第9節 ― 十三人目のための部屋
暖房管に残った反響が、ゆっくりと消えていった。
かん。
壁の奥。
床の下。
それとも、もっと高い場所から落ちてきた音なのか。
エレノアは灰百合寮の廊下へ立ったまま、真鍮の管へ耳を寄せた。
内部を流れる蒸気の唸り。
継ぎ目で水滴が弾ける音。
その向こうに。
微かな空洞の響きがある。
「上から聞こえます」
隣で耳を澄ませていたミラベルが囁いた。
「私にもそう聞こえる。でも、音が管を伝わっているなら、聞こえる方角と実際の場所は一致しない」
エレノアは管に沿って歩いた。
廊下の途中で二つに分かれた管は、一方が二階の寝室へ伸び、もう一方が壁の中へ沈んでいる。
指の関節で、一度だけ叩く。
かん。
反響が廊下の左右へ散ったあと。
少し遅れて。
頭上から、低い響きが返った。
「点呼の声も、こんなふうに広がった」
エレノアは顔を上げる。
「廊下の中央では近く聞こえたのに、暖房管へ寄ると遠くなった。声が管の中だけを通ったのではなく、どこか広い空間で響いてから、複数の管へ入ったのだとしたら」
「共鳴する部屋がある?」
「ええ。上に」
二人は階段を下りた。
一階は消灯後の冷気へ沈み、食堂も厨房も扉を閉ざしている。
ただ。
暖房室の方角からだけ、消えきらない石炭の匂いと、鉄の熱が流れていた。
エレノアは扉の前で、もう一度暖房管へ触れた。
「この上よ」
「二階の廊下では?」
「位置が合わない。二階は、ここより西側へずれている」
「では、旧東棟との境界?」
「現行の避難図では、壁と屋根裏しかない場所ね」
「どうして避難図を覚えているんですか?」
「入学した日に見たから」
「避難のために?」
「抜け道を知るため」
「聞かなければよかったです」
背後で。
鍵束が短く鳴った。
二人が振り返る。
廊下の暗がりに、マグダ=クロフト寮母が立っていた。
寝間着の上へ厚い上着を羽織り、手燭を掲げている。
「何をしとる」
低い声だった。
エレノアは、今度は言い逃れを探さなかった。
「旧東棟へ入りました」
マグダの顔から、眠気が消えた。
「何だと」
「洗濯室の棚の奥に通路があります。使用人用階段を上がると、旧東棟へ出る。壁の前で足跡が消えた仕掛けも、そこにありました」
「クラウス……!」
「それから、最近使われた部屋を見つけました」
マグダの怒声が止まる。
「食器と毛布と、今日の日付が入った書きかけの手紙があった。ルチアの筆跡と、家族だけに残す三つの点も」
手燭の炎が、寮母の目の中で揺れた。
「旧東棟に誰かがいることを、ご存じだったんですか?」
ミラベルが静かに訊く。
「知らん」
答えは早い。
だが。
マグダの視線は、無意識に暖房室の扉へ動いていた。
エレノアは見逃さなかった。
「毎日、誰かへ食事を運んでいる?」
鍵束が、かすかに鳴った。
「旧東棟で見つけた皿には、灰百合寮の銀百合が入っていたわ。黒パンと牛乳も残っていた」
「似た食事なら、ほかでも出る」
「寮の食器まで同じ?」
マグダは黙った。
エレノアは問いを重ねかけたが。
ミラベルが袖へ触れた。
急かすのではなく。
答えるための場所を残すように。
「ルチアさんが閉じ込められている可能性があります」
ミラベルが言った。
「いま名前を伏せることで、守れるものはありますか?」
「閉じ込められとるとは聞いとらん!」
マグダの声が廊下へ響いた。
自分でも大きさに驚いたらしく、すぐに声を落とす。
「神経を病んだ生徒が、感染症の疑いもあるため、旧東棟で一時療養しとる。ほかの生徒へ近づけるな。そう学籍担当から説明された」
「名前は?」
「聞くなと言われた」
「医師は?」
「診ていると聞いた」
「実際に見たの?」
マグダは首を振った。
「寮母へ診療記録を見せる必要はないと言われた」
「食事は?」
「朝と夜だ」
「何人分?」
短い沈黙。
「一人分」
暖房管の中を、蒸気が低く流れた。
ごう。
夜間点呼へ並ぶ少女は十一人。
療養中として名を呼ばれるオーレリアは、ドック=セリムにいる。
それでも厨房では。
寮生より一人分多く、食事が用意されていた。
「いつからですか?」
ミラベルが訊く。
「四日前」
ルチアが姿を消した日だった。
「どこへ置くの?」
エレノアが訊く。
「暖房室の奥に受け渡し口がある。そこへ置いて扉を閉める。次に行けば、皿は空になって戻っとる」
「受け取る人は見た?」
「ない」
「でも、食べているから生きていると考えた」
マグダは唇を固く結んだ。
「皿が空になる。牛乳も減る。医者が診とると聞いた。わしは、それでよいと思ってしまった」
怒りより。
自分へ向けた後悔の方が、声には強く滲んでいた。
「見せて」
エレノアが言った。
マグダは一度だけ彼女を睨んだ。
だが、鍵束から一本を選んだ。
「来い」
*
暖房室には、石炭と鉄の熱が籠もっていた。
中央に大きな炉。
壁には蒸気管と圧力計。
夜間は火力を落とされているが、赤い熾火が格子の奥で息をしている。
マグダは炉の裏側へ回った。
煤けた石壁の低い位置に、小さな鉄扉があった。
皿を通せるほどの大きさ。
人が入れる幅はない。
「ここだ」
鍵を回す。
扉の奥には、食器を載せる木製棚と、暗い縦穴があった。
棚へ結ばれた縄は、滑車を通って上方へ伸びている。
マグダが取っ手を引くと。
棚は音を立て、斜め上へ吸い込まれていった。
「食事は上へ運ばれている」
エレノアが呟いた。
縦穴へ顔を近づける。
上から。
微かな暖気が降りてくる。
古い布。
紙。
牛乳。
人が暮らす場所の匂い。
暖房管は、縦穴のすぐ脇から天井へ入っていた。
「声も上から反響している」
エレノアは管の分岐を見た。
「上の空間から伝声管へ声を入れれば、ここで響きが膨らむ。その振動が寮の暖房管へ分かれていくから、声の位置を絞れなかった」
「旧東棟で見つけた部屋は?」
ミラベルが訊く。
「あの部屋には、食事を上げる仕掛けがなかった」
エレノアは昨夜の光景を思い返した。
寝台。
毛布。
食器。
書きかけの手紙。
「誰かが廊下から食器を運んだ可能性はある。でも、マグダ寮母が毎日使っていたのは、この棚よ」
「なら、本当に食事が届く場所は別にある」
「上の部屋」
「昨夜の部屋は?」
「まだ分からない」
エレノアはすぐに区切った。
「手紙を書いたり、灰衣へ着替えたりするための中継場所かもしれない。私たちの足音を聞いて、本来の部屋へ戻った可能性もある。でも、それは本人へ確認するまで仮説よ」
「それでも」
ミラベルは縦穴を見上げた。
「誰かが暮らしている場所は、この上にある可能性が高い」
「ええ」
エレノアは天井を見た。
「食事は上へ運ばれている。声も上から響いていた」
「同じ結論だ」
背後から、聞き慣れた声がした。
エレノアが振り返る。
暖房室の入口に。
レオン=クラウスが立っていた。
外套の肩には夜露が残り、片手には筒状に巻いた図面を抱えている。
その後ろには。
青ざめた顔のセラフィナ校長がいた。
「お兄さま」
「正確な経路を報告するという約束は、脱出した時点で終わったのか」
「報告はしたでしょう?」
「洗濯室の棚。地下通路。使用人階段。旧裁縫室。運搬籠。そこまでは、門衛へ預けた紙に書いてあった」
「なら、正確よ」
「そのあとで、また移動している」
「暖房室は寄宿舎の中でしょう?」
「言葉の隙間を探すな」
レオンは室内へ入り。
エレノアの顔。
肩。
手。
続いて、ミラベルの腕と足元を見た。
怪我がないことを確かめてから、ようやく図面を作業台へ置く。
「閉じ込められたと聞きました」
声は平静だった。
ただし。
巻紙を持つ指には、強く力が入っている。
「脱出しました」
ミラベルが答える。
「見れば分かる」
「心配した?」
エレノアが訊く。
「あとで話す」
「怒るときの言い方ね」
「正しい推理だ」
セラフィナが、マグダと開かれた食事口を見た。
「ここへ、毎日食事を?」
「校長先生は、ご存じなかったのですか」
マグダの声から、いつもの敬意が薄れていた。
「一時療養の申請があったことだけは、報告を受けていました」
「生徒の名前は?」
ミラベルが訊く。
セラフィナは目を伏せた。
「確認しませんでした」
「感染症の可能性があり、ほかの生徒から隔離する必要があると説明されたのですか」
「はい。財政と学籍管理をヴァルク先生へ任せていたこともあり、詳細を問いませんでした」
「また、確認しなかった」
エレノアが言った。
ミラベルが制しかけたが。
セラフィナは否定しなかった。
「そのとおりです」
長く生きたエルフの顔へ、深い疲労が浮かんでいた。
「私は、生徒たちを守るための措置だと信じました。本人に確かめることもなく」
「責任の話は、本人を見つけてからです」
レオンが革紐を解いた。
作業台へ、二枚の図面を広げる。
一枚は白く、新しい。
現在、学園から市政建築局へ提出されている図面。
もう一枚は黄ばみ、折り目が擦り切れていた。
学園創設時の建築図面。
「現行図面では」
レオンは暖房室の上を示した。
「ここは蒸気管保守用の空洞として処理されている。部屋番号も、出入口もない」
「でも、創設時は」
エレノアが古い図面を引き寄せる。
二枚の端を合わせる。
暖房室。
炉。
食事用昇降棚。
暖房管。
その上に。
現行図面から消された、長方形の一室が描かれていた。
――東棟療養室。
室内には二つの寝台。
屋根の傾斜へ隠された小さな明かり取り。
暖房室から上がる食事棚。
伝声用の管。
炉の裏側から通じる、狭い使用人階段。
「十三人目のための部屋」
エレノアが呟いた。
「創設者が、保護中の少女を匿った旧療養室だ」
レオンが答える。
「外から窓は見えない。現在の廊下から入る扉もない。食事は下から送れる。声は通気口から暖房管へ入る」
「点呼の声は、この部屋から」
ミラベルが配管を指で追う。
「夜間に蒸気圧が下がれば、声が通りやすくなる」
「創設時の図面なら説明できる」
レオンが言った。
「現行図面から部屋が消えた理由は?」
エレノアが訊く。
「棟の封鎖時に、未使用空間として省略された可能性がある。存在を知る者を減らすため、意図的に消された可能性もある」
「でも、ヘレナは知っていた」
「少なくとも、旧東棟の内部構造は知っている。君たちを旧裁縫室へ誘導し、施錠した」
「ルチアを隠したのも?」
「確認前に最後の一線を越えるな」
レオンは図面の旧療養室へ指を置いた。
「マグダ寮母が、ルチアの失踪した日から一人分の食事を送っている。食事口は、この部屋へ通じる」
次に。
暖房管の線を追う。
「十三人目の声は、ここから寮へ伝えられる」
「昨夜の小部屋で、今日の日付の手紙も見つけた」
エレノアが続ける。
「筆跡も、三つの点もルチアのものに見えた」
「それらを合わせれば」
ミラベルが言う。
「ルチアさんが、少なくとも今日まで学園内で生きていた可能性は極めて高い」
「そう考えてよい」
レオンは頷いた。
「そして、現在いる場所として最も可能性が高いのが、この旧療養室だ」
エレノアの口元へ。
かすかな笑みが浮かんだ。
「同じ場所へ辿り着いたわね」
「何が」
「兄さまは図面から」
エレノアは暖房管へ手を置く。
「私は音と食事から」
「寮母の証言も使っただろう」
「使える情報は使うわ」
「事前に報告していない食事数の違いもあったな」
レオンの目が細くなる。
「厨房から出るパンが、寮生の数より一つ多いと聞いていたのか」
「昨日の夕方に」
「なぜ言わなかった」
「確かめる前だったから」
「確かめるために報告しろ」
「次は先に言うと約束したでしょう?」
「次を待たずに改善しろ」
「どちらが先かを競っている場合ではありません」
ミラベルが二人の間へ入った。
「競っていない」
「負けていないと言っているだけよ」
「それを競っていると言います」
レオンは創設時図面へ目を戻した。
「療養室へ通じる階段は、炉の裏だ」
マグダが石炭箱を見た。
「この奥か」
三人で大きな箱を横へずらす。
背後の煤けた石壁に。
縦長の鉄板が現れた。
取っ手はない。
中央に、小さな白鐘を形取った留め金だけがある。
エレノアが手を伸ばした。
「待て」
レオンが言う。
「まず扉の状態を――」
白鐘の留め金が回った。
鉄板が内側へ開く。
奥には。
暗く細い石段が、上へ続いていた。
「エレノア」
名前を呼ばれたときには。
彼女はもう、階段へ片足を掛けていた。
「待て」
「ここまで来て?」
「一人で先行するな」
「一人ではないわ」
エレノアは背後を見た。
「兄さまが追いつけば」
「それを一人で先行すると言う!」
エレノアはランプを掲げ、階段を上り始めた。
「エレノア!」
「待っていたら、明日になるわ!」
「明日まで待てとは言っていない!」
「私には同じよ!」
「違う!」
レオンも石段へ足を掛ける。
ミラベルがランプを取り、あとへ続いた。
「私も行きます」
「後ろにいろ」
「エレノアさんから、次は先に知らせると約束してもらいました」
「今は知らせたのか」
「行動と同時に」
「改善していない」
狭い階段の上から。
エレノアの足音が遠ざかっていく。
兄は。
古い図面から。
妹は。
壁を渡る音と、一人分多い食事から。
紙から消された部屋と。
そこから届いた少女の声。
別々の道を進んだ二人は。
同じ場所へ辿り着いた。
ただし。
その扉を最初に開こうとしているのは。
やはり、妹の方だった。




