第10節 ― イル=ヴァスの問い
煤けた石段は、暖房室の熱を吸い上げながら、暗闇の奥へ続いていた。
その先を。
エレノアの足音が、迷いなく駆け上がっていく。
「エレノア!」
レオンの声が、狭い階段へ反響した。
「止まれ!」
「聞こえているわ!」
「なら止まれ!」
返事の代わりに。
上方で、木製の扉が軋んだ。
レオンは石段を二段飛ばしで上る。
すぐ後ろを、覆い付きランプを持ったミラベルが追った。
階段の頂上には、低い踊り場があった。
正面に。
古い木製扉が一枚。
部屋番号も。
名札もない。
白い塗料はほとんど剥がれ、外側から施錠するための鍵穴だけが黒く残っていた。
エレノアは、すでに取っ手へ手を掛けていた。
「開けるな」
レオンが手首をつかむ。
「放して」
「中の状態が分からない」
「人がいる」
「いる可能性が高い、だ」
「呼吸が聞こえるわ」
レオンは扉へ顔を寄せた。
階段を上ってきた者たちの息遣い。
壁の中を流れる蒸気。
暖房炉の低い唸り。
その間に。
細く。
途切れがちな呼吸音があった。
布が擦れる。
寝台が、小さく軋む。
扉の向こうに。
誰かがいる。
「だからこそ、不用意に開けるな」
「ルチアかもしれないのよ」
「違う者かもしれない」
「違うなら、確かめればいい」
「罠なら?」
「ヘレナ先生は、私たちを殺そうとはしなかった」
「一度閉じ込められた人間が、軽く言うことではない」
「でも、殺さなかった」
その言葉に。
レオンの手が、わずかに止まった。
エレノアは兄を見る。
「ルチアにも、食事を与えていた」
旧療養室へ。
毎日、一人分。
家族には、本人の文字で手紙が届く。
学園では、帰郷したと説明される。
そして明日。
自主退学の記録が、正式に成立する。
「どうして」
エレノアは、扉の向こうへ目を向けた。
「殺さずに隠したの?」
レオンは答えなかった。
扉の向こうで。
もう一度、寝台が軋んだ。
エレノアの指が、取っ手へ掛かる。
その瞬間。
記録は、止まる。
*
ここで。
わたしは、ひとたび筆を置こう。
ごきげんよう、読者諸君。
わたしは、イル=ヴァス。
人が記した事実と。
記されなかった意思の間を、観測する者である。
探偵は、扉の前へ辿り着いた。
記者は、少女たちの証言を拾い集めた。
兄は、学園の外に残された記録を照合し。
妹は、学園の内側に残された声と足跡を追った。
必要な手掛かりは。
すでに、あなたの前へ置かれている。
ゆえに。
問おう。
*
第一の問い。
十二人分の点呼が終わったあと。
名を呼ばれていない少女が答えた。
「十三番。ここにおります」
壁から。
床から。
暖房管から。
聞く者によって、異なる場所から響いた声は。
本当は、どこから発せられていたのか。
*
第二の問い。
灰色の衣と。
白い覆面をまとった少女は。
なぜ。
目撃した者によって。
背丈が異なり。
歩き方が異なり。
靴音まで異なっていたのか。
壁の前で消えた灰衣と。
生徒を旧東棟から遠ざけた灰衣は。
本当に、同じ者だったのだろうか。
*
第三の問い。
帰郷したと説明され。
退学しようとしているルチアから。
なぜ、本人の筆跡を持つ手紙が届き続けたのか。
文章は整っている。
文字も本人のもの。
だが。
家族にしか残さないはずの三つの点はなく。
家族が書き送った出来事へ、返事もない。
本人の文字でありながら。
本人が自由に書いた手紙ではない。
その逆説は、どのように作られたのか。
*
第四の問い。
一年以上。
白鐘女学園へ戻っていないオーレリア=ベルモントは。
誰の学びによって。
毎月出席し。
課題を提出し。
試験を受け。
優秀な成績を得ていたのか。
同じ日に。
西岸の療養院で診察を受け。
ヴェルム=クロウの教室で試験を受けることはできない。
では。
学園の記録へ書かれたオーレリアとは。
誰だったのか。
*
そして。
第五の問い。
不正を知ったルチアは。
なぜ、殺されなかったのか。
なぜ。
食事を与えられ。
手紙を送られ。
家族にも友人にも会わせてもらえず。
退学記録が成立する日まで。
生きたまま、隠されていたのか。
死者はいない。
それでも。
一人の少女の人生が、失われようとしている。
犯人が奪おうとしたのは、少女の命ではない。
では。
何を奪えば。
人を殺さずに。
その者を、この都市から消すことができるのだろうか。
*
扉は。
まだ、開いていない。
だが。
答えは、扉の向こうだけにあるのではない。
名簿。
手紙。
成績。
足跡。
刺繍。
そして。
呼ばれていないのに返された、一つの声。
答えはすでに。
あなたが読んだ記録の中にある。




