の部屋です」
「何のために?」
「灰色の毛布と白い布を隠していました。廊下へ出る前に着替えて、戻る前に外すためです」
エレノアが、あの部屋を思い返す。
食器。
乱れた毛布。
積まれた教科書。
書きかけの手紙。
「食事も持ち込んだ?」
「少しだけ。私がまだ生きていると、誰かが気づくように」
「では、あの生活の跡は」
「わざと残しました」
ルチアは小さく頷いた。
「ここまで辿り着けなくても、旧東棟へ人が出入りしている証拠になると思って」
「今日の日付の手紙も?」
「あの部屋で書きました」
「家族へ送るため?」
「送れないことは分かっていました。でも」
ルチアの声が少し揺れる。
「三つの点を入れた、本当の手紙を一枚でも残しておきたかったんです」
届き続けていた手紙には。
家族だけが知る合図がなかった。
だが。
誰にも届かなかった一枚には。
ルチア自身の意思が残されていた。
「なぜ、この部屋へ戻ったの?」
エレノアが訊く。
「廊下の先の道を、全部は知りませんでした。洗濯室へ抜けられることも知らなかった」
ルチアは室内履きへ目を落とす。
「それに、朝にはヴァルク先生が確認に来ます。ここへいなければ、通路を塞がれると思いました」
「だから、灰衣で合図を送ったあと、同じ道を戻った」
「はい」
「あなたが壁の前で消えたあと、私たちが追いつくまでに?」
「回転床の下へ入って、こちらへ戻る階段を使いました」
旧東棟で発見した小部屋は。
監禁の中心ではなかった。
ルチアが怪談の姿へ着替え。
証拠を置き。
わずかな時間だけ、自分の意思で文章を書いた場所だった。
閉じ込められた少女が。
外の世界へ手を伸ばすための、中継場所。
「家族へ届いた手紙について聞く」
レオンが言った。
「君が最近書いたものではないな?」
「違います」
「模範書簡の課題は書いた?」
「はい。《家族を安心させる手紙》として、何度も書き直させられました」
「保管先は」
「学籍課です」
「届いた手紙には、君が課題で書いた表現と同じ文章がある」
レオンが確認する。
「学園生活は順調。少し体調を崩した。面会は控えてほしい。心配はいらない」
「私が課題へ書いた言葉です」
「ここまでは確認できる」
レオンは、ミラベルへ視線を送った。
「本人は最近の手紙を書いていない。学園は本人の模範書簡を保管していた。届いた手紙には、その課題と同じ文章が使われている」
「複写の方法は?」
ミラベルが訊く。
「私は見ていません」
ルチアが答えた。
「だから、これは推測です。保管された手紙を写したのだと思います」
「筆跡そのものも、本人のものに見えました」
「原本を複写した可能性がある」
レオンが言う。
「日付や一部の文だけを、あとから加えた可能性もある。ただし、複写に使った原本や器具を確認するまでは、方法は確定しない」
「私が分かるのは」
ルチアが言った。
「家族へ届いた手紙を、最近の私は書いていないこと。それから、授業で提出した手紙には三つの点を入れていなかったことだけです」
「公的な課題では入れないと、先生に注意されていた」
エレノアが言う。
「はい。家族へ本当に書くときだけの印でした」
「だから」
ミラベルが静かに言った。
「文字はルチアさんのものでも、意思はルチアさんのものではなかった」
ルチアは頷いた。
「私の言葉を使って、私に家族を探させないようにしたんです」
セラフィナ校長が。
壁へ手を置いた。
「ヴァルク先生は、あなたへ何と?」
ルチアの顔から、わずかな笑みが消える。
「白鐘祭が終われば、別の療養施設へ移すと言われました」
「家族には?」
「体調を崩したため、面会を控えていると説明する、と」
「退学については」
「自主退学の手続きは済んでいると言われました。私が学園の事情を理解し、静かに移れば、奨学金の返還を家族へ請求しないとも」
「口止めの代わりに?」
エレノアの声が冷たくなる。
「先生は、そうは言いませんでした」
「何と?」
「家族の生活を壊さずに済む、と」
従えば。
家族へ借金は残らない。
学園を出たあとも、療養先は与えられる。
拒めば。
奨学金の返還。
家族の困窮。
代理筆記の発覚による学園の危機。
ほかの奨学生たちが学ぶ場所まで失う。
刃物は使われていない。
殴られてもいない。
ただ。
十七歳の少女へ。
自分の人生と、ほかの少女たちの将来を。
天秤へ載せさせた。
「ヴァルクは、強制していないと考えているだろう」
レオンが言った。
「選択肢を示しただけだと」
「選べるものが一つしかないのに?」
エレノアが問う。
「だから、書類には自主退学と書ける」
死体はない。
血も流れていない。
少女は食事を与えられ。
療養先を用意され。
家族は借金を免除される。
書類だけを見れば。
配慮の行き届いた退学措置にさえ見えるだろう。
「ルチア」
エレノアは寝台の縁へ手を置いた。
「どうして、もっと早く逃げなかったの?」
「逃げようとはしました」
「廊下まで出られたのでしょう?」
「外へ通じる道を知りませんでした。それに」
ルチアはエレノアを見る。
「私だけが出ても、何も証明できません」
「生きて戻る方が先よ」
「私が戻っても、私の作文は戻りません」
「それと命は比べられない」
「命だけ残っても」
弱かった声が。
その言葉だけは、はっきりと響いた。
「私が学んだことも、書いたことも、全部オーレリアのものになったままです」
ルチアは続ける。
「私は、神経を病んで自主退学した生徒として残る。退学書類には私の署名がある。家族には私の文字で手紙が届いている」
「でも」
「対照簿まで燃やされたら、代理筆記は最初からなかったことになります」
エレノアは言葉を失った。
「次の学校へも行けません。書記の仕事にも就けません。私は文章が書けない生徒として記録されるから」
「ルチアさんだけではない」
ミラベルが言った。
「はい」
「イザベルや、ほかの奨学生の成果も移されている」
「私だけ逃げて名簿が燃えたら、次の子が書かされます」
「だから、返事を続けた」
「自分の居場所だけではなく、不正の記録がまだ残っていると知らせるために」
「灰衣で出たのも」
「エレノアに、旧東棟を調べてほしかった」
「刺繍をイザベルへ渡したのも」
「私が見つからなくても、対照簿へ辿り着けるように」
エレノアは。
寝台の上の友人を見つめた。
物静かで。
刺繍が不得意で。
教師へ逆らうこともなく。
授業の隅で、本を読んでいた少女。
ルチアは。
助けを待っていただけではなかった。
自分が消されるまでの四日間。
声と。
灰色の毛布と。
針目の乱れた刺繍と。
誰にも届かない本当の手紙を使い。
自分に起きた事件を、記録し続けていた。
「あなたは」
エレノアの声が低くなる。
「自分さえ見つかれば、それでいいとは思っていなかったのね」
「見つけてもらうだけなら、十三番とは言いませんでした」
「何と言ったの?」
「助けて、と」
「それで十分だったでしょう?」
「十分ではありません」
ルチアは答えた。
「私は、ここにいることだけを証明したかったのではありません」
机の上に残された紙へ、目を向ける。
「私が書いたものが、私のものだったことを証明したかった」
部屋の外で。
古い暖房管が鳴った。
夜の蒸気圧が下がり。
ごう。
かん。
音が、壁の中へ流れていく。
もう。
怪談の音には聞こえなかった。
閉じ込められた少女が。
自分の存在を、壁の外へ押し出すために使った道だった。
セラフィナが石段の方へ目を向ける。
「水と毛布を用意させます。現在の医務室にも、受け入れの準備を伝えます」
「学園と利害のない医師を」
レオンが言った。
「手配します」
それ以上の指示は。
今は出さなかった。
誰が学籍室へ向かうのか。
記録をどのように保全するのか。
白鐘祭をどう止めるのか。
それは。
この部屋から少女を出し。
安全を確かめたあとに決めるべきことだった。
エレノアは、ルチアの前へ手を差し出す。
「まず、ここを出るわ」
「対照簿は?」
「それも取り戻す」
「でも」
「どちらかではない」
エレノアは。
友人の目を、まっすぐに見た。
「あなたを助けることと、あなたがここにいた理由を証明すること。両方やる」




