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第8節 ― 封鎖された東棟

 夕刻。


 白鐘女学園の正面応接室には、白鐘祭の準備を終えた生徒たちの声が、開いた窓から流れ込んでいた。


 中庭の柱には白い布が巻かれ、銀糸の百合飾りが雨上がりの風を受けている。


 明日。


 この場所には寄付者、保護者、記録庁関係者が集まり。


 ルチア=フェインの退学記録が、正式に発効する。


 レオンは窓辺から、旧東棟の黒い屋根を見ていた。


「今夜は入るな」


 エレノアが応接机へ頬杖をつく。


「まだ入るとは言っていないわ」


「その返事をするときは、入る方法を考えている」


「明日まで待てば、ルチアが移されるかもしれない」


「移される証拠はない。創設時の建築図面は明朝届く」


「古い記録を炉へ入れられたあとでは遅いわ」


 兄妹の視線がぶつかる。


 ミラベルが、刺繍から読み取った三つの語を記した手帳を閉じた。


 東棟。


 炉。


 白鐘祭。


「旧東棟を確認する必要はあります」


「必要だからといって、夜間に老朽化した建物へ入ってよいことにはならない」


 レオンはミラベルへ向き直った。


「彼女を一人にするな」


「そのつもりです」


「止める側としてか」


 ミラベルは少し考えた。


「一人で行かせない側としてです」


「それを同行と呼ぶ」


「結果としては」


 レオンは目を閉じた。


 力ずくで止めれば、エレノアは別の入口を探す。


 その程度のことは、兄である彼が誰よりよく知っていた。


「経路を残せ」


 レオンは言った。


「予定を変えるなら、先に知らせろ。何かを見つけても、追う前に誰かを呼べ」


「それでは逃げられるわ」


「君が消えるよりはましだ」


 校門の閉鎖を告げる鐘が鳴る。


 レオンは帽子を取り、扉へ向かった。


 エレノアの横で足を止める。


「君が無能なら、ここまで心配はしない」


 エレノアが顔を上げた。


「辿り着けるから危険なんだ」


 それだけ言って、レオンは部屋を出た。


 足音が廊下の向こうへ消える。


「褒められましたね」


 ミラベルが言った。


「過保護を言い換えただけよ」


「でも、少しうれしそうです」


「記者なら、観察の精度を上げた方がいいわ」


     *


 消灯から半刻。


 灰百合寮は、暖房管の低い軋みだけを残して眠っていた。


 来賓用の部屋で待っていたミラベルの扉が、小さく叩かれる。


 開けると。


 室内着の上から濃いケープを羽織ったエレノアが立っていた。


 手には覆い付きのランプ。


 肩から細い布鞄を提げている。


「何を見つけたんです?」


「洗濯室の棚」


「棚?」


「昼間、敷布を運んだとき、奥から風が来ていた。窓は閉まっていて、床には棚を動かした跡があった」


「レオンさんには?」


「寮内を調べるとは伝えたわ」


「洗濯室のことは」


「まだ」


「私にも今、初めて話しましたね」


「だから迎えに来たの」


「迎えに来ることと、先に伝えることは違います」


「行かない?」


 ミラベルは数秒、彼女を見つめた。


「行きます」


「なら問題ないわね」


「問題しかありません。ただ、ここで言い合っている間に一人で行かれるよりはましです」


「理解が早くて助かるわ」


「レオンさんの苦労が分かってきました」


「悪化しているのでは?」


     *


 灰百合寮一階の洗濯室は、昼とは別の場所のように静まり返っていた。


 長い作業台。


 銅製の大釜。


 洗濯桶。


 天井から吊られた乾燥竿。


 床には湿気が残り、濡れた布と石鹸の匂いが籠もっている。


 蒸気炉は止まっていたが、壁を走る管には、まだ微かな熱が残っていた。


 エレノアがランプの覆いを開く。


 細い光が、奥の木製棚を照らした。


 洗濯済みの敷布を積む、壁一面の棚。


 一見すれば、ほかの備品棚と変わらない。


 だが。


 床には、棚の脚が描いた弧状の擦り跡があった。


 溝には、乾ききっていない泥が入り込んでいる。


「最近、動かされていますね」


 ミラベルが屈む。


「少なくとも、何年も固定された棚ではない」


 二人で側面を押す。


 棚は動かない。


 エレノアは最下段の敷布を取り出した。


 奥に。


 鉄の輪が隠されていた。


 指を掛け、引く。


 小さな金属音がした。


 棚の右側が、壁から離れる。


「棚ではなく、扉」


 木枠ごと手前へ引くと。


 奥に、人一人が身を屈めて通れるほどの開口部が現れた。


 冷たい空気が流れ出す。


 石。


 煤。


 古い排水路に似た匂い。


「入口は、寮の中にありましたね」


 エレノアが言う。


「その先まで寮内とは限りません」


「見なければ分からないわ」


「明朝まで待つ選択肢もあります」


「朝には、入口を塞がれるかもしれない」


「可能性です」


「ええ」


 エレノアは暗い穴を見つめた。


「だから、確かめる」


「せめて私が先に」


「何かあれば、私の方が奥へ進むのは速いわ」


「張り合うところでは――」


 返事を待たず。


 エレノアは開口部へ身を滑り込ませた。


 ミラベルは小さく息を吐き、そのあとへ続いた。


     *


 通路は、洗濯室の床より低い場所を進んでいた。


 最初は煉瓦。


 その先は古い切石。


 天井は低く、足元には細い排水溝がある。


 両側の壁には、かつて小さな灯りを置いたらしい窪みが、等間隔で並んでいた。


「創設時の通路でしょうか」


 ミラベルが囁く。


「保護した少女へ、食事や洗濯物を運ぶためかもしれない」


「今でも使える」


 声が石壁の奥へ反響する。


 二人は黙って進んだ。


 通路はやがて上り坂となり、狭い石段へ変わった。


 階段の上は、木板で塞がれている。


 取っ手はない。


 エレノアはランプを近づけた。


 右壁の一部だけが、人の手で触れられたように滑らかだった。


 上から三段目には、ほかより新しい泥。


 その段の右端だけ、木が黒く磨かれている。


「今も使われている」


「踏むと開くのでしょうか」


「おそらく」


「待ってください。床が回るなら、落ちるかもしれません」


 エレノアは布鞄から刺繍糸を取り出し、壁の鉄棒へ結んだ。


「刺繍糸を持ってきたんですか?」


「役に立っているでしょう?」


「万能の道具ではありません」


 糸の反対側を腰へ軽く巻き、エレノアは段の右端を踏んだ。


 かちり。


 頭上で留め具の外れる音。


 木板が奥へ傾き。


 階段上部の床と壁面収納が、軸を中心に半回転した。


 埃が降る。


 暗い隙間の向こうへ、細い廊下が現れた。


「壁の前で足跡が消えた仕掛け」


 ミラベルが見上げる。


 廊下側からは、浅い壁面収納にしか見えない。


 階段から特定の段を踏むと、収納棚と床板が回転し、人を通す。


 体重が離れれば、元の壁へ戻る。


「壁へ入ったのではない」


 エレノアが言う。


「足元が回って、階段へ下りた」


「昨夜は暗く、床が動いたことに気づかなかった」


「追いついたときには閉じていた。戻る足跡がないのも当然ね」


 エレノアが廊下へ身を出す。


 旧東棟。


 剥がれた漆喰。


 使われなくなった壁灯。


 濡れた床には。


 平らな室内履きの跡と。


 細い踵を持つ革靴の跡が重なっている。


「二種類の履物が、同じ階段を使った」


「どちらが先かは分かりません」


「いつの跡かも」


 それでも。


 廊下の埃は、中央だけが薄く削られていた。


 封鎖されているはずの建物に。


 人が行き来した筋が残っている。


「ここは、放置されていない」


     *


 旧東棟の内部は、外から見るより広かった。


 古い裁縫室。


 祈祷室。


 備品庫。


 記録保管室。


 年月に削られた文字が、扉の上へ残っている。


 床の一部は沈み。


 天井には雨漏りの染みが広がっていた。


 だが、奥へ進むほど埃が減る。


 木箱は最近動かされ。


 壁沿いの暖房管も、完全には冷えていなかった。


 エレノアが管へ耳を当てる。


 微かな水音。


 遠くで蒸気弁が動く音。


 その間に。


 誰かの呼吸にも似た、細い反響が混じった。


 二人は顔を見合わせる。


「声とは限りません」


「分かっているわ」


 さらに進むと。


 小さな部屋の扉が、わずかに開いていた。


 中には、寝台が一つ。


 板で塞がれた窓。


 机。


 椅子。


 水差し。


 食器。


 灰色の毛布。


 壁際には数冊の教科書が積まれている。


 廃墟ではない。


 だが。


 ここが誰かの恒常的な生活場所なのか。


 一時的に身を休め、手紙を書くための場所なのかまでは分からなかった。


「ルチア?」


 エレノアが呼ぶ。


 返事はない。


 二人で室内を確かめる。


 人影はなかった。


「別の場所へ移ったのか」


 ミラベルが言う。


「私たちの足音を聞いて隠れたのかもしれない」


 エレノアは食器へ近づいた。


 小さな皿には黒パンの欠片。


 金属のカップには、薄い乳の膜が残っている。


 埃はない。


 寝台の毛布も中央が乱れ、人が短い時間でも身を横たえた形を残していた。


 それらが示すのは。


 この部屋が最近使われたことだけだった。


 誰が。


 どのくらいの時間。


 何のために使ったのかは、まだ決められない。


 机には、紙が一枚広げられていた。


 上部には今日の日付。


 本文は途中で途切れている。


 ――お父さま、お母さま。私は元気です。心配をしないでください。学園では――


 文の終わりに。


 三つの小さな点が、横へ並んでいた。


「ルチアの合図」


 ミラベルが言う。


 右上がりの文字。


 末尾の線を跳ねる癖。


 家族へ届いた古い手紙と一致する。


 ランプを傾けると、インクの一部にはまだ光沢が残っていた。


「今日、この部屋で書かれた可能性が高い」


 エレノアの声が震える。


「ルチア本人が?」


「筆跡をまねた者かもしれません」


「でも、三つの点を知っている」


「ご家族か、エレノアさんから聞いた者なら知り得ます」


「そうね」


 エレノアは目を閉じた。


 願いと証拠を混ぜない。


 筆跡。


 三つの点。


 今日の日付。


 乾ききっていないインク。


 最近使われた食器と毛布。


 それらを合わせれば。


 ルチアが今日、この部屋へいた可能性は高い。


 少なくとも。


 この紙が正しくルチアの手によるものなら、彼女は今日まで生きていた。


 だが。


「本人がいない」


「この部屋が、彼女をずっと閉じ込めていた場所とも限りません」


 ミラベルが言う。


「通路へ出る途中で使った部屋かもしれない」


「あるいは、誰かに手紙を書かされた場所」


「どちらも仮説です」


 エレノアは頷いた。


 紙へは触れない。


 見つけた状態を残し。


 レオンへ経路ごと知らせる。


 そう考えて布鞄へ手を入れたとき。


 廊下で。


 かつ。


 硬い踵の音がした。


 かつ。


 歩幅は一定。


 右足を引く音はない。


 エレノアがランプの覆いを閉じた。


 部屋が闇へ沈む。


 足音は迷いなく近づき。


 扉の前で止まった。


「出ていらっしゃい」


 ヘレナ=ヴァルクの声だった。


「どうして、ここに?」


 エレノアが訊く。


「それは、私の質問です」


「ルチアを探しています」


「この建物は立入禁止です」


「誰も来ない場所なら、少女を閉じ込めても見つからない?」


 ヘレナは否定しなかった。


 肯定もしない。


「ルチアさんは、どこです」


 ミラベルが訊く。


「あなたがたが、答えを求める立場にはありません」


「家族にはあります」


「ご家族には、必要な説明をしています」


「相手によって違う説明を?」


 廊下へ落ちたヘレナの影は、揺れなかった。


 見つかった犯人ではない。


 規則違反者を発見した教師として、そこに立っている。


「部屋から出てください」


 ヘレナが言う。


「正面側の通路から戻します」


 彼女は廊下の奥へ歩き始めた。


 エレノアとミラベルは視線を交わす。


 逃げるなら、隠し階段へ戻れる。


 だが。


 ヘレナを追えば、ルチアのいる場所へ近づく可能性もある。


 同時に。


 誘導されている可能性もあった。


 ここへ留まっても、行き止まりだった。


 二人は距離を取り、あとへ続いた。


 ヘレナが開いたのは、旧裁縫室の扉だった。


 中には。


 壊れた織機。


 積み上げられた刺繍枠。


 古い裁断台。


「中へ」


 ヘレナの声は静かだった。


「外套の裾が、廊下の釘へ掛かっています」


 ミラベルが反射的に足元を見る。


 その一瞬。


 扉が強く引かれた。


「待って!」


 エレノアが手を伸ばす。


 厚い木の扉が閉じ。


 外で鍵が回った。


 がちり。


「ヴァルク先生!」


 ミラベルが扉を叩く。


「危害を加えるつもりはありません」


「閉じ込めることは危害ではないの?」


 エレノアが叫ぶ。


「朝になれば、あなたたちは規則を破った生徒と、不法侵入した記者です」


 ヘレナの声は冷静だった。


「怪談を追って迷い込んだ。それだけのことになります」


「この部屋で見たものは?」


「ここには、何もありません」


「ルチアの書いた紙がある!」


「あなたがたが持ち込んだものかもしれません」


「外部の記録もあるわ」


「それを判断するのは、学園の外の者です」


「なら、外へ出しなさい」


「朝になれば」


 足音が遠ざかる。


 呼び止めても、返事はなかった。


 エレノアが扉へ肩をぶつける。


 一度。


 二度。


 扉は揺れたが、錠は外れない。


「下がってください」


 ミラベルが止めた。


「蝶番は外側です。扉板も厚い」


 窓には外側から板が打ち付けられ。


 床と壁の下部は石。


 天井の梁へ届く道具もない。


 エレノアは部屋を一周した。


 呼吸が速くなっている。


「レオンさんは、どこまで知っていますか」


「灰百合寮の中を調べること」


「洗濯室は?」


「言っていない」


「棚の入口も?」


「昼間は、入口だと決められなかったから」


「通路も、この階段も」


「今夜見つけた」


 一つずつ答えるたび。


 冷えた部屋の中で、事実が形を持った。


 レオンは二人が灰百合寮にいると思っている。


 マグダは自室で眠っていると思っている。


 イザベルも、今夜動く可能性は知っていても、経路までは知らない。


「誰も」


 エレノアの声が小さくなった。


「私たちが、どこから入ったのか知らない」


 ミラベルは責めなかった。


 ただ、エレノアの正面へ立つ。


「次は、一緒に無茶をする相手へ、先に言ってください」


「怒らないの?」


「怒っています」


「そうは見えない」


「怒鳴っても、扉は開きません」


「私が黙っていたから、閉じ込められた」


「私も、来ると決めました」


「でも、入口のことは直前まで――」


「だから、次は先に言ってください」


 ミラベルは繰り返した。


「止めるかもしれません。別の方法を考えるかもしれません。それでも行くなら、レオンさんへ経路を残せます」


「兄さまに言えば、絶対に止める」


「止められるのが嫌だから黙ることと、自分で決めて進むことは違います」


 エレノアは唇を噛んだ。


 守ることと、閉じ込めることは違う。


 同じように。


 自由に動くことと。


 誰にも行き先を知らせないことも違う。


「……次は言う」


「先に?」


「先に」


「私にも?」


「あなたが一緒なら」


 ミラベルは頷いた。


「では、次の無茶のためにも、ここから出ましょう」


     *


 旧裁縫室には、古い布と道具が積み上げられていた。


 錆びた鋏。


 折れた針。


 木製の刺繍枠。


 壊れた織機。


 大きな裁断台。


 二人は扉、床、壁を順番に調べた。


 扉の内側に鍵穴はない。


 石床にも隙間はない。


 ミラベルが壁際の敷布を動かしたとき。


 背後から、細い風が入った。


「エレノアさん」


 布の裏に。


 縦長の木製扉が隠れていた。


 人が立ったまま通るには狭い。


 扉の上には、煤に埋もれた真鍮札。


 ミラベルが袖で拭う。


 《洗濯物》


「運搬籠」


 エレノアが駆け寄り、取っ手を引く。


 内側には暗い縦穴。


 太い縄。


 滑車。


 壁へ取り付けられた手回し輪。


 籠は下にあるらしく、見えない。


「洗濯室へ続いているのでしょう」


 エレノアが手回し輪を回す。


 錆びた歯車が悲鳴を上げた。


 ごり。


 ごり。


 縦穴の奥から、木製の籠がゆっくり上がってくる。


 敷布や毛布を運ぶための、腰ほどの深さがある昇降籠だった。


「一人ずつなら入れます」


 ミラベルが縄を確かめる。


「私が先に下りる」


「下で動かなくなったら?」


「上から呼んで」


「聞こえなければ?」


「縄を三度引く」


「何か問題があった場合は?」


 エレノアが考える。


「二度なら止める。一度を繰り返したら引き上げる」


「決めてから動きましょう」


「分かったわ」


「これが、先に伝えるということです」


「今は理解しているから、早く下ろして」


 エレノアが籠へ入り、膝を抱えるようにしゃがんだ。


 ミラベルが制動棒を外す。


「ゆっくり下ろします」


「途中で縄を離さないで」


「それは言われなくても」


「言っておくことが大切なのでしょう?」


 ミラベルは、ほんの少し笑った。


「そうですね」


 籠が下がる。


 木枠が縦穴へ擦れ。


 ランプの光が細くなっていく。


 滑車が大きく軋んだ。


「大丈夫ですか?」


「大丈夫!」


 声が穴の中へ反響する。


 やがて。


 籠の底が石床へ触れた。


 エレノアが正面の板を押す。


 開いた先は、灰百合寮の洗濯室だった。


 最初に通った棚とは別の壁面。


 布袋の陰へ隠された低い扉につながっている。


「着いた!」


 エレノアは縄を三度引いた。


 上から一度、応答が返る。


 籠が再び上がり。


 今度はミラベルを乗せて下りてきた。


「不法侵入した記者から、運搬籠で脱走した記者へ昇格しました」


「記事の署名には使えないわね」


「記事にするためにも、まず証拠を守らないと」


 二人は運搬籠の扉を布袋で隠し。


 最初に開けた棚も、元の位置へ戻した。


 旧東棟から持ち出したものはない。


 書きかけの手紙も。


 食器も。


 毛布も。


 見つけた状態のまま残してきた。


 だが。


 見たものは記憶している。


 洗濯室の入口。


 地下通路。


 回転する床。


 二種類の足跡。


 最近使われた部屋。


 今日の日付を持つ手紙。


 そして。


 ヘレナが二人を朝まで閉じ込め、別の説明へ書き換えようとしたこと。


 エレノアは洗濯室の扉へ手を掛けた。


「どこへ?」


 ミラベルが訊く。


「兄さまへ知らせる」


「今夜のうちに?」


「ええ」


 エレノアは振り返った。


「今度は、正確な経路まで」


 廊下の向こうに、人影はない。


 まだ朝にはなっていない。


 規則を破った生徒。


 怪談を追って迷い込んだ記者。


 ヘレナが用意した説明も。


 まだ、正式な記録にはなっていなかった。


 二人が廊下へ出たとき。


 壁を走る暖房管が、低く鳴った。


 ごう。


 蒸気が遠ざかり。


 金属の奥で、一度だけ。


 かん。


 音が反響した。


 それが壁の中からなのか。


 床の下からなのか。


 あるいは。


 もっと高い場所から落ちてきた音なのか。


 今は、まだ分からなかった。

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